第26話:選ばれぬ者たちの所在
夜。
火が、揺れている。アダムは、一人。立たない。座らない。ただ、火の前に、在る。
「……教えた」
低い声。
「名は、すべて渡した。見えるものも、見えぬものも。どう動くかも、どう戻るかも知るところまで。何を取るかも、何を離すかも」
火が、かすかに鳴る。
「もう、残っておらぬ。渡しておらぬものも、ない」
視線は、火のまま。
「……あとは、それぞれに委ねる」
影が、揺れる。
「同じものを聞いても、同じにはならぬ。受け取りは、変わる。置かれる場所も、異なる」
火が、わずかに崩れる。
「だから、分かれる。それだけのこと」
沈黙。
「……もう、教えることはあるまい。ここから先は、自ら取るほかない」
火は、揺れたまま。
「同じものでも、取る形は、異なる。それでよい」
長く、沈黙。
「……手は出さぬ」
火を見る。
「出せぬ」
それだけ。夜は、そのまま静かに、終わる。
朝。
水が、外れる。ぱき、と音。水路の縁。踏み固めた土に、細いひび。
夜の冷えで締まっていた表が、朝の水でゆるむ。下に残っていた空洞が、支えを失う。崩れる。水が横へ逃げる。いつもの溝を外れて、浅い芽に流れる。
「水、ずれてる!」
一瞬、止まる。カービルが、そのまま踏み込む。足首まで沈む。アクリーマは、すでに石を持っている。
カービルが、流れを見たまま。
「縁が抜けてる。上だけ締めてた分、下が空いてた。水が当たって崩れた。今は横に逃げてる。このままだと、上の水が全部そっちに回る」
振り向かない。アクリーマが、水の当たりを見て。
「右に流れてる。浅い芽に当たってるから、このままだと根が浮く。上をふさいでも横から抜ける。下を止めないと、戻らない」
カービルが、手を差し出しながら。
「石、寄こせ。軽いのじゃ足りない、噛むやつ持ってこい」
アクリーマが、重さを確かめて。
「これ、下に噛ませる。上に乗せるだけじゃ押さえきれない。土ごと支える形にする」
カービルが、うなずきもせず。
「それでいい、そのまま寄こせ」
石を受ける。カービルが、そのまま押し込みながら。
「流れが速い。表だけ埋めても抜ける。先に芯を止める。それから外を締める」
石が沈む。水が横から漏れる。カービルが、すぐに。
「まだ抜けてる。石の横に道が残ってる。このままだと、全部そっちに持っていかれる」
アクリーマが、次の石を持ちながら。
「向き変える。流れに当てて、逃げる道だけ細くする。その間に土を詰める」
カービルが、足で位置を示しながら。
「もう一つ、ここに合わせろ。高さが足りてない。このままだと上から削られる」
足で踏む。アクリーマが、横から土を寄せて。
「そのまま押して。動かさないで。今、隙間詰める。ここで動かすとまた抜ける」
水が跳ねる。まだ止まらない。アクリーマが、肩の布を外しながら。
「一瞬止める。流れ弱くする。その間に奥まで入れて」
布を当てる。アクリーマが、流れを見て。
「今、落ちてる。今なら奥まで入る」
カービルが、体重をかけながら。
「いい、今だ。このまま押し切る。逃がすな」
同時。石が沈む。土が締まる。水が戻る。一瞬、静か。カービルが、しゃがんだまま流れを見て。
「まだ甘い。右から細く抜けてる。また削られる」
アクリーマが、しゃがんだまま角度を見る。
「見えてる。当たる角度が残ってる。もう一つで切れる。全部止めるんじゃない。逃げる筋だけ消す」
カービルが、低く。
「もう一つ。今の流れにぶつける形でいく」
アクリーマが、石を転がしながら。
「これでいい?重さじゃなくて、当たる面で止める」
カービルが、即座に。
「それでいい、その角度で当てろ。押しつけるな、流れに乗せろ」
アクリーマが石をずらす。半分、流れに当てる。水がぶつかる。流れが細くなる。止まる。
カービルが初めて彼女を見る。一瞬。
「分かってるな。どこで切れば止まるか、もう見えてる」
アクリーマが、手を離さず。
「見てる。全部止めなくていい。抜けるところだけ変えれば、押さえなくても戻る」
水が、元の溝へ。静か。カービルが、そのまま続ける。
「全部ふさぐと崩れる。流れは残す。逃げる道だけ切れば、あとは勝手に戻る」
アクリーマが、小さく。
「うん。押さえすぎると、別のとこが抜ける」
沈黙。カービルが、石に手を置いたまま。
「ここ、押さえとく。今は触るな。土が落ち着くまで動かすな」
アクリーマが、そのまま手を添えて。
「分かった。このまま待つ。水が同じ流れで通るまで、触らないでおく」
同時に水を見る。同じ場所。同じ角度。後ろで声。
「自然だな。ただ並んでるんじゃない。見てる場所も、動かす順も、最初から揃ってる」
別の声。
「言ってないのに、同じとこ見てる」
二人は振り向かない。カービルは、水を見る。アクリーマは、隣にいる。半歩も、ずれない。朝の光。影が、同じ長さで伸びる。
影は、重なったまま、離れない。その並びが、ほどけないまま、時間だけが進む。
昼に近い光。
水場。
水面は、揺れない。
アクリーマは、一人だ。腰を落とし、器を置く。動きは、急がない。慣れた手つき。布を、整える。髪を、まとめる。水に、手を入れる。背後に、影が、落ちる。振り返らない。
アクリーマが、水面を見たまま。
「……みんな、そう思ってるよね。言葉にはしないけど、見方で分かる。何も言われなくても、そこが私の場所だって、最初から決まってるみたいに」
影が、わずかに揺れる。カービルが、立ったまま。
「……何が。どこを見て、そう思う」
アクリーマが、水をすくいながら。
「……私が、ここにいること。カービルのそばにいること。水路でも、畑でも、朝でも夜でも、気づいたら隣にいるのが私で、それを誰も変えようとしない」
器に水を移す。
「……同じ日に生まれて、同じ血を持ってるでしょ。最初から、離れて置かれることがなかったし、並んでるのが当たり前だった」
少し間。
「……だから今も、そのまま続いてるって見られてる。途中で並んだんじゃなくて、最初からそうだったみたいに」
指で、水面をなぞる。
「……誰も“そこ違う”って言わないし、入れ替わる気配もない。だから、このまま続くものとして見られてる」
わずかに息を吸う。
「……今日だってそう。二人でやると速いって、自然だって、最初から決まってたみたいだって。ああいう見方されると、途中じゃなくて、一つで動いてたみたいに扱われる」
少し間。
「……ああいうの、嫌じゃなかった。むしろ、分けて考えなくていいから、楽だった」
カービルの足元で、小石が鳴る。アクリーマが、続ける。
「……ずっと、ああやって並んでやるんだって思われてるなら、それでいい。最初から繋がってるなら、わざわざ切る理由もないし、そのまま続くほうが自然でしょ」
少し間。
「……それに、私がカービルをかばっても、横に立っても、誰も止めない。それって、もう“そういう結び”として見られてるってことだよね」
視線は、水のまま。
「……誰も“違う”って言わないなら、それでいいってことだよね。最初からそうなら、そのままでいい」
少しだけ、息が深くなる。
「……それが、私たちの結びなんだって思われてるなら、それでいい。同じ日に生まれて、同じ血で、ずっと並んできたなら、そのまま続くほうが自然だし、変えるほうが不自然になる」
カービルが、少しだけ視線を落とす。
「……違うと思うなら、もう誰かが言ってるはずだ。見てるやつはいるし、気づくやつもいる。その中で何も出てこないなら、そのままで通ってるってことだ」
一拍。
「俺は、それを止めない。変える理由もないし、崩す必要もない。今のままで回ってるなら、そのままでいい」
アクリーマは、うなずかない。
「……私たちは離れないよね。無理に決めたわけじゃないし、選んだっていうより、最初から繋がってたものが、そのまま続いてるだけだから」
少し間。
「……離れたいって思ったこと、ない。切れる感じもないし、分ける必要も感じない。そのまま続くなら、それでいい」
水面が、わずかに揺れる。カービルは、何も言わない。アクリーマが、最後に。
「……誰も私を正さないってことは、私は間違ってないってことだよね。位置も、やり方も、結び方も、そのままで通ってるなら、それが合ってるってことでしょ」
器を持ち上げる。立ち上がる。振り返らない。影は、重なったまま、伸びている。




