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第4話:腹の音

しばらく、何も起きていなかった。動く必要もない。確かめることもない。ただ、外に向いていた意識が、少しずつ内側に戻ってくる。そのとき。


——ぐ。


低く、短い音。逃げ場がない。すぐ足元、いや、アダムの腹から。アダムは、一瞬動かない。

「……」

もう一度。


——ぐ。


今度は、はっきり。ハワーの視線が落ちる。顔じゃない。足元でもない。そのまま、アダムの腹へ。

「……今の……あなた、よね……?……外じゃない……そこから聞こえた……」


アダムが、小さく息を吐く。

「……いや……俺だな……中から鳴ってる……完全に俺の中だ」

腹に手を当てる。

「……勝手に鳴る……止めてないのに動く……さっきまでなかったよな、これ……」


ハワーが、静かに頷く。

「うん……なかった……でも今はある……はっきりしてる……隠せないくらい……」

自分の腹に手を当てる。

「……私はまだ……でも、近い気がする……同じの、来る……中で何かが動きそうな感じ……」


アダムが、短くうなずく。

「……時間差だな……同じ流れだろ……俺が先で、お前が後から来る……」


ハワーが、すぐに返す。

「……でも何の差……?何が違ってるの……?」


アダムは、少し長く考える。空を見ない。地面を見る。

「……分からないな……でもな……これ、外じゃない……何か足りない感じがする……」

腹に手を当てたまま。

「……減ってる……中が空いてる……でも何が足りないのか分からない……怖くはないのに、困るな……無視できない」


ハワーが、すぐに重ねる。

「……うん……私もそれ感じる……まだ鳴ってないけど……同じ空き方してる……でも分からない……何が足りないのか、まだ名前がない……」

腹に手を当てたまま。

「……ねえ……これ……考える前に来てる……止めようとしても止まらない……身体が勝手に動いてるみたい……外からじゃなくて……中から押されてる感じ……」


アダムが、視線を落としたまま返す。

「……命令っていうより……要求だな……やれって押してくる……しかも静かだろ……騒がないのに無視できない……」


ハワーが、ゆっくり重ねる。

「……断れないってことよね……後でいいとか、そういうの通らない……今じゃないとダメって感じがする……」


アダムが、短くうなずく。

「……ああ……放っといたら強くなる……」

視線を落としたまま、確かめる。

「……水じゃない……さっき飲んだ……足りてる……寒さでもない……今は違う……外からじゃない……中から来る……減ってる感じだ……」


ハワーが、ゆっくり言葉を置く。

「……じゃあ……中に入れるもの……?減った分を戻す……?」


アダムの目が、わずかに動く。

「……ああ……それだな……空腹、か……これが……空腹か……」


ハワーが、その言葉を拾う。

「……空腹……」

小さく転がす。

「……うん……軽くはならないわね……でも、はっきりする……これだって分かると、逃げにくくなる……ぼんやりしてるより、ちゃんと向き合える……」


アダムが、低く返す。

「……ああ……名前あると違うな……分からないままのほうがきつい……」

腹を軽く押さえる。

「……これ、何か足りてないってことだな……放っておくと、もっと鳴る……」


ハワーが、すぐに重ねる。

「……知らせてるのね……足りないって……無視できないように……」


——ぐ。


腹が、もう一度鳴る。ハワーが、わずかに息を緩める。

「……ほら……返事してる……身体、正直すぎるわね……」


アダムが、短く返す。

「……ああ……誤魔化し効かないな……」

地面を見る。土。草。石。

「……じゃあ、埋めないといけないな……食うんだろ……たぶん……」


ハワーが、すぐに聞く。

「……どれを……?……全部同じに見える……違いが分からない……」


アダムが、少しだけ苦く息を吐く。

「……分からないな……見ただけじゃ判断できない……園では選ばなかった……あったものをそのまま取ってた……ここは違う……選ばないといけない……」


ハワーが、静かに続ける。

「……選ぶってことは……間違えることもあるってことよね……」

一拍。

「……間違えたら?」

空気が、少し止まる。


——ぐ。


アダムが、苦く息を吐く。

「……間違えるかもな……でもな……鳴ったままだと、もっときつい……動けなくなる……」

地面を軽く蹴る。

「……その前に何か入れないと、持たない気がするんだ……」


ハワーが、少しだけ近づく。

「……じゃあ……試すしかない、ってことね……怖くても、やるしかない……」


アダムが、わずかに笑う気配を混ぜる。

「……またそれか……最近そればっかだな……でも、それしかない……試して、外して、またやる……それで覚えるしかないな……」


ハワーが、小さく頷く。

「うん……でも、一人でやらなくていいわよね……一緒に見て、一緒に決めれば……少しは違う……」


アダムが、少しだけ視線を動かす。

「……ああ……一緒に探すか……どれが食えるか……どれが危ないか……」


二人は、立ち止まらなかった。かといって、急ぎもしない。ただ、それを聞いたまま、次の一歩を選び始めていた。ゆっくり歩く。止まらない。腹の奥に、重さが残っている。鳴らないが、消えてもいない。


アダムが、足元を見たまま、ぽつりと落とす。

「……さっきより静かだけどな……消えてはない……ずっと残ってる感じだ……押してくるわけでもない……でも無視もできない……ここにあるって、ずっと残ってる……」


ハワーが、少し遅れて歩幅を合わせる。

「……うん……私も同じ……まだ鳴ってないのに、そこにあるのは分かるわ……さっきより静かなのに、むしろはっきりしてる……消えたんじゃなくて、奥に残ってる……」


二人は、歩きながら、足元を見る。草。葉。土。踏むたびに、違う。アダムが、足の裏で地面を探る。

「……ここ、全部違う……踏むたびに感触が変わる……柔らかいとこもあるし、固いとこもある……冷たいとこもあるし、ぬるいとこもある……」

一歩、踏み直す。

「……園では、こんなのなかっただろ……足が勝手に選んでた……何も考えなくても、ちゃんと踏めてた……」


ハワーが、地面を見たまま、静かに重ねる。

「……うん……選ぶ必要、なかったわ……でも今は、一歩ごとに確かめてる感じ……身体が勝手にじゃなくて……私たちが決めてる……」


そのとき、アダムが、止まる。

「……これ」


足元。小さな実。丸い。だが、きれいすぎるほど濃い色をしている。赤とも紫ともつかない。皮はつるりとしているのに、ところどころ光り方がぬめっている。茎の切れ目だけ、黒く沈んでいる。近くの草は揺れているのに、その実のまわりだけ妙に静かだった。虫もついていない。


アダムが、しゃがむ。指先を近づける。

「……硬いな……柔らかくはない……でも石でもない……」

少し近づける。匂いを拾う。

「……甘い匂い、するな……でも変だ……奥が苦い……なんか、匂いが止まらない……」


ハワーが、一歩近づきかけて——止まる。

「……待って」


アダムの手が止まる。

「……なぜだ?」


ハワーは、すぐに答えない。実を見る。地面を見る。アダムの手を見る。ゆっくり戻る。

「……分からない……でも……近づくと、体が前に出ない……見てるだけなら平気なのに……触ろうとすると止まる……足も、手も、その先に行きたがらない……」


アダムは、少し黙る。実を、もう一度見る。

「……見た感じは悪くないんだけどな……形も崩れてないし、腐ってるようにも見えない……」

指先を、ほんの少しだけ近づける。

「……でも、近いと変だ……匂いがきつい……甘いのに、口に入れたくなる感じがしない……」


ハワーが、息を浅くする。

「……私も……嫌じゃないのに、避けたいわ……怖いっていうのとも違う……でも、そこじゃないって感じがする……」


アダムが、実のすぐ横の土を見る。

「……まわりの草、踏まれてないな……虫もいない……落ちてから時間が経ってるなら、何か寄っててもよさそうなのに……」


ハワーが、小さくうなずく。

「……うん……静かすぎるわ……そこだけ、止まってるみたい……」


アダムが、ゆっくり指を緩める。

「……俺、一人だったら食ってたな……色も強いし、形も悪くない……腹が鳴ってたら、そのまま行ってた……」


ハワーが、少しだけ視線を上げる。

「……うん……そのまま行ってたと思う……でも今は、止まってる……」


アダムが、実から手を離す。

「……ああ……自分で止めたっていうより、止まったな……勝手に手が進まない……」


ハワーが、実を見たまま、静かに落とす。

「……私も、触りたくならない……嫌じゃないのに……でも近づきたくもない……」


アダムが、短く聞く。

「……嫌なのか?」


ハワーは、首を振る。

「……嫌じゃないわ……でも、避けたい……理由はない……でも、これじゃないって感じ……はっきりある……」


アダムが、ゆっくり立ち上がる。実から、一歩離れる。

「……今は触らない方がいいな……見た目より、近づいたときが悪い……腹は鳴ってるのに、だ……」


ハワーが、すぐに拾う。

「……だからこそ、かも……急いでるときほど、目に強いものを選びやすいわ……色が強いとか、目に残るとか……そういうので、先に手が出そうになる……」


アダムが、低く続ける。

「……ああ……身体が先に決めようとするな……早く埋めろって押してくる……でも、それで選ぶと外すかもしれない……」


ハワーが、実から目を離さずに、言葉を置く。

「……だから、止まるのね……変だと思ったら……理由がなくても……」


アダムが、短くうなずく。

「……ああ……理由なくても止まる……そのほうがいい……」


ハワーが、実をもう一度見る。

「……これじゃない……」


アダムが、息を吐く。

「……俺は食いたかったけどな……」


ハワーが、すぐ返す。

「……鳴ってるから?」


一拍。

「……ああ……それだけだ……でも、それだけで選ぶのは危ないな……」


ハワーが、少し柔らかく息を落とす。

「……止まれたの、いいと思う……さっきなら、止まらなかったでしょ……」


アダムが、自分の手を見る。

「……ああ……園では止める必要なかった……ここでは、止めないといけないな……」


ハワーが、静かに重ねる。

「……違うって感じたら、止まる……」


アダムが、低く返す。

「……ああ……それでいい……」

二人は、実を残す。踏まない。取らない。そのまま通り過ぎる。数歩進んで、アダムが、前を向いたまま落とす。

「……今、少し楽だな……」


ハワーが、少し驚いて見る。

「……え……なんで?」


アダムが、足を止めずに返す。

「……止まったからだろ……無理に入れようとしなかった……それだけで、さっきより静かになってる……」


ハワーが、静かに頷く。

「……身体も分かってるのね……」


アダムが、すぐに重ねる。

「……考える前に反応してるな……」

二人は、また歩き出す。アダムが、前を見たまま、低く落とす。

「……食えるものはな……近づいても止まらないはずだ……体が前に出る……自然に手が伸びる……匂いも、変に引っかからないだろ……見た目だけ強くて、近くで変わるようなのは違う……」


ハワーが、横から補う。

「……触っても、引かない……避けたくならない……虫もいて、草も普通で……そこだけ浮いてる感じがしない……それでも、慎重に、ね……」


アダムが、低く返す。

「……ああ……」

腹は、まだ空いている。だが、もう、無闇ではない。視線が、前に戻る。足先が、向きを変える。歩く。遠くへ行くわけじゃない。ただ、少し離れる。腹が、また、鳴る。


ハワーが、半歩だけ止まる。振り向かないまま、足先を止める。

「……今、鳴った?……さっきより、はっきり聞こえた……中からそのまま出てくる感じ……押してくるっていうより、知らせてくる……」


アダムが、歩幅を揃えたまま、小さく息を落とす。

「……ああ……鳴ったな……さっきより深いとこから来た感じだ……止めてないのに勝手に動く……止まったあとも残る……」

沈黙。二人とも、次の音を待つ。来ない。代わりに、腹の奥に、空いた感じだけが残る。アダムが、足元に視線を落とす。

「……音は消えても、こっちは消えないな……むしろはっきりする……何も入ってない感じだけが残る……」


ハワーが、ゆっくり息を吸う。

「……うん……静かなのに、さっきより強い……何かが“ない”感じだけ、残る……これ、放っておくとまた鳴るわね……」


視線が、自然に下に落ちる。葉の影。絡まった枝。光が、少し遮られている場所。その奥に、実がある。アダムが、すぐには手を伸ばさない。距離を見る。それから、ハワーを見る。

「……さっきのとは違うな……見た感じ、強すぎないな……近くで変な感じもしない……近づいても、止まらない……」


ハワーが、視線を外さずにうなずく。

「……うん……体が止まらない……さっきみたいに引かない……むしろ、近づいてもそのままいける……これ、食べられそう……触って、そのまま口に持っていっても、引っかからない……」


アダムが、ゆっくり手を伸ばす。指を添える。引っ張らない。実が、自然に外れる。

「……軽いな……無理に引かなくても取れる……触ったときの違和感もない……」


ハワーも、もう一つ取る。少しだけ指先で転がす。

「……同じ……重さも、触った感じも揃ってる……崩れないし、ぬめりもない……」

しばらく、持ったまま。急がない。口にも運ばない。ハワーが、少しだけ顔を上げる。

「……食べる?……今なら、いける気がする……さっきと違って、止まる感じがない……」


アダムが、短くうなずく。

「……ああ……今は、入れてもいい感じだ……変な引っかかりもない……」

口に入れる。噛む。皮が、静かに裂ける。汁が広がる。アダムの眉が、わずかに動く。

「……甘いな……強くないけど、はっきりしてる……変な苦さも残らない……そのまま広がって、変に残らない……」


ハワーが、少し遅れて口に入れる。噛む。

「……うん……やさしい甘さ……刺さる感じがない……広がって、そのまま抜けていく……」


アダムは、すぐに言葉を返さない。もう一度、噛む。ゆっくり。飲み込む。喉を通る感覚を確かめる。

「……引っかからないな……そのまま落ちていく……腹の奥で、張ってたのがほどけてる……一気じゃないけど、少しずつ戻ってくる……」


ハワーが、自分の腹にそっと手を当てる。

「……うん……変わってる……さっきの尖った感じが、丸くなってる……」

もう一口。ゆっくり噛む。

「……足りてる感じが、少し戻る……全部じゃないけど……でも、さっきよりちゃんとある……」


アダムが、静かにうなずく。

「……さっきより静かだな……鳴らなくなっただけじゃない……中の引っ張られる感じが弱い……」


ハワーが、少しだけ目を細める。

「……痛みじゃなかったのね……尖ってただけ……食べると、丸くなる……中で突いてくる感じが、弱くなる……」


アダムが、短く聞く。

「……どこが変わった?」


ハワーが、腹を軽く示す。

「……ここ……さっきは内側から押されてた……今は、広がってる……詰まってる感じじゃない……」


アダムが、息をひとつ落とす。

「……埋まるってこういうことか……完全じゃないけど、戻ってきてる……」


二人は、並んで座る。距離は、さっきと同じ。風が、葉を揺らす。ハワーが、静かに落とす。

「……これ、分かるようになるのね……食べられるものと、違うもの……体で……」


アダムが、前を見たまま応じる。

「……ああ……考える前に、もう反応してる……近づいて止まるか、そのまま行けるか……それで分かる……外しにくくなってるな……」


ハワーが、小さくうなずく。

「……一人じゃ、分からなかったかも……」


アダムが、短く返す。

「……ああ……でも、分かるようにはなってる……」


世界は、変わらない。光も、風も、そのまま。だが、身体の中だけ、別の速さで整っていく。腹は、もう鳴らない。代わりに、静かに、残っている。押してこない。だが、消えもしない。中で、動かない。


アダムが、しゃがんで、指で土をならす。乾いた土が、わずかに崩れる。

「……さっきは、知らなかったな……こうなるって……」


ハワーが、横で少しだけ首を傾ける。

「……なにが……?」


アダムは、手を止めない。土を触りながら、言葉を探す。

「……食べる前と後でな……身体の中、はっきり変わる……同じままじゃない……さっきまであった空いた感じが……今は、ちゃんと収まってるな……押してこない……」


ハワーが、自分の腹に、そっと手を当てる。押さえない。触れるだけ。

「……うん……分かる……さっきまで、内側から引っ張られてた感じ……今はないわ……何かが入った、って感じじゃなくて……ちゃんと“足りた”って感じ……中、静か……」


アダムが、小さくうなずく。

「……ああ……無くなったっていうより……整ったな……」

指についた土を、軽く払う。

「……減ってたものが、戻った感じだ……それで、こうなるんだな……」


ハワーが、少しだけ目を細める。

「……今は、もう分かるわね……食べる前と、後で……違うってこと……身体で分かる……」


アダムが、短く息を落とす。

「……ああ……知ったな……さっきまでは、分からなかったな……でも今は、同じじゃないって分かる……」


ハワーが、静かに重ねる。

「……うん……戻った感じがある……これが、“足りる”ってことかもしれないわね……」


アダムは、少しだけ考える。空を見ない。地面を見るまま。

「……ああ……たぶん、これだな……」


沈黙。だが、止まっていない。二人は、それ以上、言葉を足さない。噛む。飲み込む。ただ、それだけで、身体が先に動いている。


“何が足りて、何が戻ったか”を、言葉より先に、知っている。この日、初めて、“満ちる”という違いが、静かに残った。

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