第58話:関心のない影
足元の石の感触が変わる。少し固くなる。砂じゃない。削れた石の面が、そのまま残る。
ナーヒルが周りの壁を見る。
「……もう中か?入った感じもないのに、外って感じもなくなってる。さっきまで道は広かったのに、気づいたら左右の壁が近い。どこで変わったか、分からないな」
サジークが足を止めずに。
「分からないな。入った線もないし、出た線もない。でも、身体はもう内側に入ってる。戻る感じがない」
ラヒーマが前を見たまま。
「外とも言えないね。空は見えてるのに、その広がりが石に切られてる」
ナーヒルが壁を見る。
「門も線もないな。なのに、内と外がちゃんと分かれてる。探しても意味ないやつだな、これ」
サジークがわずかに肩を動かす。
「境目は探す前に越えてる。足のほうが先に決めてる。後から考えても追いつかない」
誰も境目を探さない。ナーヒルが壁の彫りに顔を寄せる。
「……偶像、多いな。この壁に混ざってる。並べてるって感じじゃないけど、妙に混ざってる。祀ってるわけでもなさそうだし、これ、何のためにあるんだ?」
顔。腕。獣の形の彫りが、壁の石に紛れている。マリークは視線を動かさない。
「置いてあるだけだ。水瓶や縄と同じ場所にある」
ナーヒルが聞き返す。
「祀ってない?」
マリークは足元の物を見る。
「分けてないな。水瓶と同じだ。縄と同じだ。そこにあるから、そのまま使う。それ以上でも、それ以下でもない」
ナーヒルが壁を見たまま、少し顔を寄せる。
「……偶像っていうより、この壁に置いてある物みたいだな」
サジークが続ける。
「置きっぱなしだな。でも、ここで使われてる。だから残ってる」
山羊が壁沿いの通りを歩く。ナーヒルがその山羊を見る。
「偶像にぶつかっても気にしないな。石の顔に当たっても、壊す感じでもないし、守ってる感じもない。ただ、そこにあるだけでいいって扱いだ」
アミーヌが壁の線を目でなぞる。
「この線……作ってるんじゃないですね。石に当たって削れたまま、ここに残ってるだけです。何かの形を出そうとしてるんじゃない。削れたところを、そのまま残してる」
ラヒーマが足元の壁際を見る。
「……ここ、落ち着くね。この壁に寄ると、少し楽」
ナーヒルも壁際を見る。
「……ほんとだな。人も動物も、勝手に寄る場所、もう決まってるな」
影の中。山羊が壁に身体を預けている。ナーヒルが足元と壁の位置を見比べる。
「ここ、場所が先にあるな。この壁際の場所に、人も動物も、それぞれ合う場所に寄ってる」
犬が壁に身体を預けたまま眠っている。鼻先が石に触れている。アミーヌがその犬を見る。
「分けてるわけじゃないのに……寄る場所が決まってますね。この壁の近くに集まる場所と、そうじゃない場所がある。立つ場所も、そこに分かれていきます」
俺は前を見る。言葉を置く場所がない。息だけが、この石の中に吸われていく。ナーヒルが思わず足を緩める。
「……あの犬、偶像の横で寝てるな。あれ、誰も気にしてないな。嫌がられてもいない。普通なら、ああいうのは追い払うだろ。でも、誰も見てない。そこにあっても、そのままにしてる」
鳥の声が落ちてくる。ラヒーマが上を見たまま。
「鳥も使ってる。彫りの間に、巣、作ってる。空いてるところがあったら、そこにそのまま入ってる。誰も止めてない。誰の場所、って感じでもないね」
ロバが通りを横切る。人の間を抜ける。ナーヒルがそれを見る。
「ロバも止められてないな。ぶつかってもおかしくないのに、人のほうが勝手に避けてる」
サジークが歩いたまま。
「動物、追い出されてない。邪魔でもないし、汚れでもない扱いだな。ここは、それだけだな。使われてるかどうかだけで見てる」
アミーヌが歩調を崩さず。
「動物、多いですね。でも……人が飼ってる感じでもない。人が入れてる、というより、そこにいるままにしてる」
ラヒーマが続ける。
「人が選んで入れてるわけじゃないし、追い出してもいない。だから……人の物でもないし、神の物でもない」
犬が影に丸まる。ナーヒルがそれを見る。
「……混ざってるな。人と動物と物が、分けられてない。全部、同じところにある」
マリークが短く返す。
「最初から分けてない。切り分ける前提がない」
誰も注意しない。ナーヒルが周りを見回す。
「……音はあるのに、この中で止まってるな」
少し耳を澄ます。
「ぶつかってない。壁にも、人にも、返ってこない」
マリークが足元を見る。
「音が外に出ない。当たっても、ここで止まる。外に出ない」
サジークが歩調を崩さず。
「人が抑えてるんじゃないな。石が音を受けてる。返さないから、重ならない。ぶつかっても、その場で終わる」
アミーヌが足音を確かめる。わざと少し強く踏む。
「今の足音も、広がってないですね。壁にも届いてない。外にも出てない。だから、人が無理に静かにする必要がない。抑えられてる感じもしない」
歩きながら続ける。
「音が消されてるんじゃなくて、音が最初から外に出ていかない」
ナーヒルが周りの人を見る。
「……だからか。人は普通に動いてるのに、音だけが膨らまない。声も足音もあるのに、その音が全部ここで止まってる」
少し歩く。ナーヒルが声を落とす。
「……誰にも見られてないな。近くを通っても、誰とも目が合わない」
周りの人の視線を見る。
「気づいてないのか?それとも、見ててもこっちに引っかかってないのか?」
サジークが前を見たまま。
「止められてない。通っていいとも言われてない。ただ、この通りをそのまま通ってるだけだな」
ラヒーマが重ねる。
「迎えてないね。気にしてない、って感じでもない。最初から、こっちを見てない感じ」
山羊が前を横切る。ナーヒルがその山羊を見る。
「この山羊、こっちを見てないな。避けようともしてない。俺たちのほうが、勝手に止まりかける」
角が袋に触れる。ナーヒルがその角を見る。
「当たっても、そのままだな。どかさないし、気にもしない。ここじゃ、外から来たって意味がないな」
角を曲がる。ナーヒルが鼻を動かす。
「……匂い、変わったな。油と、焼いた穀物の匂いか。そこで作ってるな」
視線を向ける。女が鍋をかき回している。ナーヒルが、思わず、言う。
「……なあ。ここで、飯、作ってるな。偶像の前だろ。あの石の顔のすぐ横だぞ」
一拍。
「……あれ、供えてるのか?それとも、ただ作ってるだけか?」
女は、こちらを、見ない。鍋も、止めない。返事は、ない。ナーヒルが続ける。
「普通ならさ、供えるなら置き方があるだろ。離すとか、揃えるとか。でも、近すぎるし、手の動きも変わらない」
鍋と偶像を見比べる。
「供えてるようにも見えるし、ただ使ってるだけにも見えるな」
ラヒーマが足元の子どもを見る。
「子どもも、あの石に背中預けてるね。本当なら、もう少し気にするはずなのに、触っちゃいけないもの、って感じでもないし、大事に扱ってる感じでもない」
サジークが続ける。
「捧げてるなら、もっと触れないようにする。近づき方も変わるはずだ。でも、これは違う。避けてもいないし、わざわざ近づけてもいない」
ナーヒルが子どもを見る。
「その子、硬貨、数えてるな。落としても、また拾って、同じことやってる。周りも全部同じだ。偶像があっても、みんな同じことやってる」
鳥が粒をついばむ。アミーヌがその鳥を見る。
「鳥も同じですね。石に当たっても、そのままです。壊さないし、避けもしない。ただ、そこにある物として触れてますね」
少し間。
「供えてるのかもしれないですけど……そういう置き方には見えないですね」
マリークが女の手元を見る。
「特別に置いてるわけじゃない。空いてる場所を、そのまま使ってるだけだ。偶像の前かどうかは、関係ない」
アミーヌが、ゆっくり足す。
「ここは、偶像の前、とは限らないですね。ただ、石がある場所です。そこに人がいるだけです。供え物にも見えるし、生活の一部にも見える」
ナーヒルが眉を動かす。
「……拝んでるわけじゃないのか」
アミーヌは、うなずかない。だが、否定もしない。
「拝んでるようにも見えますけど……そういう扱いに見えないところもあります」
サジークが前を見たまま。
「だから、食い物も、音も、人の動きも、全部、同じ場所にある。分けて置いてない」
子どもが、硬貨を、もう一度、数える。三つ。鳥が、粒を、ついばむ。偶像の影が、鍋の縁を、ゆっくり、離れる。女は、気づかない。俺は、歩きながら、思う。ここでは、偶像は、腹を、空かせない。だが、人の暮らしも、偶像の顔色を、見ない。それが、この街の、答えだった。
ラヒーマが、ぽつりと、言う。
「……邪魔じゃ、ないんだね。そこにあっても、気にせず動いてる」
ナーヒルが、聞き返す。
「偶像が?」
ラヒーマは、首を、振る。
「ううん。偶像が邪魔なんじゃない。最初から、生活のほうが先に動いてる。石は、その中にあるだけ」
ナーヒルが、女と、子どもを見る。鍋。石。背中を、預けた姿。
「……踏まれても、怒られないな。当たっても、そのままだ」
通りが少し狭くなる。壁が寄る。足は止まらない。アミーヌが横を見て、小さく。
「……上、ありますね。あっち、空いてそうです」
ナーヒルがすぐ。
「行くか?今ならそのまま上行けそうだぞ。まだ詰まってない」
アミーヌが少しだけ首を振る。
「……今じゃないですね。このまま歩いた方が楽です。ここで曲がると、ぶつかりそうです」
サジークが短く。
「やめとけ。今はそのまま行く。上はあとでいい」
ラヒーマがぽつりと。
「通ってからでいい。まだ急がなくていい」
そのまま進む。少し先。匂いが変わる。ナーヒルが顔を上げる。
「……あ、こっちだな。さっきよりマシだ。息しやすい」
ラヒーマが息を吐く。
「……楽。さっきより軽い。ここ、落ち着く」
サジークが周りを見る。
「止められてはないな。人は多いけど、詰まってない。誰も立ち止まってない」
マリークが短く。
「止まってないだけだ。歩いたまま通してる。引っかからないように動いてる」
アミーヌが小さく。
「……さっきより楽です。声も重ならない。押される感じがないです」
少し止まる。ナーヒルが首元を払う。
「……でも、暑いな。空気こもってる。長くいるときつい」
ラヒーマが小さく。
「息、重い。吐いたのが残る感じ。ずっとここだと疲れる」
ナーヒルが首を振る。
「……だめだな、ここ。ちょっとマシでも、長くいられねえ。やっぱ上行こうぜ」
サジークが上を見る。
「上、空いてるな。風通りそうだ。こっちより楽だ」
ナーヒルも見る。
「……空いてるな、あそこ。上の方が軽そうだ。人も少なそうだし」
サジークが向きを変える。
「上行くか?ここ、長くいられねえ。体が重くなる」
ナーヒルが頷く。
「だな。じっとしてると余計きつい。動いた方がいい」
ラヒーマも動く。
「上の方がいい。息、楽になる」
アミーヌも続く。
「……行きましょう。上、行けそうです」
俺は何も言わない。足が先に石段へ向く。登る。言葉より先に、場所が決まる。一段。次の段。足元の感触が変わる。
ナーヒルが足元を見て。
「……石、違うな。表面、磨かれてる。跡、残らねえ」
サジークが縁を見て。
「削り直してるな。角が揃ってる。欠けてない」
ナーヒルが少し首を傾ける。
「直してるっていうか。最初からこうだろ。使い減ってない」
マリークが短く。
「最初からだ。形を崩さないように置いてる」
足音が軽くなる。段をいくつか上がる。ラヒーマが周りを見て言う。
「……歩きやすい。足元、気にしなくていい。そのまま行ける」
ナーヒルが前を見たまま言う。
「人、減ったな。さっきより空いてる。ぶつからない」
サジークがすぐ返す。
「減らしてるんじゃない。上に来ないだけだ。下で止まってる」
ナーヒルが小さく笑う。
「……ああ、そういうことか。上まで来ないんだな。なんでここまで上がってこないんだよ」
少し歩く。ナーヒルが耳を澄ます。
「静かだな。下みたいに声が重ならない。近くで固まってない」
マリークが短く言う。
「ここで止まらない。みんな、そのまま通る」
ラヒーマが小さく続ける。
「下は、集まってた。ここは、通るだけ」
アミーヌが前を見たまま言う。
「……立ち止まる人、いないですね。いても、すぐ動く。誰も留まらない」
ナーヒルが息を吐く。
「……楽だけどさ、ずっといる場所じゃねえな。なんか、落ち着かない」
サジークが肩をすくめる。
「集まらない場所だ。止まると浮く。だから、通るだけになる」
さらに上がる。ナーヒルがふと振り返る。
「……あれ。動物、来てないな。下にはいたのに」
サジークが短く返す。
「来ない。上まで来ない」
ナーヒルが少し笑う。
「疲れた、とかじゃないよな。段もきつくないし。止まってるわけでもない」
サジークが首を振る。
「違う。嫌でもない。ただ、来ない。ここには合わないんだろ」
ラヒーマが足元を見て言う。
「追い払われた感じじゃない。自分で止まってる。上には来ない」
アミーヌが少し立ち止まる。
「……最初からですね。ここまで上がってくる人、少ないです。下で止まってるみたいです」
誰も否定しない。足がそのまま前に出る。そのとき、足元の石が、すっと暗くなる。影が通る。細長い影だ。左右に大きく広がっている。ゆっくり流れて、形が崩れない。
ラヒーマが足を止める。
「……影、来た。上、何か通った」
全員が顔を上げる。空は広い。建物のあいだを、何も遮らない。そこを、横切っている。翼を広げたまま、動かない。羽ばたかない。風に乗って、滑っている。翼は羽じゃない。薄い皮が、骨に沿って張っている。骨の形が、そのまま浮き出て見える。
ナーヒルが目を細める。
「……鳥じゃねえな。羽の形が違う。羽ばたいてないし、あんな飛び方しねえ」
サジークが空を見たまま。
「羽じゃない。あれは皮だ。骨に張ってる。翼っていうより、膜だな」
ラヒーマが少し首を傾ける。
「蝙蝠に似てる。でも大きさが違う。あんなの、見たことない」
ナーヒルが息を吐く。
「でかすぎるだろ。人よりでかいぞ。あれが空流れてるって、どういうことだ」
マリークが視線を上げる。
「頭、見ろ。尖ってる。嘴じゃない。ただ突き出てる。鳥みたいな形じゃない」
ナーヒルが半歩出かけて止まる。
「……何なんだ、あれ」
視線が俺に集まる。俺は空を見たまま言う。
「多分、恐竜だ。地面にいるやつと同じで、飛ぶ種類。翼竜って呼ばれてる」
短い沈黙。アミーヌがゆっくり。
「……鳥じゃないですね。もっと前の生き物です。羽じゃなくて、皮で飛んでる」
サジークが目を細める。
「飛んでるっていうより、流れてるな。風に乗ってるだけだ。自分で上がってる感じじゃない」
ラヒーマが上と建物のあいだを見る。
「この高さ、通ってるだけだね。ここを通るのが当たり前みたいに」
マリークが下の通りを見たまま。
「下の人は見てない。上を気にしてない。あれは人と別で動いてる」
ナーヒルが小さく笑う。
「……上は上で勝手に回ってるってことか。人と関係なく」
風が強まる。影がゆっくり遠ざかる。サジークが目を離さず。
「追うやつもいないし、見上げるやつもいない。ここじゃ普通なんだろ」
ラヒーマが小さく。
「見上げないと、気づかないね。下とつながってない」
アミーヌが静かに。
「……重なってないですね。人の流れと、あの高さ」
影が消える。空が戻る。風だけが残る。視線が下へ落ちる。通りの奥。石が増えている。壁じゃない。積まれている。
段。その上に段。さらに上。積み上がった先に、偶像が立っている。
台座は高い。縁は滑らかだ。欠けも擦れもない。触られた跡もない。その周りだけ、空いている。広い。人はいる。だが、寄らない。流れるだけだ。柱も壁もない。上は開けている。風が抜ける。偶像の周りだけ、何もない。空いたまま、残されている。
ラヒーマが顔を上げる。
「……大きい。下で見たのと同じなのに、遠い。近づいたはずなのに、距離が縮まってない感じする。広いのに、前に出られる感じがしない」
ナーヒルが目を細める。
「顔も腕も同じだな。でも変だぞこれ。近づいてるのに離れてるみたいだ。周りこんだけ空いてるのに、踏み込めねえ。入ろうとすると止まる」
マリークは視線を落としたまま。
「同じ形だ。ただ置き方が違う。近づかせない置き方だ。周りも空いてるだけで、人を入れる作りじゃない」
アミーヌが台座の縁を見る。
「登れないですね。足をかけるところもないですし、滑ります。段もつながってないです。空いてますけど、近づくために空けてるわけじゃないです。距離がそのまま残ってます」
サジークが足元を踏み直す。
「理由もないな。行く意味がない。何も置いてないし、触っても変わらない。行ってもやることがない」
通りを人が横切る。距離はある。ぶつからない。だが止まらない。誰も上を見ない。ナーヒルがぼそっと。
「……誰も見てねえな。こんだけ開けてんのに、誰も寄らねえ。邪魔じゃねえのに、最初から入らねえ流れになってる」
風が抜ける。足元が合わない。広いのに、重さが乗らない。サジークが踏み直す。
「……落ち着かないな。広いのに、立ってる感じがしない。どこにいても足が決まらない」
ラヒーマが視線を落とす。
「下は違った。狭かったけど、止まれた。ここ、空いてるのに休めない。踏んでも、乗った感じが残らない。すぐ抜ける」
ナーヒルが肩をすくめる。
「……分かる。余裕あるのに落ち着けねえ。何もされてねえのに急かされてる感じだ。止まるようにできてねえ」
サジークが周りを見る。
「通すための作りだな。広いだけで、留めない。止まると合わない」
アミーヌが前を見たまま。
「……だから誰も止まらないんですね。空いてても使われない。立っても落ち着かないから、そのまま流れていきます」
ナーヒルが周りを見回す。
「人はいるのに残らないな。話してもそのまま離れる。広いのに、集まらねえ」
マリークが返す。
「人が来るのはここまでだな。上は空いてるが、立つ場所じゃない。行けても、そのまま通り過ぎる」
風が通りを抜ける。影が長く伸びる。ナーヒルが首元を押さえる。
「……風はあるのに落ち着かねえな。体が休まらねえ。立ってるだけで削られてる感じだ」
ラヒーマが小さく。
「暖かさも残らない。ここ、長くいるところじゃないね」
アミーヌが下を見る。
「……下、戻りますか。あっちの方が話せますし、止まれます」
ナーヒルが息を吐く。
「……うん。ここじゃねえな。いる理由がない」
ラヒーマがうなずく。
「話すなら、下の方がいい。ここだと続かない」
サジークが足先を揃える。
「十分見ただろ。これ以上いても変わらない」
マリークが落とす。
「残る意味がない。ここは通るだけだ」
誰も反論しない。足が自然に、下を向く。風が背中を押す。段を下る。一段。また一段。影が短くなる。音が戻る。話し声。足音。物が擦れる音。匂いが混じる。火。油。獣の匂い。風が切れる。代わりに、熱が足元に残る。
ナーヒルが肩を落とす。
「……あ、分かる。下だな。さっきと違う。空気、重いな……でも、この重さのほうが楽だ。体が落ち着く」
犬が通りの真ん中で寝ている。誰もどかさない。山羊が壁に身体を預ける。サジークが足を止める。
「違うな。立ってても押されない。どかされもしない……ここ、崩れないな。人が来ても動かない」
ラヒーマが息を吸う。
「……戻った。ちゃんと吸える。さっきより深く入る……ここ、無理しなくてもそのままいられる」
マリークが周りを見る。
「音が残るな。消えない。さっきみたいに流れない……置いたままでいいな」
アミーヌが足元を軽く踏む。
「止まれますね。足を止めても、そのまま立てます……話も、そのまま続きます」
ナーヒルが犬と山羊を見る。
「これいいな。どかさなくていいのが一番楽だ……気、使わなくていいし、そのままでいられる」
誰も笑わない。だが、力は抜けている。足が止まる。ここでは、止まれる。俺は一度、足元を見る。さっきと違う。乗る。残る。それだけで分かる。ここ、止まる。言葉も残る。まだ、何も起きていない。それでも、もう分かれている。




