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第44話:真理の回収

朝の水路は、もう動いている。石の溝を、水が低く流れていく。桶が前から後ろへ渡る。手。手。手。誰も急がない。でも、止まらない。俺は列の横に並ぶ。歩幅を合わせる。


前の男が軽く声を出す。

「次。もう少し前出てくれ。そのまま流せば届く」


桶が渡る。別の男が受け取りながら言う。

「こっちは問題ない。水も途切れてないし、このまま回せば足りるだろ」


隣の女が腕を伸ばす。

「朝の分は多めに流れてるね。この時間に回しておけば、昼は少し楽になる」


水は止まらない。俺はその流れを見ながら、声を落とす。

「なあ。この水さ、毎日ちゃんと来てるよな」


前の男が軽く頷く。

「まあな。止まったことはないな。流れさえ見てれば分かるし、この時間は特に崩れない」


別の声。

「上がちゃんと回してるんだろ。流れてくる分も決まってるし、ここまで来るなら問題ない」


俺は歩幅を合わせたまま続ける。

「もしさ」

一拍。

「これ、急に来なくなったらどうする?」


桶が渡る。誰も止まらない。女がそのまま答える。

「止まったら困るよ。畑も回らないし、水も足りなくなる。でも今は来てるから、その分ちゃんと回すしかないでしょ」


別の男が続ける。

「そうだな。来なくなったらその時に考えるよ。でも今は来てる。だったら無駄にしないで回す方が先だ」


俺は少しだけ間を置く。

「畑もさ。飲み水も。この水が、自分たちの都合で来てるわけじゃないって、分かってるよな」


一瞬だけ視線が上がる。すぐ戻る。年配の男が手を動かしたまま口を開く。

「まあ、それはそうだな。俺たちが流してるわけじゃない。来てる水を回してるだけだ」


若い女が頷く。

「言ってることは分かるよ。でもさ、それ考えても水は増えないし減らないでしょ」

桶をそのまま隣へ渡す。

「今来てる水をちゃんと回す方が先だよ」


別の男も続ける。

「そうそう。仕組みがどうとかより、今ここで止めない方が大事だろ。止まると後ろ全部詰まるし」

短く息を吐く。

「難しいことは後でいいよ。まず回す。それだけで十分だ」


桶が渡る。水の音は変わらない。前の男が前を見たまま声を出す。

「あと二つだな。この列終わったら向こう回るぞ」


別の声。

「了解。そのまま持っていけばいいな。箱ももう並んでるはずだ」


桶が空になる。次の人が前に出る。列が短くなる。水路の先では、箱が並び、縄が投げられている。列を抜けた者たちが、そのまま荷を運び始める。

「三つ、先に寄せろ。重い方から出した方が早い」

「分かった。そのまま持つ。こっち空けるから流してくれ」


声は短い。でも、止まらない。俺は歩幅を合わせたまま横に並ぶ。箱が持ち上がる。縄が締まる。


前の男が声を出す。

「そのまま引け。緩めるなよ、一回止まるとやり直しになる」


別の男が肩で支えながら返す。

「分かってる。こっちも重さ来てるから、そのまま揃えてくれ。ずらすと全部崩れる」


荷が一瞬だけ宙に浮く。俺はその隙間で口を開く。

「なあ、この水さ、自分たちから来てるわけじゃないの、分かってるよな」


誰も止まらない。俺は続ける。

「じゃあさ、それ——」

一拍。

「誰に向けて感謝してる?」


前の男が縄を見たまま口を開く。

「感謝はしてるよ。水が来てるから回ってるんだし、それは分かってる」

少し力を入れる。

「でも今はそれどころじゃないだろ。これ先に出さないと、後ろ全部詰まる」


別の男が数を見ながら続ける。

「言ってることは分かる。そういう話、大事なのも分かるよ」

一つ箱を押し出す。

「でも今ここで考えることじゃないだろ。落ち着いたら、また考えればいい」


そのまま次の箱へ移る。俺は少しだけ間を置いてから言う。

「……感謝してる、って言うのはさ、口にするのは簡単だろ」

作業は止まらない。

「でも、それだけだと足りない」


一人が首だけこちらに向ける。俺は続ける。

「向け先が分からないままだと、それ、ただの気分で終わる。それじゃ残らないだろ。何も、残らない」


すぐに声が返る。

「別にいいだろ、それで。感じてりゃ十分だろ」


別の男も笑い混じりに言う。

「難しくしすぎなんだよ。水が来てる、ありがたい、それで終わりでいいじゃないか」


俺は声を強めない。

「……形が要る」

一拍。

「感謝ってさ、向ける先があって、初めて形になるだろ」


誰かが小さく笑う。

「形、ね」


俺は水に目を落としたまま続ける。

「じゃあ、お前たちさ」

一拍。

「何に感謝してる?」


桶が渡る。すぐ返る。

「知らないな。そこまで考えたことない」


別の声。

「だから感じてるって言ってるだろ。それで回ってるんだから十分だよ」


俺は頷かない。そのまま言う。

「感謝するならさ、相手が要るだろ。何もないところに向けたままだと、それ、届かないだろ」


少し間。水の音だけが残る。やがて誰かが口を開く。

「……まあ、理屈としては分かるよ。言ってることは筋通ってる。でもさ、何に向けるか分からないんだよ」


別の男が手を止めずに言う。

「今こっち詰まってる。話は分かったから、後にしてくれ」

縄がまた引かれる。

「このまま流さないと終わらない」


箱が動く。声が続く。

「次、持て。そのまま前出せ。止めるな」

縄が張る。

「四つ! そのまま上げろ、ずらすな!」


箱が浮く。別の男がすぐ続ける。

「板空いたぞ、そのまま滑らせろ。止めるな、次来てる」


影がずれる。次の荷がもう入ってくる。

「右流せ! 詰まる前に出せ!」

「分かってる、そのまま出す!」


人の流れが三つに割れる。

「水路こっち!」

「荷場そのまま!」

「手止めるなよ!」


俺はその真ん中に立つ。流れは左右に分かれる。誰も止まらない。流れはそのまま繋がる。俺は何も言わない。ただ、水路と荷場のあいだに立つ。桶が渡る。箱が動く。声が交差する。


俺は横に並んだまま、軽く聞く。

「なあ、この辺ってさ、朝はいつもこんな感じなのか?」


年配の男が受け取りながら答える。

「毎日だな。この時間になったら勝手に始まる。誰かが始めろって言うわけでもないしな」

そのまま隣へ流す。

「流れが決まってるからな。乗ればそのまま回る」


俺は軽く続ける。

「誰が決めてるんだ?」


男が少しだけ考える。

「誰っていうか……前からこうだな。ずっとこの形で回ってる」


後ろから女の声が入る。

「水の順も変わらないしね。場所も決まってるから、いちいち考えなくていいしね」

桶を渡しながら続ける。

「来た分を回せば、それで終わる」


俺は頷く。

「考えなくていい、か」


若い男が縄を肩にかけ直しながら言う。

「……ああ、そういやさ、前にあの人言ってたよな。水は当たり前じゃないって」


すぐ別の声が乗る。

「言ってたな。感謝しろってやつだろ」


箱を押し出しながら笑う。

「まあ、言ってることは分かるよ。水来なきゃ終わりだしな」


女が軽く笑う。

「当たり前だと思うなって話でしょ。でもさ、結局来てるしね。来てるなら回す、それだけで十分よ」


若い男が箱を置きながら言う。

「そうそう。気持ちの話だよな。ありがたいなって思っときゃいい」

肩を回す。

「でも手は止めない。それが一番大事だろ」


別の男が笑う。

「心がけだな、心がけ。ちゃんと回してりゃ文句ない。止めた方が迷惑だしな」


短い笑いが混じる。手は止まらない。俺はまだ何も言わない。水は流れる。桶が渡る。箱が積まれる。


少し離れたところで声が上がる。

「要するにさ、当たり前だと思うなってことだろ」


すぐ別の声。

「そうそう。感謝は忘れるなってやつ」

箱を持ち上げながら続ける。

「まあ、いい話だよな。朝聞くにはちょうどいい」


笑いが混じる。

「でも今は回す方が先だな。今日もちゃんと来てるしな、水」


誰かが確認するように言う。

「問題ない、そのまま流せ」


それ以上は誰も触れない。俺は立ったまま聞いている。少しだけ、息を吐く。

「……ちゃんと回ってる」


誰にも向けない声。それでも流れは止まらない。桶が脇に置かれる。縄がほどける。


誰かが手を衣で拭きながら言う。

「今日、ちょっと早いな。この時間でここまで回るの珍しいだろ」


別の男が水を飲んでから返す。

「水の回りがいいからな。詰まるとこもなかったし、このまま行けば昼も楽だぞ」


短い笑いが混じる。女が肩を回しながら言う。

「こういう日が続けばいいんだけどね。毎日こうなら文句ないのに」


誰かが桶を足元に置く。

「まあ、そううまくはいかないだろ。でも今日みたいに回ってるなら十分だな」


完全には止まらない。でも、次もまだ来ていない。俺はその端に立ったまま声を出す。

「なあ」

少しだけ間。

「さっきの話さ」


二、三人が視線を上げる。俺は肩の力を抜いたまま続ける。

「ちょっとだけ、ここで聞いてもいいか?」


年配の男が手を拭きながら言う。

「……今なら少しならいいぞ。すぐ戻れるならな」


女も頷く。

「長くならないならいいよ。すぐ動けるようにしときたいし」


誰かがその場にしゃがみ込む。別の男は立ったまま腕を組む。俺は少しだけ前に出る。

「別にさ」

一拍。

「正しいとか間違ってるとか、そういう話じゃない」

一拍。

「分かってることを、誰が引き受けてるのかってだけだ」


少し沈黙が落ちる。年配の男がゆっくり口を開く。

「……それは分かるな。言ってることはちゃんとしてると思う」


女もすぐ続ける。

「うん、大事だと思うよ。そういうの抜けると、結局どこかでズレるし」


別の男が腕を組み直す。

「確かに。言われてみれば、って感じだな。普段そこまで考えないだけで」


誰も否定しない。誰も笑わない。でも、一人が空を見て言う。

「……そろそろいい時間だな。このままだと次の列に間に合わなくなる」


別の男が荷を持ち直す。

「これ次どこだっけ。さっき南って言ってたよな」

「いや、その次だ。こっち終わってから回す」


足が少し動く。女が軽く言う。

「……でもさ」

一拍。

「今じゃなくてもよくない?止めるほどの話でもないし、話としては分かるよ。後ででもできるでしょ」


別の男がすぐ続ける。

「そうだな。今ここで止まる理由はないよな。回してる途中だし」

肩を回す。

「終わってからでも話せるし、その方が落ち着いて聞けるだろ」


誰も俺を見ない。でも、離れもしない。言葉は残る。理解もある。でも体はもう次に触れている。俺は何も言わない。一人がしゃがんだまま水を飲む。別の男が足先で小石を転がす。誰かが喉を鳴らす。少しだけ間が伸びる。


やがて。遠くで声が飛ぶ。

「次、回せるぞ!」


誰かが立ち上がる。

「来たな。行くか」


別の男も動き出す。

「そのまま持て。止めるなよ」


流れが戻ってくる。さっきの輪は、そのままほどけていく。そのとき、サジークが戻ってくる。足を止めず、そのまま流れの外に立つ。輪には入らない。


誰かが少し迷いながら口を開く。

「じゃあさ……また集まって話すか? 今の話、ちゃんと詰めてもいいと思うんだけど」

一拍。

「さっきのままだと、中途半端だろ。分かるやつと分かってないやつで、そのまま流れそうだし」


サジークが静かに口を開く。

「言ってることは分かる。ちゃんと考えた方がいい話なのも、その通りだと思う」

視線は人じゃなく、場に向いたまま。

「たださ、ここで集まると、詰まる」


誰かが小さく眉を動かす。サジークはそのまま続ける。

「今ここ、人が固まる場所じゃないだろ。桶が通るし、縄も通るし、後ろからもどんどん来てる」

手で示さない。ただ視線でなぞる。

「ここで止まると、流れが乱れる。それは避けた方がいい」


誰も首を振らない。サジークは少しだけ声を落とす。

「それにさ、話の中身自体は、もう届いてるだろ。必要なやつには、もう引っかかってる。ここで全員集めて広げると」

少しだけ間。

「逆に反発が出るぞ」


別の男が頷く。

「……ああ、それはあるな。今は素直に聞けてても、集められると構えるやつ出てくる」


女も続ける。

「分かる。こういう話って、押し付けられる感じになると一気に嫌がる人いるし」


サジークは頷きもせず、そのまま言う。

「今は、その形にしない方がいい。このまま流しておけばいい。無理にまとめる話でもない」


一人がぽつりとこぼす。

「……そうだな。今止める理由もないし」


別の男が荷を持ち直す。

「話は分かったしな。考えるやつは勝手に考えるだろ」


女が軽く笑う。

「わざわざ集めなくても、残るやつには残るよ」


誰も俺を見ない。誰もサジークを責めない。最初に話しかけた男が肩をすくめる。

「じゃあ、このまま行くか。今止める方が面倒だしな」

「そうだな、戻るか」


足がもう動き出す。一人、流れに戻る。また一人、別の方向へ動く。

「そのまま持て! 止めるな!」


声が戻る。輪は、自然にほどけていく。サジークは何も言わない。そのまま元の位置に戻る。


俺はその場に立ったまま、小さく息を吐く。

「……なるほどな」


誰にも向けない声。それでも流れは止まらない。誰かが先に動く。荷を持ち直す。足の向きを戻す。それが、そのまま合図になる。

「じゃあ、また後でな。手が空いたら、続きでもいいし」


別の男が頷く。

「話は分かったよ。考えとく。今はとりあえず回すわ」


女も続ける。

「ありがとうね。ちゃんと届いてるよ。ただ、今じゃないってだけ」


誰かが俺の前を通る。軽く頷く。

「悪くなかったよ。ああいう話、たまには必要だな。でも今は、手止められないしな」


別の男がそのまま続ける。

「終わってからでもいいだろ。急ぐ話でもないし」


足が動く。

「そのまま持て! 流せ!」


声が戻る。人が減るんじゃない。元の流れに戻るだけだ。誰も終わりと言わない。でも、もう終わっている。俺はそのまま立っている。少しだけ空いた場所を見ている。


ラヒーマが少し離れたところから言う。

「……誰も嫌がってないよね。ちゃんと分かってるし、拒んでもいない」

少しだけ視線を流れに戻す。

「でも、止まる理由もないのね。止まらなくても、困らないし」


俺は何も言わない。遠くで声が飛ぶ。

「次、回せ!」


音が戻ってくる。水が流れる。木が軋む。足音が重なる。さっきまでの場所は、もう元に戻っている。誰のものでもないまま、話だけが残る。流れの端に置かれたまま。


俺は小さく息を吐く。

「……そうか」

それ以上は言わない。

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