第51話:人が、消える距離
朝。
もう動いている。人の流れは、止まらない。来る前に、向きが決まっている。角が見える。人が集まる場所だ。俺とサジークは歩く。並びは、まだ変わらない。
前で、声が落ちる。
「……こっち行こう。あっち混みそうだ」
「まだ空いてるだろ」
「いや、先に人来るだろ。今のうちに曲がっとこ」
少し離れたところで、また。
「先、曲がろ。ここで詰まると遅れる」
「うん、あっち抜けた方が早いな」
足音が揃って、向きを変える。角に着く前だ。まだ距離がある。誰もこちらを見ない。流れが、少し早く曲がる。
サジークが低く。
「……早いな。まだ見えてないはずだろ」
俺は、そのまま。
「見てない。分かってる」
サジークが前を見る。
「もう決めてるってことか。来たらどうするか、先に決めてる」
俺が、角を見る。
「止まる理由がない。避ける方が、楽だ」
サジークが、少し前に出る。
「こっち空いてるな。人も流れてない」
声は、普通だ。角を曲がる。視線が一度だけ触れる。すぐ外れる。
背中で、声が重なる。
「こっちの方が早いって」
「うん、あっち人多いし」
「わざわざ混む方行く必要ないだろ」
一拍。
「こっちでいい」
「それでいい」
判断は終わっている。誰も否定しない。立ち止まらない。
サジークが、少しゆるめる。
「……避けてるな。完全に」
俺は前を見る。
「避けてるんじゃない。先に決めてる」
サジークが、少し苛立つ。
「同じだろ。結果は変わらない」
俺は、短く。
「違う。止めに来てるわけじゃない。関わらないように動いてるだけだ」
サジークが言いかけて、止まる。流れは、もう元に戻っている。俺は歩く。
「拒まれてる感じ、ないな。押し返されたわけでもない。ただ、道が先に消えただけだ」
サジークが、小さく。
「……それが一番やりにくいな」
俺は、何も言わない。歩き続ける。
人の流れから、少し外れる。音が変わる。金属が擦れる音。息が抜ける音。
作業場の端。
休憩に入った人たちが、固まっている。
「それでさ——」
「いや、あの時さ、あいつが——」
笑い。
「お前、それ言うなって」
「いやいや、ほんとだから」
「絶対わざとだろ」
俺とアミーヌが近づく。声が、切れる。一人が立ち上がる。
「……じゃ、そろそろ戻るか。あんまり長く座ってると怒られるし」
間を置かずに、別の声。
「あ、時間だな。俺も行くわ。次の段取りあるし」
「まだ早くないか?」
「いや、先に動いといた方が楽だろ」
笑いは、残らない。
「まあな。あとで続き聞かせろよ」
「うん、あとでな」
俺は止まらない。そのまま通り過ぎる。背中で、声。
「今日はここまでだな」
「うん、ここじゃ話しにくいし」
「続きは、あとでやろう」
アミーヌが、横で。
「……今の、急に終わりました。来る前は、ずっと話してました。三人で、笑ってて」
一拍。
「近づいた瞬間に、流れが切れた感じです。誰かが止めたわけじゃないのに、そのまま終わりました」
俺は、そのまま。
「終わらせる理由が、できただけだ。続ける方が、面倒になる」
別の場所。
二人が、腰を下ろしている。俺たちが視界に入る。一人が、すぐ。
「あ、悪い。俺、先行くわ。ちょっと用事思い出した」
もう一人が、軽く。
「今か?まあいいや、またあとでな」
「うん、あとで」
丁寧だ。崩れてはいない。俺は通り過ぎる。話しかけない。アミーヌが、声を落とす。
「見えた瞬間です。目に入った時点で、終わらせる方に動いてます。考える前に、もう決めてる感じです」
俺は、足を止めない。
「覚えなくていい。見て分かる」
アミーヌが、小さく首を振る。
「もう覚えてます。同じ形で、何度も起きてます」
休憩所の端で、また。
「……じゃ、俺も行くか」
「うん、ここで固まってると邪魔だしな」
「また後でな」
誰も、こちらを見ない。誰も、言葉を向けない。会話は、自然に畳まれていく。俺は、通りを抜ける。背中で、声が戻るのは、もう見えなくなってからだ。
アミーヌが、最後に低く。
「……さっきまで流れてたのに、止まりました。触れてないのに、形が変わりました」
俺は、返さない。
割り当ての場所。
板が立っている。名前が並んでいる。声が落ちていく。板の前の男が言う。
「次」
呼ばれた男が短く返す。
「はい、ここでいいですか?」
男がうなずく。
「そのまま行け。手前から回してくれ」
「分かりました」
別の男が手を上げながら言う。
「次」
呼ばれた側が少し迷って言う。
「ここ、足りますか?」
板の前の男が軽く見る。
「足りてる。そこ入っていいぞ」
「了解です」
流れは止まらない。俺とラヒーマは、少し離れて立つ。板に、一つ空きがある。前に、もう一人。
板の前の男が口を開く。
「じゃあ、次——」
視線がこちらに来る。一拍。男が、少しだけ息を整える。
「……いや。今日は、ここまででいい。これ以上入れると、後が詰まるからな」
周りの男が、すぐに反応する。
「もう終わりか」
「今日は早いな」
別の男が肩をすくめる。
「まあ、回ってるならいいだろ。無理に入れても手間が増えるだけだし」
さらに一人が言う。
「明日もあるしな。詰め込みすぎると、結局遅れるからな」
板は、そのまま。俺は、一歩出る。板の前の男が、同じ調子で言う。
「今日はいい。今入れても、動きがばらつく。明日、来たときに入ればいい。その方が、回しやすい」
声は穏やかだ。俺は、うなずく。理由は聞かない。ラヒーマが、板を見ながら小さく言う。
「……もうない?」
少し指で示す。
「一つ、空いてるように見えるけど」
板の前の男が、すぐに返す。
「ない。ここで止めてる。これ以上入れると、回しにくくなる。明日、少し早めに来ればいい。その方が入りやすくなる」
それで終わる。俺たちは下がる。流れは、すぐ次へ。誰も止まらない。
歩きながら、ラヒーマが言う。
「少なかったね。昨日より、呼ばれる人、減ってた気がする」
俺が短く返す。
「ああ。少し減ってる」
ラヒーマが少し考えて言う。
「でも、止まってるわけじゃないね。ちゃんと回ってる」
俺が前を見たまま言う。
「止まらないようにしてる」
ラヒーマが静かに聞く。
「……大丈夫?足りてる?」
俺がそのまま。
「足りてる。今のところは」
ラヒーマが少し間を置く。
「……聞かなくていいの?なんで外されたのか」
俺が短く。
「聞けば、理由ができる。理由ができたら、断られた形になる」
ラヒーマが、小さく言う。
「……もう、そうじゃないの?」
俺は、わずかに首を振る。
「まだ違う。ただ、入らなかっただけだ。このままなら、何も起きてないままでいられる」
ラヒーマは、何も言わない。歩調を合わせる。しばらくして、ラヒーマが静かに言う。
「……分かるけど、それ、少しずつ減っていくやつだよね。気づいたときには、なくなってるやつ」
俺は、答えない。歩く。ラヒーマも、続けない。そのまま、一日が終わる。
長い道。
先まで、遮るものがない。俺とサジーク、アミーヌ、マリークが並んで歩く。前で、親子が立ち止まる。子どもがこちらを見る。すぐに、母親が腕を引く。身体を寄せて、そのまま横へ。言葉はない。
サジークが低く言う。
「……今の、分かったか。まだ距離あったぞ。気づいてから動いたんじゃない。見えた時点で、もう終わらせてる」
マリークが前を見たまま言う。
「判断じゃない。動きが、先に決まってるだけだ。近づくか、避けるか。最初から、どっちかに寄ってる」
サジークが前に出る。
「いや、それでも早すぎるだろ。考える余地がない。あれじゃ、もう癖だ」
俺は歩く。歩調は変えない。前に、二人連れ。一人が言う。
「こっち行こう」
軽く肘を引く。もう一人が返す。
「……ああ、いいよ。向こう詰まりそうだしな。こっちの方が楽そうだ」
そのまま横へ。視線は上がらない。サジークが低く言う。
「……理由、後付けだな。避けるって決めてから、言い訳してる」
マリークが返す。
「理由は、いらない。形だけあればいい。筋が通ってるように見えれば、それで済む。説明しなくていい動きが、一番使われる」
俺は何も言わない。アミーヌが少し近づく。マリークが小さく言う。
「……三組目だな。動きが崩れてない。全部、同じ流れに乗ってる」
前に、また親子。子どもが見る。すぐに引かれる。横へ。アミーヌが静かに言う。
「……揃ってます。速さも、間も。誰も迷ってないです」
サジークが吐き捨てる。
「……ただ避けてるだけだろ。大げさに言いすぎだ」
マリークがゆっくり返す。
「そう見える。でも、揃ってる時点で個人じゃない。誰がやっても同じになる。それが一番強い」
俺が口を開く。
「俺は、それを壊しに来てるわけじゃない」
サジークが前に出たまま言う。
「分かってる。だから俺が前にいる。先に見えるようにしてる。迷わせないためだ。判断させる前に、終わらせる。何も起きないって、先に見せる」
歩きながら続ける。
「変に考えさせると、構えるからな。そうなる前に、抜ける」
俺は、うなずかない。前で、また流れが変わる。一度。二度。
アミーヌが低く言う。
「……偶然じゃないです。繰り返してるだけじゃない。最初から、その形で動いてます」
サジークが、ぼそりと。
「……道が変わってるんじゃないな。俺たちが、最初から外に置かれてる」
誰も答えない。そのまま進む。背中の音が、少しずつ遠くなっていく。
少し離れた場所。
もう、人の声は届かない。サジークは前を見る。俺とアミーヌは止まる。
ナーヒルが吐き出す。
「……臆病なだけだろ。見たくないんだよ。関わったら面倒になるって分かってる。だから、最初から避けてる」
少し息を吐く。
「それをさ、何でもない顔でやってるだけだ。賢そうに見せてるけど、やってることは同じだ」
マリークが静かに返す。
「違う。臆病じゃない。一人で決めてるわけでもない」
ナーヒルが振り向く。
「何が違う。結局、避けてるだろ」
マリークは落ち着いたまま。
「感情でやってるんじゃない。周りがそうしてるから、合わせてるだけだ。同じ動きしてれば、浮かない。それで済む」
一拍。
「一人だけ違う動きをすると、そっちの方が目立つ。だから合わせる。止める理由もない。きっかけもない」
ナーヒルが眉を寄せる。
「だから何だ」
マリークが静かに口を開く。
「その方が静かだ。誰も揉めない。誰も責められない」
一拍。
「だから続く」
ナーヒルが歩きながら言う。
「じゃあ何だ。追い出す前に、消してるってことか。仕事なくす前に、先に削ってるってことか」
マリークが言い切る。
「そうだ。見えないところで減っていく」
ナーヒルの声が強くなる。
「それがいいって言うのか。そんなやり方でいいのかよ」
マリークはすぐ答えない。少しして。
「良いかどうかじゃない。止まるか、続くかだ」
ナーヒルが足を止める。
「……続く?」
マリークが間を置いて言う。
「続く。誰も悪くならない形で進むからな。止めるきっかけがない」
ナーヒルが俺を見る。
「……お前は、それでいいのか?」
俺は答えない。マリークが続ける。
「呼び方が変わった時点で、見方は決まる。最初は距離を取る。次に関わらない。その次は、視界に入れなくなる」
ナーヒルが低く。
「……消えるってことか」
マリークが小さくうなずく。
「気づかれないまま、な」
沈黙。サジークが拳を握る。何も言わない。アミーヌは視線を落とす。
ナーヒルが吐き捨てる。
「考えすぎだろ。こんなの、すぐ終わる」
マリークが俺を見る。
「終わらない。もう、人として見られてない。どう扱うかで見られてる。人としてじゃない」
俺は何も言わない。ナーヒルが背を向ける。
「……くだらない」
そのまま歩き出す。マリークが最後に落とす。
「最初から、人として数えてない」
俺は聞いている。それで十分だった。




