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第30話:名なき者の帰還

夕方。


昼の熱は、抜け始めている。影が、少しずつ、長くなる。


アダムは、集落の端にいた。山へ向かう道が、遠くに見える。


足元に、丸太が一本。斧を、握る。刃を合わせる。腕が、上がる。振り下ろす、その手が、空中で止まる。待っていたわけではない。ただ、流れが、ひとつ途切れた。


風は、吹いている。遠くで、笑い声。それでも、何かが、欠けている。


斧を、まだ下ろさない。人が、一人、また一人と戻ってくる。土の匂い。汗の気配。足音が増える。それでも、埋まらない。


アダムが、息をひとつ整える。斧を、ようやく下ろす。声を張らない。誰も呼ばない。

「……ハービルは、どこだ」


誰も、すぐには答えない。風が、草をなぞる。アダムは、動かない。言葉を、重ねない。待つだけが、ゆっくり、重くなる。空の色が、まだ決まりきらない。


道の先に、人影がひとつ。カービル。埃はついている。歩幅は、変わらない。


子どもたちの動きが、止まる。戻ってきたのは、一人だけ。


アダムは、集落の端にいる。地を見ている。カービルが、前で止まる。言葉だけが届く距離。


アダムが、視線を落としたまま。

「……ハービルは?」


カービルが、顎をわずかに引いて、目を外す。

「……俺が、弟の番人だったのか?ずっと見張ってろなんて言われてないし、あいつだって自分で歩いてた」


アダムが、動かずに。

「……いつ、別れた」


カービルが、足元の石を軽く蹴る。

「山の手前だ、あいつが遅れたから先に行った、戻ると思ったし、いちいち待つ理由もなかった」


アダムが、わずかに息を通す。

「どっちへ行った」


カービルが、肩をすくめて。

「知らない、見てない、勝手に外れただけだろ、俺が連れてたわけでもない」


アダムが、地を見たまま。

「……呼んだのか」


カービルが、少しだけ苛立ちを混ぜて。

「呼んでない、必要ないと思った、戻るなら戻るし、戻らないならそれまでだろ」


アダムが、ゆっくり。

「……待ったのか」


カービルが、首を横に振る。

「待ってない、止まる理由がない、あいつに合わせる義理もない、だからそのまま進んだ、それだけだ」


アダムが、少しだけ間を置いて。

「……振り返ったか」


カービルの喉が、わずかに動く。

「……見てない、後ろは見てない、だから知らない」

息をひとつ吐く。

「見てないものは、俺に関係ない。だから俺の分じゃない。そこまで抱える筋は、ねえだろ」


アダムは、何も返さない。ゆっくりと、腰を落とす。指先が、土に触れる。もう一度、触れる。わずかに、土を掬う。落ちる。音が、遠い。

「……カービル。お前、どこで、やった」


カービルが、ぴたりと止まる。顔を動かさずに。

「……やってない、何もしてない、あいつに触ってもいない、俺はただ先に進んだだけだ。勝手に外れただけだろ、それを俺のせいにするのは違う、見てないものまで持たされる筋はない」


アダムの指が、もう一度、土に触れる。止まる。わずかに、息を通す。

「……地が、黙っておらぬ」


沈黙。カービルの背が、ほんのわずかに固まる。視線が、地に落ちる。足が、半歩だけずれる。

「……地が、って何だ、それは見てないだろ、俺がやったところを見たわけでもないのに。俺は言ってる通りだ、別れただけだ、そのあと何があったかなんて知らない、見てないものは分からない、それを俺に結びつけるのは違うだろ」


アダムが、顔を上げないまま。

「……見ておらぬものでも、残る」

指先が、土を軽く押す。

「隠したつもりでも、消えぬ。お前が、無かったことにしたところも、下でつながっておる」


沈黙。カービルの呼吸が、わずかに乱れる。言葉が、すぐに出ない。それでも、押し出す。カービルが、歯を少し食いしばって。

「……なら、どうしろって言うんだ、全部を背負えっていうのか、見てないことまで、俺に押し付けるのか」


アダムが、静かに。

「背負えとは言わぬ。ただ、無かったことにするな」

指先が、わずかに止まる。

「……カービル」

空気が、張る。

「……お前、石でやったな」


沈黙。カービルの肩が、ほんのわずかに落ちる。目を上げない。否定が、出てこない。


アダムが、続けない。風が、集落を抜ける。誰も、動かない。


夜が、静かに降りてくる。


火が、いくつか灯る。鍋の中で、水が小さく鳴る。匂いも、音も、いつもと同じ。ハワーの手が、止まる。もう一度、動かそうとして。止まる。


子どもたちが、集まってくる。座る者。立ったままの者。膝を寄せる者。


ハワーが、視線を巡らせる。一人ずつ。


——朝、二人で出ていった、同じ道で、並んで、振り返らずに、そのまま山へ行った。


——数える、もう一度数える、ここにいる分は合ってる、それでも足りない、まだ二人とも戻ってきてない。


鍋の蓋を、持ち上げる。湯気が、立つ。


——多い気がする、でも減らしてない、二人分そのまま入れてる、なのに余る感じがする。

手が、止まる。


——いつもなら戻る、暗くなる前に帰ってくる、遅れても声が先に来る、今日はそれがない。


器を、並べる。一つ。二つ。三つ。もう一つ、置く。手が、そこで止まる。


——二人分置くはずなのに、一つしか置けてない、もう一つが出てこないわ。


子どもが、鍋を覗き込んで。

「まだ?さっきからずっと同じだよ、火も弱くなってるし、もう食べられるだろ、今日はなんで待ってるの?」


隣の子が、顔を寄せて。

「ねえ、あの二人遅くない?朝、一緒に出ていったよな、もう戻っててもいい時間だろ、先に食べてもいいんじゃない?」


後ろの子が、少し不満そうに。

「おなかすいた、昼からずっとだし、いつもならもう食べてる、なんで今日はこんなに引っ張るの?」


ハワーが、顔を上げないまま。

「……もう少しだけ待って」


子どもたちが、顔を見合わせる。納得はしていない。だが、座る。


別の子が、外を見ながら。

「遅いな、いつもならもう声が聞こえるのに、帰ってくるときは遠くから分かるだろ、今日は静かすぎる」


隣の子が、少し首をかしげて。

「さっき数えたよな、ここにいる分は合ってる、でもなんか少ない気がする、なんでだろ」


最初の子が、小さく。

「……分かんない、でもなんか静かじゃない?人はいるのに、ちょっと空いてる感じする」


同じ子が、続ける。

「朝はもっと声あったし、帰ってくるときもいつもバタバタするだろ、今日はそれがない」


別の子が、思い出すように。

「……二人で行ったよな、朝、見た、同じ道で、そのまま山のほうに」

少し間。

「……まだ戻ってないのか」


別の子が、空を見上げる。

「暗くなるよ、星も出てる、いつもより早い気がする、もうほとんど夜だ」


隣の子が、同じように見て。

「ほんとだ、なんか近いな、空が低い感じする。なんか、こわい」


小さく笑う。だが、すぐに止まる。ハワーが、火を少し弱める。


——朝のまま戻ってない、二人とも来てない、それなのに一人分だけ欠けてる気がする。


器を、もう一度見る。


——二人分のはずなのに、一つしか置けてない、もう一つが置けない。


手が、動かない。


——戻ってくるよね、遅れてるだけよね、そう思えばいい、それでいいはず。


火の前に、座る。手を、膝に置く。


——でも違う、遅れてるだけじゃない、この静けさ、違う、帰ってくる前の静けさじゃない。


子どもたちの声が、少しずつ小さくなる。笑いも、軽い。風が、外を通る。ハワーが、目を伏せる。


——まだ何も聞いてない、何も見てない、それでも分かる、このまま二人そろっては戻ってこない気がする。


少し、息を止める。


——どちらかが、いない。


夜は、さらに深くなる。


星が、静かに増えていく。夜と朝のあいだ。空の端は、まだ色を決めきれていない。


集落の外れ。畑へ向かう道と、分かれる場所。


アダムは、そこに立っている。杖は、持たない。カービルは、少し離れて立つ。姿勢は、崩れていない。逃げる気も、ない。


しばらく、沈黙。やがて、アダムが、足元へ視線を落としたまま。

「……地は、もう、お前に、応えぬ」


カービルの眉が、わずかに動く。アダムが、低く。

「種を入れても、実りは戻らぬ。行き先を探しても、辿り着かない。何かを建てても、居場所にならぬ」

短い間。

「お前は、今までと同じつもりで手を入れる。力を入れる。整える。だが、もう返ってこん。前のようには返らぬ。お前のやり方では、もう受け取られぬ」


カービルが、ようやく息を吐く。

「……つまり、俺が、やってきたやり方が、もう、通らない」

少しだけ、地を見て続ける。

「手を入れれば返る、押せば動く、力を入れれば残る。俺は、ずっとそれでやってきた。それで足りると思ってた」

一拍。

「それが急に通らないって言うなら、何をやっても同じになるだろ。入れても返らない、積んでも残らない、進んでも着かないなら、俺は何を相手にしてきたんだ」


アダムが、動かないまま。

「……見えぬものを相手にしてきた。お前は、それを無視し続けただけだ」

風が、足元を抜ける。

「お前は、結果で世界を測ってきた。返るか、返らぬか。残るか、残らぬか。だが、それを受け取る場所が、もう、お前の下から外れた」

土が、わずかに崩れる。

「通らない、というより、受け取られぬ」

視線が、わずかに下へ落ちる。

「前と同じ手で触れても、前と同じものは返らぬ。お前が無かったことにしようとしたところが、下に残っておるからだ」


風が、通る。カービルが、土を踏む。感触を、確かめるように。

「……俺は、畑を、知っている。手を入れれば、応えるはずだ。力を注げば、成果は返るはずだ。そうやって今までやってきたし、それで外してもいない」


アダムが、遮らずに。

「……その“はず”が、もう、効かぬ。お前は、この世のあるじではない。その“はず”を動かしているものがある。お前は、それを持っておらぬ」

一拍。

「同じ土を踏んでいるつもりでも、もう同じところには立っておらぬ。前のまま取れるとは思うな。前のまま戻れるとも思うな。地は、もう、お前の手を前と同じようには受けぬ」


カービルが、押し出すように。

「俺は、空を見てやってきたんじゃない。土を見てやってきた。手の中にあるものを、そのまま積んできただけだ。なのに、その“はず”が急に消えるのは、おかしいだろ」


沈黙。しばらくして、カービルが、ゆっくり息を吸う。吐く。

「……分かった。戻らないってことだろ。前と同じようにやっても、もう前には繋がらない。何を入れても、積んでも、前みたいには返ってこない。そういうことだろ」


アダムは、何も足さない。空が、わずかに明るくなる。朝の光が、地面を照らし始める。


カービルの足元に、影が落ちる。 だが、その影は、どこか定まらなかった。


やがて、光が、増える。線が、はっきりする。色が、ゆっくり戻ってくる。


朝。


霧は、ない。雲も、低くない。


カービルが、集落の中を歩く。踏み固められた土が、乾いている。歩き方は、変わらない。


羊が、距離を取る。耳が、わずかに動く。向きを変える。鳴かない。一歩、下がる。もう一歩、草を踏んで、離れる。足音は、小さい。それ以上、近づかない。


カービルが、足を止めて。振り返る。

「……おい」

声が、返らない。草が、少し揺れるだけ。

「……逃げてるわけじゃないな。怖がってもない。ただ、近づかないだけだ」


一歩、踏む。土が、軽く鳴る。羊が、同じだけ、距離を取る。

「前なら寄ってきた。音で分かって、向きも変えてた。今は、それが起きない」

視線を落とす。

「……反応しないんじゃない。関わらないだけだ」


歩く。子どもたちが、通りを走る。朝の光で、影が短い。一人が、足を緩める。

「……?」

視線が、止まる。別の子が、袖を引く。

「……行こ」


砂が、少し跳ねる。足音が、離れる。カービルが、そのまま立って。

「……分からないって顔だな。見えてはいるけど、繋がってない。名を探してる。でも出てこない。俺のほうに引っかからない。知らないやつを見る目だ」


歩き出す。人の視線が、滑る。目が合いかけて、逸れる。


カービルが、前を見たまま。

「見てないわけじゃない。目は合う。でも止まらない。そこで終わる。理由も、置かれない。避ける理由も、声をかける理由も、どっちもない」


手を見る。朝の光が、当たる。

「……血はない。汚れてもない。変わってないはずだ」

少し、指を動かす。

「なのに、返ってこない」

手を下ろす。

「光は、当たってるのに、残らない。輪郭が立たない」

短く息を吐く。

「……ここにいるのに、引っかからない。何も止めない。責められてもいない。裁かれてもいない」


少し、顔を上げる。

「それでも、ここにはもう、俺の場所がない」


集落の端で、止まる。道が、外へ伸びている。振り返る。家々。人の動き。朝の煙が、まっすぐ上がる。

「……全部、続いてるな。俺がいなくても、そのまま回ってる。俺は、まだここにいるつもりだった。同じ場所に立って、同じことをすれば、同じように返ると思ってた」


首を、わずかに振る。

「……違ったな」

一歩、向きを変える。土を踏む音。

「追い出されたわけじゃない。止められたわけでもない。ただ、噛み合わなくなっただけだ。前と同じところには、もう戻れない」


朝の光が、背に当たる。影が、足元に落ちる。

「……だから、行くしかない。戻る場所が、消えた」


そのまま、歩いていく。止める声は、ない。

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