表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

第二冊目の下巻『地下室の手記』

ここでいったん『地下室の手記』編はおわりです。さすがに1万文字を一気に書くのは肩がこった。間があいてしまったので前回の内容をちょっと読み返してみたらあまりに文字が敷き詰められていて、会話の転換に余裕がなさすぎたので今回はだらだら書いてみました。だらだら。

「一応感想が一巡したわけだけどなんか気になるところあった?」と出山先生が促す。

たぶん、ないわけではないと思うのだがいったんシーンとしてしまう。全員分の感想がまわったといっても、中村さんはどうも読んできてないみたいだし、出山先生の経済学関連の話はよくわからなかったし、山口さんの話はわかったものの隙がなく特にこちらから何かつっつくようなこともできなかった。


作品についてはいろいろと思うところもあるのだけど、いったいどれから話しかけたものか……。

と悩んでいた時間は恐らく5秒程であったけれど、再度出山先生が話し始める

「じゃあ、俺がちょっと気になったところを先にいってもいいかな?」

「いいですよ、私もちょっといろいろ考えてきたんですけど、どの順番で出すか考えさせて下さい。最後は決まってますし」と山口さん。

「あ、そう? まずね、この新潮文庫版だと15ページあたりなんだけど……」

みんなが該当ページを開く。ちなみに私と出山先生が新潮文庫版、山口さんと中村さんが光文社古典新訳文庫版を所持しているみたいだ。

「ここで、こいつ、ぼくが周囲のだれよりも賢いのがいけない、ということになる ぼくはいつも、自分は周囲のだれよりも賢いと考えてきた。 とかなんとか言ってるでしょ? 俺はこれに凄い共感するというか、これは別に実際の能力が伴っているかどうかとは別で、男はみんなこんな風に「自分はいちばん賢い、頭がいい、素晴らしい人間だ」と考えていると思うわけ。これは実際に俺もそう思っているしね。だからこの部分については、こいつが語っていることとは別に、男はみんなそうだと思いながら読んだんだけど、実際これって女の子の君たちとかはどう思っているのかなと」


そうだったのか、男はみんなそんな風に自分だけは頭が良いと思っていたのか、とちょっとカルチャーショックを受けた。私はそもそも自分の頭が良いとか、悪いとか、あんまり考えたことがない。素晴らしい人間かどうかも同じで、容姿的にも中の下、よくて中の中であると自分で判断している私にとってはそこまで自分を高く考えることはどうしてもできなかった。


「いや、僕はそんなこと思ったことないですよ、誤解ですよ誤解」と言ったのは中村さんだ。

「ええ、そうかなあ? 変な全能感っていうの? 実際に自分がどれだけ出来るのかとは別でもっと褒められたいと思ってるし、もっと評価されるべきだと俺はいつも思っているけどね」

「そりゃ先生が一流大出で院まで出てるエリートだからじゃないですかねえ。しかも今だって相当いろいろやってるじゃないですか。実際に先生が出している成果に比べて評価が伴っていないってだけの話じゃないんですか?」と中村さんが反論する。


そりゃ、まったくだと思う。東大を出て院を出てそのまま放浪期間があったとはいえ、今こうして大学の助教授のポストにおさまっているのだから実際に凄い人なのだろう。私は大学に就職しようと思ったこともないから詳しいわけではないが、今大学でポストを得るのは相当難しいのではなかろうか。

そんなことを考えていると今度は山口さんが話を挟む

「私はどっちかっていうとこういう感覚はありますけどね。実力が伴っているかどうかはともかくとして自分は賢いんだぞー、良い人間なんだぞーっていう肯定感は凄くあります」

山口さんは私と一緒にいるのが不思議なぐらいかわいいのだが、そういう見かけもまた関係しているのかなと心のなかで勝手に想像する。しかしこうなってくるとあまり男女の性差とはいえなくなってくるのではないだろうか。

「はあ。そうなると、結局男女差はあんまり関係ないんじゃないですかね。私はぜんぜん自分が凄い人間だなんて思えないですよ」とこれは私だ。

「えーそうなのかなー。まあ、バラバラだからなあ。と、ごめんごめん、なんかほとんど関係ない話になっちゃったね」

「そうですね、まあ話しているうちに思いついたこともあるんで大丈夫ですよ」と山口さんが言った。


「そういえば、半分ぐらいしか読めてないんですけど面白いなと思ったところがあるんで言ってみてもいいですか?」と提案してきたのは中村さんだ。一応半分は読んできたんだな、中村さん。みんな無言で頷く。

「ありがとうございます。これ、最初の方からずっと読者に語りかけるようにして書いてますよね? 諸君は、とか君たちは、とか書いて、常にこっちに向かって語りかけるようになっている。僕は普段あんまりたくさんは読まないんですけど、こうやって語りかけてくると読みやすくてよかったですね。しゃべっているみたいにして読めるというか。」

「あー、そういえばなんかそれについてぐだぐだと言い訳しているみたいなところなかったっけ? えーと……そうそう、61Pだ。ぼくがいま物語ろうとしているような告白は、印刷すべきものでもないし〜ってとこ。『ぼくがまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、からっぽの形式だけであって、ぼくに読者などあろうはずがないのだ。』って」と出山先生が続けた。

「ありますねえ。ここ、けっこう引っかかったな。凄く面倒くさいやつなんですよね、これ。延々と読者のためではない、読者のためではないって重ねるせいでまるで押すなよ! 押すなよ! みたいになってるんですよ。本当に読者のために書いていないというよりかは、読者のために書いているような、書いていないようなってことが自分でもわからない、分裂症じみたことを伝えたいってことなんですかねえ」と山口さん。


このくだりを聞いている時、私はまた別のことを考えていた。ついこの間、カウンセリングについて書かれた本を読んだことが連想されてくる。最相葉月さんの『セラピスト』だ。この本の中でも特に、カウンセリングについてじっくりと相手の話を延々と聞き続けて、適切なタイミングで話を聞いてやる、それだけでもじゅうぶんにカウンセリングになるんだ、現代の人はみんな自分の話を聞いてもらう機会なんて、友達の間でも家族の間でもないんだからと語っている所が印象に残っていた。


そう考えると、私の日記は私だけが読むものだけど、小説という形式をとってまで、誰かに読ませることを想定しているようにも思う。そしてそれは、ある意味では私の話を延々と誰かに聞いてもらうというセラピスト的な体験に繋がっているのかもしれない。また同時に『地下室の手記』も、カウンセリングのような効果を持っているのだともいえるだろう。


「私はたぶんここに書いてあることは本当に、架空の読者、架空の聞いてくれる人に向けた文章なんだと思います。ほら、カウンセリングってあるじゃないですか? 私は別に自分がかかったわけじゃあないですけど、基本は人の話をよく聞く、理解して答えを導き出してあげるというよりかは、うんうんと相槌をうつ感じですよね? 地下室の手記時代に精神科医、セラピストがいたかどうかわからないですけど、分裂する自己を抑えるために、誰かに向けて延々と話している、というイメージが正しいんじゃないかなと思いましたよ」

「それはそうかもしれませんね。さっき出山先生が引用していた次の次のページぐらいにも、『手記を書くことで、実際に気持ちが軽くなるということがある。』って部分がありますし」と中村さんが言った。

「そうそう、たぶんそうなんじゃないかなって。そこを念頭において行ったわけじゃないですけどね実際いまブログを書いたり、ツイッタに投稿したり、小説を書いてネットに投稿する人たちに対してもある意味ではセラピスト的な治療効果が期待できるんじゃないかなあ」

「えーでもたまに暴走してる人いるよね? 炎上っていうんだっけ? ああいう人達がいっぱいいるし、あんまりカウンセリング的な効果が期待できるとは思えないけどなあ。むしろ病気っぽい人を増やしてるぐらいじゃない?」と山口さんが言った。

「ああいう人たちはさ、結局存在しない「読者」に実体を求めちゃったばっかりに暴走しちゃうんじゃないかなあ。虚空に向かってしゃべっていると認識できていればいいけど、その虚空に実体がなくちゃダメだ! なんとかしてこの虚空に実体を与えなくちゃいけないんだ!! と思い始めると暴走するというか」

「なるほどねえ〜。それはまあ、あるかもね」

このあたりのことは、私が話しながら頭に思い浮かんだことだった。なかなか一人では出てこない発想だ。

「実際、ブログやツイッタなんかはいい息抜きになる場合が多いと思うけどね。でもみんなそこまで饒舌に、カウンセリングになるほどには文章を書けないんじゃないかなあ。単なる自分の気持ちっていってもそれこそ実体のないものだから、書くのってけっこう難しい気もするけど。饒舌に書けなくてもいいっちゃあいいのかな。」と出山先生。


「そうそう、最初の話に絡めると、そういう意味ではこの手記を書いている人は実際に頭が良いっちゃあ良いんですよね。書いてるのは当然ドストエフスキーなんで饒舌なのはそうなんですけど、実際は作中人物が書いているってことになってるんですから、相当文章がうまいですよ」と山口さんが言った。

「山口さん、超上から目線だね……」と私。

「特に凄いと思うのが、理性と感情の入り乱れぷりっていうか? さっき私自分の感想の時になんて言ったかもうあんまり覚えてないけど、このぐっだぐだ感が凄く好きなんですよね。理性的な部分は凄くちゃんとしてるのに、一方で感情的な部分で屈服して、惨めで、情けない感じが凄くよく出ている。そして完全にその理性と感情の渦の中でウギャアアアって絶叫してのたうちまわっているような感じが文章に落とし込まれていてさ。なかなかこうは書けないと思いますよ」

「俺もかなり共感したな〜〜。特に二十歳の女の子にさんっざんひどいことを言って、それでいて女の子が自分のことを気に入ってくれるかも? とかトンチンカンなこと考えているところあるじゃん? あのなんか究極的に都合がいいところとかさ。」

「私はそこには共感しなかったですけどね。ただただ嫌なやつだなあとしか」と私。

「うーんなんていうのかな。男の子は小学生ぐらいの時に、好きな子にいじわるしちゃうとかがあるじゃん

? なんかそんな感じなんだよね。この地下室の手記でも最後の方でせっかく来てくれた女の子に、本心とはまた別の、自分をあくまでも露悪的に見せよう、相手を徹底的に傷つけてやろうとするような言葉をぶつけるじゃん。結局それは動揺からきた挙動なんだと思うけど、自分の最低のところを見せつけて、それでもなお相手が自分のことを受け入れてくれるのかみてみたいっていう男の本能的なところに根ざした行動なんじゃないかなあと思うわけよ。もちろんそれは最低な行動で受け入れられるはずはないんだけど、でも行動自体には俺は多少の共感を覚えるかなあ」

「えー、それはさすがにぜんぜんわかんないです」と私と山口さんが同時に同じようなことを言った。

「僕はさっきの出山先生には共感しないですけど、こっちには共感するかなあ。いや、まだそこまで読んでないんですけどね。できることなら自分の最低なところまで含めて全部受け入れて欲しいっていう気持ち自体はわかるかなあ」

「おお! そうだよなあ。これは男特有の事象なんじゃないのか?」

「仮にそうだったとしてもそれが全男性に共通する嗜好だとはあんまり思いたくないですけどねえ……」と山口さんが最高に嫌そうに言っていて、完全に私も同意見だった。


「じゃあ、そろそろ時間もおわりに近づいてきたので、一個聞いてみてもいいですか?」と山口さんが言った。そういえばこれだけは聞いてみたいというのが一つあると、事前に言っていたなと私はこの時思い出していた。まあ、読めば誰もが聞いてみたくなる質問だと思うけれど。

「いっちばん最後の方、リーザが去っていった話の直後にこんな問いかけがあるじゃないですか。『ところで、ひとつ現実に返って、ぼくからひとつ無用な質問を提出することにしたい。安っぽい幸福と高められた苦悩と、どちらがいいか? というわけだ。』って。これは結局作品全体を貫いている問いかけでもあると思うんですけど、みなさんはどう考えるかなって最初この本を提案した時から気になってたんです」


「えーと、じゃあ俺から言おうかな? 俺はこの二択だったら高められた苦悩かな。満足した豚か不満足な人間かみたいな問いかけだけど、おかしいのはこれが幸福と苦悩が対置されているところにあるんじゃないの? 苦悩の方をえらんだからといって、幸福が選び取れないわけじゃないってのがこの本の主題でもあるんじゃないかと思ったけどね。ほら、最初の方にも、苦悩の中にこそ快楽を見出すんだ、みたいなことが何度も書いてあったでしょ?」

出山先生の読みはまっとうなものだなあと私は思った。実際、この本の一貫した流れは、理性と感情のせめぎあいとその苦闘の中にこそあるけれど、決してそうした苦闘に対して否定的な論調ではないところにある──と少なくとも私は思う。ただ私の意見はそことは多少違うところにあった。

「でも、この人って苦悩の中に快楽を見出すんだっていうけど、ぜんぜん快楽を見出だせているように思えないんですよねえ。もがきっぱなし、自意識にとらわれっぱなしっていうか」


「もちろん、そこが面白いところではあるんですけどね。ほら、途中どっかでありましたよね。『二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものなのではないだろうか。』って。結局純粋理性の肯定だけでなくて、理性以外の本能的な部分もまた同時に肯定しているのがこの『地下室の手記』なのだろうと思いますから、私は正直、高尚な苦悩を選んでこの人みたいになるぐらいだったら、安っぽくてもいいから幸せな方がいいかなあ。それこそ田舎のヤンキーみたいなのでいいんですよ。周りには知り合いしかいなくて、地元に仕事があって、週末はイオンに家族で──みたいな感じで」

これは私の発言だったけど、その場の流れで言ってしまったもので今考えてみると田舎のヤンキーみたいなのはさすがにちょっと嫌だなと思った。湘南乃風やEXILEみたいな音楽嫌いだし、そもそも車に乗りたくない。できれば東京でひっそりと暮らしていきたい。

「ええええ、なんかイメージぜんぜん違うけどね? ていうかあんた絶対田舎のヤンキーに同化するのは無理だよ。無理無理。あと田舎バカにしすぎ。まあ、その気持はわかるけどね。田舎の方じゃなくて、この作中人物がぜんぜん苦悩の中に快楽を見出だせてなさそうっていうのは。実際ドストエフスキーだってろくな人生をおくっちゃいないんだから。流刑にさせられて死刑寸前になったり、そのせいでてんかんが悪化したりといろいろ不幸ではあるけど、賭博好きで借金まみれ、借金に追われて作品を書きまくったけど、こんな世界的大作家でも借金に追われて作品を書かなくちゃいけないなんて、全然幸せそうじゃないよね」

「実際には借金まみれになりながら「ふはははは、借金サイコー!! おかげでいくらでも書けるぞおタノシー!!」って思ってたかもよ?」と出山先生が半笑いでちゃちゃを入れる。

「いや、さすがにキツイんじゃないですかねえ。流刑に死刑寸前にてんかん持ちでギャンブル依存症なんて全般的に人生詰んでますよ。むしろそれだけ借金に追われて死にかけながらよく『カラマーゾフの兄弟』なんて傑作を書いたなと思いますよ」と山口さん。


「ところで、山口さんはこの問いかけについてはどう思っているわけ?」と私は訊いた。

中村さんにも一応話をふってみたのだが、彼は最後までは読んでいないのとこの問いかけだけきいてもいまいち答えもわいてこないのでノー・コメントということだったのだ。どっちか選ぶだけなんだから、選べばいいのにと思ったが波風立てないように黙っていた。仮にも先輩なのだ。

「私はねえ。どうなのかな。解釈的には出山先生と同じだと思っていたんだけどね。ようはこの問いかけ、安っぽい幸福と高められた苦悩、どっちだ! って言っているけど、作品全体の流れからいったら、理性をとるのか、とらないのか、っていう問いかけじゃないですか」

「それはまあ、そうだよね。さんざん最初から自意識に悩まされている書き手と、理性をほとんど持っていない、バカだけど幸福そうな周りのヤツラって感じの対比で書かれているから」と出山先生がフォローを入れる。

「そうなんですよ。つまり苦悩が伴う理性か、苦悩が伴わない非理性かっていうある意味では意識がどの程度私達にとって自由にできるのかについて議論が進んでいる非常に現代的な問いかけですよね、これって。で、当然話の流れ的には苦悩があったとしても我々は理性をとるのだー、苦悩の中に快楽を、幸福を見出すのだーってなると思うんです。ですけど今回再読していて思ったのが、最後の最後、リーゼにわーって自分の醜い考えを喚き散らした後で、「踏みつけにされていたリーザが、実は、ぼくの想像していたよりもずっと多くを理解していたのである。彼女はこの長広舌から、心から愛している女性がいつも真先に理解することを、つまりぼく自身が不幸なのだということを理解したのだ。」って独白しているじゃないですか」


「つまり少なくともこの手記の書き手は、まずもって不幸なのだっていう前提がありますよね。それで、同時に、ひどくけなしていた、最初の言い方でいえば「バカ」、ろくに理性を発揮させずに、日々をほとんど非理性的に過ごす側の存在だと思っていたリーザが、実は最初に考えていたよりもずっと多くを理解していたのだっていう。つまりこの最終段階にいたって最初の前提はもろくも崩れ去っていたんじゃないですかねえ。安っぽい幸福と高尚な苦悩、それを単純に理性か非理性かと言い換えましたけど、実はそれはやらないで考えてみる。そうすると、安っぽい幸福の中にも理性はあるし、そうなると高尚な苦悩はただ不幸なだけなんじゃないかって。」

「え、そうなるとドストエフスキーはじゃあ、バカであれ、って言っているようなことになるんですかね?」と中村さんが言った。

「いやあ、そういうことじゃあないんじゃないですかね? 今山口さんの話を聞いていて、凄く面白いな、と思ったけどじっくり読んでいったら全然違うかもしれないし、基本的にはやっぱりどっちともとれるような書き方をしているとも思うし。だいたい言葉が曖昧ですしね」とこのフォローを入れたのは私だ。

「でもこの意見は面白いかもね。たぶん、解説とか読む限りではやっぱりドストエフスキーは自我・自意識的なものが生み出す苦悩があるからこそ、それ以外の喜びもあるんだっていう方に肯定的なことを書いているようにも思うし、山口さんが言ったような方でとると少なくともすっきりはしないけど、書き方的にはどちらともとれるような広い射程を持っているしね」

「そうそう、そうなんですよ。うっすいんですけど、けっこう壮大なことやってますよねー、この地下室の手記って。」


「おっと、じゃあもう残り5分ですし、次の課題本でも決めますか?」と調子が良くなってきた山口さんが言った。最後のはずっと言いたかったことなんだろうな、と思わせるテンションの高さだったものなあ……と思いながら私はいつも通りひっそりと座っている。

「あ、じゃあ次は俺が決めていいかな?」と出山先生。他の面々も特に異論がなく、頷く。

「次は、マルクス&エンゲルスの共産党宣言をやりたいんだよね。ちょっと来週は時間がなくてさ、30分ぐらいしか時間がとれないから相応に薄いものでやりたいと思って。あとこれは俺の青春の書だから、ぜひ語りたいんだよ」

30分しかないんだったら別に今回はスルーしても良いのではないでしょうか? と提案する気力は私にはなかった。出山先生が凄く楽しそうに提案してきたからだ。この楽しそうな人の楽しさをくじいてはいけない、と瞬時に判断してしまった。村上春樹、ドストエフスキーときて次にくるのが小説でもなんでもなく共産党宣言かよ、というまっとうなツッコミも思いついたが、ひょっとしたら本当に語ることがあるのかもしれないのでこれまた何もいえなかった。

「共産党宣言ってなんか面白いことが書いてあるんですか? 今読んでも意味なくないですか?」と中村さんが言った。おお、いいぞ、先輩が一番出山先生と関係が深いんだから、ここは先輩が止めるべきだと私は思った。

「いやまあ、面白いかどうかっていったらわからないけどね。とにかく俺は衝撃を受けた本だから、ぜひ読んでもらいたいな。内容がどうこうってより、文章の調子がいいんだよね。いざゆかん! みたいな感じでさあ。1時間半はさすがに語れないと思うけど、30分だったら大丈夫だよ」

「まあ、それならそれでいいですけど。日時はまた来週この時間でいいんですか?」

「いいよいいよ」とここで時限終了の鐘がなる。「じゃあ、俺はまた行くから。たしか共産党宣言は生協にあったと思うから、買って帰りなよ」

「はあ」「はいはい」「そいでは」と三者三様の挨拶をして、その日は解散となった。


今回の読書会は総括するとなんだっただろう? どうだっただろうか、と問いかけても同じか。『地下室の手記』を読んで、ドストエフスキーは何を伝えたかったのか、とそういう問いかけがされているわけではない。たんに、作品から読み取れることや、作品から思いついた問いかけをあーでもないこーでもないと言い合っているだけ。作品解釈的にわかれるところの議論も、最後にちょっとだけ出てきたけれども、これが合っているか、間違っているかなんてことは仮にドストエフスキー本人に訊いたって、答えが出るわけでもないだろう。


ただ少なくとも山口さんの言っていることは私にとっては非常に新鮮に聞こえたし、思いもよらない方面からのアイディアだったことは確かで、この時本当の意味で読書会ってけっこう面白いな、と思ったのだと思う。まったく同じ文章を読んできているにも関わらず、よくもまあこれだけ文章への感じ方、解釈みたいなものがわかれるものだと思う。私がまったく好きになれないタイプの作中人物に対して、先生が大きく共感を抱いていたり、山口さんもまた私とは違った意味で共感を覚えたり嫌悪感を覚えたりしている。


話していて思うのは、結局みんな自分の経験、自分の知識から引き出して、読み・語るんだろうということだ。出山先生は最初に自身が経済学の専門だからという理由で経済的な読み方についても語ってくれた。私はどちらかといえば本書の主人公と同質の思考を持って、地下室の手記のような日記を書いているばっかりに嫌悪感を抱いた。また最相葉月さんのセラピストを最近読んでいたこともあって、それに関連付けて本書を読むことになった。山口さんは山口さんで、おそらくは自身の、他の作品などからも影響を受けているドストエフスキー感を引っ張り出してきて、語っていたはずだ。中村さんは……まだよくわからないけど。でも最初に読んできていないと聞いた時は、じゃあ来る意味ないんじゃない? とまで思ったけれど、あまり読んでいないなりに、まっさらな意見は出てくるものだと感心した。


そして文章を読むということが文章と読み手の相互作用から生まれてくるのだとしたら、読書会はそうした自分独自に発生した相互作用のお披露目会でもあるんだろう。半分自分をさらけ出しているようで恥ずかしいけれども、面白さはきっとそのあたりにうまれるんじゃないだろうか、と私は仮説を立てよう。もっとも、まだまだ二回しか読書会に参加していないのに大げさなことを書いたとも思うけれど。明日はここで書いた内容を整形して、ブログの方をぽちぽち更新していこうと思う。

次は『共産党宣言』です。なぜ共産党宣言なのか? 特に理由はありません。なんとなくです。


ブログやツイッタというのは誰かに向かって語りかけているけれど、相手は目の前に存在しないので精神科医に手を煩わせない効率的なカウンセリング装置ですね。そういう意味でいやあ、小説家になろうだって同じだなあとこれを書きながら思ったり。


箱庭療法なんていう、言葉を使わずに箱庭に物を配置することで自分の精神状態を表現し、それを続けていくうちに箱庭の内容も変わっていくなんて治療法がありますけど、小説家になろうに掲載されている小説は大多数がほとんど誰にも読まれずに消え去っていく、カウンセリング装置として機能しているような気がしてなりません。


もちろんこんなもの誰も読んでいないわけですし、架空の読者に向けて書いているわけですが、架空の読者で満足できずに「なぜもっと読者が増えないんだ」とか「なぜ誰も反応を返してくれないんだ」と思ってストレスになりはじめたら、それはもうカウンセリング失敗状態で、やめたほうがいいってことなんでしょうね。気をつけようと思いました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ