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第54話:天のない平和

朝。


同じ道だ。石の並びも、影の落ち方も、昨日と変わらない。人はいる。数も、流れも、変わらない。俺は歩く。サジークが少し前。アミーヌは横。


前の方で、声が落ちる。

「……あ」


止まるでもなく、誰かが言う。

「またノアだな」


別の声がすぐ重なる。

「ああ、ノアだ。この時間だし、だいたいここ通るよな」

「じゃあ、こっち寄っとくか。触らない方がいいだろ」

「うん、その方がいい。面倒なことになりたくないし」


足音が自然にずれる。誰も理由を言わない。だが、迷いがない。俺は分かる。驚きじゃない。嫌っているわけでもない。もう決まっている動きだ。


背中で、別の会話。

「最近ずっとこの時間だよな」

「うん、見かける場所もだいたい同じだ」

「近づかなきゃいいだけだろ。触らなきゃ問題ないし、わざわざ関わる理由もない」


俺は歩調を変えない。止まらない。速めもしない。横の店先で、女が子どもに言う。

「ほら、あれがノア。近づかなくていいから、こっち来なさい。見なくていい、ほら、手」


子どもは意味を聞かない。ただ引かれるだけだ。それで終わる。向こうから男が来る。一瞬だけ視線が合う。すぐ外れる。

「……ああ、ノアじゃねえか」


小さな声。周りがうなずく。

「そうそう、あいつだろ」

「今は触らない方がいいやつ」

「余計なことしなきゃいいだけだ」


男は立ち止まらない。すれ違う距離で口を開く。

「なあ、唾、吐いてもいいか?どうせ何もしてこないだろ。文句も言わねえし」


返事を待たない。顔を寄せる。唾が飛ぶ。頬に当たる。温度だけが残る。男はもう俺を見ていない。

「ほらな。何もしねえ。やっぱそういうやつだろ。だから大丈夫なんだよ」

歩きながら続ける。

「別にさ、やったところで問題になるわけでもねえし。誰も気にしないしな。こういうのはな、最初に決まっちまうんだよ」


誰も止めない。誰も声を出さない。誰も驚かない。俺は立ち止まらない。拭かない。顔も上げない。周りの視線は、もう俺じゃない。確かめる段階は終わっている。俺は分かる。名前が、役目に変わった。何をしたかじゃない。何を言ったかでもない。ただ、ここを歩いているだけで、決まる。俺は通りを抜ける。


背中で、声が揃う。

「ノアなら、まああんなもんだろ。どうせ何もしないしな」

「放っとけばいい。関わらなきゃ、それで済む」


俺は歩く。俺より先に、名前だけが進む。そのまま、日が落ちる。何も起きないまま。何も戻らないまま。


夜。


宿に戻る。戸が閉まる。外の音が切れる。


ラヒーマは何も言わない。上着を外し、静かに置く。湯が張られる。布が畳まれる。灯りの位置が少し直される。手は動く。言葉は動かない。準備だけが進む。


ナーヒルは座る。背中が少し丸い。動かない。マリークは壁を見る。視線は止まったまま。それぞれが今の位置を保つ。


俺も、動かない。近づかない。離れない。それで足りる。今は、決める夜じゃない。変える夜でもない。位置は、もう決まっている。何も決まらないまま、


夜が終わる。それでも、朝は来る。


昼。

通りは混んでいる。声が重なる。流れは切れない。俺たちは歩く。並びは昨日と同じだ。サジークが少し前。アミーヌは横。ナーヒルとマリークは後ろにいる。ラヒーマは、今日は中にいる。


前から男が来る。役人だと分かる。歩調を合わせてくる。止まらない。

「……ノア」


名前だけ。俺は歩いたまま、視線を向ける。男は息を整える。

「……水の神官が、一度、話をしたいと。顔を合わせるだけで構いません」


言い切らない。ナーヒルが口を開きかける。

「何の――」


サジークが視線で止める。男は続ける。

「街の真ん中で、今でなくても構いません。都合のいい時で」


マリークが聞く。

「理由は?」


男は首を振る。

「聞いていません。伝えるように、とだけ」


アミーヌは位置を見る。ラヒーマが口を開く。

「……話すだけ?」


男は一瞬だけ見る。

「はい。それだけです」


ナーヒルが低く言う。

「……断ったら?」


男は少し考える。

「できます。来なかったとしても、それ以上は、何もありません。呼びに来ることも、ありません」


マリークが息を吐く。

「……“一度”だけ、か」


男はうなずく。

「はい」


サジークは男の足を見る。男は歩調を少し落とす。

「……それでは」


それだけ言って離れる。流れに戻る。すぐに見えなくなる。しばらく誰も話さない。ナーヒルが言う。

「どういう――」


俺は歩いたまま言う。

「……行く」


ナーヒルが止まる。

「……本気か?罠かもしれないぞ」


俺は答えない。マリークが言う。

「断る理由は、まだない。行かない理由も、ない」


サジークは前を見る。アミーヌが歩調を合わせる。ラヒーマは何も言わない。視線だけが残る。


誰も続けない。ここで広げる話じゃない。


俺たちは止まらず進む。流れに乗っているだけだ。


昼の人波に、別の流れが重なる。


街の真ん中。水が見える。流れている。途切れない。


人は多い。声と足音が重なる。誰もこちらを見ない。


俺たちは流れの中にいる。立ち止まらない。並びはいつも通りだ。


水路のそばに、一人いる。


エルマーンだ。


低い。だが動かない。水と同じ高さで立っている。


流れは乱れない。護衛は見えない。だが、いないわけでもない。最初から必要としていない距離だ。


目が水から外れる。遅い。迷いはない。


俺を見る。


測る目ではない。確かめる目だ。


俺が近づく前に、声が落ちる。

「来てくれて、ありがとう。急がせるつもりはなかった。都合が合わなければ、それでもよかった。それでも来てくれたなら、助かるが」


エルマーンは後ろを見ない。人数も見ない。最初から、関係にしていない。

「まず、はっきりさせておきたい。私は、敵対するために、君を呼んだわけじゃない」


水音が間に入る。

「街で、いくつか揺れが起きている。人の動きが、少し乱れた。だが、君が原因だとは見ていない」

一拍。

「混乱は、仕組みの問題だ。個人に押し付けるものじゃない。人は、自分で選んでいると思う。だが多くは、流れの形に置かれているだけだ」


ナーヒルがわずかに息を止める。マリークは動かない。サジークは足元を見る。アミーヌは位置を見る。ラヒーマは距離を保つ。


エルマーンは続ける。

「だから今日は、問い詰めるつもりはない。裁くつもりもない。ただ、君を知りたい」

間。

「何を見ているのか。何を見て、そうなったのか。何を言おうとしているのか」


沈黙が伸びる。だが崩れない。

「すぐに答えなくていい。ここは、話す場所だ。決める場所じゃない」


「……聞いている」


それで足りている。エルマーンはうなずかない。ただ、わずかに力を抜く。まだ触れない。だが、形はできている。水面に映る。檻の形になる。水が揺れる。流れは変わらない。音も、流れも、同じだ。


エルマーンは目を離さない。距離は詰めない。

「君を、責めるつもりはない。だが、君を無関係だとも見ていない」

間。

「君は、この街の流れを、少し変えている。そのつもりがなくても。見ているだけでも、人は、それに合わせて動く。位置が変わるだけでも、周りの並びが変わる。それで、流れは変わる」

一拍。

「それ自体を、問題だとは思わない。ただ、その流れは、放っておくと、別の形に変わる。本人がどう思っていても、関係なく」


指が水をなぞる。

「水も同じだ。流れが止まる場所は、すぐ濁る。だから、我々は、流れを整える」

少しだけ言葉を足す。

「止めるためじゃない。偏らせないためだ。君にも、同じことができる」


俺は答えない。エルマーンは急がない。

「場を用意できる。話すための場所だ。言葉が届く位置に置く。ただし、前に立つ必要はない。ぶつかる場所に出なくていい。前に出れば、言葉より先に役が決まる」

一拍。

「誤解を減らせる。混乱をほどける。言葉が、刃にならない形で」


水は流れている。

「協力できる。君の考えを、歪まない形で、届く場所に置ける」

エルマーンは俺を見る。

「君は、壊そうとしているわけじゃない。街を壊すために、立っているわけでもない。見ているだけだ。起きていることを、見て、考えている。そういう人間は、敵じゃない」

一拍。

「だから、潰される必要はない。形に収めればいい」


彼は、すでに知っている。街で何が起きているか。どこで手が出ているか。

「君の言葉が、殴られる形にならないように、整えられる。そのまま出れば、言葉より先に、役が付く」


人の流れは、そのまま動いている。声も、足音も、途切れない。

「これは取引じゃない。義務も、条件もない。拒むこともできる。だが、選べる。何もせずに、流されるか。こちらで関わるか」

一拍。

「どちらも、君の自由だ。どちらを選んでも。流れは止まらない」


「……俺を、使うつもりか?」


エルマーンは即座に首を振る。

「違う。君は、もう使われている。街に、気づかないまま。立っているだけで、形に組み込まれている」

水が流れる。

「私は、それを整えたいだけだ。崩さないように、広がりすぎないように」


俺は分かる。排除じゃない。閉じ込めでもない。形に収める。外に出さない。エルマーンは最後に言う。

「考えてほしい。今、答えはいらない。だが——」

水音が少し強くなる。

「君が、黙っていても、街は、君を使い続ける。何もしていなくても、関係なく。ここにいるだけで、使われる」

声は低い。

「だから、選ばないままでは、済まない」


言葉が止まる。続きを言わない。俺は答えない。だが分かる。この沈黙は、もう守られていない。拒めば、外に出る。受ければ、中に入る。どちらも、触れられる。水は流れている。止まらない。しばらく、水の流れを見る。


エルマーンが口を開く。

「……不思議だな。ここまで、何も受け取らずに、立っていられる人は、少ない」

少しだけ続ける。

「多くは、何かを持って立つ。理由か。役目か。正しさか、居場所か。それがないと、立てなくなる」


視線が水に落ちる。

「だが、君は、何も受け取っていない。それでも、ここにいる」

間。

「だから、君がここに立っていられるのは、何かが、あるからだ。生きる意味が、あるからだ」


空気がわずかに変わる。

「だが、生きる意味は、必要か?」


俺はすぐには答えない。水の音を一つ聞く。

「……よく言われる。意味がないと、人は立てない。意味がないと、生きられないって」

一拍

「でも、意味は、命から生まれる。命が先だ。だから、意味は命だ」


エルマーンがわずかに息を吐く。

「でも、体が動いていれば、それで十分じゃないか?食べて、眠って、働いて。それで、朝が来る。それで続く。それだけでも、生きているとは言える」


少し間を置く。俺は、一度言葉を選ぶ。

「意味は、後から来る。必要だから生きるんじゃない。生きてるから、意味を探し始める。意味がないと、立てない人もいる。でも、意味がなくても、立っていられる人間もいる。俺は、意味を先に置かない側に、立ってるだけだ」


エルマーンは街を見る。

「ここで人は、誰にも迷惑をかけていない。誰も盗まない」

流れ。足音。

「平和だ。争いもない。壊れている場所はない。全部、ちゃんと回っている。ここまでで、足りない理由はあるか?」


俺は水を見たまま言う。

「……確かに、全部は回ってる。争いもない。平和な街だ。見える限りじゃ、問題はない」

一拍。

「身体も、暮らしも、壊れていない」


視線を街に流す。

「だが、見ていれば、分かることがある。ここで、人の魂は、飢えてる」


エルマーンが返す。

「飢えている?」

一拍。

「何を見て、そう言う。ここまで回っている。それで飢えているとは言えない」


俺は、首を振らない。否定もしない。

「そうだ。体は、飢えていない。でも、心は、飢えてる。その結果、この街じゃ、人が、自分で命を終わらせる。静かに、目立たない場所で」

間。

「生きる意味を、失ったからだ」


エルマーンは、少し考えてから言う。

「……心の意味、か。それは、役に立つのか?なぜ、それが、必要なんだ?」


俺は、すぐには答えない。だが、迷いもない。

「生きるためだ。心が、死んだら、体が、立ってても、もう、死んでる」

水が落ちる音。

「自殺は、時間の問題になる。でも、心さえ、立っていれば、体は、立っていられる」


視線を、エルマーンに戻す。

「だから、俺は、毎日、殴られても、唾、吐きかけられても、ここに、立っていられる」


エルマーンが、静かに聞く。

「……その、心の意味は、どこから、来る?」


俺は、迷わず言う。

「天と地を、生み出した存在からだ」


エルマーンが、ふっと息を漏らす。

「ああ」

一拍。

「天のことなら、もう、知っている。だからこそ、聞きたい。天のことは、本当に、必要か?」


水は変わらず流れている。誰の答えも待たずに。その問いは、返事より先に、場に置かれた。エルマーンは、その問いに、すぐには答えない。待つこともしない。


「……ああ」

短く、息を整える。

「答えは急がなくていい。ただ、一つだけ、事実を置いておく」


声は低い。教える調子ではない。

「私は、八百九十七年、生きている」

一拍。

「誇りじゃない。事実だ」


水が、静かに落ちる。

「この街が、何度も、形を変えてきたことを、私は、覚えている」

指は、水の流れだけをなぞる。

「争いの多い時代も、祈りが満ちていた時代も、意味が語られ続けた時代も。全部、見てきた」

間。

「そして、今も、水は流れている。畑は実る。人は生きている。我々は、この水の仕組みが、意味を求めなくても、回り続けるのを、何百年も、見てきた。もし、意味がなければ、人は生きられないのなら、この街は、とっくに、壊れている。だが、見れば分かる。壊れていない」


水が、そのまま流れる。答えの代わりのように。

「だから、私は、天を拒まない。知らないとも、言っていない。ただ、要らないだけだ」


エルマーンは、少しだけ間を置く。俺の反応を待っているわけじゃない。

「……だから、いい人でいれば、それで、十分じゃないか?」

一拍。

「誰にも迷惑をかけていない。奪ってもいない。仕事をして、次の日を生きる。それ以上、何を求める?天を拝む必要はあるか?」


視線が戻る。

「誰にも害を出していないなら、何も盗まないなら、天のことを、考える理由は、どこにある?」


俺は、すぐに答えない。否定する必要がない。

「……いや、いい人でいても、それだけじゃ、足りない。それは、悪いからじゃない。ただ、恩を、忘れることになるからだ」


エルマーンは、眉を動かさない。ただ、聞いている。

「誰の都合で、日が、毎日、昇る?雨が降る?水が巡る?」

一拍。

「それがあるから、働ける。生きていける」


視線を水に落とす。

「それを、当たり前にした瞬間、人は、天を、使い始める。盗んでるわけじゃない。壊してるわけでもない。でも、感謝せずに、使ってる」

間。

「仕組みは、うまく回ってるように見える。でも、そもそも、それは、天のおかげで、回ってる。太陽も、雨も、命が生まれることも、俺たちの都合で、来てるわけじゃない。それがなければ、土から芽は出ない。俺たちは、食べていけない」


俺は視線をエルマーンに戻す。

「まさか、自分の都合で、日が昇ってるって、思ってないよな?」

間。

「それが分かってるなら、その源に感謝するのは、自然なことだ。いい人かどうかじゃない。街が回るかどうかでもない。誰のおかげで、回ってるか、だ」


水は流れ続けている。沈黙が落ちる。俺は、エルマーンを見る。

「天は、要らなくなったんじゃない。ただ、忘れられてるだけだ」


エルマーンは、しばらく水を見ている。流れの向こうを見ているようでもある。水は変わらず流れている。人の声も、遠くで続いている。それから、口を開く。

「……君は、ある人物を、思い出させる。彼も、天のことを、よく語っていた。アダムを、知っているか?最初の人間だ」


俺は、すぐに答える。

「知ってる」


エルマーンはうなずかない。そのまま続ける。

「私は、数百年前に、彼と一度だけ会った。気配が違っていた。立っているだけで、場が、静まる」


水の音が、間に落ちる。

「迫力は、この世で、一番だった。不思議なことに、動物が、自然に、彼の周りに、集まった」

一拍。

「さすがに、預言者と呼ばれる人間だ」


俺は、息を整える。

「俺は、会っていない。でも、父は、会ってる。父が生まれた時、アダムは、八百七十四歳だった。そこから、百二十六年、一緒に、生きた」


水が落ちる。

「そして、アダムは、千年で、息を引き取った」

言い切る。惜しみも、誇りもない。

「俺は、そばには、いなかった。でも、距離があったからこそ、引き継いでる。知識じゃない。思い出でもない。責任だ」


水は、変わらず流れている。だが、重なっている時間だけが違う。ここにいる誰もが、もう、個人の話をしていない。そのことだけが、はっきりしていた。エルマーンは、しばらく何も言わない。水の音だけが、間を埋める。人の流れは、止まらない。


やがて、視線を俺に戻す。

「……それで、さっきの話だ。場を用意する。言葉が届く場所。混乱も減らせる。引き受けるか?」


俺は、すぐには首を振らない。だが、その中にも入らない。

「……いや。その場に入れば、俺は、役に立つ。意見を求められる。発言も許される。でも、その瞬間から、俺はこの街が、正しいっていう証明になる」


視線を街へ向ける。人は流れたまま、足を止めない。

「ここじゃ、いい人でいることと、天に感謝することが、別のものとして扱われてる」

一拍。

「ちゃんと働いて、誰も傷つけず、流れに従ってれば、それで十分だとされる」

声を少し落とす。

「天は、信じてもいいもの。考えてもいいもの。でも、なくても困らないものだ」


水が流れる。

「その中で、俺がどれだけ話しても、欠けてるものは、そのままだ。なぜなら、問題は言葉の置き方じゃない。人が、どこに立ってるか、だからだ」

水音。

「ここじゃ、正しい生き方、っていう評価が、もう完成してる。そこに、天を持ち込んでも、何も足されない。むしろ、もう埋まってる。もう足りてる。そう扱われる。だから、ここでは、語るほど、天は遠ざかる」

一拍。

「結局、壊れてない世界じゃ、直すって言葉は、問題にならない」


エルマーンは、ゆっくり息を吐く。

「……改革は、可能だと思っていたか?」


俺は、首を横に振る。

「改革じゃない、吸収だ。空っぽのまま回る仕組みは、その空っぽさを、おかしいとも思われずに、最初からそういうものとして、回してる」

少し間を置く。

「だから、真理を語っても、人は足を止めない。ここは、人の心が削られることを、前提にしたまま、最初からそういう形で動いてる」


水が流れる。

「その中に、何かを置こうとしても、置く場所がない。真理を入れるなら、仕組みそのものを、変えなきゃいけない。でも、お前は、それをさせないだろう?」


エルマーンは、何も言わない。ただ、理解だけが残る。俺は、それ以上続けない。勝ちに行かない。

「だから、決めた。そこには、立たない」


エルマーンは、うなずかない。ただ、視線を外す。俺は、歩き出す。役を持たないまま。背中に、何も残らない。だが、軽くもならない。昼は、そのまま終わる。


夜。


宿の戸が閉まる。外の音が切れる。誰も動かない。沈黙。ナーヒルが、息を吐く。

「……あいつ、本気だったな。脅しじゃなかった。取引でもなかった。だから、余計に厄介だ」


ナーヒルが、俺を見る。

「……正直に言う。俺は、行くべきだと思った。場もあったし、守られて、話もできる。変えられるかもって、一瞬思った」


マリークが、短く返す。

「俺もだ。条件は悪くなかった。縛りはあったが、整ってはいた。全体としては、もう出来上がっていた」


ナーヒルがすぐ返す。

「だからだろ。完成してるから、変えられない。中に入ったら、もう外からは触れない」


マリークはうなずく。

「……ああ。中に入れば、説明する側になる。この街は大丈夫だと、言い続ける役だ。何か起きても、騒がせない責任を持つ。黙ることさえ、仕事になる」


ナーヒルが歯を噛む。

「でも、外に立ってたら、何も動かない。動かないまま、削られるだけだ」


俺は、少しだけ目を閉じる。

「削られてるのに、誰も、それを問題だと思わない」


ラヒーマが、初めて口を開く。

「……削られるのは、中でも、外でも同じ。形が違うだけで、減るのは、変わらない」


俺は、目を上げる。

「中に入れば、削られてること自体が、見えなくなる」


ラヒーマが、俺を見る。

「でも、中に入ると、削られた分も、悪くないことみたいに、見える」


マリークが息を吐く。

「……よく出来てる。彼は、一番無駄の出ない形を選んでいた。削られることさえ、無駄にしない形だ」


ナーヒルが低く言う。

「天を知ってる、ってな。知ってるのに、要らないって言った。あれが一番、引っかかる」


マリークが直す。

「違う。“必要ない”だ。拒んでない。ただ、切り分けてるだけだ」


ナーヒルが息を吐く。

「……だから厄介なんだよ。分かってて、外してる。信じてないわけじゃないのが、一番やりにくい」


サジークが立つ。

「……俺は、最初から、あいつを信用してない。場を用意する奴は、その場を壊さない。だから、変えられない」


外へ出る。戸が閉まる。足音が遠ざかる。アミーヌが、ぽつりと。

「……中でも、外でも、減ってるのは、同じに見えます」


ナーヒルが俺を見る。

「……断ったこと、後悔してないか?」


俺は首を振る。

「してない」


ナーヒルが重ねる。

「正しかったか?」


俺は少し考える。

「分からない。でも、捕まらなかった。それだけは、はっきりしてる」


マリークが目を閉じる。

「……それが答えかもしれないな」


ナーヒルが、ぽつりと。

「結局、この街じゃ、入る前から、役が決まってる」


マリークが、静かに続ける。

「だから、断った。正しいかどうかの話じゃない。勇気でもない。役を引き受けなかっただけだ」


沈黙。夜は静かだ。ナーヒルが最後に言う。

「……何も、終わってないな」

誰も答えない。

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