第19話:戻らない線
皮は、もう剥がされている。内側の白が、地に広がっている。肉は、塊ごとに分かれ、刃はもう止まっている。終わった、と誰も言わない。でも、手は同じところで止まる。次に何をするかだけが、その場に残る。
カービルが、先に口を開く。肉の一つを持ち上げる前に、厚みと重さを見る。
「……俺はこっち持っていく。日があるうちに先に出して、先に乾かす。今なら動かせるし、今やれば今日のうちに進む。こういうのは置いとくと遅れるだけだろ」
もう一つ、視線をずらす。
「このまま置いといても変わらない。運べるうちに運んで、吊れるうちに吊ったほうが早い。切るのはあとでもできるけど、乾かすのは今からしかできない」
アクリーマが、すぐ乗る。半歩近い。もう同じ方向を見ている。
「うん、それでいい。今のうちに出したほうが絶対早い。ここで考えてる間にも日が落ちるし、乾く時間まで減るじゃん。今使う分もあるんだから、先に出したほうが楽だよ」
少しだけ強く。
「あとでまとめてやるほうが面倒だよ。今動けるなら今やる。そうやってやるものでしょ」
レイユダは、肉ではなくハービルを見ている。ハービルは動かない。肉にも刃にも触れない。ただ、分けられた形を見ている。
カービルが、ハービルを見ずに続ける。
「……それだと、あとで面倒になるだろ。今もう分けてあるんだし、このまま持っていけばいい。俺がやる。重いのは先に出して、軽いのはあとでいい。そうやって順にやれば終わる」
ハービルは、少し間を置く。視線は肉の端。脂の残り方。筋の向き。
「……乾く前に動かすと、水が片方に寄る」
一拍。
「端に残る。重さも寄る。そうなると、あとで乾き方が変わる。片方だけ先に固くなって、片方はまだ湿る」
カービルが、初めて顔を上げる。
「偏っても使えるだろ。乾けば切れる。食べる分と残す分に分けるだけなんだから、今困らないならそれでいい。きれいに揃えるために止まってたら、遅れる」
少し強くなる。
「今いるのは“使えるかどうか”の場だろ。“戻せるかどうか”の場じゃない。使えるなら先に進めるべきだ」
ハービルは、同じ速さで返す。
「……今は使える。でも、あとで形がずれる」
視線はまだ肉のまま。
「乾いたあと、反る場所が変わる。裂けるところも変わる。今は切れる。でもあとで同じように切れなくなる。戻せない形になる」
アクリーマが、すぐ切る。
「戻さなくていいでしょ。今使うんだから。今いる分が足りるか、今日どこまで進むか、それが先だよ。あとで少し形変わっても、今前に進めるならそっちのほうがいい」
さらに踏み込む。
「全部きれいに残すために、今を遅らせるのは変じゃない? 今食べる分と、今日干し始める分があるなら、先に動かしたほうが絶対いいよ」
レイユダが、そこで小さく入る。
「……でも、それやると、乾いたあと戻せない。今はいいけど、あとで“やっぱり違った”ってなっても戻せない。そこ、ハービルが見てる」
カービルが、少しだけ眉を寄せる。
「戻せなくても、今足りるならいいだろ。食べる。干す。切る。それで足りる。今必要なぶんに使える。それで足りるなら先に進めるべきだ。全部あとに備えて止まってたら、何も終わらない」
アクリーマもすぐ重ねる。
「うん。今のぶんを今ちゃんと回すほうが大事。あとで困らない形も大事だけど、手を止めないほうが先だよ。今日やることが今日進むなら、そのほうが強い」
ハービルは、やっと少しだけ顔を上げる。
「……今進んでも、あとで崩れるなら、二回やることになる。一回で進んだように見えて、あとで戻る。だから見てる」
沈黙。カービルは肉を見る。ハービルは形を見る。アクリーマは時間を見る。レイユダは戻れなさを見る。誰も、間違っているとは言わない。でも、誰も、引かない。
沈黙が、少しだけ続く。火が、ひとつ、崩れる。脂が落ちて、小さく音を立てる。誰かが、器を動かす。誰かが、次を取る。止める声は、出ない。
そのまま、手だけが、先に進む。一つ、食べる。また一つ、回る。さっきの言葉は、残っている。でも、動きは、止まらない。
火は、まだ落ちきっていない。夜に入りきる前。食事の途中。器が回る。木の器に、重たい音。肉。焼かれて、分けられたもの。外は乾き、中はまだ熱を抱えている。アクリーマが、火を見たまま。
「……足りる? このまま回しても全員いける? もし足りないなら、今のうちに取り方変えたほうがいいよ。あとで足りないってなるの、面倒だし」
カービルは、もう手を伸ばしている。
「足りる。今ある分で回る。先に取って食ったやつから次やればいい。止める理由ないだろ」
一つ取る。噛む。早い。
「冷める前に食ったほうがいい。今が一番いいだろ。あとはあとでやる」
ハービルは、まだ取らない。器の中を見る。切り口。脂。火の入り方。レイユダが、小さく。
「……その端、火ちゃんと当たってない。中まだぬるい。そこ、あとで火通したほうがいい」
アクリーマが、すぐ返す。
「だから? 今食べるんだよ。あとで直すなら直せばいいじゃん。今止める意味ある?」
少し前に出る。
「全部きれいにしてから食べるの? それやってたら進まないよ。今食べられるなら、先に食べたほうがいいでしょ」
レイユダは言い返さない。別の場所を指す。ハービルは、そこを取る。ゆっくり噛む。熱を確かめる。それから、小さく。
「……今は食べられる。でも、このまま混ぜると、あとで分けられなくなる」
一拍。
「火が入ったとこと、まだのとこが混ざる。あとで干すとき、ばらばらに固くなっていく。片方だけ先に固くなる」
カービルが、ちらっとだけ見る。すぐ火に戻す。
「ばらばらでも使えるだろ。食う分なんだから。今困らないならそれでいい」
少し強く。
「今は“食えるかどうか”だろ。“あとでどうなるか”じゃない。腹減ってるなら、食えるやつから食うのは普通だ」
アクリーマも重ねる。
「そう。今止める理由ないよ。あとで干すときにそろえればいいし、今は回すほうが大事」
さらに一歩。
「冷めたら固くなるし、そっちのほうがもったいない。今いいときに使ったほうがいいでしょ」
ハービルは、否定しない。同じ速さで返す。
「……今いい。でも、このまま全部混ぜると、あとで分け直せない」
視線は器のまま。
「火が通ったとこと、まだのとこが一緒になる。あとで切るとき、形がそろわない。元に戻せない」
レイユダが、小さく足す。
「……戻せないね、それ。あとで“分けたい”ってなっても、もう分けられない」
アクリーマが、間を切る。
「戻さなくていいでしょ。今食べるんだから。今の分が回るか、それが先でしょ」
少し笑う。
「全部あとに合わせるより、今ちゃんと回すほうが大事だよ。今止まったら、そっちのほうがもったいない」
カービルも続ける。
「そう。今回せば次に行ける。今止まると全部遅れる。あとで直すのはできる。でも今の時間は戻らない」
もう一つ取る。
「今進めるやつを先に進める。それでいい」
ハービルは、ゆっくり噛む。それから、短く。
「……あとで二回やることになる。今一回やって、あとでもう一回。だから見てる」
沈黙。火が揺れる。器が、少し動く。誰も、間違いとは言わない。でも、見ている場所が違う。
アクリーマが、前に出る。
「ちゃんと食べて。今はそれでいい。あとでやることはあとでやる。手を止めないほうが大事」
レイユダが、小さく。
「……残り、分けておく?」
ハービルは、少しだけ考える。
「……あとで」
流れは止まらない。でも、完全には重ならない。そのとき、少し離れて見ていたハワーが、口を開く。足を一歩も動かさないまま、全体を見る。
「どっちも、そのままでいいわ」
一拍。
「今食べる子は、今の手でいい。あとを見る子は、そのまま見なさい。混ざってもいいし、分けてもいい。ここにある分は、どっちでも足りるわ」
誰も止めない。誰も直さない。ただ、置く。
「止めなくていい。どっちも進んでるから」




