第25話:数えぬ星、数える粒
畑の小屋。
木の匂いが、前より強い。新しくはない。何度も季節を越えて、残った匂いだ。
外は、静かだ。風も荒れていない。天候のせいにできるものは、何もない。
中は暗い。入口の光だけが、床を細く切る。袋が、並んでいる。数は、少ない。減っている。
カービルは、腰を下ろしている。片膝をつく。袋を引き寄せる。口を開ける。手を入れる。穀粒が、指のあいだを落ちる。
音は軽い。だが、軽くない。粒を、外に出さない。混ぜない。袋ごとに、分けていく。
一つ。二つ。三つ。途中で、手が止まる。袋を見る。もう一度、数える。同じだ。
指を、少し強く組む。カービルが、袋を見たまま。
「……これだけか。これだけしか残らないのか」
一拍。
「去年は、ここまで減らなかった。いや、比べるのは違うな……でも、種も選んだし、石も外した。水も足りてた。順も崩してない。抜けもない」
袋の口を整える。並びを揃える。
「それで、この数か。やった分と、残ってる分が合わない。どこも外してないのに、減り方だけ、合わない」
もう一つ、袋を寄せる。
「……ここまでやって、これしか残らないなら、どこかで減ってるはずだ。でも、それがどこか分からない。見ても、出てこない」
視線を落とす。
「分ければ分かるはずだ。順どおりなら、残るはずなんだ。やった分と残る分は合う。それが合わないってことは……どこかで減ってる。見えてないだけで、抜けてる」
袋の縁をなぞる。
「見えないなら、見えるようにするしかない。分けるしかない。そのままじゃ分からない」
手が止まる。
「……確保しないと」
わずかに口が止まる。
「いや……まだ早い。でも、このままだと、また減る。同じやり方なら、また同じだけ減る」
袋に触れたまま。
「だったら、残る分を先に分ける。残るところを先に押さえる。全部はいらない。残るところだけでいい」
小さく息を吐く。
「そこだけ、取ればいい」
袋は、動かない。数も、変わらない。だが、見ている場所だけが、少し、狭くなる。
夜。
草地は暗い。
空は広い。星が、途切れない。
羊は、眠っている。呼吸が、揃っている。
ハービルは、起きている。膝を立てたまま。しばらく、何も言わない。やがて、声が落ちる。
「……静かだね。音もほとんどないし、何も動いてないみたいだ。みんな、眠ってる。押すものがないと、そのまま止まるんだね。昼みたいに動かされないと、自然に落ち着く」
風が通る。手を、膝に置く。
「……羊を数えなくても、ここは崩れない。ちゃんと集まってるし、どこかだけ空いてる感じもしない。数えようとすると、そっちばっかり見る。外れたやつを追うと、他が見えなくなる。今は、それをしなくていい」
少し間。
「……手に何か持とうとすると、気になる。足りてるか、減ってないか、ずっと見てしまう。でも、手に何も持たないでいると、見なくていい。羊も、家族も、そのままでいられる」
羊のほうを見る。
「……任せられる。全部、自分で押さえなくていいって分かると、楽になる。怖い、っていうより、軽い。減るかどうかを考えなくていいから、余計なこともしなくなる」
空を見る。
「……全部、持たなくていい。手で押さえてなくても、そのまま残る。ここでは、手に何も持ってないから。持ってないほうが、崩れないままでいられる」
少し間。
「……最近、気づいたことがある。手に持つと、それを見てしまう。なくならないか、ずっと気にする。でも、手に持っているものより、心にあるもののほうが、ずっと大きい」
一拍。
「……外にあるものは、動くし、減るし、すぐ変わる。見てないと、すぐ崩れる。でも、外に出してないものは、減らないし、変わらない。取られることもない」
視線は、空のまま。
「だから、外のことは、追いすぎなくていい。見えるところばかり気にしても、きりがない。外は、変わるから。ずっと見てても、終わらない。手に、何もなくても、心が、満たされていれば、心配は出てこない。失う怖さも、最初からない」
一拍。
「……自由だ」
風が、草を倒す。すぐに戻る。ハービルは、もう何も言わない。ただ、そのままいる。風が、止まる。
夜明け前。畑に、霧が残っている。
カービルは、立っている。手は出さない。少し離れて、足音が止まる。ハービル。しばらく、沈黙。
ハービルが、ぽつりと。
「……実ってるね。全部出てるし、止まってるところもない。遅れてるやつもないし、崩れてるところもない。ちゃんと、ここまで来てる」
カービルは、見たまま。
「……足りない。出てはいる。でも、揃ってない。重さも違うし、葉の張りも揃ってない。列も、途中で差が出てる。見れば分かる」
視線は動かない。
「同じ日に出ても、立ち上がりが違う。葉の開きが一日ずれると、そのズレが、後まで残る。水の乗り方も変わるし、実の付き方も揃わない」
一拍。
「ここを見ろ。こっちは節が一つ多い。隣はまだそこまで行ってない。だから重さが出ない。色も乗らない」
土を、指でなぞる。
「根の入りも違う。深く入ったやつは水を拾う。浅いやつは乾く。だから同じ日でも差が開く」
一拍。
「出てるだけじゃ足りない。揃って初めて、同じだけ伸びる。同じだけ重くなる。同じところで止まる」
視線は動かない。
「去年は違った。この辺は、全部同じで出てた。抜けもなかったし、遅れるやつもなかった。見た瞬間に、揃ってるって分かった」
一拍。
「今は、出てるだけだ。揃ってない。だから、足りない」
ハービルは、すぐには返さない。
「……それでも、ここまで来てる」
カービルが、しゃがむ。土に触れる。
「……ここまでやった。順も守ったし、抜いてもない。手も入れてるし」
指で土を押す。
「種も揃えた。深さも揃えた。水も同じだけ当てた。それで揃わないなら、どこかで狂ってる。でも、それが見えない」
ハービルが、静かに。
「……同じことだけやっても、同じにならないこともある。最初から、目に出てこないものもある」
一拍。
「……触っても、見えるようになるとは限らない」
カービルは、すぐに返す。
「……いや」
一拍。
「やった分は、残るはずだ。同じだけやれば、同じだけ戻る」
土を、わずかに押す。
「出てないなら、どこかで止まってる。見えてないだけで、抜けてる。だから、それを出せば揃う」
ハービルは、何も足さない。カービルが、続ける。
「見えないなら、見える形にするしかない。分ければ出る。揃えれば分かる。やった分と出た分が合うところまで、触る」
沈黙。ハービルは、空を見る。カービルは、土から手を離さない。
「……出した分で、決まる」
それだけ。ハービルは、答えない。そのまま、空を見たまま、しばらく動かない。
草地。
陽は低い。羊が、散っている。
ハービルは、腰を落としている。視線は、前。
少し遅れて、足音。レイユダが来る。隣に腰を下ろす。風が通る。前を見たまま。
「……ここ、落ち着く。音も少ないし、急かされる感じもない。このまま何もしなくても、いい気がする」
ハービルが、小石を転がす。
「……うん。ここは、動かなくても散らない。触らなくても、勝手に離れたり偏ったりしない」
レイユダが、横目で見る。
「……嫌じゃない?前に立ってないこと。何もしてないみたいに見える時、あるでしょ」
ハービルが、視線を動かさない。
「何が」
レイユダが、少しだけ息を吐く。
「……人が集まるところにいないこと。呼ばれないこと。決める側にいないこと」
ハービルが、前を見たまま。
「……嫌だと思ったこと、ないよ。足りないとも思わないし、遅れてる感じもない」
レイユダが、少し笑う。
「強がりじゃなくて?」
ハービルが、短く。
「うん。前に出なくても、回ってるのが見えるから。競わなくていい場所もある。押さなくても動くところもある」
レイユダが、草を指で押す。
「……前に行く場所が塞がれてる感じはしない。行こうと思えば行ける。でも、行かなくても困らない。止められてもないし、道もあった」
ハービルが、ゆっくり。
「でも、選ばなかった」
レイユダが、小さく。
「うん」
ハービルが、間を置かず。
「なんで?」
羊が、向きを変える。レイユダが、地面を見たまま。
「……急がなくてよかったから。今のままで足りてる感じがあったし、急ぐ理由もなかった」
ハービルが、続ける。
「急げば、行けた?」
レイユダが、うなずかないまま。
「……行けたと思う。前に出て、何か持って、選ばれる側にもなれたと思う」
ハービルが、そのまま。
「でも、行かなかった」
レイユダが、短く。
「うん。重くなるから。持つものが増えると、その分だけ気にすることも増える。落とさないように見ないといけないし、なくならないかも気にし続けることになる」
ハービルが、少しだけ顔を向ける。
「何が」
レイユダが、前を見たまま。
「……手に持つもの。役目とか、位置とか、選ばれたっていうこと。持ったら、置けなくなる。途中でやめると、その場所が空くし、周りもずれる。自分で始めた分、最後まで離せなくなる」
風が通る。ハービルが、草を見たまま。
「……それで、困らない?」
レイユダが、羊を見る。
「……困らない。今のほうが軽いから。手が空いてる分、全部を追わなくていいし、気にしなくていい」
少し間。
「……手に何も持ってない分は軽い。全部自分で抱えなくていいし、減ってないか、ずっと見張らなくてもいい。重い分は、天に預けてる。自分で押さえなくても、残るものはそのまま残る」
ハービルが、小さく息を吐く。
「……僕も、預けてる。全部見なくても、ちゃんと続くのが分かるから。手で押さえなくても、外れないものは外れない」
レイユダが、少しだけ横を見る。
「……自分で持たなくても、足りてるってこと?」
ハービルが、視線を前に戻したまま。
「うん。持たなくても減らないなら、最初から持たなくていい。持つと、その分だけ気にすることが増える」
レイユダが、静かに続ける。
「……選ばれてない、っていうより、最初から持つ必要がなかった。持たなくても足りてたし、自分が触らなくても進んでた」
少し間。
「持つと、そこを見続けることになる。離さないように、崩さないように、ずっと気にすることになる。でも、持ってなければ、見なくていい。減るかどうかも、気にしなくていい」
ハービルが、わずかにうなずく。
「……うん。そのままでも残るなら、それが一番軽い。無理に手を出さなくても、揃うものは、触らなくても揃う」
レイユダが、前を見たまま。
「……それでいいね。持たなくても続くなら、そのほうがずっと楽だし、散らない」
風が通る。二人は、動かない。




