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第40話:門のない街

石の感触が、歩くたび、少しずつ変わっていく。サジークが足を少し止め、靴底で地面を押す。

「……踏みやすくなってきたな。石が丸くなってる。さっきより引っかからない」


ラヒーマは前を見たまま歩く。足先だけで軽く踏み直す。

「気のせいじゃない? 同じ道よ。新しい道に出たわけでもないし」


俺も最初はそう思った。だが、しばらく歩くと分かる。さっきと、同じじゃない。


アミーヌが少し目を細める。屈まず、そのまま歩く。

「削れた感じじゃないですね……押されてる。何度も踏まれて、石が沈んでいってる」


サジークが足元を見る。

「轍、重なってるな。古い跡の上に、新しい跡がまた重なってる」


ラヒーマが一度だけ地面を見下ろす。

「人が通り続けたのね。それで地面が固まった」


しばらく歩く。門はない。壁もない。サジークが前を見たまま言う。

「……ここから中だ、って場所がないな。足を止める線も、どこにもない」


音が増えている。遠くから近づく感じじゃない。もう周りにある。アミーヌが耳を少し傾ける。

「声、消えないですね。近づいてくる感じもない」


サジークが短く続ける。

「足音。車輪。金属の音」


ラヒーマが小さくうなずく。

「全部、混ざってる。でも、途切れない」


サジークが肩をわずかに動かす。

「……止まる理由、ないな。誰も止めてない」


ラヒーマが荷を持ち直す。布の端を少し強く握る。

「準備する間も、ないのね。歩いたまま、入る感じ」


サジークが左右を見る。壁を探すように。

「村なら、あるんだがな。門とか、見張りとか」


アミーヌが小さく首を振る。

「誰も立ってない。流れを止める人がいない」


人が横を通る。避けない。ぶつからない。そのまま通る。


アミーヌがぽつりと言う。

「……ぶつからないですね。避けてもいない」


サジークは歩幅を変えない。前を見たまま、周りを一度だけ流す。

「……乱れないな。誰も譲らないし、誰も警戒してない。それでも流れが崩れない」


アミーヌは道を見ていない。建物でもない。すでに歩いている人の顔だけを追う。

「……みんな、決まってる。行き先じゃないです。流れに乗ってるかどうかだけ」


ラヒーマが小さく周りを見る。

「誰も見ないのね、私たちのこと。好奇心もないし、警戒もない」


サジークが短くうなずく。

「最初から、ここにいるみたいだな。邪魔でも、よそ者でもない」

足元で石がさらに滑らかになる。踏まれ続けて、角が落ちている。サジークが地面を一度見る。

「……もう戻らない石だな。村の道が、そのまま別のものに変わってる」


アミーヌが少し首を傾ける。

「でも、変わった瞬間がないですね。入ったって言える境目もない」


ラヒーマが静かに言う。

「歩いたまま、中にいる感じね。止まる場所もないし」


しばらく歩く。アミーヌが周りの音に耳を向ける。

「……音、切れないですね。村だと、どこかで一度静かになりますけど」


サジークが続ける。

「ここは違う。声の上に足音。その上に、金属の音。終わる前に、次が重なる」


ラヒーマが小さく笑う。

「どれも前に出ないのね。全部、後ろに残ったまま」


アミーヌがうなずく。

「音が消えない。そこに残ったまま、別の音が足されていく」


俺は、どこかで待っている。音が、ふっと静かになるところ。あるいは、急にざわっと大きくなるところ。だが、そういう切れ目が、まったく来ない。

ラヒーマが歩く速さを少し変える。人と人の間を抜けるように体が自然と合う。

「……止まらないね。誰にも道を譲られない」


アミーヌが周りの動きを見る。

「でも、押されてもいないですね」


ラヒーマが首をかしげる。

「……道、あるの?」


サジークが低く答える。

「ある」

一拍。

「……でも、誰のものでもない」


周りを見る。人の流れ。物の置き方。立ち止まりそうな場所。だが、止まる点がない。サジークが周りを一度見渡す。歩きながら、肩を少しだけ動かす。

「待つ、ってしぐさがないな。立ち止まる場所が、どこにもない」


アミーヌはすれ違う人の動きを目で追う。

「避けてもいないし、押してもいない」


ラヒーマが周りをもう一度見る。

「最初から流れてるのね」


サジークは前を見たまま、小さくうなずく。

「……もう出来てる」


アミーヌは建物を見ない。空も見ない。すれ違う人の顔だけを追う。

「……誰も周り見てないですね。僕たちじゃなくて、周りそのもの」


ラヒーマは前を向いたまま歩く。

「見てるよ。でも、道を通るために見てるだけ。ぶつからないように見てるだけ。人を見てるわけじゃない」


アミーヌが少し首を傾ける。

「視線、合いませんね。目は動いてるのに、誰ともぶつからない」


ラヒーマが小さくうなずく。

「新しいものを見る目じゃないのね。もう次の場所を見てる」


サジークが周りを一度流す。

「最初から、ここにいる扱いだな。邪魔でもないし、珍しくもない」


声が重なる。足音も重なる。街は、もう動いたまま俺たちを包んでいる。アミーヌがぽつりとこぼす。

「……入った感じ、しないですね。門もないし、止まる場所もない」

一拍。

「なのに……もう外にいる気もしない」


ラヒーマが周りを一度だけ見る。

「迎えられてもないし、追い返されてもない。誰も気にしてない」

少し眉を寄せる。

「……ここ、知らない人を気にしない街ね」


サジークが低くうなずく。

「確かめなくても流れが崩れないんだろうな。止めなくても、人が勝手に動く」


アミーヌが人の動きを追う。

「音が止まらないのと同じですね。終わる前に、次が重なる」


サジークがゆっくりうなずく。

「人も同じだ。止まらない」


俺たちはもう、その中を歩いている。立ち止まって確かめる前に、足が先に合っていく。


そのとき、ラヒーマが鼻先を少し上げる。

「……匂い、変わった」


アミーヌも気づく。

「石の匂いですね。湿った石。乾ききらないやつ」


サジークが短く吸い込む。

「日陰の匂いだな。水が抜けきらない」


ラヒーマが続ける。

「地下の匂いに近い。冷たい石の匂い」


少し歩く。アミーヌがまた鼻を動かす。

「……川も混ざってますね。藻の匂い」


サジークがうなずく。

「水の匂いだな。流れてるのに、どこにも逃げない」


ラヒーマが鼻先を少し上げる。

「水の匂いがここに溜まってるのね」


その上に、別の匂いが乗る。アミーヌが鼻をひとつ鳴らす。

「油ですね。料理の油だけじゃない」


サジークが通りの奥を一度見る。

「焼く油」


ラヒーマが指先で空気を払うようにする。

「塗る油」


アミーヌが通り過ぎる荷車を目で追う。

「動かす油。車輪とか、道具の」


サジークがゆっくり息を吸う。

「人の手がずっと回ってる匂いだ」


さらに別の匂いが混ざる。アミーヌが少し眉を寄せる。

「……金属」


サジークの目が道具屋の方へ流れる。

「刃だな」


ラヒーマが建物の軒下を見る。

「留め具」


アミーヌの視線が棚の並びに落ちる。

「容器」


少し間。ラヒーマが鼻先をわずかにしかめる。

「……最後、片づけた匂いね」


アミーヌが顔を上げる。

「腐ってない」


サジークが小さく息を吐く。

「終わったものの匂いだな」


ラヒーマが布を少し引き上げ、荷の上にもう一枚かぶせる。

「……匂い、混ざってるわね。水だけじゃない」


サジークが浅く息を吸う。すぐに呼吸を戻す。

「水が近いな。川か、水路か」


ラヒーマが小さく首を傾ける。

「でも川の匂いだけじゃない。石の湿りもある」


アミーヌは鼻に手を当てない。代わりに周りの人を見る。

「……誰も気にしてないですね。布も直さないし、歩く速さも変えない」


サジークが通りの流れを目で追う。

「慣れてるんだろう。毎日この匂いの中を歩いてる」


アミーヌが少し目を細める。

「でも、強いですよ。村なら、誰か顔しかめます」


ラヒーマが通りを一度見る。

「ここは誰も止まらないのね。匂いがあっても、歩いたまま」


その時、俺は気づく。

「……身体の方が先に合わせてるな」

鼻で空気を吸う。三人が少しだけこちらを見る。

「匂いを考える前に、呼吸が変わってる。歩く速さも、力の入り方も」


ラヒーマが荷の布を軽く押さえる。

「今、布をかけたけど……守ろうとしたわけじゃない」

少しだけ考える。

「整えただけね」


サジークが短く言う。

「考える前に巻き込まれる」


アミーヌが人の流れを見たまま続ける。

「だから準備する時間がないんですね。気づいた時には、もう合わせてる」


俺は通りの奥を見る。

「村だとさ。まず静かになるんだ」

三人の視線が少しだけ寄る。

「それから匂いが来る」


ラヒーマがすぐ返す。

「ここは逆ね。匂いが先に来る」


サジークが続ける。

「そのあとで、人がいるのが分かる」


アミーヌが小さくうなずく。

「気づいた時には、もう中にいる」


しばらく歩く。通りは狭くなっている。だが詰まらない。アミーヌが周りを見回す。

「人、増えてますね。でも止まらない」


サジークが短く言う。

「流れが出来てる」


肩が触れる距離で人がすれ違う。だが目は合わない。ラヒーマがぽつりと言う。

「誰も振り向かないのね」


俺は半歩だけ歩く速さを落とす。サジークがすぐ気づく。

「試してるのか」


「……ああ」


少しだけ遅れる。誰も見ない。誰も呼び止めない。アミーヌが静かに言う。

「変わらないですね」


俺はすぐに同じ速さに戻る。サジークが通りの流れを見たまま言う。

「立ち止まる理由がない」


ラヒーマが続ける。

「止まる場所もない」


アミーヌは人の流れを見たまま。

「だから誰も止まらないんですね」


サジークが小さくうなずく。

「……流れだな」


ラヒーマが水袋を外す。通り過ぎる男に差し出す。

「……どうぞ」

声は届く距離だ。だが男は歩いたまま通り過ぎる。視線も歩幅も変えない。ラヒーマは追わない。水袋を静かに戻す。

「……受け取られなかった、って感じでもないわね」


アミーヌは男の背中を目で追う。

「気づいてないわけでもなさそうですね。見えてはいたはずなのに……止まらない」


ラヒーマが小さくうなずく。

「うん。見てはいるのよ。でも、止まらない」


サジークは通りの流れを見たまま、少しだけ肩を動かす。

「ここには、止める人間がいない」

一拍。

「門番もいない。通っていいとか、止まれとか言う奴もいない」


ラヒーマが通りを見回す。

「誰か一人が場を握ってる感じでもないわね」


サジークは少しだけ目を細める。

「力が、ばらけてるんだろうな。誰か一人が決めてるわけじゃない」


アミーヌはすれ違う人の目を追う。

「見てはいるんです。でも……覚えてない」

少し考える。

「僕たちを人として見てるんじゃない。通るものとして見てるだけです」


俺は周りを見回す。

「……変だな」

三人の視線が少しだけ寄る。

「何もされてないのに、雑踏の中に溶けていく」


ラヒーマが静かにうなずく。

「迎えられてないのね」


サジークは通りの流れを見たまま、肩をわずかに動かす。

「追い払われてもいない」


アミーヌが小さく息を吐く。

「……薄まってる」


少し沈黙。サジークは歩きながら通りを見る。

「誰かが何かしてるわけじゃない。止めないだけだ。呼び止めないし、集めない。だから流れが変わらない」


ラヒーマが通りの奥を見る。

「人を止める人がいないのね」


アミーヌが周りの人の目を追う。

「だから誰も気にしないんですね。見えてはいるのに、関わらない」


しばらく歩く。通りの流れが、ほんの少しだけ横にずれる。


アミーヌが目を細める。

「……避けてますね」


ラヒーマも視線を落とす。

「でも止まらない」


サジークの目がその先へ動く。

「流れのままだ」


俺はその真ん中を見る。

「……人だ」

一拍。

「倒れてる」


道の真ん中に、人が横たわっている。ラヒーマの歩みが一瞬だけ遅れる。

「え……?」


アミーヌも視線を落とす。

「本当だ……人です」


ラヒーマが眉を寄せる。

「どうして誰も――」

周りを見る。人は普通に歩いている。ラヒーマの声が低くなる。

「……どうして誰も止まらないの?」


アミーヌが戸惑うように言う。

「声もかけないですね……」


サジークは通りの流れを見たまま言う。

「踏まない」


人の流れが自然にそこを避けている。アミーヌが驚いたように言う。

「迷ってない……」


ラヒーマも気づく。

「避け方が決まってる」


サジークが小さくうなずく。

「流れの中に入ってるんだ」


ラヒーマが小さく息を吸う。

「人が倒れてるのに……?」


サジークの視線はまだ流れの先にある。

「止まらない街だからな」


胸の奥が少し重くなる。足が止まりかける。ラヒーマが俺を見る。

「……止まる?」


俺はその倒れた人を見る。少しだけ。それから前を見る。

「……いや」


歩みを戻す。流れは、止まらない。俺の足が少しだけ遅れる。このまま止まれば、俺だけが流れから外れる。


その時、横から低い声が落ちる。

「……この死体、邪魔だな」


男は立ち止まらない。視線も動かさない。ただ前を見たまま続ける。

「真ん中に転がってると流れが崩れる。踏む奴も出るしな。誰か寄せとけよ」


ラヒーマの足が半拍だけ止まる。

「……え?」


男は肩越しにちらりと倒れている人を見る。だが歩きながら話す。

「放っとくと詰まるんだよ。ここは道だ。寝かせる場所じゃない」


ラヒーマの視線が地面に落ちる。

「この人……」


言葉が途中で止まる。男は振り返らない。

「死んでるかどうかは知らん。どっちでも同じだ。通り道に置くな、それだけだ」

そのまま歩きながら付け足す。

「南は空いてる。そっち寄せれば流れる」


誰も返事をしない。だがその一言で、人の流れがほんの少し寄る。ラヒーマは荷の位置を目で測る。布の端を引き寄せる。

「……荷、通りに出ないように」


サジークは倒れている人を見ない。視線は通りを走っている。通れる幅。人の流れ。どこで広がり、どこで細くなるか。少しだけ肩を動かす。

「……詰まらないな。流れはそのままだ」


ラヒーマが小さく言う。

「人が倒れてるのに……?」


サジークは周りを見る。

「形が変わるだけだ」


荷を抱えた女が、倒れている人のすぐ横を通る。視線は前。子どもがその後ろをすり抜ける。足取りは軽い。誰も振り向かない。


アミーヌは倒れている人を見ない。足元だけを見る。人の足がどう避けているか、それだけを追っている。

「……避け方、もう決まってます。初めてじゃない動きですね」


ラヒーマが小さく息を吸う。

「こんなこと……普通なの?」


サジークは短く返す。

「もう、この動きの中に入ってるんだ」


俺は口を開きかける。だが閉じる。ここで何か言えば、何かが起きたことになる。アミーヌが静かに言う。

「誰も集まりませんね。誰も確かめない」


ラヒーマがぽつりと落とす。

「名前も呼ばないのね」


サジークの視線はまだ流れを追っている。

「人じゃなくて……道の上の物みたいな扱いだな」


俺は倒れている人を見る。

「……人が死んでも、道は止まらないのか」


しばらくして、低い車輪の軋みが近づく。石を転がる重い音。金属が縁に当たる乾いた響き。アミーヌが振り向く。

「……来ました」


通りの奥から荷車が現れる。サジークが目を細める。

「回収か」


ラヒーマが耳を傾ける。

「……早いのね。もう来るの?」


サジークは通りを見たまま答える。

「流れに合わせてる。止めないためだな」


荷車は通りの速さにぴったり合った歩みで近づいてくる。作業員は目立つ格好をしていない。腕章もない。汚れても構わない作業着と、使い込まれた手袋。足取りに迷いはない。急ぎもしない。遅れもしない。ただ、来ただけだ。


前を向いたまま、男が声を落とす。

「……通るぞ。荷車通す」


歩いている人の肩が、少しずつ向きを変える。止まらない。ラヒーマが小さく息を吐く。

「……誰も止まらないのね」


サジークが通りを見たまま答える。

「止めないからな。道はそのまま流す」


ラヒーマが荷の上から布を引き抜く。作業員へ差し出す。

「これ、使って。運ぶなら、その方が持ちやすい」


作業員が一瞬だけ布を見る。受け取る。礼は言わない。そのまま広げながら言う。

「助かる。頭こっちだ。腰はそのまま、動かすな」


もう一人の作業員がしゃがみ込む。

「腕は出すなよ。布の中に入れろ。そうだ、そのまま」

身体を少し転がす。

「重心こっち寄せる。落とすな。持ち上げるぞ」


二人が身体を持ち上げる。通りすがりの男が歩きながら声を落とす。

「次、南路だぞ」


作業員が肩越しに答える。

「ああ。南路回す。焼き場まだ空いてるはずだ」


もう一人がうなずく。

「朝の分、まだ残ってる。向こうでまとめるはずだ」


それだけだ。ラヒーマが小さく言う。

「……もう次の話してるのね」


サジークが短く返す。

「作業の順番だ」


アミーヌは倒れていた人を見ない。作業員の手元だけを見ている。

「……決まってますね。持つ場所も、回し方も、全部同じです。通る人も迷わない。みんな避け方を知ってる」


俺は口を開きかける。違う。閉じる。今言葉を置いたら、慰めじゃない。手順の邪魔になる。車輪が動く。布が縛られる。荷車はそのまま進んでいく。


ラヒーマが静かに言う。

「……人がいた場所、もう空いてる」


通りの真ん中が一瞬だけ空く。だがすぐ足音が戻る。売り声。話し声。通りの速さが元に戻る。


ラヒーマが通りを見渡す。

「この街……こういうのに慣れてるのね」


サジークは前を見たまま。

「慣れさせてる」


アミーヌがぽつりと言う。

「……だから道が詰まらないんですね」


俺は何も言わない。水の音がする。アミーヌがそちらを見る。

「……洗うんですね」


作業員が桶を傾けながら答える。

「戻すだけだ。道は止めない」


水が石を流れる。別の作業員が箒をひと振りする。

「そこ、もういいぞ。次通せ」


人の足が元の線に戻る。歩幅も速さも、さっきと同じ。流れが、何事もなかったみたいにつながり直る。


ラヒーマが通りを見る。

「……終わり? こんなに早く、終わるの?」


サジークは前を見たまま。

「終わりだな。片づいたら、それで終わりだ」


ラヒーマの指が、布を畳むところで一度だけずれる。すぐに直す。

「……あの人、どうしてあそこにいたの。どうして、あんなふうに……」


言葉がそこで細くなる。サジークが少しだけ間を置く。

「理由は、いくつもある。倒れた理由も、死んだ理由も、一つじゃない」


ラヒーマが低く返す。

「でも、誰も確かめようとしない。見てるのに、そのまま通り過ぎる」


アミーヌは人の足元を見ている。

「確かめたら、流れが止まるからです。ここでは、止まる方が先に困るんだと思います」


ラヒーマがそちらを見る。

「人より?」


アミーヌはすぐには答えない。少し考える。

「……人を守るため、なのかもしれません。でも、守ってるのは人そのものじゃなくて、流れの方かもしれない」


誰もすぐには返さない。ラヒーマが通りを見たまま。

「……気にしてないわけじゃないのね。気にしてる。でも、そのまま歩くのね」


サジークが低く足す。

「気にすると街が止まる。だから、止まらない方に慣れさせてる」


アミーヌはまだ足元を見ている。

「戻るのが……早すぎます。さっきまで避けてたのに、もう同じです。もう、何もなかったみたいです」


ラヒーマが通りを見たまま、小さく言う。

「……誰も、覚えてないのね」


俺は通りを見る。足音。声。売り声。さっきまで人が倒れていた場所も、もう流れの中に戻っている。

「……問いが遅いな」

三人の視線が少しだけ寄る。

「どうして死んだのか。どうして、あんなに早いのか。どうして、誰も止まらないのか」

少し間。

「ここじゃ、それを聞く前に、もう片づいてる」


通りはもう元の速さで流れている。少し離れたところで、男の声がする。

「なあ、その荷、今日いくらで出すつもりだ?」


隣の男が肩の荷を持ち直す。

「朝の値段じゃ出せん。昼には上げる」

「昨日より上か?」

「上だな。水運が詰まってる。舟が遅れてる」

「港の方か?」

「ああ。あっちで滞ってる。だからこっちも上がる」

少し間。

「夕方まで持つと思うか?」

「持つだろ。流れが戻ってる」

「じゃあ昼まで様子見るか」

「それがいい」


二人とも歩く速さを変えない。その足が、さっき人が倒れていた場所を、そのまま通り過ぎる。


男の一人が足元も見ずに言う。

「夕方にはまた値が動くぞ」

「流れが動けばな」

「止まらなきゃ、それでいい」


それで会話は終わる。死の話は、挟まらない。ラヒーマが小さく息を吐く。

「……もう、誰も気にしてない」


サジークは通りを見たまま。

「片づいたからな」


ラヒーマが少し眉を寄せる。

「こんなに早く?」


サジークは肩をわずかに動かす。

「早い方がいいんだろうな。流れが止まらない」


アミーヌは通りの石を見る。

「さっき水が流れた場所も、もう乾き始めてます」


少し歩く。人の声。売り声。足音。もう何も残っていない。その時、人の流れから少し外れたところで、子どもの声がする。

「ねえ」


親が歩いたまま答える。

「なんだ」


子どもが指を向ける。

「あれ、なに?」


指の先は、さっきまで人が倒れていた場所だ。石が、少し濡れているだけ。親は立ち止まらない。前を向いたまま言う。

「仕事よ」


それだけだ。子どもは一歩進む。聞き返さない。

「ふーん」


すぐに別の屋台を見る目になる。会話はそこで終わる。ラヒーマがその背中を見る。

「……それで終わりなのね」


サジークは短く返す。

「聞かないからな」


ラヒーマが少し首を傾ける。

「どうして?」


サジークは前を見たまま言う。

「聞けば、立ち止まる」


アミーヌが静かに続ける。

「立ち止まったら、流れが詰まります。だから、聞かないんだと思います」


ラヒーマが通りを見る。

「でも……気にならないの?」


サジークは少しだけ目を細める。

「気にはなるだろう。でも聞かなきゃ、答えもいらない」


アミーヌがぽつりと言う。

「理由を知らなければ、考えなくて済む」


ラヒーマが低く言う。

「……考えなくて済む街なのね」


誰もすぐには返さない。俺は通りを見る。足音。売り声。交渉の声。さっきの場所は、もう完全に流れの中だ。その速さを、しばらく目で追う。

「……理由を聞かない街は、答えもいらない。だから、誰も、自分が何を見たのかを、引き受けなくていい」


足が、流れから少しだけ外れる。路地の端。通りの音が、少し遠くなる。俺は一度、息を吸う。


ラヒーマが横目でそれを見る。

「……何か言うの? さっきから、息が変わってる。声を出そうとしてる顔よ」


俺は口を開きかける。止まる。少し間。ラヒーマが小さく息を落とす。

「今じゃ、ないのね。ここで言っても、誰も止まらない。だから、今は置かないのね」


「……ああ」


それ以上は続かない。サジークが体の向きを少し変える。路地の奥が見える位置に立つ。

「出るか? 今なら前に立てる。だが、出ても流れは変わらんぞ」


俺は首を振る。

「いい。今さら言っても、形だけだ」


サジークは頷かない。通りを見たまま続ける。

「そうだな。ここは止まらない街だ。止まらないなら、聞く耳も残らん」


少し沈黙。アミーヌは路地の向こうを見たまま。

「……止めても意味ないですね。さっきでもう終わってます。言葉が入る場所が、もう残ってない。ここでは、片づいたあとに言葉を置くと浮くんです。流れの外に落ちる」


サジークが短く足す。

「今さら言えば、余計な動きになる」


ラヒーマが俺を見る。

「村なら、言うの? ああいう時」


俺は少しだけ考える。

「言う」


ラヒーマが続ける。

「誰かが止まるから? 声をかければ、人が寄る。だから、意味が残るの?」


「……ああ」


アミーヌが静かに言う。

「でも、ここは止まらない。止まらないから、聞かない。聞かないから、何も始まらない」


サジークが通りを見ながら足す。

「止まらない街だからな。聞く前に、次へ進む」


ラヒーマが通りを見渡す。

「……村なら、ああいう時、誰かが名前を呼ぶわ。水を持ってくる人がいて、人が集まって、少しだけ時間が止まる」

少し間。

「でもここは違うのね。誰も止めないから、誰の時間も止まらない」


誰もすぐには返さない。俺が静かに言う。

「……言葉を置いても、流れの外に落ちる」


通りの足音だけが続く。アミーヌがぽつりと落とす。

「だから沈黙の方が合ってるんですね。何も言わない方が、流れを乱さない」


サジークが小さく肩を動かす。

「ここではな」


ラヒーマが通りを見る。

「……何も言わなくても、街は先に進むのね」


俺は通りを見たまま答える。

「言葉がなくても、流れは行く。だから、この街では、沈黙がいちばん邪魔にならない」


そのまま歩くと、水路のそばで作業の声が聞こえてくる。水路のそばで、作業の声が続いている。


男が桶を受け取りながら言う。

「次、こっち寄せろ。空いたらすぐ回すぞ。止めるな、水が詰まる」


隣の男が板の上の水を見ながら答える。

「分かってる。溜めるなってことだろ。ここは一回止まると、全部残るんだ」


桶を別の手に渡す。三人目の男が腕を伸ばす。

「その桶、もう軽いだろ。こっちだ。流れに戻せ」


最初の男が頷く。

「そうだ。空いたら戻せ。次が来る」


水は板の上を薄く走っている。止まらない。別の作業員が水路を見て言う。

「水、少し落ちてるな」


最初の男が肩をすくめる。

「問題ない。回してりゃ戻る。止めなきゃそれでいい」


もう一人が桶を渡しながら続ける。

「止めるな。溜めるな。それだけ守れば回る」


桶が手から手へ渡る。誰も待たない。子どもが人の足の間を走る。作業員の一人が軽く声をかける。

「おい、ぶつかるぞ。足元見ろ」


隣の男が笑う。

「走るならそのまま抜けろ。止まるな、後ろが詰まる」


子どもは笑いながら走り抜ける。作業員がそれを見て肩を揺らす。

「この通りじゃ、走る方が合ってるな」


別の男が桶を回しながら言う。

「止まる場所じゃないからな」


水は、同じ速さで流れ続けている。ラヒーマが布を軽く絞る。

「……水、減ってないわね。ずっと同じ速さで流れてる」


サジークが水路を見る。

「減らさないように回してる。水を止めると、全部が残る」


ラヒーマが少し考える。

「止まると困るの?」


サジークは首を少し振る。

「困るんじゃない、残るんだ」


ラヒーマが静かに聞く。

「何が?」


「血も、汚れも、匂いも。止まれば全部そこに残る」


ラヒーマはそれ以上聞かない。布をきれいに畳む。アミーヌが低く続ける。

「水が足りないと、片付けるのが遅れます。遅れると、人が立ち止まる。人が止まると、街が止まる」


ラヒーマが小さく頷く。

「だから減らさないのね。水を止めないように回してる」


サジークが答える。

「だから回す」


アミーヌが人の背中を見る。

「……誰も急いでないですね。でも、誰も止まってもいない。歩く速さが、ずっと同じです」


ラヒーマが通りを見る。

「さっき……ここで人が倒れてたのよね」


サジークは肩をわずかに動かす。

「もう外れた。流れの外だ」


アミーヌが静かに言う。

「ここでは、止まらない方が普通なんですね。止まると、片付けるものが増えるから」


誰も否定しない。俺は通りを見る。足音。売り声。水の音。さっきの場所も、もう流れの中だ。

「……この町は止まらない。ここでは、人も水と同じだ。流れから外れたものは、静かに流されていく」


水路の水が、変わらない速さで流れている。

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