第47話:短い道
朝の空気は、軽い。特に何も変わらない。俺たちは、いつもの道を歩く。後ろで、車輪の音。低くて、揃っている。振り向かなくても分かる。
前を歩く男が、肩越しに少しだけ顎を引く。
「また来てるな。最近、この辺、早くないか。昨日もこのくらいだったろ。場所も、あんまり変わってない」
その横の男が、前を見たまま答える。
「掃除だろ。朝のうちに一通り回すようにしてるんだと思う。残しておくと邪魔になるしな。人も増えるし、詰まる」
車は、横を通り過ぎる。誰も止まらない。道も、空かない。通りすがりの男が、少しだけ口を動かす。
「最近、片づけるの早くねえか。前はもう少し遅かった気がする。朝のうちに全部やるつもりなんだろうな。残すと後で面倒になる」
その後ろの女が、小さく息を吐く。
「まあ、その方がいいんじゃない。昼に残ってる方が、邪魔だし。見えるところに置かれてるより、さっさと持っていかれる方が楽だよ」
軽い声だ。誰も、荷台を見ない。俺は、少しだけ目で追う。布の下。動かない形。隣で、アミーヌが一瞬だけ視線を動かす。行き先のほうへ。ラヒーマは、別の場所を見ている。何もなくなった路面。さっきまで何かあった場所。だが、誰も、止まらない。
前を歩いていた男が、足元を見ながら言う。
「空いたな。この辺、さっきまで詰まってたはずだろ。こうして見ると、何もなかったみたいだな。最初から空いてたみたいだ」
その横の男が、軽く頷く。
「その分、通りやすい。流れもそのまま戻るしな。止まる理由もないし、このまま進めばそれでいい」
それだけだ。車輪の音は、角の向こうで消える。俺たちは、そのまま歩く。誰も、何も言わない。話す必要が、ない。道は、変わらない。朝も、変わらない。ただ、少し早く、消えただけだ。足は止まらない。水路が、斜めに入る。市場の音が、混ざる。人が増える。流れが重なる場所。そこで、また、車輪の音。今度は、前から。同じ高さ。同じ速さ。
前の男が、少しだけ眉を寄せる。
「……もう一台か。さっき通ったばかりだろ。今日は多いな。この辺、そんなに出てたか?」
その隣の男が、肩をすくめる。
「回収の順番が変わっただけかもしれない。別のとこから来てるだけだろ。どっちにしろ、同じだ。来たら通して、そのまま流すだけだ」
きしむ音も、同じだ。掃除の車だ。俺は、少しだけ歩く速さを落とす。
ラヒーマが、それに合わせて視線を動かす。
「……さっきのとは向き、違うね。今のは、あっちに抜けていった。同じ車なのに、通る道が違う。昨日は、あの角、通ってなかったよね」
車は、横をすれ違う。中の二人は、顔を上げない。すれ違う、その一瞬。向こうの作業者が、軽く顎を上げる。こちらも、同じ動きが返る。言葉はない。
俺は、そのまま前を見る。少し先で、車が角を曲がる。
「……あそこ、通るのか。あの先、そんなに抜けやすかったか?昨日は、別の道を回してたはずだ。あそこ、わざわざ通る場所じゃなかっただろ」
サジークが、歩いたまま答える。
「近道だ。混んでなければ、そのまま抜けられる。人が少ない時間なら、あっちの方が早い。遠回りする理由がない」
俺は、少しだけ目を細める。アミーヌは、何も言わない。ただ、視線だけが動く。
「……さっきのと、時間、近いですよね。同じ間で来てるわけじゃないですけど。でも、重なり方が似ています。通る道が違うだけで、流れ方は揃ってる」
ラヒーマが、小さく続ける。
「……増えてるね。さっきは後ろから、今度は前から。方向が違うのに、間が詰まってきてる。同じ場所に寄ってきてる感じがする」
車輪の音が、別々の方向へ離れていく。交差点には、何も残らない。
サジークが、前を見たまま言う。
「どっちにしろ同じだ。来たら通して、そのまま流す。止める理由もない。誰も止めない。このまま回るなら、それでいい」
俺は、何も言わない。水が流れる。人が動く。その中に、もう一つ、流れが重なる。
ラヒーマが、最後に小さく言う。
「……でも、前より目につくね。気づかなかっただけかもしれないけど。さっきより、はっきり見える」
俺たちは、そのまま歩く。足が向くのは、人の少ないほう。音が、少し乾いていくほう。道が、ゆるく下がっていく。水の流れに、近づく。
朝。
川下へ行くほど、道が細くなる。柵と低い壁。音が少し乾く場所。掃除の車が、そのまま入ってくる。止まる。荷台が開く。中は見えない。布ごと落とす。すぐ閉じる。
前で車を引いていた男が、手元も見ずに顎だけで合図する。
「そのまま落とせ。止めなくていい、この位置でいい。ここで切れば十分だ。下にはもう流れてる、見なくていい」
後ろで見ていた作業者が、短くうなずく。
「了解。見なくていいな、このまま流す。数も取らない。このまま次に回す」
短い音。それで終わる。前の男が、すでに車を引きながら言う。
「次、行ける。ここはもう終わりだ、残すものもない。戻るぞ。いつも通りでいい、変える必要はない」
後ろの作業者が歩き出しながら返す。
「了解。さっきと同じで回す。止めなければ、それで揃う」
車は、もう動き出している。俺は、その動きを目で追いながら、小さくこぼす。
「……早いな。止まった感じもしない、見てるうちに終わった。落としたのかどうかも、目で追いきれないくらいだ」
横を歩くサジークが、前を見たまま返す。
「流れが詰まってない。それだけだ。止める理由がないなら、そのまま流す。余計な手は入れない、それで回る」
歩幅も変えず、そのまま続ける。
「見ない方が早い。止めない方が崩れない。この形は、それで保たれる」
アミーヌは、車ではなく、その先を見ている。水路の先、次に出てくる位置。
「……昨日と、戻りの時間、近いですね。さっきと同じ場所を通ってるわけじゃないですけど。でも、出てくる位置とタイミングが似てます。この先でまた合うはずです、流れ方は揃ってる」
視線を動かさずに続ける。
「順番は違います。でも、重なり方は同じです。時間で揃えてるんじゃなくて、流れで揃えてる」
ラヒーマは、車ではなく、壁の影を見る。一人、立っている。動かない。ラヒーマが、そのまま小さくこぼす。
「……あそこ。流れてないね。中にいるのに、動いてない。どこにも向いてない。持ってるのに、置けてない。だから、止まってる」
俺は、その位置を見る。車の音が消える。水だけが残る。少しして、板の前。
調整役が、指で線をなぞりながら読み上げる。
「東路——二人。昨日と同じでいい、場所は変えない。順番もそのまま。ずらさず入れ」
前に出た作業者が軽く手を上げる。
「はい。問題なし、このまま入る。昨日と同じで回せる」
調整役が、板に視線を落としたまま続ける。
「水門側——三人。今日は軽い、そのまま回す。詰まりは出てない。手を入れなくていい」
別の作業者が短く返す。
「了解。調整なしで回せる。この人数で足りる」
「——次」
名前が読まれる。返事がない。調整役の指は止まらない。次へ進む。
「西路——二人。空きはもう埋めてある、そのまま入れ。抜けは出てない。順番通りでいい」
後ろの作業者がすぐ返す。
「了解。問題なし、この人数で足りる。一人抜けても、回る」
後ろの方で、誰かが小さく呟く。
「……来てないな。さっきから見てない。どこにも出てきてない」
すぐ別の声が返す。
「もう入ってる。もう別のやつ入れてある、そのまま進める。止める理由ないしな。一人抜けても、流れは崩れない」
それで終わる。誰も、理由を聞かない。板の前で、アミーヌが目を止める。
「……ここ、呼ばれてないですね。でも、止まってない。空いたままじゃないです。最初から無かったみたいに、繋がってる」
少し間を置く。
「抜けても、形は変わらない。だから、引っかからない」
誰も返さない。板は、そのまま進む。人が散る。その中で、一人、動かない。布を持ったまま。
ラヒーマが、その横に立つ。視線は合わせない。
「……それ、持ったままだね。畳むわけでもないし、戻すわけでもない。次に進めてない。どこにも置けてない」
通りすがりの作業者が、歩きながら声を投げる。
「次、行けるか。手、空いてるなら西、足りてないぞ。今入れば間に合う、そのまま入れ」
男は、少し遅れて、布を見たまま。
「……今は、無理だ。まだ置けてない。これを持ったままじゃ、次に入れない」
別の作業者が、肩越しに軽く言う。
「置いといていいって。あとでまとめて回すから、そのまま次行け。今決めなくていいだろ。後で誰かが触る、それでいい」
女が足を止めて、その場を見る。
「……あの人、さっきから動いてないよね。ずっとそこにいる。流れに入ってない。どこにも行ってない」
横の男が、軽く返す。
「そうだっけ。見た気はするけど。まあ、そのうち動くだろ。止めても意味ないしな」
男が、布の端を指でなぞる。別の声が、少しだけ強めに。
「それ、誰のだ。回収に回ったやつだろ。どこから拾った」
少し間。男が、布を見たまま、指先で端をなぞる。
「……分からない。どこから来たのかも、分からない。返す相手がない。だから、置けない」
近くの作業者が、肩越しに返す。
「分からないなら倉に置け。あとで誰かが見る。今抱えてても進まない。そのまま置いて次に入れ」
男は、動かない。ラヒーマが、同じ距離で立つ。何も言わない。通りすがりの作業者が、歩きながら声を投げる。
「空いてるなら西頼む。今、そっち薄い。一人でも入れば回る、とりあえず埋めたい」
男が、少し遅れて答える。
「……今は、無理だ。まだ終わってない。これを置かないと、動けない」
その作業者が、足を止めずに返す。
「そっか。じゃあいい」
そのまま、次の人へ声が流れる。少しして、男が、小さくこぼす。
「……終わったんだ。もう、返す先がない。どこに戻せばいいか分からない。このままだと、次に行けない」
ラヒーマは、答えない。ただ、そこにいる。男が、息を吐く。
「……そうか。終わったなら、ここで止まるしかない。なら、このままでいる」
布を、膝に置く。動かない。ラヒーマも、動かない。俺は、少し離れて見る。何もしていない。ただ、流れに戻れないものの、横にいる。声が、少しずつ戻ってくる。水のそば。桶の並ぶ休む場所。
水を飲んでいた男が、口を開く。
「若かったよな、あいつ。まだ余裕あったはずだろ。続けられない感じでもなかった」
別の男が、桶を地面に置きながら。
「まあ……早めに抜けたんだろ。無理する前に外れたってだけだ。続けて詰まるくらいなら、その前に抜ける。それでいい」
近くの男が、足で桶を軽く押しながら笑う。
「賢いかもな。あそこで止めたの、早かったと思うぞ。あのまま続けてたら、どうせ潰れてただろ」
水を飲み終えた男が、腕で口を拭く。
「無理して残るよりいいな。引っかかるくらいなら、消えた方が回る。自分も楽だし、周りも止まらない。それで足りる」
背を壁に預けたやつが、低く続ける。
「長くやるもんじゃないってことだな。持たなくなる前に抜ける。遅れるより、その方がいい」
肩をすくめた男。
「若いうちなら戻れるしな。ずっと居る方がしんどい。続けて潰れるより、途中で外れた方が軽い」
別のやつが、少し考えてから。
「誰にも迷惑かけてないなら、それでいいだろ。無理して残る方が、かえって邪魔になる」
一瞬、静かになる。別の声が、そのまま重ねる。
「動きが鈍ると、全部遅れるからな。流れが止まる。それが一番困る」
近くの男が、軽く笑う。
「迷惑かけないなら、どっちでもいいってことだな。残るか消えるかじゃない。止まるかどうかだけだ」
俺は、小さく口を開く。
「……それで、いいのか。抜けた方が、正しいのか?」
誰も俺を見ない。水を飲んでいた男が、そのまま返す。
「正しいとかじゃない。止まらない方を選んでるだけだ。残れるなら残る。無理なら外れる。それだけだ」
別の男が、肩を回しながら。
「続けて潰れる方が困るんだよ。一人で止まるならまだいいけど、周り巻き込むと面倒だ」
背を預けていたやつが、短く。
「止めても戻らないだろ。抜けたなら、それで終わりだ」
俺は、少しだけ言葉を探す。
「……誰も、止めないんだな。行くやつも、そのまま行かせるのか?」
近くの男が、視線も向けずに。
「止める意味がない。止めても流れは戻らない。それなら進めた方がいい」
別の男が、軽く笑う。
「続けるより、消える方が楽だしな。余計なこと考えなくていい」
桶に手をかけていたやつが、短く。
「まあな」
「そうかもな」
誰も否定しない。一人が、桶から手を離して立ち上がる。
「次、行くぞ。ここで止まってても意味ない。戻るぞ。このまま回す」
それに引かれて、周りも動き出す。桶が戻される。足音が重なる。俺は、そのまま立っている。誰も止まらない。欠けたままでも、流れは続く。声が、そのまま板の前へ流れていく。板の前。
調整役が、線をなぞりながら口を開く。
「今日は、二人入れ替え。そのまま埋めて回す。場所は変えない。順番もそのままでいく」
前の作業者が、軽く手を上げる。
「昨日の若いの二人だろ。来てないやつだろ。もう戻らないってことか」
別の声が、すぐ重なる。
「さっきも見てないしな。どこにも出てきてない。戻るならもう来てるはずだろ」
調整役は、視線を上げない。
「代わりは入ってる。そのまま回せ。空ける必要はない」
誰かが、短く言う。
「若いのからだな。持たないやつから抜ける」
別の男が、肩をすくめる。
「そりゃそうだろ。長くやる場所じゃない。持たなくなったら終わりだ」
もう一人が、軽く続ける。
「二人とも、もう来ないんだろ。でも、もう埋まってるしな。それで足りる」
アミーヌが、俺の横で、小さく。
「……減ってますね。若い人が多いです。昨日の場所も、もう別の人が入ってます」
俺は、すぐに答えない。前では、名前が呼ばれる。返事。足音。
アミーヌが、そのまま続ける。
「外れた人のこと、残ってないですね。抜けたあと、話にも出ません。そのまま次に進んでます」
俺は、前を見たまま。
「……気にされてないな。いなくなったこと自体が、引っかからない」
アミーヌは、少しだけ頷く。
「はい。いないままで、片付いてます。いた場所だけ、すぐ埋まります。人は、残らないです」
少し間。俺は、新しく入ったやつを見る。
「……代わりはすぐ入るのに。いなくなった方は、そのまま消えるのか」
アミーヌが、静かに。
「比べてないんだと思います。空いたかどうかだけ見てます。誰がいたかは、見てないです」
俺は、少しだけ眉を動かす。
「……人じゃなくて、場所で見てるのか」
アミーヌが、そのまま。
「はい。位置で見てます。そこが埋まっていれば、終わりです」
前で、声が重なる。
「次」
「入れ」
足が動く。アミーヌが、小さく続ける。
「若い人の方が、消えても残らないです。関わりが薄いから、引っかからないです」
俺は、答えない。流れが、そのまま進む。誰も止めない。誰も戻さない。俺は、その場に少しだけ残る。
「……こういう消え方は、見たことがない。人が消えてるのに、何も変わらない」
言葉が残ったまま、足だけが前に出る。気づけば、いつもの抜け道に入っている。路地は、細い。両側の壁が近い。肩が触れるくらいの幅。湿った石。足元だけ、黒く染みている。途中に段。上へ抜ける。風は通らない。匂いだけが残る。前を歩いていたやつらが、迷いなく入る。
一人が、振り返らずに。
「ここ、早いよな。通り抜けるだけで外に出れる。回り込むより、半分で済む。朝でも詰まらないし」
別のやつが、すぐ続ける。
「短い道だからな。上に抜ければそのまま合流できる。慣れたらこっちしか使わなくなるぞ」
少し後ろの男が、軽く笑う。
「朝はやめとけって言われるけどな。でも結局、みんな通るだろ。時間の方が大事だし」
別の声が、ぼそっと。
「……昨日も、あったしな。そのまま残ってた。誰も触ってない」
一拍。前の男が、軽い調子で。
「死体、跨ぐけどさ。気にするほどでもないだろ。下見なきゃ分からんし、そのまま行ける」
すぐ別のやつが重ねる。
「遠回りするよりマシだろ。時間、全部削られるぞ。一回でも遅れると、そのあと全部ズレる」
笑いが、短く出る。
「この道、臭えな」
鼻を鳴らす音。別の男が、そのまま。
「でも近いだろ。それで十分だ。どうせあとで流れる。残らない」
俺は、そこで口を開く。
「……なんで、何もしない。そのまま跨いで、流すだけでいいのか?」
少しだけ、足が揃う。だが止まらない。俺は、そのまま続ける。
「お前たちが守ってるその流れが、こういうのを増やしてるんじゃないのか?」
空気が、わずかに変わる。前の男が、振り返らずに。
「逆だろ。止める方が、増える」
別のやつが、段を上がりながら。
「一つ止めたら、全部詰まる。詰まったら、まとめて崩れる」
もう一人が、短く足す。
「だから流してる。溜めないために」
俺は、もう一歩だけ踏み込む。
「流してるんじゃない。見ないで済むようにしてるだけだろ」
背中越しに、すぐ返る。
「見ても変わらない。だったら進めた方がいい」
別の声。
「ここで止めても、次が来る。同じのが、また増える」
前の男が、最後に。
「一つに関わるより、全部を回す方が先だ。それが崩れたら、もっと増える」
足音が、そのまま上へ抜けていく。誰も止まらない。誰も見ない。流れは、そのまま人の多い方へ下りていく。
市場の端。
屋台が畳まれていく。布を外しながら、男が声を投げる。
「それ、どっち回す。裏通るなら、あっち行くか?」
包みを結びながら、別の男が返す。
「あの倉の裏、知ってるか。近いけど、あそこ通ると早いぞ」
木枠を重ねながら、別のやつがすぐ返す。
「ああ……“軽いとこ”だろ。若いのが多いとこ」
一拍。縄を引きながら、誰かが鼻で笑う。
「冗談だよ。でも、間違ってねえけどな」
荷を持ち替えながら、別の男。
「近づかない方がいいぞ。臭えからな。風止まると抜けねえ」
木箱を押し込みながら、横の男が淡々と。
「片付けが流れてくるからな。朝はまだマシだけど、昼はきつい」
布を畳みながら、別の男が口を挟む。
「遠回りした方がいいぞ。市場抜けた方が、結局早い」
短い笑い。紐を結びながら、さっきの男が続ける。
「どうせ行くなら、朝のうちだな。昼は踏むぞ。避けきれない」
誰も顔を上げない。俺は、小さく口を開く。
「……場所みたいに言うんだな。そこ、人がいたとこだろ」
手を止めずに、木を積みながら男が返す。
「今は場所だろ。残ってんのは道だけだ」
肩越しに振りながら、別のやつが足す。
「名前で呼ぶ方がややこしい。臭いと位置で分かる。それで足りる」
俺は、少しだけ強く。
「それでいいのか。人がいたことまで、消すのか?」
一瞬だけ、音が薄くなる。だが、手は止まらない。紐を引きながら、男が返す。
「消してるわけじゃねえよ。残しても使えねえだろ」
木箱を持ち上げながら、別の男。
「覚えてると、通りにくくなるだろ。だったら最初から無い方がいい」
俺は、ラヒーマを見る。屋台を見たまま、ラヒーマ。
「……名前が消えると、楽になるね。触らなくて済むから」
少しだけ、視線を上げる。
「でも、消えてるのは名前じゃない。見ないでいい形にしてるだけ。通り方だけ覚えてさ。そこにあったものは、残さないのね」
布が、最後に結ばれる。荷を肩にかけながら、男が軽く言う。
「じゃ、あっちは避けて帰るか。その方が早い」
別の男が、振り返らずに。
「そうだな」
それで終わる。俺は、目を伏せる。ラヒーマは、伏せない。言葉が残ったまま、足だけが宿へ向く。
宿の外。
壁際の卓。器の音。誰かが、噛みながら。
「最近さ……道、覚えるの早くなってねえか。前はさ、毎回どっかで詰まってたろ。今、ほとんど迷わねえ」
隣の男が、飲み込んでから。
「人、減ってるからな。空いてる分、抜けやすい。前みたいに引っかからねえし」
別のやつが、すぐ重ねる。
「いなくなるやつ、増えたしな。朝の並びも薄いし、そのまま流れる。詰まる感じがねえ」
少し離れた男が、軽く笑う。
「はは……」
「まあ、歩きやすいのは確かだな。前よりずっと楽だ」
笑いが、少し途切れる。別のやつが、小さく。
「……言い方な。楽って言うと、ちょっと違うだろ」
肩をすくめながら、さっきの男。
「でも分かるだろ。前は回しも詰まってたし、順番も崩れてた。今はそのまま通るだけだ」
別の男が、器を傾けながら。
「朝もさ、すっと抜けるんだよな。呼ばれて、そのまま入って、そのまま終わる。止まらねえ」
さらに一人。
「楽っちゃ、楽だな。余計なこと考えなくていいし、そのまま流せば終わる」
また、短い笑い。誰かが、低く言う。
「……笑うとこじゃねえけどな。減ってるって話だろ、それ」
別のやつが、すぐ返す。
「分かってる。分かってるけど、そういう言い方になるだけだ」
もう一人が、口を拭きながら。
「重いままだと動けねえだろ。軽くしねえと、次に進めねえ」
少し間。誰かが、ぼそっと。
「気にしてたら、ここじゃ続かねえしな。一つずつ引っかかってたら、全部止まる」
別の声。
「だから流してんだろ。残すと詰まる。軽くして、そのまま行く」
また、小さく笑いが出る。今度は、誰も止めない。笑いが残ったまま、足はそのまま夜道へ出る。
夜道。
人通りは、少ない。二人が、すれ違う。前を見たまま、男が顎で先を示す。
「そこ、行くなら気をつけろ。風、止まるとこだ。中、抜けねえ」
相手も視線を前に置いたまま。
「ああ……“出口”だろ。戻って来ないやつが出るとこ」
少し間。壁の影に目をやりながら、最初の男。
「朝はやめとけ。夜もな。できれば外しとけ。片付け、溜まってる」
足元だけ見て、相手が返す。
「分かる。昨日もあった。まだ残ってた」
一瞬だけ、視線が交わる。前を向いたまま、最初の男。
「近いけどな。抜けるだけなら一番短い」
口の端だけ歪めて、相手。
「全部、短い道だな。踏まなきゃな」
肩を軽く揺らしながら、最初の男。
「引っかかるなら、まだいい。立ち止まったら、そこで詰まる」
相手、歩きながら。
「止まったら詰まる。だからそのまま行く。みんなそうしてる」
前を見たまま、最初の男。
「行くなら、戻る時間、見とけ。遅れると、抜けれなくなる」
相手が、小さく。
「分かってる。だから夜にしてる」
相手が、足元を見たまま低く。
「……笑うしかねえだろ、ああいうの。顔作って通るしかねえ。まともに見たら、手止まる」
前を向いたまま、最初の男。
「分かる。考えたら、止まる。一回でも引っかかったら、その日、もう働けねえ」
相手、すぐに。
「だから見ない。知らない顔して、そのまま行く。それならまだ働ける」
前を見たまま、最初の男。
「名前出したら止まる。場所にしとけば、そのまま通れる」
相手が、最後に。
「ここじゃ、それやらないと回らねえ。止まったやつから外れる」
俺は、その背中に声をかける。
「……見ないで、そのままやってるのか。気づいても、そのまま通るのか」
二人の足は止まらない。だが、片方が、わずかに顔だけ動かす。
「見たままじゃ無理だろ。そのまま抱えたら、手が止まる」
もう一人が、肩越しに。
「一回止まったら、その日もう終わりだ。次の番が来ても、動けねえ」
俺は、歩幅を合わせたまま。
「……ずっと、それやってるのか。気づかないふりして、回してるのか?」
足は止まらない。前を見たまま、最初の男が低く。
「……当たり前だ。そうしないと、持たねえだろ」
もう一人が、吐き捨てるように。
「全部見てたら、やってられねえ。知らない顔してるから、まだ立ってられる」
俺は、前を見たまま。
「……それで、まだ動けるのか。知らないままで、手が動くのか」
返事は、すぐ来る。
「そうだ。そうしないと、ここじゃ働けねえ」
もう一人が、最後に。
「見たら終わりだ。だから見ないで通る」
二人は、そのまま別々の角へ曲がる。振り返らない。俺は、その背中を見る。歩きながら、口を開く。
「……笑ってるんじゃないな。隠してるだけか」
足は止めない。
「……見ないから、続けられる。知らない顔で、手を動かしてる」
少し間。俺は、前を見たまま。
「……でも、それ」
一拍。
「人の上を歩いてるのと同じだろ」
風が、少しだけ通る。




