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第28話:受理と拒絶

朝は、すでに動き始めていた。冷えは、まだ地面に残る。だが、光ははっきりと向きを持つ。


山の麓。集落と草地と畑のあいだ、道が一つに集まる。同じ朝。同じ時間。同じ方向。


先に、カービルが来ている。立ち止まらない。待つ構えでもない。肩に、束を担ぐ。乾いた、軽い音。風に、かすかに擦れる。視線は、山へ。高さではない。距離を測っている。


少し遅れて、ハービルが来る。急がない。だが、遅れもしない。隣に羊。縄は緩い。張られていない。羊は自分の足で歩き、地面を選び、石を避ける。ハービルは、歩調を合わせる。引かない。促さない。


二人は、並ばない。だが、離れてもいない。同じ道に立つ。同じ始まりに、立っている。


カービルが、一歩踏み出す。ためらいはない。仕事に入る足取りだ。

「……日が早いな。今からなら、今日のうちに天辺まで行けるかもしれない」


歩幅が、わずかに早くなる。束が、軽く揺れる。


ハービルは続く。言葉は返さない。羊が、足を止める。草の匂いを嗅ぐ。ハービルも止まる。縄は張られない。羊が、自分からまた歩き出す。それに合わせて、進む。


カービルは振り返らない。確かめもしない。誰も、儀式のことを考えていない。祈りも始まっていない。天を仰ぐこともない。供える前。裁く前。ただ、同じ朝に、同じ道を、違う重さで歩き出しているだけだ。


ハワーは、二人の背中を見る前に、自分の胸に一度だけ触れる。違和感ではない。痛みでもない。ただ、言葉にならない重さが、そこに残る。口にすれば消えそうで、何も言わない。


山は、前にある。変わらない。だが、足は、もう前ではなく、上へ向かっていた。


道が、わずかに返る。登り。風が、少し強い。足裏に、重みが戻る。


カービルが、先を行く。肩の束が、ずれる。手を伸ばし、結び目を直す。軽い。眉が、わずかに寄る。視線が、上がる。太陽。まだ低い。

「……面倒くさい、無駄に歩かされてるな。わざわざ上まで行く意味あるか。ここで終わらせて、その分進めたほうが得だろ」

一歩。また一歩。

「今の時間で、もう一列は耕せた。水も回せたし、種も撒けた。手止めてまで行く理由、あるか。こっちは減るだけで、向こうは何も増えない」

息を吐く。

「山まで運んで、結局燃やすだけだろ。出した分は戻らないし、残りも増えない。なら最初から減らさないほうがいい。残せば、そのまま使えて、あとに回せる」


後ろで、足音が止まる。石が、転がる。羊が、踏み替える。カービルは、振り返らない。


ハービルが、止まっている。手が、羊の首元に入る。毛の中へ。体温を受ける。

「……大丈夫だ」


羊が、自分で、立て直す。また、歩く。ハービルが、合わせる。


カービルが、横目で見る。ほんの一瞬。

「……それ、重いだろ。足場も悪いし、運ぶ分だけ損だ。わざわざ抱えて上がる理由あるか」

前を見たまま。

「代わり、いくらでもあっただろ。もっと軽いので済ませれば、手元は減らない。量も残るし、あとで回せるだろ。減らさずに出すやり方、いくらでもあったはずだ」


ハービルは、歩調を見たまま。

「……うん」


カービルは、続ける。

「全部出す必要ないだろ。残せば増える。出せば減る。それだけの話だ。減らして戻らないなら、最初からやらないほうが得だ」

間。

「分けて出せばいい。少し出して、少し残す。そうすれば回るし、減りも抑えられる。なんで全部そのまま持ってくる」


ハービルは、少しだけ間を取る。羊の歩きに合わせてから。

「……あったよ」


カービルは、止まらない。

「じゃあなんでそっちなんだよ。手元に残るほう選べばいいだろ。減らして終わるやり方、選ぶ理由がないだろ。損して終わるだけだ」

息が、少し浅くなる。

「結局、燃やすだけだ。形も残らない。増えもしない。何も返ってこない。それでいいっていうのが、分からない」


ハービルは、答えない。羊が、一歩進む。ハービルも進む。


カービルが、低く。

「……山に登るだけだ。燃やして終わるだけだ」


風が抜ける。同じ斜面。同じ足取り。一人は、減る分を数える。一人は、そのまま持っている。


しばらく登る。言葉が減り、足だけが残る。風が変わる。空気が、少し軽くなる。声は届く。だが、弱い。


足音が変わる。土じゃない。乾いた石。音は消える。道は一つ。同じ筋。並ばない。距離は、そのまま。


カービルが、速い。足は動く。束は軽い。それでも、肩に、重さが残る。

「……まだ上か。どこまで行くつもりだ。これ以上登って、何が増える」

前を見る。

「ここで止めても同じだろ。上に行っても変わらない。だったら手前で終わらせたほうが早い」


ハービルは、遅い。だが、止まらない。羊の息が見える。胸が動く。歩幅は、羊に合わせる。引かない。急がせない。足場が崩れる。手が入る。首へ。深く。羊は、預ける。

「……大丈夫だ。足、置き直せばいい。まだ行ける」


カービルが、後ろを見る。羊を見る。

「……それほどのものを出すのか。そこまで減らして、何も残らないなら、もったいないな」


ハービルは、答えない。カービルが一歩を踏み出す。

「軽い方が得だ。軽ければ速い。同じ時間で、もっと進める。重いまま持って上がる意味がない。減らさず回せば、その分あとに残る。残れば、また使える」


風が抜ける。ハービルは、羊の足を待つ。

「……天は、楽かどうかだけで、決めてるとは限らない。それだけで選んでるわけじゃない」


また、登る。集落は消える。草もない。灰と白。岩だけ。空が近い。風が当たる。止めるものがない。


カービルが、息を整え損ねる。

「……時間かかりすぎる。このやり方、回らないだろ。一回で終わらせても、その分全部止まる」


ハービルは、首に手を置く。

「……ここは、急ぐ場所じゃない。速さで決めるところじゃない」


前。平らな岩。広い。割れていない。何もない。ただ、そこにある。風だけ通る。


二人が近づく。同じ朝。同じ道。それでも、並ばない。


石は、まだ空いている。誰も触れない。カービルが、先に止まる。肩から束を下ろす。

「……じゃ、先に置くぞ。順は関係ない。待つ意味もない」

石に、近づく。

「出す分は揃ってる。これで足りる。増やす理由もない」

束を置く。乾いた音。軽い。向きを整える。手で押さえる。ずれはない。一瞬、見る。

「……これでいい。やることはやった。あとは向こう次第だろ」

手を離す。下がる。


ハービルは、少し離れて立っている。羊のそば。縄に手をかける。結びをほどく。羊は動かない。そのまま立つ。


羊が歩く。引かれない。呼ばれない。石へ向かう。一歩。もう一歩。止まらない。


カービルが、低く。

「……自分から行くのか。そこまでやる必要あるか。出せばいいだけだろ。わざわざ一番重いのを持ってくる理由がない」


羊が石の真ん中に立つ。呼吸が見える。ハービルは触れない。言葉もない。一歩下がる。石の上に、束と、羊。並ぶ。風が通る。


そのとき、空の高いところで、白いものが揺れた。雲じゃない。星でもない。視界の端に、光がにじむ。落ちてくる。まっすぐじゃない。広がりながら、降りる。石に重なる。


次の瞬間、石が、白く包まれる。まぶしさじゃない。輪郭がほどける。石と空の境、供えとの境が、薄れる。音はない。燃える音もない。風も、止まる。


羊の形が、ほどける。燃えない。壊れない。ただ、消える。動かない。声も出ない。そのまま、なくなる。


次の瞬間、何もない。匂いだけ、立つ。甘い。焦げじゃない。白い灰が、残る。軽い。石の上に、そのまま残る。


カービルの束は、残る。そのまま、触れられてない。欠けてもない。誰も動かない。声も出ない。


風が、通る。石の上をなぞる。消えたものと、残ったもの。並ぶ。


カービルが、先に口を開く。

「……これは」

束を見る。

「……どういうことだ。残ってる。触られてもない。減ってもない。置いたままだ」

石を見る。灰を見る。

「……消えるのは分かってる。受け取られたら消える。それは分かってる。なのに、俺のは残ってる」


ハービルは、すぐに答えない。石を見る。

「……天が羊を、受け取った。それだけだ」


カービルは、動かない。

「……じゃあ俺のは、受け取られてないってことか?」

風が、通る。束に目を落とす。

「……置いた。出した。外してない。足りてるはずだ。なのに残ってる」

一歩、石に近づく。

「……どこで外れた。俺は、間違ってるのか?」


ハービルは、少し間を置く。

「……僕は、兄さんと比べてない」


カービルの口元が、わずかに動く。

「……比べてないか。でも並べられた。同じ場所に置いた。同じ石の上だ。同じ条件だ」

視線が、灰と束を往復する。

「……それで、片方だけ消えた。それを拒まれたって言わないなら、何て言う」


ハービルが、顔を上げる。

「……僕のは、受け取られた。それだけだ」


カービルが、すぐに返す。

「……なら、俺は何だ。拒まれたのか。それとも、最初から外れてたのか」

一拍。

「……天は、俺をどう見た」


ハービルは、首を振る。

「……僕たちが決めることじゃない。天は、向いてるものを受け取る。そこに向いてないものは、残ることもある」


カービルの目が、細くなる。

「……向いてない?」


ハービルは、続ける。

「……何を出したかじゃない。どこに向いて出したかだ。僕は、手放すつもりで出した。戻すつもりで出してない」

少し間。

「……手元に残すつもりで出したら残る。あとで戻すつもりで出したら戻る。そういう出し方だと、届かないこともある。だから、僕が選ばれたわけじゃない。兄さんの供えが悪かったとも、言ってない」

視線を上げる。

「……ただ、出し方が違えば、届かないこともある。それだけだ」


沈黙。カービルの視線が、束に落ちる。

「……そうか。お前は受け取られた。俺は残された」

視線が、石に戻る。

「……同じ場所に置いたのに、残ったのはこっちだ。つまり、俺は拒まれたってことだな。理由はどうでもいい。結果は出てる」


ゆっくり息を吐く。

「……分かった」

顔を上げる。

「……お前がいる限り、俺の居場所は奪われるままだな。同じ場所に立っても、並ばない。並べても、分かれる」


視線を外さない。

「……お前が消える側で、俺が残る側だ」

風が通る。

「……それなら簡単だ。残ってるほうを、消せばいい」


足が動く。石から離れる。風は変わらない。二人だけの距離。


カービルが、止まる。束は、そのまま。振り返らない。

「……なあ」

ハービルも、止まる。距離は、そのまま。

「……俺は、ここまで来た」

一拍。

「……全部、揃えた。やるべきことはやった。外してない。順も守った。足りてるはずだ」

少し間。

「……それでも、お前がそこにいる限り、俺はずっと残される側だ。何回やっても同じだ。並べても、結果は変わらない」


ハービルは、答えない。カービルが、続ける。

「……なぜだ。お前は何もしなかった。争わなかった。主張もしなかった。それなのに、全部、持ってる」

一歩、近づく。

「……お前、いつもその顔だな。何も問題ないみたいな顔してる。余裕ぶってる」


視線が外れない。

「……それが腹立つんだよ」

もう一歩。

「……お前は何もしなくても手に入る。俺はずっとやらなきゃならねえのに、全部そっちに行く。最初から決まってるみたいな顔してる。それも腹立つ」


ハービルが、静かに息を吸う。

「……兄さん、僕は何も取ってないよ。天が受け取った」


カービルの口元が、わずかに歪む。

「……その言い方だよ。取ってない顔して、全部持ってる」

視線が、地面に落ちる。

「……いいよ。分かった」


顔を上げる。

「……お前がいる限り、俺はそっちには立てない。同じ場所に立っても、並ばない」

一歩、さらに詰める。

「……だったら、分かりやすい」


短く息を吐く。

「……お前を、必ず、殺してやる。そうすれば、元に戻る。俺は絶対にアクリーマを渡さないからな」

視線が揺れない。

「……あいつは、最初から俺の側にあった。途中でずらされただけだ。戻すだけでいい」


沈黙。風が、通る。カービルが、低く。

「……怖くないのか?」


ハービルは、動かない。

「……その程度で、怖がる理由はない。この世に、縛られていないからだ」


カービルが、わずかに眉を動かす。

「……何だと」


ハービルは、続ける。

「……兄さんが刃を向けても、僕は刃を向けない。僕は、天と地を生み出した存在しか畏れていない」

一拍。

「……それでも、僕は兄さんに手を出さない。その罪は、全部、兄さんが背負うことになる。それが、不正を選んだ者の行き着く先だ」


沈黙。カービルは、何も言わない。視線は、外れない。動かない。風だけが、通る。

「……戻らないなら、やるしかないな」


二人は、少し離れる。


背を向けたわけではない。だが、同じ場所に留まる理由は、もうない。


夜が落ちる。山は、早い。風が冷える。


ハービルは、岩に背を預ける。目を閉じる。呼吸が、ゆっくり戻る。


カービルは、止まらない。歩く。止まる。また歩く。石を蹴る。短い音。眠れない。

「……ここまで来たのに、終わってない。出した。揃えた。外してないはずだ。それでも残るなら、何をやっても同じじゃないのか」

足が止まる。

「……あいつは受け取られて、俺は残る。それが変わらないなら、最初から決まってるってことだろ」


そのとき、音はない。だが、頭の奥に、別の意味がすり込まれる。

「……終わらせたいのか?」


カービルの眉が、わずかに動く。

「……終わらせたいに決まってるだろ。このまま俺のものが持っていかれて、受け取られなくて終わるなら、最初からやる意味なんてない」


息が、少し浅い。また、同じものが入る。今度は、深く。

「……終わらせれば、全部取り返せる。全部、戻ると思わないか。最初からなかったことみたいに」


カービルの視線が、落ちる。

「……取り返す?」


わずかに、考える。

「残ってるのは俺一人だ。なら、もう一人を消せば、残るのは一人になる」

一歩、動く。

「……そうすれば、比べられない。分けられない。最初から一人なら、残るも何もない。俺は、ずっと正しいままでいられる」


視線が、足元に落ちる。石。その横、蛇。ゆっくり動く。生きている。カービルが、しゃがむ。

「……これも同じか」

手が、石を持つ。

「動いてるだけで、生きてる。止めれば終わる。それだけだ。殺すんじゃない。止めるだけだ」


手が、動く。石が、蛇の頭に落ちる。鈍い音。身体が、わずかに跳ねて、止まる。


カービルの呼吸が、止まる。

「……殺すのは、こんなに簡単なのか?」

手を見る。 石を見る。また、あのずれ。今度は、ためらいの奥に入る。

「……同じだ。あいつを消せば、減った分は戻る。それで元に戻る。恥じることはない」


カービルが、低く返す。

「……恥じることはない、か。なら、二ついらないな。同じなら、一つでいい」


石を、ゆっくり下ろす。拒まない。だが、迷いもない。遠く。ハービルの呼吸。変わらない。


カービルの目が、そちらに向く。

「……止められるな、それなら」


短い。確かめる声。風が通る。夜は、深くなる。


そして、時間が進む。


夜は、完全に、落ちていた。山の上では、闇が、先に、固まる。風だけが、高みを、通り過ぎている。


ハービルは、眠っている。深くはない。だが、疑いのない眠りだ。呼吸は、乱れず、胸が静かに上下している。


その少し離れた場所に、カービルは、立っている。石を、持っている。重い。指が、痺れる。腕が、沈む。肩が、引かれる。


重さが、考えより先に、届く。ここで、終わらせる。一歩、近づく。足音は、立てない。眠りは、揺れない。


——これは、怒りじゃない。罰でもない。はずみでもない。


頭の中で、すっと筋が通る。


——あいつがいる限り、俺は拒まれる側だ。並びはもう決まってる。でも、あいつさえいなくなれば、見比べられない。退けられることもない。残るのは俺だけだ。


呼吸は乱れてない。脈も速くない。


——これは、理にかなってる。おかしいところはない。ゆがみを外すだけだ。


——静かだな。迷いがないからじゃない。静かだから、迷いが出てこないだけだ。感情はいらない。やることは、もう決まってる。


石を、持ち直す。位置を、合わせる。頭の上に、影を、重ねる。


次の瞬間。最初の一撃。石が、落ちる。乾いた、鈍い音。頭に、当たる。


思ったより、柔らかい。石が、わずかに、沈む。


ハービルの身体が、わずかに、跳ねる。声は、出ない。呼吸が、乱れる前に、二撃目。同じ場所。同じ角度。そのあとも、動きは、続く。


数は、数えていない。淡々と、作業みたいに、腕が上下する。重さが、行き来する。音が、重なる。そして、止まる。


その瞬間。血が、地面に、落ちる。


……落ちない。


カービルは、一瞬、遅れる。触れた瞬間、地面が、わずかに震える。大きくはない。だが、確かに、大地そのものが、拒む。


血が、染み込まない。地面が、受け取らない。赤は、流れず、表面に、留まる。


——違う。おかしい。土は、受け取るはずだ。なのに、入らない。どこで外れた。


だが、世界は血を受け取らない。風が、止まったように、感じる。音が、消える。さっきまでの沈黙とは、違う。


生きた沈黙でもない。待つ沈黙でもない。壊れた沈黙だった。


カービルは、石を、手放す。


ドン。


短い音。それだけが、残る。


しばらく、動かない。勝った感覚は、来ない。終わった感じも、来ない。


あるのは、重さ。石よりも。束よりも。この山よりも、重い。


足元を見る。そこに、横たわっているのは、ハービルではない。名前が、抜け落ちている。呼吸も、視線も、ない。ただの、塊。ただの、重さ。


そのとき、初めて。分からない、という感覚が、胸の奥に、生まれる。世界は、戻らない。


血を拒んだ地面の上で、人類は、初めて、越えてはならない線を、越えてしまった。

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