第5話:最初の労働
腹は、もう鳴っていない。だが、手は止まらない。触れる。運ぶ。重ねる。
——がさ。
枝が崩れる。小さい音。だが、形は完全に消える。アダムの手が止まる。指の間に、さっきまであった重さがない。足元で、枝がほどけている。
アダムが、崩れた枝を見たまま、低く落とす。
「……また崩れたな……さっきと同じ組み方だ……形は合ってるはずなんだが……なんで持たない……」
ハワーは、すぐに近づかない。一呼吸置いてから、少しだけ距離を詰める。
「……無理しすぎよ……さっきから止まってない……手は動いてるけど、体がついてきてないわ……」
アダムは、返さない。枝を拾う。同じ太さ。同じ長さ。
「……枝は足りてる……形も間違ってない……角度も同じだ……なのに持たない……まだいけると思ったんだが……さっきもできたんだ……」
もう一度、組む。支える。一瞬、形が立つ。
——がらり。
今度は、はっきり崩れる。アダムが、そのまま立ち尽くす。呼吸が、わずかに速い。
「……おかしいな……同じことしてるのに……さっきよりすぐ崩れる……」
ハワーが、もう一歩近づく。
「……手は合ってるわ……動きも変じゃない……でも、体のほうが遅れてるのよ……力が抜けてきてる……休んだほうがいいわ」
アダムが、地面を見る。枝。土。自分の足。
「……休む理由が分からないな……まだ動く……ただ少し重いだけだ……」
ハワーは否定しない。視線だけ、肩に向ける。
「……肩、下がってるわよ……さっきと同じ高さまで上げてみて……」
アダムが、肩を上げようとする。途中で止まる。思ったより、重い。
「……上がらないな……途中で止まる……最後まで持たないな……」
ハワーが、静かに続ける。
「……それが今の状態よ……動けてるけど、持たない……使った分、ちゃんと落ちてる……だから崩れるのよ……支える力が足りなくなってる……」
アダムが、短く息を吐く。
「……園では、こうならなかったな……やっても弱くならなかった……」
ハワーが、うなずく。
「……ここは違うわ……使った分、そのまま力が抜けていく……力も、持ちも、少しずつ落ちていく……」
アダムが、枝に手を伸ばす。途中で止まる。腕が、わずかに揺れる。
「……さっきなら、そのまま持てた……今は、途中で止まるな……最後までいかない……」
ハワーが、しゃがんで枝を一つ持つ。すぐに下ろす。
「……これ、軽いけど使えないわ……支えにならない……すぐ逃げる……」
アダムが、初めてハワーを見る。
「……持っただけで分かるのか……?」
「……分かるわ……手に乗せたときの感じで……頼れるかどうか……」
アダムが、その場に腰を下ろす。
「……できると思ってたんだけどな……同じようにやれば、形になるって……」
ハワーが、やわらかく受ける。
「……やり方は合ってるわよ……でも、体がまだ追いついてないだけ……回数が足りないの……繰り返して、慣れる必要があるわ……」
アダムが、少し顔を上げる。
「……慣れるって……どういうことだ……?」
ハワーが、静かに返す。
「……同じことを何度もやるの……体が迷わなくなるまで……力の出し方も、止め方も、覚えるのよ……」
アダムが、地面を見たまま。
「……今日中に、形にしたかったな……」
ハワーが、そのまま返す。
「……今日じゃなくてもいいわよ……夜は来るけど、その次も来るでしょ……」
アダムの口元が、わずかに動く。
「……続く、ってことか……終わりじゃない……」
「……そうよ……一回で終わらせなくていいの……」
アダムが、低く落とす。
「……俺、一人でやろうとしてたな……早く形にしたくて……無理にでも組もうとしてた……」
ハワーが、隣に座る。触れない。だが、距離はない。
「……一人だと、止まるタイミング分からないわよね……そのまま続けて、崩すまでやっちゃう……」
一拍。
「……一緒にやる?」
アダムが、少し考える。
「……次は……」
「……次は?」
「……休んでからやる……このままだと、また同じ崩れ方するだろ……」
ハワーが、小さくうなずく。
「……それが、ここでのやり方よね……使った分、戻してから……それから、またやる……」
アダムが、目を閉じる。ほんの一瞬。
「……抜けた分、戻してからやる……そうすれば、さっきより持つはずだな……」
風が、枝を揺らす。崩れた枝は、そのまま。アダムが、静かに落とす。
「……次は、崩れない形にできるだろ……今よりは、持つ……」
ハワーが、短く返す。
「……うん……今はまだ途中よ……まだ一回目だもの……」
沈黙。だが、止まっていない。崩れた枝は、失敗じゃない。次に触る場所として、残っている。二人は、それを見たまま、動かない。言葉は、もう、いらなかった。
風が、枝を揺らす。その音が、背後で少しずつ薄くなる。振り返らない。アダムが、目を開ける。すぐには立たない。一度、深く息を入れる。それから、小さく。
「……今なら立てるな……さっきより重さが戻ってる……足にちゃんと乗る……」
ハワーは、すぐに答えない。ただ、その間を待つ。アダムが立ち上がる。二人、自然に歩き出す。少し歩いて、アダムが足元を見ながら。
「……前みたいに踏めないな……同じように出してるつもりでも、少しずれる……そのまま行くと崩れそうになる……」
一歩、踏み直す。
「……だから、出す前に一回止めてる……体の重さを先に見てる感じだ……」
ハワーが横で歩幅を合わせる。一歩。もう一歩。
「……さっきより揃ってるわね……歩き方、少し変わってる……無理に出してない……合わせてる感じがする……地面にじゃなくて、自分の体に……」
アダムが、少し考えてから。
「……ああ……この歩き方なら続く気がするな……さっきみたいに途中で崩れない……前は、出すか止まるかだった……その間がなかった……」
ハワーが、静かに重ねる。
「……今は、その間があるわね……出す前に、一回見てる……それだけで全然違う……」
アダムが、自分の足を見る。
「……無理に使ってない感じだな……無理に進まない……でも止まらない……」
ハワーが、少しだけ柔らかく。
「……うん……力を落とさないで進む感じ……そのほうが長く行けそうよね……」
アダムが、ぽつりと。
「……こういうのも、選び方か……何をするかだけじゃなくて、どう進むかも選んでる……」
ハワーは答えない。ただ、同じ速さで隣にいる。影に入る。また日向に出る。アダムが、少しだけ言葉を探す。
「……身体ってさ……ただ知らせるだけじゃないな……こうしろって、少しずつ直してくる……」
ハワーが、静かに重ねる。
「……聞かないと置いていかれるわね……先に進んだつもりでも、体がついてこない……」
アダムが、小さくうなずく。
「……ああ……さっきそれやったな……動けると思って、そのまま行ったら崩れた……今は、少し聞けてる……まだ遅いけどな……」
ハワーが、すぐに返す。
「……最初だもの……いきなり全部分かるわけじゃない……でも、さっきよりは、ちゃんと見てる……」
アダムが、少しだけ笑う気配。
「……だな……」
歩きながら、ぽつりと。
「……急ぐと、置いていくのは体だな……先に進んだつもりで、後ろが崩れる……」
ハワーが、横から。
「……だから、一緒に進むのよ……体と……無理に引っ張らないで……置いていかなければ、止まらなくて済む……」
アダムが、短く返す。
「……ああ……それなら続くな……」
二人は、そのまま歩く。速くない。遅くもない。
「……これくらいがいいな……今のところは……」
ハワーが、静かに。
「……ええ……これなら崩れない……ちゃんと進んでる感じがするわ……」
風が抜ける。疲れは消えていない。だが、形を持たない。アダムが、最後に小さく。
「……止まるか倒れるかじゃないな……その間で進める……」
ハワーが、やわらかく。
「……それが今のやり方ね……」
二人は、そのまま歩き続ける。枝を抱えたまま、アダムが前を見て歩く。足元は見ていない。
——ごつ。
つま先が石に当たる。
「……っ」
身体が前に傾く。腕の中で枝がずれる。もう一歩、踏み出す。
——ぐらり。
転ばない。だが、きれいでもない。枝が、ばらばらと落ちる。乾いた音。アダムが、そのまま止まる。動かない。落ちた枝を見る。自分の足を見る。もう一度、枝を見る。少し離れた場所で、ハワーが見ている。一瞬。
「……ふふ」
小さく、漏れる。すぐ止まる。空気が、一瞬止まる。アダムが、ゆっくり振り返る。
「……今、笑ったな?」
ハワーが、視線を少し外す。
「……ごめんなさい……つい出たの……止める前に出ちゃったわ……変な感じだったの……転びそうで転ばないのが、少しおかしくて……」
アダムは、落ちた枝を拾いながら、少し考える。一本ずつ集める。腕に戻す。
「……いや……悪くないな」
ハワーが、顔を上げる。
「……え?」
アダムが、足元を見る。石。枝。土。
「……転びそうになったのは、俺だろ……それ見て笑うのは、別におかしくない……むしろ、分かる気がするな……自分でも変だった……」
ハワーが、少しだけ口元を押さえる。
「……やっぱり変だったわよね……真面目に運んでるのに、足元だけずれてて……でも、不思議なの……怖くもないし、困ってるのに……ちょっと軽くなったのよね……」
アダムが、枝を抱え直す。少し力を抜く。
「……ああ……分かるな……重さは同じはずなのに、さっきより力が入りすぎてない……少し楽だ……」
ハワーが、ゆっくりうなずく。
「……うん……同じ枝なのに、さっきより重く感じない……さっきは、ちゃんと持たなきゃって思ってた……今は、そこまで力が入ってない……」
アダムが、小さく息を吐く。
「……園では、こういうのなかったな……」
ハワーが、すぐ重ねる。
「……なかったわね……失敗しても、何も崩れなかったものね……」
アダムが、足元を見て笑う。
「……ここは違うな……失敗すると、ちゃんと音が出る……形も崩れる……」
ハワーが、少し楽しそうに。
「……だから、見えるのよね……何が起きたのか……それで、笑っちゃったのかも……」
アダムが、少し首を傾ける。
「……たぶんな……」
枝を、抱え直す。今度は、力が抜けている。
「……俺も、今の悪くなかったと思ってる……」
ハワーが、しばらく黙る。それから。
「……ふふ」
今度は、はっきり。止めない。アダムが、その音を聞いて、少し肩を落とす。
「……もう隠さないな」
ハワーが、少し笑いながら。
「……隠しても出るものね……さっきみたいに……」
アダムが、短く笑う。
「……だな……次はさ」
ハワーが、顔を向ける。
「……なに?」
アダムが、少しだけ笑いを混ぜる。
「……転びそうになったら、先に言ってくれ……構えられる……」
ハワーが、すぐに返さず、少し考える。それから、小さくうなずく。
「……うん……次はちゃんと見るわ……足元も、あなたも……でも、また笑うかもしれない」
アダムが、すぐ返す。
「……いいだろ……そのほうが軽くなる……落としても、また拾えばいいだけだ……」
ハワーが、やわらかく。
「……そうね……崩れても、それで終わりじゃないもの……」
二人は、また歩き出す。今度は、少しだけゆっくり。枝の音が、揺れる。アダムが、足元をちらっと見る。
「……今度は大丈夫だな……」
ハワーが、横で。
「……ええ……ちゃんと見てるわよ……でも、またやるかもね」
アダムが、笑う。
「……そのときは、また笑え」
ハワーも、笑う。
「……ええ、遠慮なく」
風が抜ける。重さは、同じ。だが、持ち方が、変わっていた。




