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第45話:畳まれた言葉

宿に入る。低い天井。灯りはもう点いている。外より明るいが、静かじゃない。水の音がここまで入ってくる。


俺たちは言葉を交わさずに金を出す。受け取られ、数えられ、それで終わる。


水場へ行く。手を洗う。冷たい。ラヒーマは布で指先まで拭く。サジークは一度、部屋を見る。それで終わる。アミーヌは戸口と窓を順に見る。座る。壁に背を預ける。外の音は止まらない。足音。車輪。呼び声。水。夜でも、この街は間を作らない。器が触れる。乾いた音。


宿の者が碗を拭きながら、ぽつりと言う。

「……ああ、昼の話、聞いたよ。水が当たり前じゃないってやつだろ。感謝しろって」


背中を向けたまま、別の客が返す。

「いたな、ああいうの」

少し笑う。

「でもさ、言ってること自体は間違ってないだろ。水止まったら終わりなんだし」


別の男が口を挟む。

「まあな。でも結局来てるしな。来てるうちは回すしかないだろ。それだけだろ」


宿の者が次の碗を取る。

「最近、ああいう話ちょいちょい聞くよな。感謝だの、当たり前じゃないだのってさ」


奥から声が飛ぶ。

「でもさ——」

一拍。

「正直、忙しい時に言われても困るよな」


短い笑い。別の客が続ける。

「分かるよ。落ち着いてる時なら聞くけどさ。手動かしてる最中に言われても、頭回らないって」


宿の者が軽く頷く。

「まあ、そういうもんだな。でも噂にはなってるぞ。水の神官も、もう知ってるだろ」


空気は、変わらない。奥で、別の声。器を片づけながら。

「……あの人がいるとさ、水、安定するんだよな」


一瞬、誰も何も返さない。やがて誰かが軽く返す。

「まあな。あの人、全部分かってるからな。変なこと起きても、だいたい収まるし」


別の声が続く。

「だから回ってんだろ、この街。誰がどうこうってより、ちゃんと見てるやつがいるってだけだろ」


宿の者が碗を置く。

「まあ、そうだな」


それ以上は広げない。話は自然に切れる。誰かが立つ。戸が少し開く。外の音がまた入ってくる。水は、止まらない。車輪。足音。同じ速さ。同じ間。同じ速さ。同じ間。


遠くで声が飛ぶ。

「三つ、そのまま流せ!」

「遅れてない、そのまま行け!」


誰も急いでない。でも、止まらない。俺は座ったまま、聞いている。昼の話も、水のことも、全部、ここには届いてる。それでも、何も変わらない。


ラヒーマがぽつりと言う。

「……今日、誰も困ってなかったね」

器を少し寄せる。

「水も足りてたし、揉めたところもなかった。だから、止まる理由も、なかった」


アミーヌが窓の外を見たまま続ける。

「……明日も同じだと思います。今日が特別だったわけじゃないです。昨日も、その前も、同じ流れで回ってました」

一拍。

「もう、人が考えなくても回る形になってますね。水も、人も、その流れに乗ってるだけです」


外で戸が閉まる音。サジークが静かに口を開く。

「言ってることは分かる。ここにいるやつも、大体分かってるだろ」

視線は場に向いたまま。

「でも今、詰まってない。水も荷も、そのまま回ってる。遅れも出てないし、止まってる場所もない」


通路の方を軽く見る。

「ここで止めたらさ。今この流れで助かってるやつが、先に困る。俺はそっちを先に見る」

一拍。

「話を消すつもりはない。でも今は、切らない」


それだけ言って、黙る。少し間。外からまた声。

「そのまま持て! 止めるな!」


場のあちこちで、小さく言葉が返る。

「……まあ、そうだよな。今日ずっと回ってるしな。水も安定してるし、ここで止める理由ないだろ」


別の男が続ける。

「ここで止めると逆に詰まるぞ。あとで取り戻す方が大変だし、そっちの方が迷惑かかる」


女が器を指で回しながら言う。

「話は分かるんだけどね。大事なのも分かるし、間違ってるとも思わない」

少し笑う。

「でも今じゃない、ってだけ」


別の声。

「落ち着いた時なら聞くよ。今は手止められないだろ、普通に」


短い笑い。俺は何も言わない。水の音は変わらない。車輪も、同じ間で回る。


場所が変わる。


板の前で、男が炭を動かしている。線を一本消して、少しずらす。こちらを見ないまま言う。

「……ああ」

一拍。

「昨日、水の話してたやつだな」


横の男が続ける。

「水は当たり前じゃないってやつだろ。感謝しろ、って話」


俺は軽く聞く。

「それ、正しいと思うか?」


すぐ返る。

「正しいと思うよ。理屈としてはな」

炭を動かす。線を整える。

「でも仕事には関係ないだろ。あとで考えればいい話だし」


別の男も口を挟む。

「そうそう。今ここで止める理由はないな。水も回ってるし、順番も崩れてないし」


俺は続ける。

「“あとで”って言ったよな」

一拍。

「その“あと”って、誰が決めるんだ?」


板の男は手を止めない。

「その時の様子だな。流れ見て、必要なら止める」


横の男が補足する。

「止めるかどうかは、その場で判断ってことだろ」


別の声。

「今は止めるほどのこと起きてないな」


軽く頷きが回る。俺はもう一つ聞く。

「じゃあさ」

一拍。

「止めるとしたら、誰が止める?」


ほんの一瞬、炭が止まる。板の男が言う。

「役目は分かれてる。でも全部止める役はいないな」


別の男が肩をすくめる。

「まあ、全体止めるやつはいないな。流れ見て、それぞれが調整するだけだろ」


少し離れたところから声。

「結局、流れが決めてるみたいなもんだな」


俺は板を見る。線は整っている。俺は聞く。

「正しいって分かっててさ。それでも何も変えないのは、なんでだ?」


板の男が炭を軽く叩く。粉が落ちる。

「正しいかどうかと、実際にやるかは別だな」


横の男が続ける。

「分かってるだけじゃ現場は動かないだろ」


別の男。

「正しいからって、今すぐ手入れるとは限らないしな」


板を見たまま、男が続ける。

「今は他に見るもんが多い。水の量。荷の順。時間のズレ」

一拍。

「それが崩れてないうちは。変える理由が出てこない。壊れてないもん、今いじる必要ないだろ」


誰かが小さく息を吐く。

「正しさ自体は消えてないけどな。後ろに回されてるだけだ」


俺はもう一度だけ聞く。

「じゃあ」

一拍。

「その“後ろ”に回されたやつってさ、いつ前に出る?」


すぐ返る。

「必要になったら」


別の声。

「余裕できたらだな」


さらに。

「今の流れが崩れたら」


誰も笑わない。俺は何も言わない。外で声が飛ぶ。

「そのまま流せ!」


炭がまた動く。線が引き直される。誰も止まらない。戸をくぐる。外の音が、そのまま続いている。ラヒーマと外に出る。少し歩く。


水路と荷場のあいだ。


人の流れが、ほどけた場所。ラヒーマが、足を止める。少し外れたところで、男が立っている。動いてないわけじゃない。でも、次に行っていない。ラヒーマはその横に立つ。少しだけ外。何も言わない。


少しして、男が息を吐く。

「……もう、終わりか」


ラヒーマはすぐに返さない。外で足音が遠ざかる。水の音だけ残る。

「うん」


男は少し黙る。

「今日、早かったな。俺、朝からずっと入ってたんだよ。ここ」

一拍。

「気づいたら終わっててさ」

少し笑う。

「終わると、もう誰もいないんだよな。さっきまであんなにいたのにさ」


ラヒーマは動かない。

「うん」


男は足元を見る。

「みんな次あるからさ。呼ばれるやつは、そのまま次行くし」

少し間。

「そのまま誰かと話しながら行ったりな。帰るやつは、帰る場所決まってるし」

一拍。

「俺も仕事はあるんだけどさ。ちゃんとある方だと思う」


少し肩をすくめる。

「でも終わると、急に静かになるんだよな。さっきまでの音が、嘘みたいに消える」


ラヒーマが短く言う。

「静かだね」


男は少し間を置く。

「……だからさ」


言いかけて止まる。少しだけ首を振る。

「いや、いいや」


沈黙。もう一度、息を吐く。

「……まあ」

小さく笑う。

「こういうのも、たまには悪くないな」


少し横を見る。

「誰かいると、違うな。帰る前に、こういうのあると助かる」


ラヒーマは何も言わない。離れない。外で声が飛ぶ。

「次、回せ!」


男はそっちを見ない。

「行けば、また回るんだけどな。今じゃなくてもいい気がする」


ラヒーマは、離れない。

「今でいいよ。ここにいるよ」


それだけ。男は少しだけ頷く。

「……だな」

小さく息を吐く。

「じゃあ、もう少しだけ」


二人は、そのまま立っている。流れの外で、誰も呼ばない場所に、一人を残さないまま。


宿の奥。


壁際の低い机。灯りは届くが、隅までは照らさない。さっき、水路の脇で立ち止まっていた男が、そこに座っている。流れが切れたあと、残っただけだ。ラヒーマが器を置く。余りだ。特別なものじゃない。音を立てない。何も言わない。


男が少し視線を上げる。

「……いいのか」


ラヒーマは短く返す。

「うん」


男は礼を言わない。そのまま手を伸ばす。誰も見ていない。数えられない。どこにも残らない。俺は少し離れて見る。ただ、言葉もなく、そこに置かれただけだ。流れを止めない。流れにも入らない。それでも、残る。


少し時間が過ぎる。


同じ場所。机も、灯りも、そのまま。男は、まだいる。背中は少しだけ起きている。顔も、少し上がっている。何も変わってない。仕事も、明日も。ただ、立ち方が、少し違う。ラヒーマは何も言わない。同じように、器を置く。理由も、説明もない。そして、次の人の横に立つ。距離は同じ。沈黙も同じ。相手だけが変わる。線も残らない。つながりも見えない。それでも、消えない。俺はそれを見る。これは、流れじゃない。止めない。回らない。

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