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第一冊目の下巻『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

なげえ……。ここから読んでも意味がわからないのでせめて前話から読んで下さい。とりあえずこの本はここで終わりました。よかったよかった。

「いや、もちろん象徴性の部分についてはわかるよ。わかるけどね、どうしてもそれが鼻につくっていうか、すっきりいえないのか? こいつはと思うわけだよ。肌に合わないっていうのかな」と出山先生が私の意見について反論を重ねる。まあ、反論というか、ただの自己完結的な感想なので、これ以上こちらから何か言い募るようなものでもないけれども。ふうん、そうなのね、というかその感想自体は、なんとなく話し始める前からわかっていたけれども、私自身が村上春樹作品をめっぽう好きだから、あのするすると読めて何らかの概念を私の中に構築し始める文章が、そもそも肌にあわないなんていう人がいるとは考えもしなかったところだ。


「そういう意味で言うと、私はこの語り口自体がとても好きですね。だいたいこの主人公、何をやってもクールじゃないですか? 家に大男と小男が入ってきたら普通わーわー喚き散らして、家のいろんなものが粉微塵にされちゃったらなき散らすかなんとか脱出することを考えると思いますよ。」と私が言った。

「そこはそうだよね。リアリティがないとも思わなかったけど、でもとてつもなく変だな、とは思った。ある意味現代っぽくはあるけどね。ほら、さとり世代とかいってさ。でもこの小説が出たばっかりの時はまだそういう世代の兆候はあきらかになってなかったんじゃないかな?」

「なかったと思うなあ。俺は語り口の冗長さがダメなだけで、そこにはあんまり引っかからなかったけど、引っかかる人はいるかもね。」

「私が読んでて思ったのは、ここについては基本的にある種の孤独さみたいなものがあると思うんですよね。いやもちろん村上春樹が書く作品は他のやつらもみんなこんなかんじなんですけど、でもこの徹底したクールさっていうのはやっぱり意図的なものだったと思う。自分はこの世界に必要とされていないんだっていう根本的な感覚というか、なんだか明日死んじゃっても、それはそれでまあ仕方ないのかなっていう諦念みたいなものを感じるし、そういう表現なのかなって」このあたりはぼんやりと考えていたことだったので、ちゃんと言えたのかはよくわからなかった。

「でもなんか最後の方ではまだ死にたくないみたいなこといってなかったっけ? あとやっぱりこのどこかしら欠落している主人公ってのは、村上春樹共通のモチーフ、象徴性としていろんな部分が欠けているはぐれ者達が自分の心情をシンクロさせられるようにするための意図的なデザインなんだと思うけどなあ」と出山先生が言った。

「私も他の村上春樹作品を読んでないからわからないけど、先生のいうことも多根崎さんのいうこともどっちもありそうに思いますけどねえ。なにしろえらくいろいろな面で欠落していて、たとえば奥さんとか、そもそも次第に明らかになるにつれて自分自身の自意識すら欠落させられちゃうんだから究極の感情移入マッシーンみたいになっちゃうじゃないですか? 意識なくなったら感情移入も何もないのかもしれないけど」

「そうそう、それにセックスのシーンがさ、ぜんぜん出てこないわけ。俺村上春樹といえばなんだか全編ずっと理由もなくセックスしてるみたいなことを聞いていたからこれはちょっと以外だったな。太った女の子とか図書館の女の子とか、あるいは世界の終りの方でも女の子が出てくるのに一向にセックスをしない。それで話の最後でまるでなんかのご褒美かなにかのようにちょびっとだけ図書館の女の子と寝ることができる。で、そのあとは自意識喪失状態になったやうんだからかわいそうだけどね」

まだ18の女子を二人捕まえておいてあんまりセックスセックス連呼してほしくないというか、別に連呼するのは構わないのだが聞かれていたら恥ずかしい。ここはオープンスペースなだけでなく、両隣には先生陣の部屋があるのだから、声が筒抜けになっていたら猛烈に恥ずかしいじゃないか。ちらっとその時山口さんの方に目を向けると、彼女も若干どころじゃなくひいているように見えた。

「まあ……でもそのへんは不思議ではありますけどね。小説の謎、ストーリーをひっぱる糧として利用したのかなっていう気がしますけど……この話まだ引っ張ります?」とさりげなく……もないが私の方で話題の転換を試みる。

「そうだねぇ。そういえば君たちはここに出てくるような女の子たちに共感を覚えるわけ? この太った女の子──はちょっとおかしすぎるけど、この図書館の女性とかさ」

「そうですねえー」と山口さんが先に答えた。思考の瞬発力的には彼女の方が高いと常々思っている。だいたい想像は突飛な方に向かっていくのだが。「太った女の子は魅力的ですよね。最初もなんかプルースト、みたいなことをつぶやいてるところから好きだったけど、最後も完全に意識がなくなった主人公を冷凍しようとしてますよね? 普通にまっとうな感覚じゃないというか、おかしさを一切自覚しないで狂っている感じがいいなと思って」それはなんとなくわかるような気がした。

「それは確かにそうかも。ようはおかしさを自覚していて、おかしさを演出しようとする人たちっているじゃないですか? なんか目立とうとしたり、あるいは変な人だって認めてもらいたがるような人たち。そういうのとは違って、まともの基準をずっと育てないできちゃったからまっとうにズレていってる感じ」と私が補足。

「そうそう。そんな感じ。でもだからこそ当然なんの共感も覚えないし、それは図書館の女性の方も同じですね。別にあそこまで親切にしないよね、普通は。それはいまの時代もあるかもしれないけど。でも別段、それで話がつまらなくなっているってこともないかな。さっきも言ってたように、ほとんどの要素は象徴的な意味合いを持っているわけであって、あんまりこだわるところじゃないような気がしますし」

「象徴とはいっても、けっこう細部で気になるところがあるんですよね。気になるっていうか、ちゃんとしているっていうか。たとえば上巻の86ページに『私はつねづねソファー選びにはその人間の品位がにじみ出るものだと──またこれはたぶん偏見だと思うが──確信している。ソファーというものは犯すことのできない確固としたひとつの世界なのだ。』みたいなことが書いてあるじゃないですか」二人は私がいったページ数をぺらぺらとめくっている。

「で、なんだろうな。私は別にソファーなんかどうでもいいし、特に深く考えたこともなかったんですけど、言われてみればまあそうかなって思うようなそういう微妙な線をついてくるところが結構多いんですよね。それはソファーだけのことでもないし」

「それは俺も思うなあ。最初の方のシーンとか、結構わくわくしたもん。どこだかよくわからないエレベーター、ポケットに入った小銭をじゃらじゃらいわせて右手と左手でまったく別の計算を行うっていう謎の習慣も、そんなことしているやつはみたことないし自分でもしないけど、あってもおかしくなさはあるかな」

うーん。出山先生がここで賛同してくれるとは思えなかった。なかなか読めない人だ。

「それはそうと、一応今回はどうしても聞いてみたいことがあったんだよ」と出山先生が続けて切り出す。

「なんですか?」と山口さん

「この本のある意味中心になっているのは、世界の終りっていう考え方だろう? 誰も歳をおわないし、時間の流れはないし。死の恐怖に怯えることもない。で、それを可能にしているのはみんな影を亡くすっていう形で心をなくしているからだっていう。でも逆にいえば心をなくしさえすれば、この安穏とした世界でかわいい……かどうかはわからないけど、獣の頭骨を持ってくる女の子や、なんだかおかしい大佐だか大尉だかと暮らしていけるわけだ。」

「まあ、そうですね。もちろん最後の方で影が説得しているように、えーとなんだったかな? 絶望がなければ喜びもない! みたいなこと言ってましたよね? なんかそんな感じなんじゃないですか?」と山口さんが言った。

「そう、それも一理ある。でも逆にハードボイルド・ワンダーランド側の博士はこうも言っている。下巻の134Pだな。『しかし必要以上に怖れんでくださいと博士はつづけた。「怖れることはありません。いいですか、これは死ではないのです。永遠の生です。そしてそこであんたはあんた自身になれるのだ。それに比べれば、この今の世界はみせかけのまぼろしのようなものに過ぎんです。それを忘れんで下さい。」』と言っているわけだ。だからまあ、意見が割れるんじゃないかな? と思うんだけど、どう? この世界に行っちゃってもいいと思うか、思わないか」

「うーん、難しいですねえ。心がないってのが結局どういう状態なのかにもよりますし。ただ描写を読んでいる限りでは、別に普通に会話もできているし、普通の人間ができることはだいたいなんでも出来そうですよね? だったらいいかなあっていう気もしますけどね。だって死なないし、何より平穏そのものっぽいじゃないですか。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだって下巻の220Pにありますけど、それだって別にフィフティ・フィフティで帰ってきたりあるいは利益が出たりするわけじゃあないですよね? 帳尻があうわけじゃないとおもうんですよ。奥さんに逃げられて、頭がハゲてきて、ローンは溜まっていて……ってマイナスがいっぱいあったとして、じゃあその代わりにそれに匹敵する喜びがあるかっていったらそうじゃないですよね?」

私はここで改めて山口さんの言うことってけっこう凄いなあ、と少し感心してしまった。とても私の口からは出てこない言葉だ。というか、私は少し山口さんのことをみくびっていたのかもしれない。なんとなく、私以上に本を読んでいる人間なんていないだろうと思っていたけれど、とんだ思いあがりだったということだろうか。

「それならまあ、人によるってことなのかなあ。結局はさ。だってたぶんイチローに聞いたらイチローは「ノー、私は世界の終りになんて統合されたくありません!」っていうと思うし。結局人生の収支があってない人間が行きたがるっていう悲しい結論にしかならないんじゃないの」

「いやあ、でもこれって個人の選択の話ですからねえ。もちろん主人公さんは選択の余地なく世界の終りに自意識が統合されてふとっちょの女の子に統合されてしまうわけですけど。多根崎さんはどう思う?」と、話をふられた。まずい、全然考えていなかった。

「うーん、私は自然に影のいうほうに心が傾いていたけどね。絶望がなければ喜びもないんだって言われたら、まあそうかもしれないなって思うし。私は別に人生の収支的にはプラスになっていると思うしね。今のところ絶望した回数よりは喜びの回数と量の方が大きいような気がするし。」

「でも考えてみれば人間の人生の収支なんてどこで決まるのかわからないしね。君たちだってまだ若い女の子だからそんなこと言ってられるかもしれないけど、歳をとってからやっぱりあの時世界の終りに統合されておけばよかったって後悔するかもしれないしね。そんなの歳をとってみなきゃ誰にもわからないと思うけど」

「私は正直いってこのラストの部分については「自分がどうするか」というよりかは、自意識の消滅みたいなものを仕方のないことだと受け入れて、最後に図書館の女の人とゆったりとしたデートをして、それでどんどんと自分から欠落していったものを懐かしく思いながら最後の時を迎えていく美しさとしてしか捉えてなかったんですよね。なんかとても綺麗というか、感動的だったと思いますよ。で、その感動がどこからくるのかっていったrあ、結局最後の最後になってこの主人公は「いろいろと不手際はあったかもしれないけど、私はそうしないわけにはいかなかったんだ」みたいなことをいって、自分の人生を最終的にダメなところまで含めて全肯定しちゃうんですよね。で、こうした「弱い部分まで含めて、僕は僕のことが好きなんだ」っていうある意味究極的なナルシズムみたいなもんですけど、こういう自意識のあり方は彼の作品では前の長編でも一貫している。ようはダメな人間がダメな人間なりに自分を肯定して受け入れてしまうっていう、非常にマイナスな見方もできるわけですけど、逆に言えばそれは、ダメな人間だってそういう生き方しかできないんだから好きになるしかしょうがないじゃないかっていう肯定もあるんですよね。だから私は自分がどうというよりかは、この作品のラストの「消滅すること自体は自分が絶対的に避けることのできなかったルートとしての自分として受け入れる」ということと、それと同時に「それでもやっぱりこのままこのねじまがったままの人生を置いて消滅したくない自分」というものもいて、この葛藤が結局332Pの『私は声をあげて泣きたかったが、泣くわけにはいかなかった。涙を流すには私はもう年をとりすぎていたし、あまりに多くのことを経験しすぎていた。世界には涙をながすことのできない哀しみというのが存在するのだ。それは誰に向っても説明することができないし、たとえ説明できたとしても、誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積っていくだけのものなのだ。』という独白へつながる。私自身がどうするかっていうのはあんまり考えなくて、このラストの美しさのために、弱さや欠落を受け入れて現実を肯定するっていう主人公の選択を支持したいと思いますね」と私は言った──が実際にはここまで一気にまくしたてたわけではなく、うんうんとかふむふむとかほへ〜というような様々な相槌ややりとりを重ねながらのやりとりだったが、概ね私が言ったことはこのように整理されるだろう。

「なるほどね。まあ作品状況に密接に関係している上での描写・書かれ方だからそういう答えもまた面白いかな。ちなみに俺は安穏とした生活が得られるんだったら心──この場合は意識かな、はいらないと思うけど、でも今の話を聞いていると揺らぐね」


とここまで話したところでちょうどよくというかタイミングよくというか、3限終了の鐘が鳴り響いた。時計をみる暇もなかったけれど、1時間30分も喋っていたのか。まだいろいろ喋ろうと思って、線を引いていた場所が残っていたけれども、今回だけでも私、でしゃばりすぎてしまった感があるし、正直いって熱くなりすぎたなあと反省していた。

「俺はちょっとこの後授業準備があるから行かなくちゃいけないんだけど、次の本は何にしようか?」

「ああ、それならせっかくだからドストエフスキーの『地下室の手記』とかやりたいですね。今回上下で結構読むの大変だったし、あの本は結構短くて楽ちんですよ」と山口さんがいった。

地下室の手記かあ……ドストエフスキーは一冊も読んだことがないなあ……。

「私もそれに一票」

「俺も異議なし。それじゃあ次はそれで、また今日と同じ時間に。誰か参加したい人いたら連れてきてね。俺も次の授業で勧誘してみるから。それはそうと──二人ともけっこう喋れるね? 正直そんなに喋れると思わなかった。それだけ喋れるんだったら、ブログでもやってみたら?」とさらっと出山先生がいった。

「ブログですか? 何のブログ?」とこれは私。

「さあ、別に日記でもなんでもいいんじゃない。書評ブログか、こういう読書会の報告でもいいしね。じゃあ、俺はもういくから」といって来た時と同じぐらいせかせかと去って行ってしまった。なんだか忙しい人だ。実際に忙しかったらこんな趣味でしかない読書会なんてやらないんだろうけど。これって彼の勤務時間にはいっているのかしらん?


ともあれ、これで第一回目の私の読書会は終わった。いろいろと驚いたこともあるし、思ったよりも楽しかったかな、でもこうやって振り返ってみると、私が一方的に喋り倒したから楽しかっただけのような気がしないでもない。今回はそれに私の得意ジャンル、よく知っているところだったからっていうのもあるし。それにしても出山先生の授業って何人ぐらいとってるんだろうか? 授業で勧誘するっていっていたけど、いきなり十人ぐらい来ちゃったらどうしたらいいんだろう? それにブログをつくろうかどうしようか、私はいまだに迷っている。日記をこんなに長々と書くぐらいだから、つくってみてもいいのかもしれない。今日は、布団に入りながらブログの名前でも考えてみようか。シンプルでわかりやすく、趣向が一目で伝わって、それでいてなんだかセンスのあるような、そんなタイトルがいいけれども……。

次の本に続く。次はドストエフスキー『地下室の手記』です。


さて、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は私がめっぽう好きな小説です。なのでとりあえずふと思いついて一冊目の課題図書にしてみました。非常にあらけずりなんだけれども、世界それ自体を象徴に落としこんで、ストイックでクールな主人公が欠落を抱えながらも前に進んでいく、まさにハードボイルドなお話ですね。そういえばこの本のハードボイルド性についての議論とかをさせてなかったな。まあ今さら足すような話でもないですけど(だいたい誰も読んでないし、読むとも思えないしなあ)


進撃の巨人などで「壁」が比喩、象徴として様々な国の状況にマッチして受け入れられているというニュースをよく見ますけど、本作でも囲い込み、外に出られない壁の象徴性は遺憾なく発揮されています。こうした象徴性は揺らぎがあるからこそ意味があるのであって、批評的な意味で壁=社会システムなのである! みたいな意味の確定を行ってしまうと途端に茶番劇とかしてしまいます。


さまざまな国、さまざまな立場の人間が自然と自分のこととして受け止められるからこその、作品の幅の広さといえましょう。ただシステムとファクトリーの象徴が本作においてはあまりに荒っぽすぎると私は感じますし、面白くはあるけれど作品全体の中で有効に機能しているかというとちょっと疑問を覚えるところもあるのですよねえ。作品自体の評価はとても高いのですが。


長々と語ってもしょうがないのでこれにて失礼。まだしばらく続く予定です。

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