第29話:名前のない重み
夜は、もう、裁きを含んでいない。だが、元の夜でもない。風が、変わる。音は同じはずなのに、意味だけが違う。草が擦れ、石が鳴る。それだけで、背中が、わずかに固くなる。
カービルは、立っている。足元には、名前のないものが、横たわっている。動かない。
肩に、触れる。冷たい。だが、それは、夜の冷えじゃない。
「……おい」
間。もう一度。
「……おい、聞こえてるなら返せ。起きてるだろ」
返事は、ない。視線が、わずかに落ちる。
「……違うな。これ、もうハービルじゃない。さっきまでのやつじゃない」
短く、吐く。
「……ただの重さだ。石と同じだ。動かないなら、それだけだ」
膝をつく。腕を差し入れる。持ち上げる。
「……重いな。なんでだよ。さっきまで、あんなに軽かったのに」
背中に回す。腕が震える。腰が沈む。歯を食いしばる。
「……こんな重かったか?いや、違う。さっきと違う」
少し息を吐く。
「……中が抜けたからか?いや、違うな……」
言葉を探す。
「……何かが抜けてる。それで、この重さだけ残ってる」
一歩、踏み出す。足元が、わずかに沈む。風が、背中を打つ。さっきまでと同じ風なのに、向きが違う。
カービルが、顔を上げる。
「……見られてるのか」
一拍。
「……誰だ。俺を、さっきから見てるやつ」
もう一歩、踏み出す。
「……どこだ!いるなら出てこい!」
返事は、ない。それでも、言葉は止まらない。
「……俺は、終わらせた。筋は通した。おかしいことはしてない」
一歩。また一歩。
「……必要なことだった。取られた分を、取り返しただけだ」
息が、少し重くなる。
「……なのに——」
足が、止まる。顔が、わずかに歪む。
「……なんで、これは残るんだよ!」
一瞬だけ、声が割れる。山に、跳ねる。呼吸が、乱れる。だが、そのあと、すぐに。
「……おかしいだろ。終わらせたはずだ。この重さはなんだ!」
もう一度、踏み出す。下る。一歩。また一歩。体は、前に出る。だが、重さは、下へ引く。
時間が、伸びる。夜が明け、影が長く落ちる。また、夜になる。何日、下ったのか、分からない。太陽は、昇る。沈む。それだけは、変わらない。
背中の重さも、変わらない。匂いが、変わる。最初は、土に混じる程度。次に、甘さが混じる。やがて、鈍い腐りが、離れなくなる。
カービルが、顔をしかめる。
「……なんだ、この匂い」
鼻を押さえる。だが、内側に残る。
「……消えないな。外じゃない、こっちだ。息吸っても、吐いても、残る」
喉を押さえる。
「……俺のほうか。離れても、ついてくるのかよ」
息を吐く。だが、抜けない。
夜。身を横たえようとする。
——ザッ。
——コツ。
下から、音。カービルが、すぐ起きる。
「……誰だ。いるなら出てこい。隠れるな」
返事は、ない。目が、暗闇を探る。
「……火か?また来るのか。あの白いやつ」
空を見る。
「……来るなら来いよ。今さらだろ」
首を振る。
「……違うな。終わったはずだ。あれで、全部済んだはずだ。終わってるだろ。なあ、そうだろ」
歩く。草が、戻らない。踏まれたまま、伏せている。石が、冷たい。昼でも。空が、低い。
カービルが、手で顔をなぞる。止まる。
「……軽いな」
もう一度。
「……なんだこれ。軽い。俺のほうが軽い」
腕を見る。
「……抜けてるのか」
背中を、感じる。
「……じゃあ、お前は何だ。なんでお前だけ、そのままなんだよ。なんで、お前は減らない」
歩く。足は、前に出る。だが、引かれる。
「……なんだよ、これ」
息が、荒くなる。
「……下ろせば終わるだろ。なあ、お前もそうだろ。置けば、それで終わりだろ」
止まる。動かない。
「……置けないのか。なんでだ。なんで終わらない」
また、歩く。
「……罰か?」
すぐに、首を振る。
「……違う」
一歩。
「……違うだろ。やることはやった。出した。揃えた。外してない。取られた分を取り返しただけだ。それで終わるはずだろ」
息が、重い。
「……終わるはずだろ。なあ、お前もそうだろ。これで終わりだろ」
間。
「……なんで終わらない。匂いも消えない、重さも減らない、お前も離れない。何をしても切れない。どこで区切ればいいんだよ。どこで終わりになるんだよ!」
下る。時間だけが、続く。
「……長すぎる」
足が、止まりかける。
「……いつまでだ。どこまで運べばいい。どこまで行けば、お前、消えるんだよ」
やがて、傾きが消える。岩が、土に変わる。風が、低くなる。分かる。山ではない。麓。空は、変わらない。何もなかったみたいに。
カービルが、止まる。背中の重さは、そのまま。腕も、戻らない。地面は、柔らかい。草が、沈む。
「……ここなら……置けるだろ。お前も沈むだろ。ここなら終わるだろ。終わるよな。これで終わるよな」
下ろす。それだけの動きで、息が乱れる。地面に、触れる。重さが、逃げ場を失う。転がる。少し、傾く。止まる。
カービルが、見下ろす。
「……違うな。これ、寝てる形じゃない。倒れてるだけだ」
一歩、近づく。
「……起きろよ。なあ、起きろよ」
声が、震える。
「……なんでだよ」
喉が、詰まる。
「……ここまで運んだだろ。降りてきた。場所も変えた」
さらに近づく。
「……終わりじゃないのか。これで終わりだろ。なあ、終われよ。なんで、まだ続くんだ」
置いた。だが、終わっていない。時間だけが、遅れて、動き始める。
そのとき、羽音が落ちる。低く、軽い音だ。
一羽目の黒い影が、上から地面に降りる。羽をたたみ、首を傾け、目が短く光る。少し遅れて、二羽目が、少し離れた場所に降りる。距離を保ったまま、動かない。
二羽のあいだに、張ったような間ができる。
次の瞬間、一羽が、もう一羽に飛びかかる。音は短い。羽が散り、嘴が相手の喉に入る。片方はそのまま地面に伏し、動かなくなる。
残った一羽は、逃げない。鳴きもせず、その場に立って、倒れた相手を見る。
それから、地を掘り始める。嘴と足で、土を外へ弾き出す。浅い穴が、少しずつ形を持つ。
カービルは、動かない。目だけが、その動きを追う。
カラスは、死んだほうを引きずる。羽は乱れたまま、整えもしない。そのまま穴に押し込み、土を戻し、上から押さえ、ならす。やがて、平らになる。
カービルの喉が、鳴る。
「……そうか。隠すのか。こうやって土の下に入れるのか。見えなくして、地に返すのか」
息が、少し詰まる。
「……俺は、それも知らなかったのか。人を殺しておいて、そのあと何をするかも知らなかったのか」
視線は、土の上。
「……殺したこともそうだ。でも、それだけじゃない。終わったものをどう扱うか、それすら知らなかった。俺は、このカラスほどのことも知らなかったのか」
カラスは、一度だけ空を見上げる。短く鳴く。そのまま飛び去る。残るのは、平らになった土だけだ。風が通る。草が揺れる。
カービルが、膝をつく。
「……遅すぎるだろ。今かよ。今になって分かるのかよ。やったあとで、埋め方だけ覚えろっていうのか。殺したあとで、土に返すやり方だけ見せられるのか」
地面を見たまま。
「……俺は、何をやったんだ。終わらせ方も知らないまま、終わらせたつもりだったのか。終わったのは、あいつだけじゃないな。俺も、ここで終わった」
黙る。それから、土に手を入れる。両手で掘る。指に砂が入り、爪のあいだに乾いた土が残る。深さは測らない。広さも決めない。ただ、覆えるだけの場所を作る。
息が、少し荒い。振り返る。そこに、横たわっている。カービルは、しばらく見る。
「……弟、か」
すぐに、首を振る。
「……違うな。もう、その呼び方じゃ届かない。呼んでも返さないなら、もう違う。動かない。返さない。待ってもいない」
抱え上げる。重い。身体が、腕に沈む。
「……こんなに重かったか。生きてたときは、こんな重さじゃなかっただろ」
足元を見ながら、運ぶ。
「……力を返さないだけで、こんなに違うのか。骨も肉もそのままなのに、なんでこんなに重い。生きてるときは、向こうから少しは支えてたのか?」
穴の縁まで行く。足が、少し滑る。落とさない。投げない。慎重に下ろす。身体が、土に触れる。音はしない。
カービルが、一歩下がる。穴の中を見る。
「……入ったな。さっきまで背中にあったのに、今は下にある。それだけで、もう違うのか。もう、土のほうが持ってるのか」
土を戻す。一掴みずつ。乾いた音。顔が隠れる。肩が消える。手が見えなくなる。最後に、胸のあたりへ土が落ちる。そこで、手が止まる。
「……待て」
声になりきらない。
「……これで、本当に終わりになるのか。見えなくなるだけじゃないのか。隠しただけで、終わったことになるのか。……でも、このままにもできない」
もう一掴み、土を落とす。それで、すべてが覆われる。身体は、見えなくなる。地面が、少し盛り上がる。足で、軽くならす。一度だけ。その瞬間、重さが消える。肩から。腕から。背中から。
カービルが、止まる。胸の奥を探る。
「……消えた。背中の重さだけ、消えた。今まであったのに、そこだけ消えた。……でも、それだけか」
立ったまま、土を見る。
「……楽にはならないな。戻ってもこない。消えたのは重さだけだ。中は、何も軽くなってない」
風が通る。土の表面が、わずかに揺れる。
「……受け取ったのか、ただ隠れただけなのか、それも分からない。分からないまま、俺だけが知った顔して立ってる」
少し間。
「……でも、もう持たなくていい。それだけは、分かる」
背を向ける。一歩、離れる。もう一歩。足音が、乾いた地に残る。だが、すぐに消える。振り返る。土の形だけがある。
「……何も戻らないな」
そこに残っているのは、形を変えた地面と、名を失った静けさだけだ。だが、それは、一人で終わるものではない。このあとも、同じことは起きる。同じ選びが、繰り返される。
一つ、奪えば。それは、一つでは済まない。一つ、生かせば。それも、一つでは留まらない。
重さは、広がる。選びは、残る。命は、ただそこにあるものじゃない。触れた瞬間、すべてに、つながる。
ここは、教えられる場所じゃない。選ぶしかない場所だ。そして、人は、選ぶものとして、ここに置かれている。




