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第53話:正しさという罠

翌日。


昼は終わっている。数えない。昨日と同じだ。


夜。宿に入る。湯。布。灯り。もう揃っている。


俺は座る。ラヒーマが向かいに座る。顔は上げない。手だけが動く。


腕の内側。薄く割れている。乾いた血で、縁だけが少し赤い。


ラヒーマの布が当たる。滲む。すぐ止まる。拭く。押さえる。手は迷わない。


終わる。灯りが少し落ちる。同じだ。


翌日。


夜。同じ部屋。同じ準備。俺は座る。ラヒーマも同じ位置に座る。


一拍、遅れる。腕を出す。


前の跡。まだ閉じていない。その上に、薄く重なる。新しい線。浅い。横に擦れている。


ラヒーマの布が当たる。少し深く入る。手が止まる。圧が変わる。また動く。


終わる。


翌日。


夜。湯はある。布もある。ラヒーマは座る。だが手を伸ばさない。


俺も腕を出さない。


傷は乾いている。表面だけ固い。そのまま置かれる。


灯りだけが残る。何もない。


また翌日。


夜。同じ準備。俺は座る。ラヒーマも座る。


体が先に動く。腕を出す。


前の跡。色が鈍い。その上に、また薄く走る。深くはない。だが増えている。


ラヒーマが布を当てる。押さえる。


終わる。


夜。


何も起きない。それでも準備はある。ラヒーマは片付けない。そのまま置く。


腕はそのまま。触れない。


静かだ。長い。同じ形が続く。


ラヒーマの手順も変わらない。傷だけが重なる。乾く。また割れる。浅いまま、増える。


灯り。消さない。そのまま、朝が来る。


腕は残る。誰も言わない。また繰り返す。


その夜は、静かに割れ始めていた。


外からだ。壁の向こうで声が先に動く。


外で声が上がっている。戸の向こうだ。


中は静かだ。灯りも低い。誰も話さない。


俺は座ったまま聞く。止めない。


ナーヒルが先に言う。身を乗り出す。

「だから、名前を出せって言ってるだろ。誰がやってるか分かってる。顔も、時間も、場所も全部だ。黙ってるから続くんだ。あいつらの家に入って、引っ張り出せばいい。そこで終わる話だろ」

さらに押す。

「黙ってる方が間違いだ。ここまでやられて、まだ放っておくのか」


マリークはすぐ返さない。視線を落としたまま。

「……違う」


ナーヒルが顔を上げる。

「何が違う。殴られてる、吐かされてる。それを見て何も言わない方が——」


マリークが言葉を切る。

「お前は“行為”だけを見てる。今起きてるのは、正しいか間違ってるかの話じゃない。誰がやる側になるか、その形が固まり始めてる」


ナーヒルが鼻で息を吐く。

「それで十分だろ」


マリーク。声は変わらない。

「十分じゃない。ここで名前を出せば、行為じゃなくなる。人になる。“あいつがやる側だ”って決まる。そうなった瞬間、例外じゃなくなる。やるのが当たり前になる」


ナーヒルが一歩詰める。肩が入る。

「だから止めろって言ってるんだ。今のうちに切れば済む話だろ」


マリークは動かない。

「止め方が違う。名前を出せば、あいつらに“役”が付く。排除する側の、正当な役だ」


ナーヒルが止まる。眉が寄る。

「……何の役だ」


マリークが顔を少し上げる。

「排除する側だ。そう呼ばれた瞬間から、やる理由ができる。止めても止まらない形になる」


ナーヒルが歯を噛む。

「……じゃあ何もしないのか?」


マリークは視線を外に向ける。

「違う。何もしないんじゃない。言わないことを選んでる。ここで言えば、話が完成する。完成したら、戻らない。その形のまま続く。止まらない。今よりも、もっと酷くなる」


ナーヒルが吐き捨てる。

「それは逃げだ」


マリーク。揺れない。

「逃げじゃない。悪くなる形を拒んでる」


ナーヒルの声が落ちる。低い。押し殺す。一歩も引かない。

「……いつまでだ」

一拍。

「どこまでやられたら止める。骨か、命か、それとも誰かが倒れてからか。それでもまだ“形が崩れてない”って言うのか。ここまで来ても、まだ待つのか」


マリークは答えない。そして、わずかに言う。

「今ここで答えたら、その通りにしか動けなくなる」


外の声は続く。中は動かない。俺はそのまま聞く。夜は夜のまま止まる。やがて外の声は落ちる。消えないまま、力だけが抜ける。戸の内側は変わらない。圧だけが残る。それだけの夜だった。次の夜も、同じ宿だ。


夜。


宿の中。全員、座っている。位置はいつも通り。灯りは低い。湯も、布も、まだ片付いていない。使われなかった準備が、そのままの形で残っている。誰も話さない。


沈黙が長くなる前に、ナーヒルが口を開く。抑えきれなかっただけだ。

「……もう、黙ってるのは、無理だ」

視線を上げる。

「見てたよな。全部」

俺を見る。逃げ道を残さない視線だ。

「ノアが、殴られて、吐かされて、避けられて。それを見て、何もしないなら、やってるやつと同じ側だ」


サジークが視線を伏せる。立たない。だが肩が固まる。アミーヌは何も書かない。筆を置いたまま聞いている。ラヒーマも動かない。ただ場を見ている。


ナーヒルは止まらない。

「俺は、沈黙を赦さない。正しいことを知ってて、言わないのは、裏切りだ。止めないなら、見て、黙ってるだけでも」

一拍。

「回ってる仕組みを、そのまま通してるのと同じだ」


マリークが息を吐く。短く。

「……それは」


ナーヒルが被せる。前に出る。

「違うなら、どこが違う?何が違うって言うんだ」


マリークがゆっくり口を開く。

「……名前を出した瞬間」


ナーヒルがすぐ振り向く。

「何が?」


「行為が、役目に変わる」


ナーヒルは即座に返す。

「だからだ。名前を出せば、責任が生まれる。逃げられなくなる」


マリークは揺れない。

「違う」

声は低い。

「彼らは、責任を負う側にはならない。“排除する側”になるだけだ。役割は、正当性を生む」


ナーヒルが声を強める。

「正当性?殴ってるんだぞ。吐かされてる。それを、隠す方がおかしい」


マリークは視線を上げない。

「いや。役割が与えられるからこそ、ノアが殴られても、“仕方ないで、片付けられる”。悪は、役目を得ると、自分を正当化できる」


ナーヒルが鼻で息を吐く。

「だから、炙り出すしかない。誰がやってるか、分かってるなら言うべきだ。名を伏せるから、誰も止めない」

一拍。

「言えば止まる。少なくとも、今みたいには続かない」


その瞬間、マリークが被せる。

「止めない。止まらない。仕組みは、名前が付いた瞬間に形を変える。止まるんじゃない。別の形で続く。しかも、今より都合のいい形になる。だから止めても終わらない。形を変えて残るだけだ」


ナーヒルがすぐ返す。

「多くの改革は、名指しから始まった。名前を出すことで責任が生まれる。それで止まった例もある」


マリークは即答する。

「権力があった。相手が、限られていた。名前を出せば、そこに届いた。切れば終わる形だった」

間。

「今は違う。誰か一人じゃない。街そのものが、そうなりかけてる。もう、人の集まりじゃない。流れになってる。名前を出しても、止まらない。別の形で残る。一つ潰しても、別の場所で続く」

一拍。

「ここで止めるなら、切るんじゃ足りない。街そのものを、壊すしかない」


空気がわずかに落ちる。

「でも、それはできない。誰にも」

一拍。

「だから、止めきれないなら、やるほど広がる。同じやり方じゃ、終わらない。この流れは、人じゃ止められない」


ナーヒルが詰まる。

「……だから、何もしないのか?見てるだけでいいのか?」


マリークは淡々と続ける。

「違う。正義は、免罪符になる。悪いことをしても、許されるための理由になる。“正しい側”に立った瞬間、人は自分を疑わなくなる。何をしても正しいと思えるようになる」


部屋の端でサジークが低く言う。

「……名前が盾になる。責められなくなる」


アミーヌが静かに足す。

「前も、そうでした。同じ形で、広がりました」


ナーヒルは俺を見る。

「お前は、それでいいのか?このまま続くのを、見てるだけでいいのか?」


マリークが最後に言う。

「名付けは、責任を生む前に、役を固定する。一度役が決まると、人はそこから動かなくなる。止めるためにやっても、逆に固定することになる。だからやれば、状況は今より悪くなる」


沈黙が落ちる。ナーヒルは少し間を置く。息を整える。

「……お前らは、もう知ってるかもしれないし、知らないかもしれない。でも、街の連中はたぶん知らない。何が起きてるかも、どこまで来てるかも」

一拍。

「俺は、天の存在を信じてる。これは考えじゃない。そう思ってるだけだ」


サジークが短く言う。

「……俺もだ。言葉にはできないが、感じてる」


ナーヒルが続ける。

「……お前らが天のことを知ってるなら、もう分かってるはずだ。天は、立ち上がる者を選ぶ。何もしない場所は、最初から用意されてない。ただ黙ってればいい場所なんて、どこにもない」

一拍。

「安全な沈黙は、天を信じることじゃない。何も失わないまま、天を信じてるとは言えない。危ないところに身を置いて、初めて、天を信じてることになる。信じてるって言うなら、立て」


ラヒーマは動かない。だが、サジークの肩がわずかに張る。もう少し、前に出ている。ナーヒルは止まらない。

「天は、正しさを拒まない。だから、正しい側に立つことが、悪いはずがない。立つべき場所は、もう見えてるだろ」


アミーヌが静かに口を開く。

「……でも、天は、叫びを求めますか。声を上げることまで、求めているんですか?」


ナーヒルはすぐ返す。

「天は、行いを求める。正しい道に立つことも、正しい方を選ぶことも。何もしないことは、求めてない」


サジークが短く言う。

「……天のことを言っても、誰が、実際に立つ?」


ナーヒルが振り向く。

「だからだ。人が立たなきゃ、意味がない。誰かがやるのを待ってるだけじゃ、何も変わらない」


その声に、マリークが静かに割って入る。

「……その言い方が、一番、危ない」


ナーヒルが睨む。

「何が?」


マリークは視線を上げない。

「天の名は、一番使いやすい。天を持ち出せば。何にでも理由が付く。どこまでも通せる」


ナーヒルが遮る。

「正当だ」


マリークは声を上げない。

「違う。正しいと決めた瞬間に、止めるものがなくなる。何をしても、正しいってことにできるようになる」

間。

「誰が、天を決める?誰の言葉が、天になる?」

一拍。

「自分の都合で、天を語れば、どこまででも行ける。どんなことでも、“天のためだ”って言えてしまうようになる」


ナーヒルが言葉を探す。

「……それは」


マリークは淡々と続ける。

「決まりのない真理は、人の手で、刃に変わる。正しいと言い切れるものほど、止まらなくなる。何度も繰り返されてきた。同じ形で」


部屋が静まる。ナーヒルが声を絞り出す。

「……じゃあ、どうすればいい?」


誰かが答える前に、マリークが言う。

「今は、背中を押す段階じゃない。人を動かす言葉を、これ以上足す段階でもない。今止めるべきなのは、殴る手じゃない」

視線は上げない。

「殴る“理由”だ」

一拍。

「理由が残る限り、手は止まらない。誰かがやめても、別の誰かがやる。それを止めない限り、何を言っても全部、刃になる。正しさも、言葉も、全部使われる。だから、今は、止める段階だ」


サジークが低く言う。

「……天を掲げた瞬間、殴る理由が、出来上がる。“天のためだ”って言えるようになる」


アミーヌが続ける。

「……“正しい側”が、生まれます。線が引かれます。こちらと、向こうに分かれる」


ナーヒルが拳を握る。空を掴むみたいに。

「……それでもだ。動かない正しさは、正しさじゃない。失敗してもいい。間違ってもいい。やった上で間違うのと、何もしないのは違う」

視線が俺に向く。

「黙るより、ずっとマシだ。何もしないで、“分かってた”顔をする方が、よほど卑怯だ。善は、行いでしか残らない。語るだけじゃ、残らない」

さらに踏み込む。

「やらなきゃ、最初から無いのと同じだ。善を語っても。行いで示さなかったら、それは、善じゃない」


ナーヒルは続ける。

「英雄で、なくていい。失敗して、叩かれて、それでも、立つ。それでいい。立ち続けること、それ自体が正しさだろ」


マリークはすぐには返さない。一拍。二拍。それから静かに言う。

「……正しさだけでは、人は、動かない」


ナーヒルが振り向く。

「何だと」


マリークは淡々と続ける。

「考えじゃない。立つ場所だ。人は、何が正しいかより、どこに立っているかで動く。どっち側にいるかで動く」


ナーヒルが遮る。

「だから、立たせるんだろ。位置を変えればいい」


マリークは声を上げない。

「違う。今、この街は、もう決めている。誰が殴っていい人か、もう分け終わってる。正しいかどうかは、もう、見られてない」


ナーヒルが噛みつく。

「それでも、動かない理由には、ならない。間違ってても、やるしかない」


マリークはすぐには返さない。

「……なる。一度やったことは、次も、やっていいことになる」

さらに続ける。

「一回で終わらない。形として残る。だから、動けば、それが、次の“普通”になる。止めようとしても、戻らない」


サジークが低く言う。

「……街は、もう、その形を覚えてる。消えない」


アミーヌが続ける。

「……何が正しいかじゃなくて。誰が、殴られる側か、です。位置で決まっています」


ナーヒルは黙る。だが引かない。

「じゃあ、どうする?このまま見てるのか?」


マリークは答えない。俺は聞いている。夜は進む。言葉は出る。だが、同じ場所を回る。沈黙を、マリークが静かに引き取る。


マリークが口を開く。声は低い。

「……叫ぶより、ぶつからないように、する」


ナーヒルが眉を寄せる。

「逃げだな」


マリークは首を振らない。

「道を、ずらす。人目に出ないように、する。正面から当たらない。無理に目立たない。ぶつかる理由を、作らない。当たらなければ、広がらない。理由も、増えない」

一拍。

「それが、今、生き残るためのやり方だ」


ナーヒルが歯を噛む。

「それで、何が変わる。何も変わらないだろ、それじゃ」


マリークはすぐには答えない。少し間を置く。

「……大きくは、何も変わらない。流れも、止まらない。でも、今より、ひどくはならない。余計に広げずに済む」


ナーヒルが笑う。乾いた音だけ。

「それを、卑怯って言うんだ。逃げてるだけだろ」


マリークは目をそらさない。

「分かってる、出口はない。これで終わるとも思ってない。それでも、今、誰も壊さずに済む道は、それしか残ってない。減らすしかない、それだけだ」


サジークが立ち上がる。音は立てない。全員の視線が一瞬だけ集まる。

「……もう、いい。同じ話を、ぐるぐる回ってる。答えは出ない。ここで決めようとしても、もう遅い」


ナーヒルが振り向く。

「おい。まだ——」


サジークは聞かない。戸に手をかける。

「正しいか。間違ってるかの話じゃない。このままじゃ、どっちも、決まらない」


それだけ言う。戸が閉まる。音だけが残る。外の足音。少しずつ遠ざかる。中では、まだ言葉が残る。だが、もう前には進まない。俺は座ったまま動かない。話は終わっていない。だが、もう使えない。夜は静かだ。残っているのは、音だけだった。

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