第41話:通過される
足は止まらない。水の音も、売り声も、同じ速さで流れている。俺は少しだけ流れから外れる。誰も止まらない。男が一人、こちらを見る。ほんの一瞬だ。すぐ足元に視線を戻し、そのまま通り過ぎる。次の人も同じだ。俺はその場に立つ。何も言わない。
横で、サジークが低く言う。
「……立っても変わらねえな。誰も止まらん。避けるだけだ。柱でも立ってるみたいな扱いだな」
アミーヌは人の動きを追っている。
「……目、合ってませんね。合う前に、もう通り方が決まってる。人じゃなくて、流れを見てる」
ラヒーマが少し位置を動かす。
「……怒ってる感じでもないのよね。ただ避けてるだけ。でも、何も始まらない」
サジークが短く言う。
「待ってないな。止まる場所でもない」
俺はまだ立っている。誰も速さを変えない。サジークが通りを見たまま言う。
「拒んでるわけじゃない。ただ、必要としてない」
ラヒーマが俺を見る。
「……村なら違うわね。誰かが立てば、人が寄る」
アミーヌが静かに言う。
「ここでは違います。沈黙も、流れの中です」
サジークが小さく言う。
「立っても、何も始まらん」
俺は通りを見る。
「……ああ。ここでは、立っても何も起きない」
誰も否定しない。流れだけが、同じ速さで続いている。ラヒーマが、さっきの男の背中を見る。男はもう流れに溶けている。
「……判断、早いわね。一瞬見て、もう終わり」
サジークが答える。
「待ってないからな」
もう一人が横を通る。視線が一瞬こちらをかすめる。だが足は止まらない。アミーヌは通りの先を見たまま、小さく息を落とす。
「……始まらない、って判断ですね」
サジークの眉がわずかに動く。
「何がだ」
アミーヌは肩の向きを少しだけ流れに合わせる。
「ここで何か起きる、って前提がないんです」
ラヒーマは通りを見渡す。人は同じ速さで歩き続けている。
「見えてないわけじゃないのよね。でも、出来事にもしてない」
サジークは足元の石を一度だけ見てから前を向く。
「止まらんからな」
アミーヌが続ける。
「村だと沈黙がきっかけになります。でもここでは違う」
サジークが短く言う。
「通過だな」
俺は通りを見る。
「……ああ。ここでは、沈黙も流れていく」
ラヒーマが人の流れを見渡す。
「黙って立ってても、誰も止まらないのね」
サジークが肩をすくめる。
「止まる理由がない」
アミーヌが静かに言う。
「きっかけになってないからです」
ラヒーマが水袋に手をかける。
「……じゃあ、沈黙じゃなくて動いたら?」
サジークがちらりと見る。
「何をする?」
ラヒーマが水袋を外す。
「渡してみる」
通りの端に、少し空いた場所がある。人の流れから外れた位置だ。籠を抱えた女がこちらへ来る。歩幅は変わらない。視線はもう先にある。
ラヒーマが水袋を少し持ち上げる。
「……どうぞ」
声は届く距離だ。だが女は歩調を変えない。水袋を見る。ほんの一瞬。受け取らない。拒まない。そのまま通り過ぎる。背中はすぐ人の流れに重なる。
ラヒーマは追わない。水袋を静かに戻す。
「……届いてない、って感じでもないのよね」
サジークが低く言う。
「止まってない」
通りを見たまま続ける。
「止まらんから、受け取らん」
アミーヌが女の消えた方を見る。
「……悪い顔じゃなかったです」
サジークが聞く。
「気づいてなかったか」
アミーヌは首を振る。
「多分、気づいてます。でも受け取る前に、もう次へ行ってる」
ラヒーマが水袋を確かめる。重さは変わらない。
「水を持ってる人は、持ってるのよね。だから……止まる必要もないのかも」
サジークが肩をわずかに動かす。
「流れの中じゃ、手は止まらん」
少し間。アミーヌが静かに言う。
「ここでは、助けるって動きも……止まる形にならないんですね」
俺は通りを見る。人は同じ速さで歩き続けている。ラヒーマが水袋を腰に戻す。
「……拒まれた感じでもないわね」
サジークは一度だけ肩を揺らす。
「違うな。割り込めなかっただけだな」
ラヒーマが通りを見ながら小さく言う。
「村なら、あの人、歩いたままでも手を伸ばしたわ。ここは……誰も手を出さないのね」
アミーヌが人の背中の流れを見る。
「止まらないからですね。手を出す前に、もう次へ行ってしまう」
サジークは通りの奥を見たまま息を落とす。
「流れに入ったら、手は止まらん」
ラヒーマが小さく頷く。
「助けるにも、足を止めないといけないものね」
少し間。アミーヌが言う。
「だから……優しさも引っかからない」
俺は何も言わない。通りの流れは切れていない。ここでは、優しさも、そのまま通り過ぎていく。少し歩く。俺は人の流れに戻る。同じ速さで歩く。
アミーヌが横で小さく言う。
「立っても、水を差し出しても、何も残りませんね」
サジークは前を見たまま肩を動かす。
「流れが速すぎる」
ラヒーマが通りを見る。
「じゃあ……何なら残るのかしら」
少し間。俺は小さく言う。
「……なら、目はどうだ」
一人、すれ違う男を選ぶ。視線を上げる。逸らさない。目が合う。ほんの一瞬。男の眉も動かない。驚きもない。次の瞬間、視線は離れる。男は歩き続ける。速さも姿勢も変わらない。
横でアミーヌが小さく言う。
「……多分、見たんですよ。でも気にしてない」
サジークが低く息を吐く。
「話しかける理由がないんだ。話しかけなくても困らん。だから相手もしない」
俺はもう一人と目を合わせる。同じだ。視線は触れる。だがすぐ離れる。ラヒーマが通りを見ながら言う。
「見えてないわけじゃないのよね。でも、残らない」
アミーヌが続ける。
「ぶつからないかだけ見てるんです」
サジークが頷く。
「通るための目だな。止まるための目じゃない」
俺は通りを見る。人は同じ速さで歩き続けている。ラヒーマが言う。
「村なら違うわね。目が合えば、何か起きる」
アミーヌが小さく頷く。
「挨拶とか、様子見とか」
サジークが肩を動かす。
「ここは違う。邪魔かどうかだけだ」
少し間。俺は小さく言う。
「……だから、平気なんだ」
アミーヌが頷く。
「ええ。平気でいられる作りです」
サジークが前を見たまま言う。
「重くなる前に流す」
一拍。
「それがこの街だ」
俺はもう一度視線を上げる。だが、今度は合わせない。合わせても残らない。通りは止まらない。ラヒーマが小さく言う。
「人を抱えない街ね」
サジークが答える。
「抱えないから回る」
アミーヌが通りの奥を見る。
「……だから、壊れたものも長く見なくて済むんですね」
俺は通りを見る。
「……人は、見なくて済む速さを作る」
誰も否定しない。流れだけが続いている。俺たちも、その速さに合わせて歩く。その流れが、ほんの少しだけ歪む。詰まるほどじゃない。止まるほどでもない。
ラヒーマが先に気づく。
「……あそこ」
通りの脇に、人が一人倒れている。倒れたまま、動かない。身体は道の真ん中から少し外れている。人が通れる位置だ。誰かが、少しだけ脇へ寄せたらしい。顔は地面を向いている。呼吸は見えない。胸も動いていない。生きているのか、死んでいるのか。それは分からない。
アミーヌが小さく言う。
「……寄せてありますね。流れの外に出してる。真ん中にあったら、人が詰まりますから」
サジークは歩幅を変えない。
「通れるようにだろうな。流れを止めない位置だ。ここじゃそれで済む」
ラヒーマが伏せた身体を見る。
「誰かが触ったのね。完全に放っておいたわけじゃない」
アミーヌが通りと身体の位置を見比べる。
「多分、通れなくなった時だけ動かしたんでしょう。それ以上は……してない」
前から男が歩いてくる。速さは変わらない。視線も落とさない。足元で、ほんの少しだけ歩く向きを変える。踏まない。ぶつからない。そのまま通り過ぎる。
ラヒーマは通りの男の背中を見る。
「……見てないわね」
アミーヌが首を振る。
「見てます。でも、止まらない」
サジークは流れの先を見る。
「邪魔じゃないからだ。迷惑にならなきゃ、誰も気にせん」
男はもう流れの中に戻っている。振り返らない。サジークが肩をわずかに動かす。
「見て、知らないふりだな。この通りじゃ、それが一番速い」
俺の喉が動く。
「……」
声が出かけて、止まる。ラヒーマが俺を見る。
「声かける?」
少し間。俺は首を振る。サジークは前を見たまま。
「止めりゃ止まる」
アミーヌが伏せた身体を見る。
「でも……多分、それで面倒になりますね」
ラヒーマも視線を落とす。
「……誰かが止まって、顔を見たら」
サジークが小さく頷く。
「それだけで流れが止まる」
アミーヌが通りの人の足元を見る。
「だから、見ないんですね」
ラヒーマが静かに息を落とす。
「見たら……放って行けなくなるものね」
アミーヌの視線が伏せた身体に戻る。
「……生きてるか、死んでるかも、誰も確かめないんですね」
ラヒーマは目を伏せたまま。
「確かめたら……止まらないといけなくなるわ」
誰も否定しない。少し歩く。通りの流れは変わらない。サジークは通りの先を見たまま。
「ここはそういう速さだ」
アミーヌが小さく続ける。
「声をかけても……流れの中ですね」
ラヒーマが人の背中の流れを見る。
「助ける動きも……流れに入るのね」
アミーヌが静かに言う。
「この街……止まる力がないですね」
誰もすぐには答えない。俺は通りを見る。人は同じ速さで歩き続けている。
「……そうだな」
ラヒーマが遠くの通りを見る。
「……慣れてるのね」
サジークが肩をわずかに動かす。
「この街は長い」
アミーヌが続ける。
「長い間、こうやって回ってるんですね」
俺は通りを見る。
「……ここでは、正しい言葉ほど、早く流れる」
誰も答えない。流れだけが続いている。




