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第50話:呼び方が先に、歩く

その夜、言葉は、増えなかった。何かが、決まったわけでもない。ただ、残る人が、増えただけだ。


朝になっても、街は、何も、覚えていない。同じ音。同じ流れ。


俺は、何も、決めていない。ただ、疲れだけが、先に、沈んでいた。


子どもが、座っている。地面は、冷たい。周りに、大人はいない。呼ぶ声も、ない。


ラヒーマが、近づく。音は、ほとんど、立たない。子どもは、見上げない。泣いても、いない。泣いていないのは、強いからじゃない泣くほどの余裕が、もう、残っていない。


ラヒーマは、腰を下ろす。近づきすぎない。しばらく、何も、起きない。それから、手を、伸ばす。


触れる。冷たい。子どもは、逃げない。握り返しもしない。ただ、拒まない。


ラヒーマは、力を、入れない。引き寄せもしない。ただ、包む。体温を、置くだけだ。


言葉は、ない。しばらくして、わずかに、冷たさが、変わる。それだけだ。


未来は、ない。約束も、ない。ただ、この瞬間だけ、一人じゃない、という形だけが、残る。


短い、間だ。


場面が、動く。朝と昼の、間。人の流れが、薄くなる時間。水の音。布が、沈む。


赤が、にじむ。一度では、落ちない。


ラヒーマの手だけが、動く。引き上げる。絞る。赤が、滴る。また、沈める。


血は、残る。布の奥に、しがみつく。水が、濁る。


これは、拭いたあとの布だ。名前のない体を、拭いたあと。誰だったのか。知らない。


ラヒーマは、拭く。肩。腕。胸。首。理由は、探さない。ただ、形を、戻す。人だった形に。それだけだ。


体は、運ばれる。名は、残らない。数に、変わる。


だが、この一瞬だけ。誰にも呼ばれなかった体が、人として、触れられた。それだけだ。


水の音が、止む。


夜。


同じ宿。灯りは、低い。ラヒーマは、座っている。手は、膝の上。俺は、向かいにいる。


湯の音だけが、ある。言葉は、ない。以前は、あった。今は、ない。


聞けば、分かる。だから、聞かない。


湯気が、消える。灯りを、落とす。


支え合っている。そう、思っていた。だが、違う。


ラヒーマは、触れている。俺は、見ている。向いている先が、違う。


同じ部屋。同じ夜。だが、同じ方向を、見ていない。


沈黙は、橋に、ならなかった。ただ、二つに分かれたまま、そこに、置かれていた。


夜は、過ぎる。何も、決まらないまま。


朝。


アミーヌが、帳面を、机に置く。厚い。角が、すり切れている。静かに、開く。


俺は、上から、見る。並んでいる。場所。時間。年ごろ。


俺が、帳面を見たまま、低く言う。

「……これは、何だ。どこから持ってきた」


アミーヌが、頁を押さえながら、答える。

「市の掃き集めの記録です。運ばれた分だけ、残してます」


俺は、指で、文字をなぞる。一つずつ、追う。俺が、少し読み上げる。

「橋で、夜明け前……若いやつ。倉の裏、人が変わる前……三十くらいか。路地、深夜……年ごろ、分からない」

一拍。俺が、顔を上げずに言う。

「……並びが、崩れないな。全部、同じ形で並んでる」


アミーヌが、短くうなずく。

「崩れません。どれも同じ書き方で、揃えます」


俺は、もう一枚、めくる。紙の音だけが、鳴る。俺が、少し間を置いて言う。

「これ……人の数か。何人、運ばれたかってことだな」


アミーヌが、目を逸らさずに答える。

「はい。集めて運んだ数です」


俺は、動きを止める。頁の上で、指が止まる。俺が、少し低く言う。

「……ラヒーマが、やったことは、ここには、入らないのか?」


アミーヌが、間を置かずに答える。

「入りません。ここには書きません」


俺が、視線を落としたまま続ける。

「体を洗ったことも。血を落としたことも」


アミーヌが、同じ調子で言う。

「入りません。そこは、ここでは数えません」


俺が、少しだけ顔を上げる。

「触れたことも。手を置いたことも」


アミーヌが、わずかに息を置く。

「入りません。そういうことは、ここには残しません」


俺が、さらに言う。

「子どもに、手を伸ばしたことも。そばに残ったことも」


アミーヌが、少しだけ言葉を選ぶ。

「……それは、運ぶ仕事ではないので、ここには、入れません」


俺は、帳面を見る。しばらく、何も言わない。それから、ゆっくり口を開く。

「……じゃあ、ここに書いてあるのは、死んだ数だけか」


アミーヌが、静かにうなずく。

「そうです。運ばれた数だけが、残ります」


俺が、続ける。

「どう扱われたかは。どう触れられたかは」


アミーヌが、はっきり言う。

「書きません。そこは残しません」


俺が、少しだけ眉を動かす。

「誰が、そこにいたかも。何をしたかも」


アミーヌが、同じ調子で返す。

「残りません。そこは、見ないことになってます」


一拍。俺が、短く言う。

「……残るのは、回すのに必要なものだけか」


アミーヌが、まっすぐ見て言う。

「はい。流れを止めないために、いるものだけです」


俺は、頁を閉じかけて、止める。指が、紙の上で止まる。

「正しかったかは、関係ないな。そこは、見てない」


アミーヌが、すぐに答える。

「関係ありません。そこは、この帳面では扱いません」


俺が、続ける。

「誰かが残ったかも。止まろうとしたかも」


アミーヌが、わずかに首を振る。

「関係ありません。そこは、ここでは消えます」


短い沈黙。俺が、ゆっくり言う。

「……じゃあ、ここにないものは」


アミーヌが、重ねるように言う。

「起きていないのと、同じです。ここでは、そう扱われます」


俺は、動かない。帳面を、見たまま。

「……嘘は、ないな。書いてあることは、全部本当だ」


アミーヌが、迷わず答える。

「はい。間違いは、ありません」


俺が、続ける。

「でも。抜けてる。一番大事なところが」


アミーヌは、否定しない。沈黙。俺は、帳面を閉じる。音は、ほとんど、しない。

「……ラヒーマのやったことは、ここでは、起きてないことになるな」


アミーヌが、わずかに目を伏せる。

「はい。ここでは、そうなります」


俺が、息を吐く。

「数に入らないものは、なかったことになる」


一拍。アミーヌが、静かに言う。

「この街では、そう扱われます」


沈黙。俺は、帳面に手を置いたまま言う。

「……だから、同じ場所で、同じことが起きるのか」


アミーヌが、少しだけ目を細める。

「残るのは、最後だけです。途中は、どこにも残りません」


俺が、続ける。

「触れたことも。止めようとしたことも」


アミーヌが、うなずく。

「残りません。全部、流れて消えます」


一拍。俺が、短く言う。

「……それじゃ、止まらないな」


アミーヌは、答えない。帳面は、閉じられている。そのまま、何も、書き足されない。


夜。


宿は、静かだが、眠ってはいない。戸口の近く。低い声が、重なる。

「最近さ、見た?」

「何を?」

一拍。

「ほら、あの……よく立ってる人」

「通りの端にいるやつ?」

「ああ、それ。ずっと同じ場所にいるよな。動かないで、人に何か話してるやつ。時間変えても、だいたい同じとこにいる」

「そうそう。朝もいたし、夜も見た」

「なんか、ずっと同じことやってる感じだよな」


一人が、少しだけ声を落とす。

「……ああいうの、近づかない方がいいって聞いたぞ。あんまり関わると、面倒になるって」

「誰に?」

「店の人。向かいのとこも、同じこと言ってた。裏の通りでも聞いた」

「へえ」

「そんなに広まってるのか」

「理由は?」

「分かんない。でも、関わらない方がいいって。近づくと、話しかけられるらしい」

「話しかけられるだけだろ?」

「それがな、長いらしいぞ。離れないっていうか」

「……ああ、それはちょっと嫌だな」

「だろ?急いでるときとか、引っかかると困るし」


短い沈黙。

「……まあ、そういうの、あるよな。理由なくても、避けといた方がいいやつ。変に関わると、後で面倒になるし。何か起きてからじゃ、遅い」

「最近、よく見るよな。前は、あんなのいなかった気がする」

「増えたっていうか、目につくようになっただけかもな」

「でもまあ、関わらなきゃ、何も起きないだろ」

「だな。わざわざ近づく理由もないし」


一拍。

「見かけても、放っとけばいいってことだろ」

「そうそう。気にしなきゃ、向こうからも来ないって」


それで、終わる。話題は、すぐ変わる。さっきまでの言葉は、その場に残らない。そのまま、次の用事に流れていく。

「明日、早いんだよな。まだ暗いうちに出ないと間に合わない」

「湯、もう少し残ってるか?朝使う分、足りるかどうか分からなくてさ」

「さっき足したけど、朝まで持つかは微妙だな。冷えるし、減りも早い」


一拍。

「じゃあ、少し残しとくか。全部使うと、朝きついぞ」

「そうだな。起きたとき、冷えてると動けないしな」

「この時期は特にだな。朝の一杯ないと、体が起きない」


声は、もう戻っている。何もなかったみたいに。灯りが、落ちる。宿は、静かに閉じる。そして、外。人の声が、少し薄くなる。歩きながら。


先に、マリークが口を開く。

「……今の、もう始まってる。名前が先に決まる段階だ。まだ軽いけど、形はもうできてる」


ナーヒルが、すぐに返す。

「大げさだろ。ただ笑ってただけじゃないか。冗談みたいなもんだ。悪意もなかったし、誰も本気で言ってる感じじゃなかった」


マリークは、首を振る。

「だからだ。最初はいつも軽い。誰も責任を持たなくていい形で置かれる。誰の言葉でもないまま、みんなが同じ言い方を使い始める」


ナーヒルが、少し強く言う。

「でも、名前呼ばれただけだろ。殴られたわけでもないし、追い出されたわけでもない。何も起きてないのと同じじゃないか」


マリークは、歩みを変えない。

「起きてる。ただ、揉めてないだけだ。誰も声を上げてないから、形になってないだけで、気づいたときには、もう戻らない位置まで進んでる」


ナーヒルが、息を吐く。

「言葉の話だろ。だったら無視すればいい。聞かなきゃ、広がらない」


マリークが、横目で見る。

「無視されてるのは本人じゃない。呼び方のほうだ。一度同じ呼び方が揃うと、それだけが残る」

一拍。

「その言葉が、本人より先に歩き出す。会ったことがなくても、その名前で扱われる。もう、中身を見なくてもいい」


ナーヒルが、少し苛立つ。

「じゃあ何だ。止められないって言うのか。そんな簡単に広がるもんかよ」


マリークは、間を取る。

「正直に言うと、止め方は分からない。でも、この先どうなるかは見える。ここから先は、早い」


ナーヒルが、歩みを少し早める。

「考えすぎだ。街はそんなに暇じゃない。すぐ別の話に変わる。誰もそこまで覚えてないだろ」


マリークは、静かに返す。

「本当に忘れられるなら、呼び名は残らない。でも、さっきから同じ言い方が続いてる。場所が変わっても、同じ形で出てくる」

一拍。

「それは、もう使われ始めてるってことだ」


沈黙。ナーヒルが、少し振り返る。

「……お前は、どう思ってる?」


俺は、答えない。歩き続ける。マリークが、静かに続ける。

「名前っていうのは、ただ呼ぶためのものじゃない。一度付くと、それでまとめて見られるようになる」


ナーヒルが、眉を寄せる。

「まとめて、って何だよ」


マリークが、淡々と。

「一人ずつ見る必要がなくなるってことだ。説明しなくていい。確かめなくていい。その名前で、全部分かったことにできる」

一拍。

「考えなくて済むものは、扱いやすい。扱いやすいものは、手間がかからない。手間がかからないものは、そのまま流される」

声は低いまま。

「流れに乗ったものは、止められない。それが、この街で一番楽で、一番安い」


ナーヒルは、言葉を失う。俺は、前を見る。名前は、もう、俺の後ろを歩いている。俺より先に、街に届いている。

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