第48話:生きるわけが、切れる
歩いているうちに、通路が途切れる。
橋だ。
地区と地区をつなぐはずだった場所。下は、空いている。声が、遠くで返る。作業は止まったまま。それでも、人は通る。止まらない。一人、立っている。端でもない。真ん中でもない。そのまま落ちるには、十分な位置。動いていない。人が、横を通る。誰も見ない。
俺は、少しだけ歩幅を落とす。
「……ここ、止まる場所じゃない」
男は、すぐには返さない。風が抜ける。
「そうだな。でも、今はここにいる」
俺は、その距離で止まる。
「……降りるつもりか?」
男は、少しだけ息を吐く。
「決めてるわけじゃない。ただ、ここにいるだけだ。歩いてたら、ここに来て、そのまま止まった」
橋の下で音が混ざる。足音。荷の音。人は、まだ通る。男が、先に口を開く。
「生きる意味ってさ」
間。
「……あるのかなって思うんだよ。あるなら、どこにあるんだって」
少し笑う。乾いた音。
「考え始めると、余計に苦しくなるんだよな。止まる。手が動かなくなる。全部、意味ない気がしてくる」
肩が、わずかに動く。
「で、無理に動かすだろ。でも、頭の中だけ残る。ここに残る理由もさ」
間。
「もう、見つからないんだよ。やることはあるけど、理由がない」
俺は、短く。
「……一人か」
男は、下を見たまま。
「昼は違う。人もいるし、話もある。でも夜になるとさ。全部終わって、残るだろ」
少し間。
「そのあとが、長い。一人でいる時間が、余る」
男が、声を落とす。
「なあ。俺がここで消えてもさ。誰も困らないよな。誰にも迷惑かけないだろ」
少し笑う。
「代わり、すぐ入るし。一人減っても、回るだろ」
俺は、否定しない。言い返さない。風。足音。橋の下に目をやりながら、俺は、静かに言う。
「……ここ、寒いな。話す場所じゃない。下、行くか」
理由は言わない。人が、また横を通る。誰も止まらない。
男は、すぐには動かない。それでも、足が、少しだけ向きを変える。
俺は、先に行かない。横に立つ。まだ、何も変えていない。ただ、ここを離れる。
足が、下に着く。高さが消える。風が、背中から離れる。音が、近くに戻る。
誰も、何も言わない。ただ、外にいない場所へ、入る。
夜の宿は、低い。天井が近い。灯りが壁に寄っている。
戸をくぐる。外の音が、一段落ちる。
ラヒーマが、先に動く。目を合わせない。敷き物を一枚、静かに広げる。端を整える。
「ここ、使って。冷えるから、端じゃなくて中の方がいい」
サジークが、桶を置く。音を立てない。
「……湯、ある。冷めきってはない。今なら、まだ使える」
男は、少し間を置く。
「……ありがとう。こういうの、久しぶりだ」
アミーヌは、少し離れて立つ。近づかない。視線だけが動く。湯気が、少し上がる。灯りが、揺れる。誰も、座れとは言わない。誰も、明日の話をしない。ただ、今、外じゃないだけだ。戸が閉まる。外の音が薄くなる。しばらく、何も起きない。
男の肩が、わずかに落ちる。
「誰にも——」
一拍。
「迷惑は、かけていない。少なくとも、そう思ってる」
声は、荒れない。
「でも……」
言葉が続かない。
「俺は、何者でもない。ただ、合わせてるだけだ。ここに残るために、自分を削ってる」
男は、自分の手を見る。
「こうやって、使えるようにしてるだけだ。言われた通りに動いて、余計なことは切る。削らないと、はじかれる。残るには、それしかない」
しばらくして、呼吸が変わる。
「自分の生きてる理由を——」
一拍。
「毎日、変えなきゃいけない。昨日のままじゃ、使えねえから」
喉が鳴る。
「それが、もうできない。誰も、俺が、何者でいればいいかを、教えてくれない。ちゃんと、形のある自分が、どれなのか。分からなくなってきた」
涙は、遅れて来る。サジークが、短く。
「……朝になったら、少しは、違う見え方になる。今は、夜だ。今考えても、同じとこ回るだけだ」
俺が、口を開く。
「人生は……」
一度、切る。
「簡単じゃない。思った通りには、いかない。苦しい時もある。逃げたくなる時もある」
間。
「人は——」
「最初から、整ってない。だから、崩れるし、迷う。でも、だから、動ける。変えられる」
男が、返す。
「でもさ、こんなに辛いなら、そこまでして、続ける意味あるのか?無理に残る価値、あるのか?」
俺は、すぐに答えない。
「人生の意味は、探すもんじゃない」
さらに一拍。
「……思い出すもんだ。元から持ってるものだ」
男、灯りを見たまま。
「そんな簡単に思い出せるなら、とっくにやってる。思い出せないから、ここにいるんだろ」
俺、少しだけ視線を落として。
「毎日、回してると、考える余裕が消える。手を動かしてる間は、他のものが、見えなくなる。見えなくなったまま、そのまま、次の日に行く」
男が、手を握る。
「俺は——」
「手を回すことしか知らない。止めたら、何も残らない。役に立たなかったら、ただの外れだ」
一拍。
「……死んでも、代わりはいるしな。俺じゃなくても回る」
俺、相手から目を逸らさずに。
「仕事で、自分の価値を決めてるなら、そう感じるのは、普通だ。ここにいれば、そうなる」
男が、顔を上げる。
「じゃあ、どうすればいい?俺の価値、どこにある?」
一拍。
「お前は、何で生きてる?」
俺は、短く、答える。
「源だ」
間。
「天と地を、生み出した、源から。来ている」
一拍。
「薬は、もう自分の中にある。それを、確かめるのは、お前次第だ」
間。
「偶然で、ここに置かれてるわけじゃない。意味を知りたいなら——」
わずかに視線を落とす。
「お前を、ここに立たせてる源に、戻ればいい」
一拍。
「それを、思い出すために、俺は、生きている」
そこで、言葉を切る。まとめない。導かない。男が、ゆっくり、息を吐く。
「……そっか」
一拍。
「思い出す、か」
自分の掌を、もう一度、見る。道具じゃない、と言われたわけでもないのに。
「俺は、多分忙しすぎて、思い出してないだけ、なのかもな」
外は、まだ、夜だ。朝は、遠い。
灯りが、揺れる。息が、重なる。誰も、何も、言わない。沈黙が、残る。
やがて、動きだけが残る。足音を殺す。戸を閉める。夜が、部屋の外に退く。
部屋は暗い。灯りは外から、少しだけ漏れている。壁の向こうで、誰かが歩く。その音も、ここまでは届かない。
男は、横になっている。目は閉じている。息が続く。途切れない。乱れない。胸が、ゆっくり上下する。
眠りだ。少なくとも、今は。
ラヒーマが近づく。足音を殺して。掛け物を、少し引き上げる。首元を整える。触れない。包むだけだ。
それだけで、部屋の温度が、少し落ち着く。男の肩が落ちている。昼間の硬さがない。力が抜けている。
アミーヌが、それに気づく。視線だけで確かめる。何も言わない。肩のかたさが消えている。呼吸と同じ速さになっている。数える必要が、なくなる。
部屋は静かだ。夜が、ここで一度止まっている。
俺は、戸口に立っている。中には入らない。境目にいる。見ているだけだ。
眠りは無防備だ。だが、無事とは限らない。それでも、息が続いている。今は、この人は、ここにいる。外に出ていない。落ちてもいない。
その様子を見て、胸の奥で、言葉が浮かぶ。まだ、間に合う。今なら。
この夜を越えられたなら。朝が来れば。体が動けば。名前を呼ばれれば。
そうやって、何度も信じてきた。眠りを、越えればいいと。朝まで、持てばいいと。それで、守れたと、思ってしまうことを。
それでも、今は、否定しない。眠っている。息が続いている。それだけで、十分だと、思ってしまう。
戸口に立ったまま、俺は動かない。期待を置く。希望も置く。それが正しいかどうかは、まだ、分からない。
夜は、何も答えない。灯りが消える。音が、薄れる。
そして、朝の光が、低く入ってくる。早すぎない。遅すぎもしない。いつもの朝だ。
俺は、目を開ける。体を起こす。宿は、もう動いている。足音。器の音。湯の匂い。
外は、平らだ。昨日と、変わらない。
俺は、あの部屋へ行く。昨夜、あの男が眠っていた部屋だ。
歩きは、急がない。理由はない。まだ、何も起きていない。
戸を開ける。中は、静かだ。静かすぎる。人は、いない。
あの男が、いない。
一拍。敷き物は、乱れていない。端も、整っている。昨夜のままだ。
手を伸ばす。触れる。少し、温かい。
胸が、一度、詰まる。
いや。まだ、だ。温もりは、残る。完全には、冷えていない。
「……いない」
声は低い。確認みたいに、落ちる。
俺は、考える。早朝に出たのか。誰にも見られずに。ただ、外に出ただけか。
外を見る。誰も走っていない。声も、上がっていない。宿は、いつも通りだ。戸は閉まっている。壊れていない。乱れてもいない。
視線が、下に落ちる。靴がない。揃っていない。忘れ物もない。桶も、元の位置だ。掛け物も、崩れていない。
選んで、出ていった。急かされても、いない。
俺は、さらに考える。戻るつもりで、出たのか。戻らないと決めて、出たのか。それとも、考えないように、出ただけか。
朝は、いつも通りだ。人は起きる。働く。声を出す。誰も困っていない。誰も探していない。何も起きていない。何も。
俺は、しばらく立ったままだ。名前は呼ばない。探しにも行かない。理由は、分かっている。ここでは、いなくなることは事件じゃない。説明も、要らない。
ただ、あの男が、ここにいない。それだけだ。
それなのに、足が先に動いた。考えるより早く。理由を作る前に。
俺は、走る。息が乱れる。足が石を打つ。角を曲がる。見慣れた道だ。
胸の奥で、嫌な静けさが先にある。前に、何かがある。
道の端。壁際。倒れている。いや。置かれている。男だ。仰向け。体はまっすぐ。だが、首だけが、少し曲がっている。
頭の後ろ。石の縁。欠けている。高い場所から、落ちた。それだけで、分かる。
血は、もう乾いている。夜のうちに、出切っている。息は、ない。目は、閉じられていない。だが、見ていない。
俺は、止まる。近づかない。名前が、浮かぶ。だが、呼ばない。呼んでも、戻らない。
足音が来る。台車だ。低い。幅がある。作業の人間が、二人。顔は、覚えていない。覚える必要がない。
一人が、布を広げる。手際がいい。引きずらない。持ち上げない。転がすように、台車に乗せる。
布が、被せられる。濡れている。血じゃない。洗浄水だ。
作業の一人が、布を押さえながら言う。
「丁度いいな。朝一で来てる。手間かからねえ。冷えきる前だと、運びやすいんだよ」
もう一人が、台車の柄を握ったまま。
「分かる。夜のうちに終わってると、こっちも楽だ。人も少ねえし、道も空いてる」
布を整えながら、最初の男。
「見つけるのも早いしな。日が上がる前だと、誰も触らねえ」
もう一人が、軽く押す。
「朝に出てくるやつは、だいたいきれいだ。崩れてねえから、そのまま乗る」
一拍。
「次、行けるか」
「行ける」
それだけだ。台車が、動く。音を立てない。人は、横を通る。避けるだけだ。誰も、止まらない。誰も、聞かない。
俺は、立っている。間に合っていない。追いついても、いない。
そこにあるのは、あの男じゃない。一つの重さ。一つの処理。一つの朝。
台車は、角を曲がる。見えなくなる。追わない。
音が、戻る。人の声。足音。道は、何もなかったように戻る。
そこで、気づく。もう、残っていない。人は動いている。声も、足も、止まらない。誰も、見ていない。
俺は、そこに立っている。取り残されたわけじゃない。ただ、戻った世界の中で、俺だけが、まだ止まっている。
俺は、救えなかったんじゃない。ここでは、救いが、続かない。
胸の奥で、何かがずれる。そして、分かる。
人は、なぜ、自分の命を取るのか。辛いからじゃない。耐える意味を、失ったときだ。意味が抜けた瞬間、人は、もう、生きられない。体が動いていても。息が続いていても。
昨夜の男も、そうだった。理由を、毎日つけ替えていた。それが、できなくなった。それだけだ。
自殺の前と、後。形は、変わらない。どちらも、意味が、死んでいる。
金があっても。役割があっても。居場所があっても。意味がなければ、空だ。
本当の死は、体じゃない。心だ。心が倒れれば、体も追う。現実は、後から、追いつく。
意味が抜ければ、人も、街も、崩れる。意味が、土台だ。意味が、骨だ。意味が、光だ。
俺は、それを知る。強いのは、体じゃない。心だ。体が倒れても、心が立っていれば、生きる。
だが、心が倒れれば、体が立っていても、終わる。
意味が、命だ。
俺は、そこに立っている。人は、動いている。朝は、始まっている。
だが、一つの意味が、ここで終わった。誰も、数えない。だから、また起きる。また落ちる。
救いは、一度じゃ足りない。ここでは。




