表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

第二冊目の上巻『地下室の手記』

一週間ぐらい間があきましたがちまちま書いていたんじゃなく単純にサボっていただけですね。書き始めると別に何かを参照するわけじゃないんでどんどんやる気が満ちてきてガガッと書けるんですが、やり始めるまでがなかなか面倒くさいです。第二冊目の読書会は『地下室の手記』です。次か、その次ぐらいでこの二冊目は終わる予定。

2014年5月22日 23;33

人間は到達を好むくせに、完全に行きついてしまうのは苦手なのだ。もちろん、これは、おそろしく滑稽なことには相違ないが。要するに、人間は喜劇的にできているもので、このいっさいが、とりもなおさず、語呂合わせの洒落みたいなものなのだ。しかし、それにしても、二二が四というのは鼻持ちならない代物である。二二が四などというのは、ぼくにいわせれば、破廉恥以外の何物でもない。二二が四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行手に立ちはだかって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものなのではないだろうか。──ドストエフスキー『地下室の手記』


今日は第二回目の読書会、ドストエフスキー『地下室の手記』に行ってきたので、それについて日記に(いつも通り、小説形式にしてみて)書いていこうと思うのだけれども、その前に私はブログを書くことについて考えなくてはならない。一週間はとても早くて、山口さんにふといったブログをつくってみようかな〜と言ってたよね? あれどうなった? とせっつかれてしまった。すっかり忘れていた──というわけでもないのだけれども、私の中でブログをつくることの優先順位はとても低かったので意識にのぼることはほとんどなかった。


前回の日記を見てみると、タイトルを考えるところで止まっていたようだ。そこからか……と思うけれど、もう面倒臭いし、パッと思いついたものでいいかもしれない。出来る限りシンプルで、一目で趣向がわかるものが良い。その為には何を書くかをまず決めなければならないが、まずそれは本のことだろうと思う。その場合は書評ブログになるのだろうか? 書評ブログはほとんど読んだことがないけれども、私には特にお気に入りのサイトというものは存在しない。私にとって読書とは密接に自分のことに関わっていて、どうにも自分から引き離して評価をできることがなかなか難しいような気がする。


今日、会話をしていた限りでは、読書会のメモでもいいんじゃない、と他愛もない感じで山口さんとは話していた。読書会のメモならこの日記に長々と書いているから、すぐにでも書けるだろう。この日記を誰かに見せるわけにはいかないけれども、あの小説形式で書いた部分だけは、見せられるように加工してアップしてもいいのかもしれない。でも其の場合はひどく個人的なものになるだろうな。それこそサークルの活動記録みたいな。遠回しにWeb書記のようなことをやってくれという流れになっているのか、利用されるのはしゃくだがせっかく書いているのだからたいして変わらないか。


以上のようなことを考えると、ブログは──まあ内輪のものだから、わかりやすい名前でいいかな。フランクフルト学派の読書会……はちょっと嫌だな。だいたい私はフランクフルト学派のことを何も知らないし、出山先生が一人で盛り上がっているだけだ。山口さんもいい顔はしないだろう。かといって別に良い名称があるわけでもなし、多根崎美咲の読書会にしておこう。ではここからいったんブログ作成に入ります。カット。


2014年5月25日 24;40

質疑応答に答えるような形であっという間にブログが出来た。多根崎美咲の読書会。ペンネームを考えようかとも思ったけど、サークルのものだしこれでいいでしょう。私が中心になって書くわけだし。デザインとか、まだまだ中途半端だけど、それはおいおい整えていくとしましょう。その前に早く地下室の手記の読書会メモを書き進めていかないと。明日になったら(もう今日だけど)忘れっぽい私はどんどん記憶から薄れていってしまうし、鉄は熱いうちに打て、だ。


さて、読書会再現を目論む前にいったんドストエフスキー『地下室の手記』についてざっくりとしたメモを残しておきたいと思う。恐らくこれはブログに載せるだろうし、あらすじもわからないまま読書会の様子を載せてもよくわからないだろう。あらすじがわかっても、わからないだろうけれど、そこはまあそれ。


まずドストエフスキー『地下室の手記』は、思っていたよりもずっと短い本だった。私はブックオフの105円コーナーにいたしなびた新潮社の古本を買ってきたのだけれども、本編が終わるのが206ページ。カラマーゾフの兄弟とか、罪と罰とか、いかめしい書名で上下巻(上中下だっけ?)のイメージがあるし、そういうのと比較するととても短い部類に入るのだろう。一週間で読めるかどうか不安だった私からすれば、これは行幸だった。読むのは好きだけど、そこまで読むのは早くないからだ。


この短いドストエフスキーの一冊に向かって私が何を考えたのか、どんな感想を抱いたのか──は読書会パートに譲ろう。まずはあらすじ。えーと、あらすじってどうやって書けばいいんだろう? とりあえず裏表紙には、極端な自意識過剰から一般社会との関係を絶ち、地下の少世界に閉じこもった小官吏の独白を通して、理性による社会改造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものであることを主張する〜というようなことが書いてある。ここだけ読むとまるで哲学書か何かのようだけれど、実際には冴えない男が延々と自意識をうんぬんかんぬん語って、一人で空想を語ることにも耐え切れなくなり、友人に出会いにいって、そこで現実そのものに叩き潰されて自意識を喚き散らすような、そんなひどい話だ。


とにかく「手記」と書名についていることからもわかる通り、ずっと私の日記のようなペースで延々と自我を垂れ流してすすんでいく。ここは私の日記にしか書かないし、人にも言わなかったところだけれども、これを読んで私はある意味では初めて自分自身というものを客観視したようにも思えた。自分って、ひょっとして他人からみたらこの地下室の手記の、四十歳も生きてきてろくに働きもしないで地下室に引きこもっているような存在なのではないかしらん? と。それはそれでゾッとするような考えで、何しろ私もまだ大学一年生という素晴らしい身分でありながら、今から就活をして仕事をしにいくのが嫌で嫌で仕方がない──あえて誰も読まないことを前提に書けば、仕事なんかこれっぽっちもしたくない、やりたい仕事なんて何一つない、これまで学校で書かされてきたありとあらゆる夢の欄にその時の思いつきを適当に書き散らし、親戚連中には聞こえのイイ職業、聞かせれば喜ぶであろう志を語ってきたものだったから。


ここにあるのは未来の私の姿なのかもしれないと、そういうゾッとするような気分と共に読んだのがこの『地下室の手記』なのだった。時代も年齢も性別も違う他人ごとだけど、他人ごとじゃない切実さがある。おっと、多少私自身の感想に踏み入れてしまったところもあるけれど、ここからはいつものとおりに書き方を変えていこうと思う。


いつものように2限目が終わって、山口さんと一緒に他愛もない話をしながら教授棟の4階に向かう。毎週この時間、2限目はいつも英語なんだけれども、今日はまったく身が入らなかった。先生の話は聞いていないし、なんだかぼやっとしてしまっている。それは明らかに読書会のことを考えていたからであって、もっといえば自分はこれから何を話したらいいのだろうと考えていたのだった。前回の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は私が推薦したこともあっていろいろと喋ることができたけれども、『地下室の手記』はとても興味深く読んだものの前回ほど喋れる自信はない。

「山口さんはさ、けっこう地下室の手記について語れる自信あるの? なんか三人だと、一時間半も間が持つのかどうか怖くてさ」

「あーそれなら大丈夫じゃない? 結構喋れるところ多いと思うよ。凄く短いけどさ。それに、先生前回自分の授業で声をかけてくれるって言ってたじゃん? 誰かくるかもよ?」

「それはそれでウマくやっていけるかどうか不安だけどなー……」

「大丈夫大丈夫。もし変なやつがきても対応はこっちに任せてあんたは黙っててくれればいいから」

た、頼もしい。実際、山口さんと出山先生はどちらも付き合いやすさランクでいえばA+みたいな気楽な人たちで、こっちから何か言わなくても自然と話題を引っ張っていってくれる力強さがあるから、この二人は問題ないんだろうけれど、私はBマイナスあたりをうろちょろしている人間(ただし装えはする)なのでそのあたりで感覚のズレが出るのはいつものことだった。ブルドーザーのように人間関係を地ならししていく二人だった。

「まあ、それはそれでよろしく頼みますよ。私は今日は読書会の方もサポートに徹しますから」

「え、読んできてないの?」

「もちろん読んではいるんだけど、あんまり語れることないかも。自信ないな」

などなど話しているうちにあっという間についた。席には当然のようにまだ出山先生は着ていない。じゃあ、私が読んでくるよと山口さんが荷物を椅子においてさっさと出て行ってしまい、私が前回同様取り残される形になる。部屋は開放的で、特にドアなどがついているわけではなく、机と椅子がいくつか並んで各自自由に使ってくださいというスタイルなのだけど、いつもはいないその場所に見知らぬ男子生徒Aが一人座ってスマートフォンをいじっている。見知らぬ人に聞かれながらやるのは嫌だなあ……と思っているところに、すぐそこで出くわしたのか出山先生と山口さんが戻ってきた。

「おーおーおーもう集まってるな! おおー、中村くんも着てるか」と出山先生が言った。

中村くん? といって視線の先を見てみると、見知らぬ男子Aが立ち上がって出山先生に挨拶をしている。

「ああどうも、ここで良かったんですね。誰もこなかったんでちょっと不安でした」

おお、この男はニューフェイスなのか。と思って改めてじろじろ見てみる。別にイケメンというわけではない、割と筋肉質な男だ。少なくとも好みからは外れている。

「あ、二人にも紹介しておこう。この前経済の授業で、100人ぐらいの前で大々的に宣伝して一人だけ来てくれることになった中村くんだ。今後来てくれると思うからよろしく」

「よろしくおねがいしまーす。あ、私山口です。こっちが多根崎。」といって山口さんがついでに私の紹介までしてくれる。ふうむ。それにしても経済なんていう、よく全く関係のない授業で読書会の募集をするものだなあと私は一人感心していた。

「ところで中村くんは課題図書読んできた? 地下室の手記は伝えたよね?」と出山先生。

「あ、はい。買ったのが遅くてまだちょっと全部は読みきれてないんですけど、とりあえず読めるところまでは……」

読んでないのかよ、200ページだぞ、と思ったが口には出さない。私は基本的におしとやかな人間なのだ……。

「とりあえず座りませんか?」と私から提案する。全員立ってままだったからだ。ばらばらと全員椅子について、さっき名前だけは言ったもののお互いの専攻が何だとか、何年生だとかのやりとりをする。中村さんは私達より学年としては1つ上、年齢としては2つ上で経済学専攻だという話だった。ちなみに私が国際文学で、山口さんは社会学専攻になる。


「さて、それじゃあ第二回フランクフルト学派読書会をはじめます」といって出山先生が開催を宣言する。

「じゃあまずはどうしようか? 前回は多根崎さんの提案で多根崎さんからはじめてもらったから、今回は山口さんからにしようか?」

「そうですねー。いいですよ。じゃあ私から時計周りでいきますか」と山口さん。ちなみに並び順は四角い机の上辺から時計回りで出山先生、中村さん、山口さん、私の順番だ。前回の読書会を経験して思ったのだが、最初に口火をきるのはなかなか難しいところがある。ようは全体の意見の方向性みたいなものがまったく見えない状況で自分の感想を言っていかなければならないので、なんだか全体の方向性からズレてしまったらどうしようという恐ろしさがある。自分以外の全員が否定派なのに、自分だけが肯定派だったら嫌だなあ……という非常に日本人的な発想かもしれないけれど、どうしてもそうした恐怖心があるものだ。山口さんはあまり気にしていないようではあって、羨ましい。

「まず私はドストエフスキーの中では絶対的に『カラマーゾフの兄弟』が好きなんですけど、今回地下室の手記を選んだのはやっぱり短いからですね。200ページちょっとしかないですよね? だからまあ課題図書としてはちょうどいいかなと思いました。」

「そうだよね、短いからその辺は助かったよ」とこれは出山先生。

「で、ここからは今回読んだことで思ったことなんですけど、随分前……いつですかねこれが書かれたのは」ぺらぺらと後ろの方をめくって「1864年! 150年とかそんな前に書かれたものですけど、なんだか感覚がとても現代っぽいじゃないですか。地下室の手記を書いている人の物凄い病気感、とにかく自分のいうことを誰かに聞いてもらいたい、聞いてもらわなければどうしようもないみたいな感じ。精神の病といってもいいような状況にあるわけですけど、この狂い方が現代っぽいなと思うんですよね。たとえばこんな一節がありますけど──『現代のちゃんとした人間は、すべて臆病者で、奴隷であるし、そうでなければならないものなのだ。これは、現代人の正常な状態である』とかいって、これって今でも有効だと思うし、こういう自意識の切実さ? 友人がとってもまともに生きているのに心のなかでは知性のないバカみたいに凄く下に見ているところとか、別に拳で誰かと取っ組み合いをするようなアクションのある小説ではないですけど、ある意味では延々と終りのない自意識との戦いですよね。そのあたりが好きです。」

「ふうん。なるほどね、俺はドストエフスキーはそこそこ読んだことあるけど、確かに全体的にそんな漢字だよね。殴りあったりするけど、基本的には観念の戦いっていうか。」と出山先生が言った。

「現代っぽいっていうところはわかるんですけど、でもさっき読み上げていた所──すべて臆病者で、奴隷であるし、そうでなければならないもので、それが現代人の正常な状態であるっていうのはよく意味がわからないですね」とこれは私。

「そこ、意味あるんですかね? なんか適当にノリで書いてあるんじゃないですか?」これを言ったのは中村さんだが、なんか凄くアホっぽい。

「まあ、それは後にまわしましょうか。先に感想言っちゃってもいいですか? ……はい、私もだいたい山口さんと同じような感じで自意識の葛藤的な部分を面白く読んで、とにかく手記って部分がいいですよね。私も結構日記を詳細に書く方でこの人の日記みたいに自意識が垂れ流しになっている部分があって、けっこう共感しました。ただ……なんていうのかな、どうしても人格に興味がもてないというか、あまりにも悲惨すぎて読んでいてムカムカしてくるんですよね。最後の方好きな女性にあそこまで感情をぶちまけるなんて、好きな女の子にいたずらしちゃう小学生男子みたいじゃないですか? 面白かった反面、どうしてもこの人格に付き合いきれないと思うところがあって、とにかく人格面でついていくのがつらかったですね」

「あれはああいう表現の一つだと思うけどね。ようはなんていうのかな、分裂した自己をどうしたって誰かにわかってもらいたいんだ、誰かに本当の自分を見てもらいたいんだ──ってさ。今の子でもけっこう自分探しとか言うじゃない? あれの亜種みたいなもんだと思うな。俺の汚い部分までさらけ出してやるーーーー!!! それで汚い部分まで含めて肯定してくれーーーー!!! っていってさ。」

「表現の一つっていうのは確かでしょうけど、私もまあ当然人格としてはキツイな。とても付き合いきれないって思うし。でもなんだろう、別に私の両親でもなんでもない、隣にいる人でもないわけだから、どれだけダメな人間でも私は笑って見てられるかなあ、それがどんなにクズでも」と出山先生と山口さんが二人それぞれコメントをくれる。

「それはまあ、そうなんですけどね。私も別にそれが極端にマイナスってわけでもないし、表現としても納得できるし、ほとんどの場合はフィクションの中なんだから笑ってみてられるんだけど、今回はちょっとダメでした、不思議ですけど」本当はこの地下室の手記の醜悪さが私の日記と根本的な部分で似通っていることを発見してしまった、自分自身がやっていることへの自覚と嫌悪感といったものが強かったと思うのだけれども、それはここで述べることはさすがにやめておいた。あまりに個人的なことだし。

「あ、じゃあ次俺がいいかな? 俺は一応経済が専門だから、ここでいう理性を徹底的に否定して人間の本性は非合理的なもの、欲にまみれたものなんだっていうところが良かったかな。たとえば経済でいえば初期の考えではけっこう、合理的に考える人間ってものを想定するんだよね。AとBという選択肢があった場合、Bをとったほうが絶対的に理屈が通っているし、合理的で理性的な人間はBを選ぶはずだ、みたいな前提があってさ。一方行動経済学っていう経済学の分野ではそういう家庭を捨てて、もっと人間本来の行動に注目した経済行動みたいなものを見ようっていうのもあってさ。だからここでいうように、理性なんかで人間は動いているんじゃなくて人間は欲望に突き動かされるモデルを前提として、で、その欲望が自意識の形になって暴走していく様が面白かったかな」

「ああ、僕は専門が行動経済学寄りなんでそれは強く思いましたね。というか、そんなようなことを言おうと思っていたのでいうことがなくなっちゃいましたよ。すいませんが今回まだ全部読んできてないこともあって、パスさせてください」と中村さんが言った。

うーん、中村さん、なんだかとんでもなくぼんくらなような気がしてきたなあ……。物腰は丁寧だけど、筋肉むきむきだし、お世辞にも本を読むような人間には見えない……。この先うまくこの読書会を終えて、やっていけるんだろうか……。とその時の私は考えていた。実際、どうなるんだろうね。

次話に続く。明日か明後日かな。

とりあえずあと10万文字分ぐらいの話は考えてあるのでそこまでは書く予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ