第57話:石の返答
足を出す。同じ動きのはずだ。だが、返りが違う。沈まない。押し返される。
砂じゃない。草でもない。石だ。割れたまま、積まれている。灰。ところどころ、茶。
前に低い山が重なり、その奥に、さらに大きい影が伏せている。頂は、まだ見えない。
近づくほど、地面そのものが上がっていく。
踏む。沈まない。石が、そのまま返してくる。逃げない。
歩くうちに、歩幅が狭くなる。身体が、そう決める。
道は細い。踏み跡が、割れ目に残るだけだ。横はない。前か、後ろか。その向きに進むしかない。
距離が、少し詰まる。触れるためじゃない。外さないためだ。
誰も言わない。山だとも言わない。登っているとも言わない。
言葉より先に、身体が合わせている。
ラヒーマが呼吸を整える。荒れてはいない。ただ、前より深く入らない。
風が下から吹き上がり、岩に当たって戻る。
歩いたまま、ナーヒルが言う。
「……戻る感じ、しない。歩いてるのに、後ろが遠くなる。押されてるみたいに、前にしか進めない」
誰もすぐには返さない。ナーヒルが続ける。
「進んでるっていうより、向きが減ってる感じだ。前しか残らない。横も、後ろも、取れなくなる」
石の音だけが続く。ラヒーマが道の端に寄り、指先で岩に触れる。
「……冷たい。日、当たってるのに。前みたいに、触った感じが残らない。すぐ消える」
マリークが歩いたまま聞く。
「何が残らない?」
ラヒーマは指を離す。
「……人の熱。触れても、返ってこない。そこに留まらない感じがする」
マリークが前を見たまま言う。
「道、細いな。横に広げたら、すぐ崩れる。岩が割れてるだけで、面になってない。ここは流れない。溜まるしかない」
ナーヒルが少し考える。
「……広げたら、足場なくなるな。 横に出た瞬間、崩れる。前に並ぶしかない」
ラヒーマが聞く。
「じゃあ……どうするの。進むしかないの?」
マリークは答えない。歩き続ける。その横で、サジークが道の端を見る。
「落ちたら終わりだ。横に出る場所がない。戻る幅もない。だから、足の置き場を外さないように、並ぶしかない」
ナーヒルが笑いかけて、やめる。
「……変だな。誰も押してないのに、距離が勝手に詰まる。足、外せないからだな。横に逃げられない」
サジークは返さない。石の音。足音。呼吸。
誰も速めない。誰も遅れない。だが、同じ場所を、無言で避けている。
俺は何も言わない。足も、歩き方も変えない。身体が、もう先に知っている。
上に行くほど、人は減る。声も少なくなる。動きも限られる。横に広がれない。立ち止まる理由が薄れ、戻るという考えも遠のく。
最初から、戻る道は置かれていない。
誰かが示さなくても、高さが人を分ける。選ぶというより、残れる場所だけが残る。残れない者は責められない。拒まれもしない。ただ、残らない。
俺は空を見る。近くにも、遠くにもある。だが、手を伸ばして届く距離ではない。
前は、ただ上にあった。今は、その間に、石と高さと重なりがある。
天は遠くなる。見えなくなるわけでも、覆われるわけでもない。ただ、近づく道が減る。
上に行くほど、下を見る時間が増え、空を見る時間が減る。
会話が切れる。誰かが黙るというより、言葉が要らなくなる。
残るのは、石の音、足音、呼吸、風。
まだ人はいない。名前もない。だが、道はもう答えを出している。
ここは、平らに戻る場所じゃない。戻る道は、最初から置かれていない。
足は止まらない。止まらないまま、ついてこられないものが落ちていく。
選ばれたんじゃない。残っただけだ。
足元が変わる。沈まない。跳ね返る。
気づけば、段が分かれている。段ごとに高さが違う。横に出ようとしても、次の足を置く場所がない。割れた岩が続くだけで、繋がらない。
俺たちは、止まらない。
アミーヌが前を見たまま言う。
「……道、分かれてますね。上と下で、形が違います。同じ道でも、動き方が変わりそうです」
ナーヒルがすぐ返す。
「ほんとだな。で……どっち行く?選べるっていうより、分けられてる感じだな」
マリークは一度だけ上を見る。
「上は狭い。横に出る場所がない。並ぶしかない」
少し進む。ナーヒルがもう一度、上を見る。
「……走れないな。前だけ見て、抜けてくしかない。止まったら、そのまま前が詰まる」
ラヒーマは視線を落とし、足をずらす。
「下は……音が残る。足音が消えない。ここ、止まれる」
アミーヌが端を見る。
「物が溜まりますね。くぼみがある。角もある。動きが止まる形ですね」
俺は黙っている。上では、列になる。下では、痕が残る。まだ、決めていない。
アミーヌが続ける。
「……高さが分けてますね。道が分かれてるというより、そこでできる動きが変わってます。上は立ち止まれない。下は戻れるし、溜まる。同じ道でも、高さで動きが変わる」
足元を一度だけ見る。
「だから……高さで、人の動きが変わってますね」
ナーヒルが少し歩調を落とす。
「……おかしくないか。誰も指示してないよな。上に行け、とも、下に行け、とも」
足元を見たまま続ける。
「それなのに、もう位置が決まってる。気づいたら、足がそっちに向いてる。止まる場所も、進む速さも、最初から違う」
少し視線を上げる。
「上に行く人は、止まらない。前だけ見て、狭いとこ抜けてく。下に残る人は、足を止める。振り返る。誰も決めてないのに、もうそう動いてる。前から決まってたみたいで……怖いな」
誰も返さない。石の音だけが続く。
マリークが足元を見る。段の縁、欠けた角、踏まれた位置。
「……配置が、先にあるな」
ナーヒルがすぐ返す。
「……逆じゃないか?普通はさ、考えが先にあって、それに合わせて場所を作るだろ」
マリークはそのまま言う。
「……いや。ここは、違う。この段が先にあって、人が、それに合わせて動いてる。動きが重なって、あとから、考えになる」
歩き続ける。高さがわずかにずれ、位置が少しずつ固まる。ラヒーマが下を見る。
「……下ほど、遠い。声、届きにくいね。上の声が、下まで来ない」
アミーヌが聞き返す。
「何が遠いですか?」
「声」
アミーヌが低く言う。
「戻れますね。下にも戻れますし、同じ高さに集まることもできます。でも……人は、そう動いてないですね。集まろうとすると、動きが噛み合わない。気づくと、それぞれ別の場所に立ってます」
俺は言わない。まとめない。
この土地は、言葉なしで人を分ける。教えない。命じない。罰もない。ただ、立つ場所だけが変わる。
歩き続ける。合図はない。先もいない。それでも、位置だけが離れていく。
誰も選んでいない。だが、一度離れた距離は、戻らない。
足は止まらない。理解だけが、静かに残る。
石の感触が変わる。音が広がる。
気づけば、峠を越えている。
視界が開ける。壁も、門もない。だが、隠すものもない。
段。段。その奥も、段。
街というより、石がそのまま沈んで広がっている。
ナーヒルが口に出す。
「……固いな。触ってないのに、そう見える。組み替えられない感じがする。入ったら、変えられないだろ、これ。石の置き方が、もう動かせない形になってる。後から手を入れる余地がない」
マリークがすぐに返す。
「出来てるわけじゃない。変わらない形だ」
ナーヒルが眉を動かす。
「……変わらない?」
マリークは前を見たまま。
「人が動かないって意味じゃない。街のほうが、変わる余地を持ってない」
ナーヒルが噛み砕く。
「……使いながら直していく感じじゃないってことか。増えたら足すとか、崩れたら直すとか、そういう動きがない」
マリークはそのまま言う。
「直す、って流れがない。ここが不便だから変える、そういう考えが最初からない」
ナーヒルがさらに聞く。
「……壊れたら?」
マリークは即答する。
「壊れる前提で置かれてない。壊れたあと、どうするかも、考えに入ってない」
街はそこにある。待ってもいない。迎えてもいない。アミーヌが奥を見る。通路でも家でもない場所。
「光、先に石に当たってますね。人より先に、そっちに落ちてる」
ナーヒルが聞く。
「……人より?」
アミーヌはうなずく。
「うん。ここ、人が先じゃないです。誰が住むかとか、どれくらい必要かとか、そういう順番で作られてない」
足元を見る。
「先に石があって、そこに光が落ちる。人は……あとから、余った場所に立ってる感じです」
俺は街を見る。いや、石を見る。
「……ここは、人が形を決める場所じゃない」
俺は足を止めない。だが、もう問いを持ったまま踏み込める場所じゃない。ここは、分かってから入る場所だと、身体が知っている。
しばらく、誰も口を開かない。風と、石の匂いだけがある。普通なら聞くはずのことが、出てこない。
何の街か。誰がいるのか。俺も聞かない。言葉が浮かばない。
街は黙っている。拒みもしない。迎えもしない。ただ、そこにある。
誰かが、少し前に出て、すぐ下がる。止められたわけじゃない。ただ、合っていない。身体が先にそう感じただけだ。
サジークが足元を一度だけ見る。わずかに位置を確かめる。
「……ここ、もう位置が決まってるな。どこに立つか、勝手に揃う。前に出ればいいって感じでもない」
少し視線を落とす。
「下がっても崩れないし、それぞれ、合う場所に収まる……でも、何でそうなるかは分からない」
ナーヒルが前を見たまま。
「……門、ないな。入るとこ決まってないのに、もう中と外が分かれてる気がする」
マリークは前を見たまま。
「要らないんだろ。閉じてるわけでもない。開いてるわけでもない。最初から、そのまま置かれてる」
ナーヒルが足元を見たまま。
「でもさ、進めるかどうか、聞かれてないよな。誰も止めてないのに、これ以上行けない感じがある」
アミーヌは段の先を見たまま、目を細める。
「動きじゃないですね。分かってるかどうかで、分かれます。合ってないと、前に出ても止まります。無理に進もうとしても、噛み合わない」
一拍。
「門はないですけど……境目は、もう身体の中にありますね。越えられるかどうかで、分かれてます」
俺は前に出る。その先に、もう段がある。ナーヒルがわずかに口元を緩める。
「……まだ早いってことか。入れるけど、入らないほうがいい感じだな」
ラヒーマが振り返る。
「近いのに……触れないね。音も来ない。人の気配も、来ない」
アミーヌは街の奥を見る。
「距離はあるのに……切れてますね。繋がってない感じがします」
ナーヒルが手元の石を拾い、並べる。乾いた枝を寄せる。火がつく。小さい。マリークは視線を落としたまま。
「ここは外だ」
ナーヒルが短く息を吐く。
「入ろうと思えば行けるのに、行かないほうが合ってる。……変な場所だな」
俺は前を見たまま。
「……今日は、ここまでだ」
背に岩。足元は土。街は、すぐそこにある。だが、触れない。輪郭だけが、夜に浮かんでいる。
ナーヒルが火を見たまま。
「……今日、結構歩いたな。距離は大したことないのに、ずっと何かに押されてる感じだった」
サジークがかかとを少し動かす。
「足、まだ重くならないな。止めなくても行ける。そのまま入れてしまいそうだ。だから、止まる場所だけ決まる」
ラヒーマが、少し息を吐く。視線を落としたまま。
「重くならないほうが、怖い。入る前に、まだ疲れてないってことだから。身体が、まだ合わせきれてないまま、中に入る感じがする」
火が鳴る。誰も街を見ない。ナーヒルが枝を動かしながら。
「……明日、話す?中に入ったら、人いるだろ。ここで暮らしてる人。聞けばさ、どういう街かとか、どう動けばいいかとか、分かるだろ」
俺はすぐには返さない。火を見る。
「まず、街そのものを見る」
ナーヒルが少し首を傾ける。
「……話さない?」
俺は目を離さない。
「後でもできる。でも、中に入ったら、もう人の目で見ることになる。今はまだ、外から見る。人の声も、説明も、ないまま。それは、入る前にしかできない」
ラヒーマが街を見る。
「……重いね。触ってないのに、もう関わってる感じがする」
ナーヒルが聞く。
「……何が?」
ラヒーマは首を振る。
「分からない。でも、見たら終わりみたい。知らないままにできない重さ。放っておいても、こっちが落ち着かなくなる」
視線を外さない。
「だから、気にしないまま寝られない。頭は分かってるのに、身体が許さない」
アミーヌが耳を澄ます。
「……音、来ないですね。この距離なら、何か聞こえてもいいのに。人の声とか、足音とか、夜でも、少しは動きがあるはずです」
サジークが短く返す。
「まだ中じゃない。近いけど、届いてない」
ナーヒルが街を見る。
「……すぐそこなのに」
火が鳴る。アミーヌが静かに続ける。
「ここ……もう、石が形を決めてますね。削られ方も、置かれ方も、後から変わる前提がない。人が使いながら合わせたというより、石のほうが先に、変わらない形を作ってます。使いながら直す場所じゃない。試したり、変えたりする余地がない」
火を見る。
「だから、音も出てこないし、迷いも外に出てこない」
火が弱くなる。ナーヒルが横になる。
「……変だな。何も決めてないのに、もう決まってる感じがする」
サジークは何も言わない。ラヒーマも目を閉じる。街はそのまま、そこにある。呼びもしない。拒みもしない。ただ、動かない。俺たちは横になる。石は眠らない。だが、俺たちは、眠る。




