第49話:残骸のそばで
夜明け前。空は、まだ色を持たない。
合図の声が、短く割れる。
俺は、走る。息が追いつかない。足が地面を叩く。角を曲がる。
もう、終わっている。下に、体がある。仰向け。動かない。
人は、集まらない。代わりに、台車が来る。早い。昨夜より、早い。
作業者は、止まらない。場所を見る。高さを見る。それだけだ。
布が広がる。体が包まれる。首の角度が、直される。落ちた形が、消える。
台車が動く。道が空く。人は、通る。ここでは、間に合うことが、先に消える。
空が、わずかに薄くなる。まだ、朝と夜の境目だ。
橋の下。火は、低い。小さく揺れている。冷えが、残っている。
男が、先に口を開く。
「昨日はさ」
一拍。
「正直、少し楽だった。久しぶりに、途中で目、覚まさずに寝れた」
俺は、何も足さない。
「起きたときも、胸が、いつもみたいに重くなかった。息吸うのに、理由、探さなくてよかった」
一拍。
「良くなったってわけじゃない。ただ、昨日は、落ちずに済んだだけだ」
俺は、うなずく。
「……そうか」
男は、地面を見たまま。
「前はさ、目開けた瞬間に決まってた。今日、無理だって。起きる前から、終わってた」
小さく息を吐く。
「でも今日は、起きてから、靴履くまで、そこまで行かなかった」
俺は、短く。
「……よかったな」
男は、少し笑う。すぐ消える。
「安心したわけじゃない。仕事も、通る道も、やることも、何も変わってない」
一拍。
「ただ、昨日よりは、すぐ崩れそうじゃなかった」
俺は、うなずく。
「……ああ」
男は、こちらを見ない。
「だからさ、今日は、ここで止めとく。生きるかどうか、無理に決めない」
「帰って、飯食って、寝る。それだけでいい」
一拍。
「元気なふりは、もう、したくない」
俺は、聞いている。男が、続ける。
「もしまた、朝が重くなったら、声、かけるかもしれない。そのときは——」
少しだけ言葉を切る。
「また、ここに来る」
俺は、短く返す。
「……ああ」
それだけだ。火が、揺れる。影が、壁を離れる。夜が、少しずつ薄れる。その夜、何も起きない。
翌日。
別の通り。昼の、終わり。人は、歩いている。声も、ある。昨日と、変わらない。
道の端で、人が、倒れている。仰向け。体は、伸びている。顔が、見える。昨夜、橋の下で、話していた男だ。
空を、向いている。目は、閉じられていない。胸は、動かない。血が、まだ、流れている。乾ききっていない。夜のうちに、落ちた。それだけで、分かる。
人は、立ち止まらない。覗き込まない。
少しして、台車が、来る。低い。幅が、ある。布が、広げられる。手際は、早い。
男の体が、そのまま、乗せられる。仰向けのまま。布が、かかる。顔が、消える。
声も、上がらない。台車は、角を、曲がっていく。
橋の下には、もう、誰も、いない。昨夜、言葉を交わした場所だ。だが、何も、残っていない。
通じたことと、残ることは、同じじゃない。
空が、少しだけ、白む。夜と朝の、境目だ。
俺は、立ち止まらない。そのまま、歩く。
朝は、もう、動いている。声も、足も、戻っている。
さっきのことは、残らない。残るのは、数だけだ。
アミーヌが、腰を下ろす。紙を、広げる。縦に、三本。場所。時間。年。
ペンが、動く。
俺は、横に立つ。
「……また、橋か」
アミーヌは、顔を上げない。
「はい。今月で三度目です。間が、だんだん短くなってます。前より、早いです」
俺は、短く息を吐く。
「……続いてるな」
「はい。ただ増えてるだけじゃないです。同じ並びで、重なってきてます」
ペンが、止まらない。
「時間は、夜明け前です。この時間に、寄ってます。人が少なくて、誰にも触られない時間です」
「……また、そこか」
「はい。見つからない時間を、選んでます。そのせいで、同じところに集まってます」
ペンが、走る。
「年は、二十七です。前の二人も近いです。二十代で、揃ってます」
俺は、少しだけ考える。
「……若いな」
「はい。理由は書きませんけど、偏りは出てます。揃いすぎてますね」
紙の上に、同じ並びが、増える。場所。時間。年。名前は、ない。理由も、ない。俺は、紙を見る。揃っている。
アミーヌが、ペンを止める。
「偶然には見えません。まだ言い切れませんけど、同じ並びで起きてます」
紙を、畳む。
「数えても、止まりません。でも、形は見えてきます」
胸に、しまう。
「次も、同じ形で来ます」
俺は、何も言わない。朝は、進む。
そして、また、朝だ。
道の先に、台車が見える。低い。布が、かかっている。分かる。俺は、止まる。走らない。横に、
アミーヌが来る。距離は、詰めない。
「……来てますね。時間も同じです。昨日と、ずれてません」
俺は、うなずく。
「……ああ」
台車が、揺れる。
「場所は、北側です。二度目と重なってます。同じあたりに、固まってきてます」
俺は、目を離さない。
「……年は」
「三十前後です。少し上ですけど、大きくは外れてません。同じあたりに、います」
まただ。台車が、近づく。アミーヌが、続ける。
「前は、見えた時点で走ってました。止めれば変わると思ってました。間に合う前提で、動いてました」
一拍。
「でも、違います。見えた時点で、もう終わってます。ここは、途中で止める場所じゃないです」
台車が、横を通る。
「今日は、行きません。行っても、結果は変わりません。外からじゃ、触れません」
俺は、動かない。台車が、角を曲がる。見えなくなる。アミーヌが、低く言う。
「……ここでは、止まりません。止める仕組みが、ないです。だから、同じことが、繰り返されます」
俺は、返さない。朝は、進む。人は、動く。俺は、立っている。もう、走らない。だが、終わっていない。
終わらないまま、朝は、次へ進む。
そして、また、同じ光だ。台車が、来る。低い。布が、かかっている。人は、流れる。避けるだけだ。足は、止まらない。俺は、少し離れて、立つ。近づかない。声も、出さない。作業者が、布を押さえる。迷いは、ない。
「次、行ける」
「了解」
その途中で、靴音が、強く鳴る。一人が、流れから外れる。前に出る。背が高い。肩が、先に出る。感情が、身体に出ている。
怒っている男が、前を睨んだまま、低く。
「……おい」
作業者が、目だけ向ける。返さない。怒っている男が、一歩踏み出しながら。
「それで、終わりか?それで、そのまま運んで、何もなかったみたいに戻るのか?」
さらに、一歩踏み出す。
「人だろ。さっきまで歩いてたんだぞ。こんな扱いで、いいわけないだろ」
声が、荒れる。
「ちょっと——」
横から、腕をつかむ手。強くはない。だが、止まる。静かな男が、視線を前に向けたまま。
「待て」
怒っている男が、振り向く。
「……何だよ」
静かな男が、動かずに。
「今、出ても、何も変わらない。むしろ、巻き込まれる」
怒っている男が、顎で前を示す。
「……何が、変わらないって」
静かな男が、ゆっくりと周りを見て。
「誰も、止まってない。一人で止めても、流れは止まらない。ここは、そういう場所だ」
一拍。怒っている男が、視線を戻す。
「だからだろ。だから、おかしいんだろ」
視線が、台車に戻る。
「こんなの、見て見ぬふりして、通っていいのかよ。全員、分かってて、やってるだろ」
静かな男が、声を上げずに。
「間違ってるのは、分かってる。でも、今、手を出すと、余計に崩れる」
一拍。怒っている男が、眉を寄せる。
「崩れるって、何がだよ」
静かな男が、短く。
「お前だ。あと、周りもだ。ここは、一人で変えられる形じゃない」
怒っている男が、息を押し出す。
「……じゃあ、何もしないのかよ」
静かな男が、間を置かず。
「してる」
短く。
「見てる。崩れ方を、見てる。同じ形で続いてるか、確かめてる」
一拍。怒っている男が、声を落とす。
「こんなのを、許すのか?」
静かな男が、目を逸らさず。
「許してない」
さらに一拍。
「ただ、分かろうとしてるだけだ。どこで止められるか、探してる」
二人の視線が、同時に流れる。俺だ。俺は、いつも通り、立っている。少し離れて。何もしない。
怒っている男が、顎で俺を示す。
「……あいつ」
一拍。
「何者だ」
静かな男が、俺をじっと見る。長く。測るみたいに。
「分からない」
それから、続ける。
「でも、見て見ぬふりは、してない。ずっと見てる」
怒っている男が、食い下がる。
「見てるだけだろ」
静かな男が、視線を外さずに。
「それでも、終わったあとも、一人だけ残ってる。流れに戻らない」
さらに一拍。
「普通じゃない」
台車が、動く。布は、揺れない。人は、また、歩き出す。流れは、戻る。
俺は、そこに、立ったままだ。見ているだけだ。だが、見られていることに、気づく。視線が、残る。すぐには、消えない。背中に、薄く残る。
時間だけが、先に進んでいく。
処理が終わったあと。路地に、湿った匂いが、残る。倉の壁に、影が、貼りつく。人の流れは、もう、遠い。俺が、背を向けようとしたとき、足音が、速く近づく。
怒っている男が、間合いを詰めながら。
「……あんた。さっきの、見てただろ。どうして、止めない?」
さらに一歩、踏み込む。
「声、出せただろ。体、張れたはずだろ。見てるだけで、平気なのかよ」
息が荒い。俺は、立ち止まる。逃げない。近づきもしない。怒っている男が、言葉を押し出す。
「人が、ああやって運ばれて、それで、何も言わないのか。それで、終わりでいいのか?」
俺は、短く返す。
「止めようとしても、止まらない」
それだけだ。怒っている男が、固まる。
「……は?」
一歩、前に出る。
「止まらない、って何だよ。だから放っとくのか。だから何もしないのか?」
俺は、言い足さない。そのとき、静かな男が、横に並ぶ。怒りの熱から、一歩外れた位置。視線を外さず、低く。
「……今の、止めても止まらない、って、個人の話じゃない、って意味か」
俺は、何も言わない。否定もしない。怒っている男が、舌打ちする。
「意味、分かって言ってるのか。分かってないなら、言い直せ」
俺は、同じように。
「止めても、無理だ」
繰り返さない。怒っている男が、言葉を失う。
「……ふざけるな」
一歩、引く。
「こんな街、壊れてるんだ。だから、止めるしかないだろ。誰かがやらないと、ずっと続く」
俺は、見ている。何も足さない。静かな男が、俺を見る。目を離さない。
「止まらない、って、仕組みの話か。流れそのものの話か」
一拍。
「つまり、誰かが強く出るとか。声を荒げるとか。そういう段階じゃない」
視線が、人の流れをなぞる。
「最初から、こういう形で、回り続けてる」
俺は、答えない。目も逸らさない。それで、十分だった。静かな男が、小さく息を落とす。
「……なるほど」
怒っている男が、振り向く。
「何が、なるほどだ」
静かな男が、短く。
「教えない人だ。正しいとも、間違ってるとも言わない。でも、見てる」
怒っている男が、鼻で笑う。
「逃げてるだけだ」
静かな男が、首を振る。
「違う。逃げてたら、ここに残らない。終わったあとも、動かずに見てる」
二人の視線が、重なる。俺だ。俺は、立っている。少し離れて。何もしない。
言葉は、続かない。匂いが、少しずつ薄れる。人の流れが、戻る。
二つの足音が、離れていく。一つは、早い。踵が強く、地面を打つ。振り返らない。怒りを、抱えたまま。
もう一つは、途中で止まる。風が、路地を抜ける。残った足音が、一つになる。
俺は、動かない。その場に、立ったままだ。
もう一人は、去らない。少し間を置いて、声が落ちる。
静かな男が、視線を外したまま。
「……少し、話してもいいか?」
俺は、うなずく。静かな男が、ゆっくり続ける。
「さっきの、“止まらない”って言い方。止める気がない、って意味じゃないよな。でも、止められるとも思ってない」
俺は、答えない。視線が、通りの先へ流れる。
「この街、一応は回ってる。仕事も回るし、人も流れてる。止まってるわけじゃない」
一拍。
「それでも、人は落ちる。しかも、同じ場所で、同じ時間に」
俺は、否定しない。静かな男が、少しだけ声を落とす。
「理由って、どこにあると思う?」
風だけが通る。俺は、短く置く。
「……意味を、失ってる」
それだけだ。静かな男が、その言葉をなぞる。
「意味を、失ってる、か……」
一拍。
「分からないわけじゃない。でも、答えを持ってるわけでもない。どっちにも振り切れない感じだ」
息を整える。
「怒って壊せば、止まるかもしれない。仕組みを変えれば、少しはマシになるかもしれない」
一拍。
「でも、どっちも確信がない。やったところで、同じ形で戻る気がする」
視線が、俺に戻る。
「お前さ」
一拍。
「ここから出る方法、持ってないだろ。誰かを確実に救えるとも言わないし。この街を変えられるとも言わない」
一拍。
「だから、嘘を言わない」
俺は、否定しない。
「……そうか」
静かな男が、小さくうなずく。
「それで、残ってるんだな。分かったふりもしないし、投げもしない。ただ、見てる」
視線が、さっきまで布があった場所に落ちる。
「みんな、去るか。叫ぶか、どっちかだ。お前は、残る」
俺は、何も言わない。それで、十分だった。静かな男が、深く息を吐く。
「……分かった。今日は、これでいい」
彼は、去らない。だが、もう問わない。言葉は、終わっている。残ったのは、答えじゃない。向きだけが、揃った理解だった。外に出ると、空気が少し変わる。人の数が減る。声が遠のく。昼の流れが、ほどけていく。時間だけが、進む。
夜。
宿は、もう、落ち着いている。灯りは、低い。話し声は、遠い。戸が、軽く鳴る。叩くほどでもない、合図だけの音だ。
「……遅くに、すまない」
俺は、立ち上がらない。灯りのそばで、言う。
「……開いてる」
戸が、静かに開く。二人、入ってくる。昼間と、同じ顔。同じ体。ただ、今は、怒りを、外に出していない。抑え込んで、持ってきている。
俺が、先に聞く。
「……お前らの、名前は」
怒りを抱えたほうが、先に答える。
「……ナーヒルだ。昼みたいに、騒ぐつもりはない」
静かなほうが、続ける。
「マリークだ。さっきの続きが、頭から離れなくて」
俺は、うなずく。
「……話は?」
ナーヒルが、口を開く。
「ここに来たのは、話を聞きに来たわけじゃない。教えも、理屈も、要らない」
灯りの下で、拳がわずかに握られる。
「ただ、この街は、間違ってる。見てて分かるだろ」
一拍。
「人が、こんなふうに消えていくのは、正しいわけがない。だから、正すべきだ。誰かが、止めなきゃいけない」
マリークが、静かに口を挟む。
「……止める、というより、どこを、どう触ればいいのか。そこが分からない。分からないまま動くと、余計に壊れる気がする」
ナーヒルが、振り向く。
「分からないからって、放っとくのか。それで何も変わらないだろ」
マリークは、揺れない。
「放ってない。だから、ここに来た」
二人の視線が、俺に向く。俺は、答えない。マリークが、続ける。
「街は、一応回ってる。壊れてるように見えても、機能してる。それが、厄介なんだ。止まってないから、崩れてるのが見えにくい」
ナーヒルが、低く息を吐く。
「だからこそ、叩くんだ。壊すしかない。どっかで一回、止めないと」
マリークが、静かに返す。
「壊したら、一番弱いところが、先に割れる。もう、それは見てきた。そのあと、残るのは、もっと悪い形になる」
沈黙が落ちる。俺は、何も言わない。ナーヒルが、俺を見る。
「……あんたは、どう思ってる?」
さらに一歩、踏み込む。
「この街を、どうすればいい」
俺は、首を振らない。うなずきもしない。
「……人に、大事なものを、思い出させるしかない」
ナーヒルの顔に、怒りが出る。
「それだけか。それで何が変わる。そんなので止まると思ってるのか?」
俺は、返さない。マリークが、息を整える。
「この仕組みは、変わらないかもしれない。でも、お前は、残ってる」
灯りが、わずかに揺れる。
「壊れたあとに、怒鳴らない。理屈も、持ち出さない。それでも、いなくならない。それは、この街では、珍しい」
俺は、黙っている。マリークが、続ける。
「正しさを教えてほしいわけじゃない。誰かをどうやって救うか、それを知りたいわけでもない」
少し間。
「ただ、ここで、何が起きてるのか。それを、一緒に見てるやつが、必要だった」
ナーヒルが、視線を落とす。
「……俺は、我慢ができない」
声は、低い。
「見たら、動く。止めたくなる。壊したくなる。それでも、何もしないよりは、マシだと思ってるんだ」
マリークが、続ける。
「俺は、考えてしまう。考えてるうちに、時間が過ぎる」
通りの先を見る。
「このままだと、人は、もっと落ちる。それが分かってて、何もしないのも、違うと思ってる」
沈黙。灯りが、かすかに鳴る。外で、足音が遠ざかる。最後に、マリークが言う。
「お前は、もう、気づいてる。だから、一緒に見てほしい。手を組むとかじゃない。隣に立ってほしい」
それだけだ。俺は、短く返す。
「……ああ」
二人は、しばらく立っている。教えは、求められていない。答えも、出ていない。それでも、理由だけは、はっきりしていた。だから、彼らは来た。そして、来なくなる理由は、まだなかった。




