第42話:通常という地獄
通りの先に、穀物を渡す台が並んでいる。板を渡しただけの簡単な台だ。その前に、人が一列に立っている。押し合いはない。誰も急がない。列は静かに前へ進む。一人ずつ前に出る。籠を差し出す。台の向こうの係が中を見る。手で穀物をすくい、籠に落とす。声は低い。張り上げない。
「次、穀物」
それだけで、列は動く。ラヒーマが台の様子を見る。
「誰も止まらないのね。穀物が少なくても、顔も変わらない。誰かが文句を言う前に、もう次に進んでる」
サジークは列の流れを目で追う。前の籠が離れると、次の籠が自然に出る。
「多い少ないの話じゃないな。ここは、足りないことも最初から分かってる。困る前に、次で合わせるやり方だ」
アミーヌが近くの板を見る。木の板だ。水を流す順や、回す時間が刻まれている。
「時間も、全部決まってますね。水を流す順も、穀物を渡す時も、もう書いてある。だから人は聞かないし、争わない」
少し離れた列で声が上がる。
「昨日より——」
言いかけた男は、板を見て止まる。指で刻まれた文字をなぞる。アミーヌが続ける。
「見て納得してます。理由を聞く必要がない。決まっていることを、ただ見てるだけです」
ラヒーマが水路のほうを見る。人が何人か集まっている。だが、声は重ならない。
「みんな集まってるのに、揉めないのね。誰も声を重ねないし、割り込まない」
サジークが肩を動かす。水路の水は、もう細く流れている。
「割り込む理由がないからだ。帳面も合ってる、水も回る。困る前に全部動く」
アミーヌが列の終わりを見る。列はほどけても、すぐ別の場所でまた形になる。
「だから問題が残らないんですね。気持ちも残らない。終わったら、すぐ次に動ける」
俺は穀物の台を見る。籠が差し出され、穀物が落ちる。同じ動きが何度も続く。
「村なら、ここで誰かが声を出す。少ないとか、遅いとか。だがここでは、言葉を出す必要がない」
ラヒーマが小さく息を落とす。
「壊れてないのね。だから誰も止まらない」
サジークが肩をわずかに動かす。
「壊れないように回してるんだ。止まる前に流す。それがこの街の速さだ」
少し間。アミーヌの視線が通りをなぞる。
「だから、困っている人も生まれないんですね。生まれる前に、もう動いてる」
俺は立っている。話す場所に立っている。だが、目の前の流れは、詰まらない。
「……割り込む隙がない」
ラヒーマが俺を見る。
「言うこと、ないの?」
俺は通りを見る。
「壊れていない場所では、言葉は要らない」
その時、通りの奥から作業の音が聞こえる。布が地面を擦る音だ。通りの端で、男たちが布を広げている。さっき見た遺体だ。
サジークがそちらへ目をやる。
「また回収だな」
アミーヌも視線を向ける。男たちは布を持ち上げ、縄をかけ直している。
「昨日の続きみたいにやってますね。急いでるわけでも、隠してるわけでもない」
ラヒーマが小さく頷く。
「仕事なのね」
男たちが布を引き、縄を整える。
「重さ、偏ってる」
「じゃあ、逆」
「それでいい」
身体が少し持ち上がる。布の端が折られ、縄が締められる。サジークが様子を見ている。
「決まったやり方だな」
アミーヌの視線が縄を追う。
「止まらないように動いてるんですね。回収も流れの中です。残ったものを、順に片付けていくだけです」
水路の係が手を上げる。
「水、先に通す」
水が流される。地面の砂が流れ、足跡が消える。ラヒーマが小さく息を落とす。
「死んだ人まで、流れの中なのね」
誰も答えない。俺は通りを見る。人は歩き続けている。籠を持つ人も、縄を持つ人も、同じ速さで動く。止まる理由は、ない。少し間。俺は小さく息を吐く。
「……この街は、人を止めない。だから、人を抱えない」
言葉が落ちる。流れは変わらない。人は歩き続ける。声も、足音も、同じ速さのままだ。その流れの中で、ラヒーマが、ほんの一瞬だけ足を止める。だが、足が止まる前に、手が動く。近くの器から水が差し出される。ラヒーマが受け取り、こぼれた水を布で拭く。布を絞りながら言う。
「誰も声をかけないのね。でも、手はちゃんと動いてる。濡れたままにもしておかないし、誰かを呼ぶこともしない」
布を軽く振る。
「言葉より先に、体が動くのね。決まったことみたいに」
サジークが通りの足元を見る。
「慣れてるんだろうな。ここじゃ、水も石も、誰かがすぐ直す。止めなくても戻るなら、それで済む」
顎で通路を示す。
「騒ぐ前に形だけ整う。そういう場所なんだろう」
アミーヌが濡れた地面を見る。
「跡もすぐ消えますね。濡れたところも、足跡も、次の人が踏めば分からなくなる。だから、起きたことが残らない。直った形だけ残るんですね」
男たちが布を持ち上げ、縄を掛け直している。包まれた身体が地面から浮く。一人が縄を見上げる。
「もう少し上げろ。地面擦ると布破れるぞ。昨日もそれで一枚駄目にした」
別の男が答える。
「分かってる。縄ゆるいだけだ。締め直せば持つ」
三人目が縄を引きながら言う。
「急がなくていい。通路だけ空いてりゃいいんだ。通れなくなるのが一番面倒なんだ」
縄が引かれる。身体が少し持ち上がる。別の男が足元を見る。
「石、外したほうがいいな。段になってる。引っかかるぞ」
隣の男がしゃがむ。
「この石か? 重いな」
「それでいい。脇に置いとけ。戻すのは後でやる」
石が持ち上げられる。通路が少し広がる。最初の男がうなずく。
「よし、そのまま運べ。通れるならそれでいい。終わったら石戻す」
サジークが低く言う。
「全部、手順通りだな。誰も慌ててない。前にも何度もやってる動きだ。迷いもない。仕事の形になってる」
アミーヌが縄を見る。
「結び方も決まってますね。ほどけないけど、すぐ外せる。運ぶ間だけ持てばいい。人じゃなくて、重さを運んでるみたいです」
ラヒーマが布を畳みながら言う。
「誰も顔を確かめないのね。名前も聞かないし、誰だったかも言わない。知る必要がないから」
身体が運ばれる。男たちの声が続く。
「段、気をつけろ。縄ゆるむと落ちる」
「見てる。こっち持て」
「そのまま真っすぐ行け」
石が戻される。通路が元に戻る。少し離れた場所で、また布が広がる。乾いた音が地面を擦る。一人の男が布の端を見る。
「……またか。今日は多いな」
別の男が肩をすくめる。
「今朝で三つ目だろ。まだ昼前だぞ」
三人目が布の結びを見ながら言う。
「朝からあそこに座ってたやつだ。動かねえなと思ってたら、この様だ」
少し間。最初の男が短く言う。
「詰まらなきゃいい。通路だけ空けとけ」
二人が立ち位置を変える。
「通路空けろ」
「空いてる」
籠を抱えた人がその間を通る。誰も止めない。アミーヌがそちらを見る。
「数を言うだけなんですね。驚きもないし、確かめもしない。起きたこととして並べてるだけです」
ラヒーマが通りを見る。
「周りの人も見てないのね。目に入ってるのに、気にしてる顔じゃない。ここでは、珍しくないのかしら」
サジークが短く言う。
「珍しくなくなるまで見てきたんだろう。慣れりゃ、ただの数だ」
籠を抱えた人が横を通る。流れは乱れない。俺は、その流れの中に立っている。アミーヌが俺を見る。
「ここでは、全部同じ場所に戻りますね。濡れた地面も、動いた石も、倒れた人も。片付けば、何もなかったみたいに」
ラヒーマが静かに言う。
「だから、この街は静かなのね」
サジークが通りを見たまま言う。
「全部、流れに戻るからだ」
その脇を、親子が通る。子どもが足を止める。布を見る。
「ねえ」
親の手を少し引く。
「……なんで、死んでるの?」
声は小さい。怖がってはいない。ただ、分からないという調子だ。親は歩きながら答える。
「自分でやったの」
それだけだ。子どもはもう一度布を見る。それから親を見る。
「ふうん」
手を引かれて、また歩き出す。振り返らない。二人は、人の流れに溶ける。ラヒーマが小さく言う。
「……子どもは、すぐ覚えるのね」
少し離れたところで、男たちの声が続く。一人が布を見ながら言う。
「昨日のやつ、書いてあるか。場所はここで合ってるな。朝から人が多い時間だな」
隣の男がうなずく。
「書いてある。昨日も同じ場所だった。家の人はまだ来てない」
別の男が通路を見て言う。
「ここに置いたままだと、人が引っかかるな。先に運んどこう。あとで来たら、向こうで見せりゃいい」
縄を持つ男が肩を動かす。
「布はそのままでいい。名前が分からなくても困らない。あとで分かったら足せばいい」
最初の男が通りを見る。
「列は止めるなよ。詰まると面倒だ。運び終わったら横へ寄せとけばいい」
もう一人が短く返す。
「分かってる。通れるようにだけしておく」
会話はすぐ別へ移る。
「南の水、先に流すぞ」
「桶、足りてるか」
「足りてる」
流れは止まらない。アミーヌが小さく言う。
「……今の子、泣きませんでしたね」
サジークが通りを見る。
「泣く前に、連れて行かれた。止まる理由がないんだろ」
ラヒーマが布を結びながら言う。
「理由があっても……同じよ。ここでは、何も変わらないから」
アミーヌが低く言う。
「“自分でやった”って言葉で……それ以上、聞かないんですね」
サジークが肩を動かす。
「それ以上、聞く必要がないんだろ。流れが止まらなきゃ、それでいい」
俺はさっきの子どもを思い出す。
「ふうん」
分かったわけでも、嫌がったわけでもない。ただ、そういうものだと受け取った声だった。そして、誰も、それを言い直さなかった。
また一人、通る。
「次、どこ?」
「東だ。あっち空いてる。終わったら戻ってこい」
「分かった。先に片付けてくる」
そのまま歩く。曲がる。流れの中に消える。俺は通りを見る。歩く速さも、声の調子も、少しも変わらない。
ラヒーマが小さく言う。
「もう回収先に届いてるわね。さっき運んだばかりなのに、もう次の仕事に変わってる」
通りの奥を見たまま続ける。
「早いわ。誰も立ち止まらないから、すぐ別の動きに繋がる」
サジークが肩を動かす。
「止めないからだ。運ぶやつ、配るやつ、次を動かすやつが、全部同時に動いてる。誰かが止まれば、その後ろの人が詰まる」
通りを見る。
「詰まれば遅れる。遅れれば、仕事に行く人や水を取りに来る人にも迷惑がかかる。だから、最初から止めない」
通路の端で声が上がる。
「これ、そっち持ってく。まだ温かいうちに回したほうがいい」
器が置かれる。
「ありがとう。今ちょうど渡してるところだ。ここに置いとけばすぐ回る」
「温かいか?」
「うん、まだ大丈夫」
穀物を受け取る手は落ち着いている。表情も変わらない。アミーヌが低く言う。
「遺体を運ぶのと、食べ物を渡すのが同じ流れですね。どちらも止めないように動いてる」
通りを見ながら続ける。
「止めると誰かが困るから、最初から止まらない形で回してる」
別の声が入る。
「今日の順番、替わるか? 少し続いてるぞ」
「ううん、大丈夫。まだいける」
「じゃあ次は私が入る。終わったら声かけて」
役割はすぐ埋まる。ラヒーマが布を折りながら言う。
「……人、集まらないのね。見に来る人も、立ち止まる人もいない」
サジークが短く返す。
「集めないからな。人が集まれば、その分止まる」
ラヒーマが静かに続ける。
「止まれば、後ろの人が遅れる。遅れれば、その人の仕事にも響く」
布を整える。
「……だから集まらないのね」
通路の向こうで声が聞こえる。
「家、開けといた。あとで片付けに入れる」
「分かった。鍵はこっちで預かっとく」
「助かる」
名前は出ない。必要なのは手順だけだ。ラヒーマが濡れた器を受け取る。
「これ、あとで使って。まだきれいだから」
女が頷く。
「分かった。次に回す」
器はすぐ次の手へ渡る。ラヒーマが小さく言う。
「……泣く場所、ないわね」
俺は答えない。ラヒーマは続ける。
「泣く前に、次の仕事が来る。仕事をしてるうちに、もう次の役目が回ってくる」
針を布に通す。
「……だから終わっちゃう」
通路の向こうで声。
「水、先に回すぞ。桶は足りてるか?」
「足りてる。問題ない」
誰も止まらない。ラヒーマが手を止める。俺を見ないまま言う。
「……これ、優しいの?それとも、楽なだけ?」
俺は答えない。ラヒーマが静かに言う。
「ここでは、悲しむと遅れる。遅れると、人に迷惑をかける」
小さく息を落とす。
「……だから、来ない」
誰が、とは言わない。通路の向こうで声。
「次、どこ?」
「東。終わったら戻れ」
「了解」
人が歩く。曲がる。消える。流れは止まらない。ラヒーマが布を少し胸に寄せる。ほんの少しだけ。
「……ここにいると、悲しみが、行き場をなくす」
俺は何も言わない。ラヒーマは布を見て、また作業に戻る。世界は静かだ。静かすぎるほどに。それでも、生活は、続いてしまう。人が横を通る。荷を運び、水を回し、列を整える。
俺は足を止める。流れは止まらないまま。
「ちょっと聞いていいか」
歩きながら、何人かがこちらを見る。
「お前たち、朝からずっと動いてるな。水回して、荷運んで、列整えてさ。誰か止まったら、すぐ別のやつが動く」
通りを指す。
「ずっと、こんな感じで回してるのか?」
肩が少し動く。
「まあな。止める理由がないからな。水は時間で流すし、列も崩したくない。誰か止まれば後ろが詰まる。詰まれば仕事行くやつも、水取りに来るやつも困る」
別の声。
「だから同じ速さで動くんだよ。急ぐわけでもないし、立ち止まるわけでもない。決まったことを順にやるだけだ。それで街は困らない」
少し笑う声。
「最初は疲れるけどな。でも慣れりゃ分かる。止めないほうが楽だ。考えなくて済むからな」
俺は軽く頷く。
「じゃあさ」
少しだけ声を落とす。
「お前たちの心って、どこ向いてるんだ?」
数人がちらっと見る。足は止まらない。
「生きるために働いてるのか?」
一拍。
「それとも、働くために生きてるのか?」
すぐ返ってくる。
「働くために生きてるに決まってるだろ。腹減れば飯食うし、仕事あればやる。それで街が回るならそれでいい。わざわざ止まって考えることじゃない」
別の声。
「金が全部とは言わないけどな。でも無いと何も動かない。水も飯も道具も止まる。だからみんな働く」
俺は続ける。
「じゃあ——」
少しだけ視線が集まる。
「死んだあとさ。この作業、何になる?」
一拍。
「意味、あるのか?」
沈黙。でも流れは止まらない。声が返る。
「意味はあとでいいだろ。腹減ってるときに意味なんか考えない。まず今日を回す。意味はそのあとだ」
別の声。
「俺たちはちゃんと役目はやってる。水も回ってるし、飯も配れてる。誰も困ってない。それで十分だろ」
肩が少し上がる。
「問題起きてない。誰にも迷惑かけてない。それで意味とか言われてもな。正直どうでもいい」
周りも頷く。
「言ってることは分かるよ。考えるやつもいるだろうな。でもそれで街が回るわけじゃない。今は水回すほうが先なんだ」
列は進む。水が流れる。荷が運ばれる。誰も止まらない。俺の言葉は、人の間をそのまま通り抜ける。誰も拒まない。でも、必要とも思われてない。ラヒーマがこっちを見る。何か言いかけて、やめる。また声。
「次どこ?」
「東」
「了解」
歩く。曲がる。消える。俺はそのまま立っている。言ってることは、間違ってない。でも、軽い。触れられないほど。重さを持たないほど。次の瞬間、風に溶ける。俺はその中で、言葉が役目を失っていく音を、はっきり聞いている。




