第56話:整わない地
丘を越える。傾きがゆるむ。前に、何もない。。杭もない。壁もない。煙もない。地面に、踏まれた跡だけが残ってる。だが、途中で消えている。道が、分かれている。風が先に動く。音は重ならない。
歩きながら、ラヒーマが息を吐く。
「……音、重ならないね。さっきまで、ずっと被ってたのに。何の音か、ちゃんと分かる」
ナーヒルが周りを見たまま言う。
「静かすぎるな。逆に、気持ち悪い。さっきは何言っても、全部かき消されてたのに」
ラヒーマが少し笑う。
「贅沢だね、それ。聞こえない方が楽だった?私は、こっちの方がいいけど」
ナーヒルが軽く鼻で笑う。
「慣れだろ。聞こえすぎると、今度は気になる。黙ってても、変に目立つしな」
マリークが口を開く。
「整えてない。速さも、ばらばらだ。止まる場所も、決めてない。合わせようともしてない」
ナーヒルがすぐ返す。
「だからぶつからないのか?普通は逆だろ」
マリークはそのまま言う。
「ぶつかっても、問題にしない。止めない。それでも止まらない」
ラヒーマが小さく息を吐く。
「怒られないんだ。それだけで、全然違うね。止まっても、誰も見てないし」
ナーヒルが笑う。
「それが一番でかいな。誰も見てないってのがな。見られてないと、楽だ」
少し歩く。サジークが足元を見る。分かれ目。踏まれた跡が途中で消えている。
「道が、消えてる。踏まれても、残らない。踏まれなくなったら、すぐ消える」
ナーヒルが覗き込む。
「雑だな。せっかく踏んでるのに、消えるのかよ。意味ないじゃないか」
サジークが返す。
「作ってないだけだ。残すつもりがない。縛る気もない」
ナーヒルが軽く笑う。
「楽してるな。でも、それで回ってるならな」
アミーヌが遠くを見る。
「……境目が、見えません。どこまでが道で、どこから外か。決められていないように見えます。それでも、人は普通に歩いています」
ナーヒルが横から入る。
「決めてないってだけだろ。適当に歩いてるだけだ。でも、困ってもない」
アミーヌが少しだけうなずく。
「……はい。困っていないように見えます。だから、誰も直していません」
ラヒーマが足元を見る。
「歩いてても、追われてる感じ、しないね。早くしろ、とも言われないし、そこに立つな、とも言われない」
ナーヒルがすぐ返す。
「誰も急かしてこないからな。さっきはずっと押されてたのに、止まるだけで、邪魔だった」
ラヒーマが笑う。
「それ、ずっとあったね。今は、止まってもいい」
ナーヒルが小さく笑う。
「久しぶりだな、これ。静かなのは、音が少ないからじゃない。押してくるやつが、いない」
マリークが続ける。
「集めてない。並べてもいない。数にもしてない。だから、外れても、そのまま残る」
ナーヒルが軽く息を吐く。
「だから逃げてもいいのか。追ってこないしな。逃げるって感じもしない」
マリークが短く。
「逃げる、って形もない。最初から、囲ってない」
サジークは何も言わない。そのまま分かれ道を踏み越える。ナーヒルがそれを見る。
「どっちでもいいのか。選ばされないってことか」
サジークが返す。
「ああ。決められてない。だから、どこでもいい」
ナーヒルが少し笑う。
「楽すぎるな。逆に、迷うな」
アミーヌが足元に目を落とす。
「……踏んだ場所が、そのまま残るところもあります。でも、消えるところもある。揃っていません。同じ歩き方にも、なっていません」
ナーヒルが横から覗き込む。
「バラバラだな。好き勝手って感じだ」
ラヒーマが少しだけ笑う。
「だから、楽なんだよ。合わせなくていいから」
ナーヒルが肩をすくめる。
「楽っていうか。勝手にしていいって感じだ。誰も叱ってこないしな」
マリークは前を見たまま。
「それでも、崩れてない。決めてないだけだ」
ナーヒルが短く息を吐く。
「今のところは、な。そのうち、どうなるかは分からん」
風が抜ける。誰も止まらない。だが、急がない。俺は何も言わない。ただ、歩く。ラヒーマの歩幅。サジークとの距離。アミーヌの呼吸。少しだけ、合わせる。
ナーヒルが最後に言う。
「……ここ、速くならなくていいな。久しぶりに、楽に歩ける」
ラヒーマが小さく返す。
「うん。息が詰まらない」
サジークは何も言わない。足音だけが続く。それが、何度も続く。気づくと、地面が変わっている。
ナーヒルが足を止める。かかとで踏み直す。
「……なんだ、これ」
もう一歩踏む。沈む。
「踏むと逃げるみたいに崩れる」
ラヒーマも足元を見る。
「……草がない。土も見えない。これ……砂、かな」
ナーヒルが遠くを見る。地平線。どこまでも同じ色。
「……どこまで続いてるんだ。終わり、見えないな」
マリークは歩幅を変えない。
「方向は合ってる。でも、目印がない」
サジークが袋を持ち上げる。
「水、半分。今、飲む?」
ラヒーマが首を振る。呼吸を整える。
「……まだいい。まだ歩ける」
ナーヒルが空を見上げる。
「暑いな。上だけじゃない、下からも来る」
砂が流れる。音が軽い。ナーヒルが口を開く。
「……静かすぎるな。声出しても、どこにも届かない。すぐ消える」
アミーヌが空を見上げる。
「……昨日と同じ空です。雲もない。変わりません」
足音だけが続く。沈んで、抜けて、また沈む。ナーヒルがぼそっと言う。
「これ、考えても意味ないな。歩くしかない」
そのとき、風が弱まる。サジークが手を上げる。
「……止まれ」
全員が止まる。砂がゆっくり戻る。ナーヒルがわずかに首を傾ける。
「今の……聞いたか?風じゃないよな」
もう一度、音がする。砂が擦れる。マリークが足元を見る。
「風じゃない。別の動きだ」
ラヒーマが息を止める。
「……近い」
アミーヌが低く言う。
「……あそこ」
視線は足元より少し先。砂が、わずかに盛り上がる。ナーヒルが小さく言う。
「さっき、なかったよな」
もう一度、動く。サジークが低く。
「……来てる」
砂が波打つ。ナーヒルが息を詰める。
「何かいる……下か」
誰も動かない。足音が、もう一つ増える。次の瞬間、砂が弾ける。ナーヒルが反射で声を上げる。
「来る! 下だ! 地面すれすれで来てる、速い!」
影が横切る。低い。速い。ラヒーマが息を呑む。
「……速い。走ってるっていうより、滑ってくる。足が見えない。跳ぶ前から、もう届くとこにいる」
サジークが少しずらす。
「下から来る。もう近い。横に逃げろ。前に立つな」
音が遅れて届く。アミーヌが目を見開く。
「……頭、小さいです。口が横に広い。歯が、きれいに並んでます。白くない……濡れて、光ってる」
ナーヒルが叫ぶ。
「顔、ワニみたいだ! 平たい、前が尖ってる!目も前に寄ってる。こっち見てるぞ。あれ、逃げるやつの目じゃねえ!」
影が滑る。マリークが目を細める。
「まっすぐ来る。ぶれない。迷ってない。もう噛むとこ決めてる」
ラヒーマが息を止める。
「目……」
少しだけ息を止める。
「逃げる目じゃない。噛む前の目だ。飛びつく前から、もう決めてる」
ナーヒルが吐き捨てる。
「追う側の目だ。来るぞ——!」
影が跳ぶ。マリークが叫ぶ。
「左! 低い、下——!」
遅い。爪が引っかかる。ナーヒルが肩を引く。
「くっ——!」
布が裂ける。
「浅い……でも入ってる! 肩、やられた!」
血が滲む。サジークが腕を引く。
「触れた。爪だ」
指を曲げる。
「深くない。けど速い。かすっただけで持っていく」
砂が跳ねる。マリークが崩れる。
「足、沈む!」
膝が落ちる。
「踏めない! 砂が逃げる、踏ん張れない!」
ナーヒルが歯を食いしばる。
「速すぎる……合わねえ!追いつく前に、もう次に行ってる!」
サジークが身を引く。
「下がれ。いったん切れ。このままだと、じわじわ持ってかれる。ここで合わせるな」
ナーヒルが返す。
「切る前に来る! もう次のとこにいる!」
影はもう別の場所にいる。ラヒーマが声を押し殺す。
「全部ずれる……!見たところに、もういない。合わせようとすると遅れる!」
マリークが前を見たまま。
「噛み合わない。こっちが合わせる前に、もう次に行ってる。速さが違う」
ナーヒルが吐き出す。
「読めない……!」
苛立ちを噛み殺す。
「動きが真っすぐすぎる。真っすぐ来るのに、こっちが間に合わない!」
影がまた滑る。サジークが一歩引く。
「人の足が遅れる」
砂を踏み直す。
「砂で沈む。その分、毎回遅れる」
ナーヒルが息を詰める。
「……このままだと削られる。何もできねえまま、ちょっとずつ持っていかれる」
その間に、俺が前に出る。ナーヒルが気づく。
「ノア、何してる!そこ真正面だぞ! 下がれ!」
マリークが声を張る。
「危ない! 近すぎる!そこまで詰めたら避けられない——!」
ラヒーマがかすれる。
「ノア……!待って、来る——!」
影が止まる。アミーヌが息を止める。
「……止まりました。飛ぶ前のままです。力は残ってるのに、まだ来ません」
ナーヒルが息を呑む。
「まだ力抜いてない……次で来る。今だ、今来るぞ——」
来ない。サジークが目を細める。
「……止まった。力が抜けた。飛ぶ前の張りが消えた」
マリークが目を細める。
「溜めが切れた」
地面を見て続ける。
「蹴らない。足を出さない。このまま止まってる」
砂の音が消える。ラヒーマが小さく息を漏らす。
「……動かない。見てるだけ。飛ぶ前で止まってる」
ナーヒルが息を詰める。
「なんで止まる……?」
喉から絞る。
「もう届く距離だろ。なんで来ない」
アミーヌが目を離さない。
「……目、変わってません。こっち見てます。でも、来ません」
距離がない。俺は立ったまま。
「……去れ」
ナーヒルが息を止める。影が一歩下がる。サジークが低く息を吐く。
「……前に来ない。体を引いた」
マリークが前を見る。
「前足、沈めてる。飛ぶのやめた。体引いてる。噛みに来る動きじゃない」
ラヒーマが小さく。
「向き、外した。もう、こっちを取ってない」
ナーヒルが呟く。
「逃げるのか……?」
影が滑る。ナーヒルが目で追う。
「走らない……低いまま離れてく。跳ばないまま、砂の上を流れてく」
アミーヌが続ける。
「体つき、変えてません。低いままです。そのまま離れていきます」
砂に跡が残る。ナーヒルが目を凝らす。
「跡、残ってる……いや、消える。上から消されてく」
風が被さる。マリークが砂を追う。
「線が消える。上から砂かぶって消える」
サジークが短く。
「見えない」
最後に尾が沈む。ナーヒルが低く息を吐く。
「……消えた」
誰も追わない。ラヒーマが息を吐く。
「……行った。もう、こっち見てない。完全に離れた」
ナーヒルがまだ見ている。
「今の……なんだよ。こっち、何もしてないぞ。押してもいないし、追ってもない」
少し間。
「勝ったのか……?」
マリークが首を振る。
「違う。ぶつかってない。どっちも踏み込んでない。こっちも押してないし、向こうも越えてこなかった」
サジークが前腕を見る。
「……動ける。問題ない。浅い。切れただけだ」
ナーヒルが笑いかけて止まる。
「いや、でも——」
言葉を探す。
「今の、普通じゃないだろ。こんなの、見たことねえよ」
言葉が続かない。ラヒーマが俺を見る。何も言わない。ナーヒルが小さく息を漏らす。
「越えなかっただけか。向こうも、こっちも。そこから先に踏み込まなかっただけか」
マリークが受ける。
「入らなかった。そこから先に行かなかった。こっちも、向こうも」
沈黙。俺は歩き出す。ナーヒルが一瞬だけ迷う。
「……行くのか。今のあとで、そのままか」
サジークがうなずく。
「行く。止まる理由がない。まだ歩ける」
ラヒーマが小さく。
「うん。歩ける。行こう」
足音が戻る。砂がまた沈む。砂が落ち着く。風が抜ける。火が点いている。誰かが先に座る。それに続いて、全員が腰を下ろす。言葉はない。ただ、止まっただけだ。
少しして、ラヒーマが空を見上げる。
「……綺麗」
目を細める。
「なんか、さっきと同じ場所にいるって感じがしない。昼と、全然違う」
ナーヒルも空を見る。
「違うっていうか、最初からあったのに、見えてなかっただけだな。昼は何もなかったのに、今はこれだ。隠れてたみたいだな」
マリークが焚き火を見てから、また空を見る。
「明かりが少ないだけで、こんなに見えるのか。消えたわけじゃなかったんだな。ずっと残ってた」
アミーヌが首を少し傾ける。
「……近いですね。手を伸ばしたら届きそうに見えます。高い感じが、あまりしません」
サジークが短く息を吐く。
「見られてる感じは、しないな。何もしてこない。ただ、あるだけだ」
ナーヒルが低く言う。
「落ちてきそうだな。軽く見えるのに、重さはある感じがする」
誰も笑わない。少し沈黙が続く。ナーヒルが視線を落とす。
「……さっきの、あれは何だったんだ。なんで止まった。あのまま来てもおかしくなかったよな」
視線を上げる。
「お前、前に出たよな。なんであれで来なかった?」
俺は空を見たまま答える。
「……小さい恐竜だ」
ナーヒルがすぐ返す。
「それは見りゃ分かる。そうじゃない。なんでだ。なんでお前の前で止まった」
少し沈黙。俺はそのまま。
「……知らない」
ナーヒルの眉が動く。
「知らない、で終わりか?目の前であれ止めておいて、それだけか」
俺は視線を落とさない。
「来なかった。あそこまでだった」
ナーヒルが一瞬、言葉を詰まらせる。
「……じゃあ、なんでだ?」
俺は少し間を置く。
「分からない。父から聞いた。まだ地上を彷徨ってるって」
ナーヒルが眉を動かす。
「恐竜……か。じゃあ、あれで小さいのかよ」
俺は焚き火に視線を落とす。
「父は、もっと大きいのを見たらしい。形は似てる。でも、人とは比べられない大きさだって」
ナーヒルがゆっくりこっちを見る。
「……どれくらいだ」
俺は少しだけ間を置く。
「……あれよりずっと大きい。見上げないと顔が見えないって」
沈黙。焚き火が小さく鳴る。俺は続ける。
「アダムの前で、ひれ伏した、って」
誰もすぐには動かない。ナーヒルが視線を空に戻す。何も言わない。ナーヒルが低く言う。
「……人の前で、か。さっきのより、ずっとでかいんだろ。それが、下がるのか?」
マリークが指を動かしかけて、止める。
「……分からないな。考えても繋がらない。大きさで変わる感じでもない。大きくても来ない、小さくても来る。さっきのも、同じだ」
ナーヒルが顔を上げる。
「……さっき、俺たちは全部当たってる。避けても、追いつかれて、持っていかれた」
少し間。
「でも、ノアのとこだけ違った。目の前まで来てたのに、襲ってこなかった」
誰もすぐには答えない。ラヒーマが空を見たまま。
「……近かったよね。届く距離だった。でも、ノアの前で止まった」
ナーヒルがすぐ返す。
「偶然か?たまたま襲ってこなかった?」
マリークが首を振る。
「違和感のある動きじゃない。最初から、そこまでで止まってる。当てに来て、避けられた感じでもない」
ナーヒルが眉を寄せる。
「……それ、余計分かんねえな」
ラヒーマがぽつりと。
「……でも、怖がってる感じでもなかったね。逃げる前の動きじゃなかった。ノアの前で、やめた感じ」
ナーヒルが低く言う。
「じゃあなんだよ。俺たちは当たって、ノアだけ当たらない。同じ場所にいたのに」
マリークが受ける。
「……境目があるみたいだな。踏み込まないところがある。相手ごとに変わってる。ノアの前だけ、違う」
ナーヒルが小さく息を吐く。
「ノアのとこだけ、違ったってことか?」
ラヒーマが空を見たまま。
「……じゃあ、ノアの前だと、越えないのかもね」
ナーヒルが一瞬だけ黙る。視線がわずかに動く。
「……そう見えるな」
マリークが低く。
「でも、それが何かは分からない。ノアにあって、俺たちにないものかもしれないな」
火が小さくなる。誰も、答えを出さない。夜は、そのまま続く。そして、歩いた。
数ヶ月が過ぎていた。
砂はもう後ろにある。足を出す。沈まない。細かい石がわずかに動く。下は硬い。乾いているのに、冷たい。短い草が混じる。踏むと、音が変わる。風がばらばらだ。横から来て、抜けて、また別の向きから当たる。誰も止まらない。
少し歩いて、アミーヌが言う。
「……空気、変わりました。軽いです。でも、少し薄い。奥まで入ります。でも、残らない感じがします」
マリークが足元を見たまま。
「乾いてる。でも、砂みたいに逃げない」
小石を踏む。
「踏める。沈まない。整えられてない。でも、崩れない」
ナーヒルが肩を回す。
「……軽いな。力抜いても進む。でも、長く走ったら息上がりそうだな。なんか、力が抜ける感じがある」
サジークが周りを見てから言う。
「音が返る。前より遠くまで行く。消えない。響きすぎもしない」
ラヒーマが歩幅を確かめる。一歩、もう一歩。
「……歩きやすい。引っかからない。沈まない。でも、少しだけ息が早くなるね」
アミーヌが遠くを見る。
「……上がる前の空気です。まだ低いですけど、変わり始めてます。山の近くの空気です」
誰も言い返さない。歩き続ける。やがて、遠くの先に、山が出る。線じゃない。重なっている。誰も指ささない。
ナーヒルが目を細める。
「……あれ、近づいてるのに、形変わらねえな。ずっと同じまま、そこにあるな」
マリークが続ける。
「急に変わるところがない。そのまま続いて、上に行ってる。気づいたら、もう中に入ってる」
サジークが短く。
「風が違う。向きが決まってない。上からも来る」
ラヒーマが前を見たまま。
「……広いのに、圧があるね。開けてるのに、押される感じがある」
ナーヒルが小さく笑う。
「逃げ場がねえってことか。何もないのに、後ろに下がる感じがねえ」
マリークが受ける。
「……まだ決まってないだけだ。でも、上はもう始まってる」
誰も否定しない。歩調は変わらない。山は前にある。足は止まらない。




