追いかけられる僕と追いかける彼女。彼女との超短期的文通とバンドメンバーとの顔合わせ。
追いかける彼女 8
「さっぶいっ」
私は誰に対してでもなく呟く。秋とはいえ、夜ともなるとさすがに冷える。
あの後、凜と春美には先に下校して貰った。
元々の原因が私だという事もあるし、二人は二人で予定もあるだろう。屋上の幽霊さんの置き手紙を信じるならば、今日の深夜には、この部室に戻ってくる可能性は大いにあった。
それに、今回のように待ち伏せ染みた行為に目を瞑れば、上手くいくと屋上の幽霊さんと初めて顔を合わせる事ができるという打算もあった。
引っ込み思案の幽霊さんの事だから、凜達三人で待ち構えるより、私一人のほうが警戒が薄れるようにも思われた。
しかしながら、と私はスマートフォンを取り出し、時間を確認する。
あと十五分ほどで日付が変わる、
それよりも、問題なのは。
「お手洗いに行きたい……」
屋上に待機して六時間以上経過している気がする。さらに秋は昼と夜の寒暖差が激しい。そして、当然ながら屋上にはトイレなどない。
屋上の幽霊さんと入れ違いになると本末転倒なので、だましだまし我慢していたが、そろそろ限界だった。
屋上から一番近いトイレまで、二階下の階段の踊り場まで行かないといけない。屋上を空ける時間そのものは大したものじゃない。
だけど、タイミングというものは悪戯なもので、私がトイレに行っているそのわずかな時間で、屋上の幽霊さんと行き違う可能性が高いような気もする。
「かといって……。屋上で粗相をするわけにはいかないし」
葛藤の末、私が選んだのは『トイレに行く』だった。
大丈夫。きっと神様は私の味方をしてくれるはず。
私は、これまで、これといった働きをしてくれた事のない神様を信じる事にした。
そわそわと立ち上がり、屋上の扉へ向かう。
「うん。今行かないときっと漏らす」
私は早足で屋上の扉を開け、階段を下る。一つ目の踊り場には窓が設置されており、そこから月明かりがふんわりと落ちてきていた。
昼間の喧噪が嘘のようなくなり、静寂が私を包んでくれた。
などと自分の生理現象を誤魔化そうとしても、上手くいくはずもなく。正直言って私の膀胱は限界を迎えつつあった。
こういう時は素数を数えればいいんだっけ? と私は訳の分からない案が頭を過るが、そもそも素数って何だっけ、という自分の頭の悪さを自覚する結果に終わるだけだった。
とりあえず、歩くスピードを上げるしかない。
もはや早足ではなく小走り気味に階段を下り続けると、二つ目の踊り場が見えてくる。増改築をくり返してくれた歴史だけ古い学校のおかげで、通常ではありえない位置あるトイレに駆け込む。
トイレの扉を閉め、用を足す。
「た、たすかったあ」
やはり、あのタイミングでトイレに行く選択肢を選んだのは英断だった。タイミングを逃していたら、とんでもない姿で屋上の幽霊さんと鉢合うところだった。
出す物を出した私は満ち足りた表情で手を洗い、トイレから出る。
屋上を離れてからまだ十分も経っていない。
「さすがにこれなら、幽霊さんも部室に……」
そこまで言った時だった。私は口をつぐみ、鼻をすんすんと動かし、トイレの外の香を嗅いだ。
柑橘系の匂いがする。
トイレの芳香剤のような下品な香じゃない。もっと上品な香だ。それにさっきまでこの階段には、無駄な歴史に裏打ちされた埃のすえた臭いが広がっていた。
「……まさか」
そう言うが早いか、私は階段を二段飛ばしで駆け上った。
私の考えが正しければ、たった十分の間に状況は一変しているはずだ。
息が上がるのを無視して、屋上の扉を開く。急いで天文部の扉を見る。
天文部の扉には
さきほどまで貼ってあった屋上の幽霊さんの置き手紙がなかった。
私はその場にくずおれる。神などを信じた私が馬鹿だった。
「ど、ど、ど、どうしよう」
私は文字通り右往左往する。屋上の幽霊さんと直接会う機会を尿意ごときで無駄にした。柑橘系の香は部室に続いている。ということは、どう考えても屋上の幽霊さんは無事、部室に帰還したしたということだ。
なんという間の悪さ。神様も私の膀胱もお痛が過ぎる。
少なくとも部室内に屋上の幽霊さんがいるのは間違いない。
あからさまに後手に回ってしまった。とはいえ、ここで棒立ちしていても事態は好転しない。
凜と春美ならどうするだろうと考えを巡らせる。
出来る限りの想像力を働かせ、両腕を広げ「ここに凜」と空中に箱を作るように動かす。そして「春美はここ」と同じような動作をした。
これで私の目の前には、凜と春美のイマジナリーフレンドが出来た事になる。
私は小声で「ねえ、凜、春美」とその場には存在しない凜と春美に声をかけた。「どうすればこの状況で屋上の幽霊さんと接触できると思う?」
「そりゃ、橘から部室の開け方を教えて貰ってるんだから突撃だろ」とイマジナリー凜。
「だよねえ。背に腹は代えられないよねえ」とイマジナリー春美。
私は二人の返答に心底失望した。
「駄目だ。私の中にあるイマジナリー凜と春美の完成度が高すぎて、二人は絵に描いたように使えない」
ここまでくれば自助努力で、屋上の幽霊さんとの意思疎通をはかるしかない。
とりあえず、私のもっている手札は何だろう。まずはそこから整理するのが肝要だ。
まずはギターというか音楽という共通項はある。これだけじゃ甘い。
何かもう一手が欲しい。
「他に屋上の幽霊さんと話題を共有出来るものがあるとすれば」
私は腕を組み唸る。文化祭で演奏する三曲の内、二曲はもう合わせている。となると……。
「あ、三曲目のバンドスコアがあった」
そうだ。まだ、三曲目の音を合わせてない。
もし、屋上の幽霊さんが最後に押し付けた三曲目のバンドスコアにアレンジを加えてくれていたら、もしかしたら、答えてくれるかも。
「でもなあ。あの曲ボーカルから始まる曲なのよねえ」
もし、バンドスコアのギターにアレンジを加えてくれていても、どうやってその曲だと伝える?
凜と春美とは違い私は積極性もなければ主体性もない。
だからといって、ここまで屋上の幽霊さんの出待ちならぬ帰り待ちをしたんだから、諦められない。
かといって、手持ちのギターも役に立つか怪しいものだ。
「……鼻歌とかなら、私の気持ちも伝わるかしら」
こうなれば、やぶれかぶれだ。
恥も外聞も投げ捨てれば、大抵の事は受け入れられる。
私は、そう決心して、バンドスコアのボーカルパートをなぞるように鼻歌を歌う事にする。
しばらく鼻歌を歌っていると、薄い壁越しにアコースティックギターの音が聞こえてきた。私は、すぐに鼻歌をやめ、部室の気配を探る。
すると、部室の扉が振動し、扉の隙間からバンドスコアと思しき紙が差し出されてきた。 私はすぐさまバンドスコアを抜き取り、ギターパートの箇所に目を通す。
期待通り、ボーカルでスタートする曲に、ギターのイントロが付け加えられていた。
「おお」私の声がわずかに弾む。そして「あのぉ」と屋上の幽霊さんの機嫌を損ねないように静かに語りかけた。「よろしければ、このイントロからエンディングまで通しで弾いて頂けないでしょうか?」
お願いというよりもはや祈りに近かった。目を固く閉じ、屋上の幽霊さんの反応を待つ。耳を澄まして奇跡を待っていると、部室の中からジッパーの空ける音が聞こえ、軽く弦を鳴らす音も聞こえてくる。
よしきたっ。
私は、心の中でガッツポーズを決めながら、いつも屋上の幽霊さんがギターを弾く位置まで移動して、バンドスコアのギターパートのTAB譜を見た。
薄い壁越しに、屋上の幽霊さんがしゃがみこむ気配を感じる。
あとは、屋上の幽霊さんがギターを弾き始めるのを待つだけだ。
TAB譜を凝視しながら時を待つ。ぱっと見た感じは、二曲目の始まり方と似ている。 ベースと同時にメロディが重なっている。そこに、高遠原の弦を叩いて音を出す『h』と、その弦をはじく『p』の連打。
私が予習がてらTAB譜を見ていると、おもむろに、屋上の幽霊さんの演奏が始まった。 拍子の頭に必ずくるベース音、それが四小節続き、ストロークが入り、どうやっているのか和からないが、ドンという重低音の後に鋭い打音。それが、ドン、トン、ドンドン、トンというリズムが二回。そのあと◇の中に12と書かれた六弦から一弦までのストローク。
「今っ」
私はそのストロークと合わせるように歌い出す。
その後の屋上の幽霊さんが弾くギターは、間奏以外は歌をサポートする奏法だった。
歌い終わり、屋上に水を打ったような静けさが広がる。
「三曲目……合わせられた」
私は何かしらの偉業を成し遂げたかのように、大きく息を吸って吐く。
決して、完璧に三曲を合わせられたという訳ではないが、屋上の幽霊さんと文化祭で演奏する三曲すべてを伝える事ができた。
あとは、明後日の月曜日に三人で三曲目の音合わせが出来て、あわよくば屋上の幽霊さんと直接会う事ができれば、土曜に開催される文化祭までに、なんとか形になる。
「ううん。あんまり気が乗らないけど」
私は、扉に向かって「すごいですね。このギターのアレンジ」と囁いた。
先日のように、屋上の幽霊さんの声が聞きたかった。あざとい真似だと思うけど、今の私にできる精一杯の言葉である事は事実だ。
なんとか、屋上の幽霊さんとの距離を縮めたい。
この感情だけは、ここ数日で屋上の幽霊さんとの音だけの交流で抱いた偽らざる気持ちだった。
屋上の幽霊さんは、返事をくれるだろうか。
そんな淡い期待を私は抱く。
私の期待は、良くも悪くも叶えられた。
私がしばらく沈黙を守っていると、天文部の扉の隙間から一枚の紙が滑り出てきた。私はそれを手に取り、紙に書かれた文字を読む。
『大したことじゃないです』
その文字を読み「大した事あるわよねえ」と苦笑する。
しかし、これで屋上の幽霊さんとの意思疎通の仕方が分かった。
超短期的文通だ。
私は鞄の中からノートとペンを取り出し、『ずっとギターを弾いているの?』と書き込み扉の隙間に差し入れる。
そこからの屋上の幽霊さんの交流は、スムーズに進んだ。
私の質問に屋上の幽霊さんが返事をする。その繰り返しだ。
『ギターはずっと弾いてます。暇なので』
これは屋上の幽霊さんの返事だ。これの文通のやりとりを時間が許す限り続ける。
『なんのギターを使ってるの?」
『トリプルオーの二八っていうギターです』
『自分で買ったの?」
『はい。僕、他にお金の使い道なかったんで中古で買いました』
『なんで、幽霊さんは、この部室にこもってるの? 答えたくなかったら良いけど」
『えと。僕、人付き合いが苦手で、保健室登校なんです。その保健室も人が来るし、だから、誰もいない天文部に入ったんです。両親も何故か無言の夫婦喧嘩ばかりするし』
『そうなんだ。ごめんね。言いたくない事、訊いちゃって』
『気にしないで下さい。人付き合いが苦手なのは事実ですし。両親ももしかしたら、僕のせいで仲違いしてるかも……』
『あるいは……幽霊さんの為かもね。』
『僕の為ですか?』
『ごめんね。嫌な質問しちゃって。質問してばかりじゃ悪いから、幽霊さんから私に質問とかあるかしら?』
『なんで、僕にかまうの?』
『ええと。多分もう分かってると思うけど。私達、バンド的なものをやってまして』
『はい。それはなんとなく分かります』
『文化祭で演奏をする予定だったんだけど、バンドの一人が自主卒業しちゃって、それでヘルプを探していたんだけど見つからなくて』
『それで、僕に白羽の矢が立ったってこと?』
『ごめんなさい。迷惑なこと。嫌だった?』
『最初は戸惑ったけど、嫌ではなかったです』
『そう言ってくれるだけで、救われるわ。お詫びに私達の秘密も一つ教えるわ』
『これ以上何かあるんですか?』
『元々ライブは三人でするつもりだったの。一人一曲ずつ好きな曲を持ち込んで。ある人に聞いて貰う約束だったのよ。だから文化祭で演奏するのは三曲なの』
『ある人ですか?』
『うん。今はちょっと学校にいないんだけど、文化祭には顔を出してくれると思うし』
『でも一人一曲なら、四曲ないとおかしくないですか?』
『それがさあ。どこから聞きつけたのか、その自主卒業したメンバーがバンドに入ったせいで、色々とこじれちゃった訳。今更、三人で弾ける曲を選曲する訳にもいかないし。だから即戦力を探してたって訳で』
『人間関係ってやっぱり難しいですね』
『いや。そこまで難しくないわよ? 私達だって相手にする人間が難しかったってだけだし』
『それでも三人仲良くしているのはすごいと思う』
『凄いのは幽霊さんよ?』
「僕がですか?」
『そうだよ。顔も性格も知らない私達と、少なくとも二曲は合わせてくれたんだから。たぶん普通に友達を作るよりもずっと凄い事だと思うわ』
『そんな事はないと思います。僕なんて人と顔を合わせるのも苦手だし』
『人間だって思うから駄目なんじゃない? 大切な人は人と思って、あとはニンジンとか大根とかピーマンとか野菜だと思っちゃえばいいのよ』
『野菜……ですか?』
『そうそう。自分にとって大切な人以外はみんな野菜だって考えるの。私はそうするようにしてるし。そう思った方が気も楽だしね」
『野菜ですか……』
『そうそう。まあ、ゆっくりでいいと思うよ。幽霊さんならできるよ。自分で言っていて悲しくなるけど、幽霊さんにとって私達って、もっとも与しづらい存在だと思うの。いきなり自分の縄張りに入ってきた不審者なんだから』
『そんなことは…………』
『あはは。正直でいいね。ほら、そんな感じでいいのよ。人間関係なんて白か黒じゃなくて、白と黒の間にある濃淡の中か選べばいいんだし。嫌なら逃げるのもいいと思う。だから、私達の事が迷惑なら、いつでも戦力的撤退するつもりで付き合ってくれればいいよ』
「迷惑ではないです。僕、他の人と音楽したの初めてですし、楽しかったし」
『そう言ってくれるとありがたいけどね。ダメ元でお願いするんだけど、さっきの曲週明けの月曜日に、幽霊さんと私達で合わせてくれない?』
『それはかまいませんけど』
『じゃあ、決まり。またいつも通り放課後三人で来るから。それじゃあね。幽霊さん。あと、この曲のTAB譜を渡しておくよ。文化祭は関係ないけど、幽霊さんの好きそうな雰囲気の曲だと思うから。曲名の部分が消えてるけど、幽霊さんなら秒で弾けると思うし。扉の前に置いておくね。それじゃあ、私はもう行くわ。それじゃあね』
私は鞄の中から曲名を忘れたTAB譜を引っ張り出し、扉の前に置いた。
今日は随分と屋上の幽霊さんとおしゃべり? が出来た。正直これ以上、屋上の幽霊さんの外堀を埋める作戦はない。
それにそんな姦計染みた考えは、屋上の幽霊さんに失礼なようにも思われた。
あとは、屋上の幽霊さんの自由意志だ。
「それにしても……」
私は暗い声を屋上の地面に落とす。
どうやってこの学校から出て行こう。
格好つけた退場をせずに、素直に屋上の幽霊さんに、帰り道を訊けばよかった。
後悔先に立たず、という言葉が私の頭を過る。
追いかけられる僕 8
「ふう」
僕は深く息を吸い、吐く。自分の胸に手を当てた。どくどくと心臓が早鐘を打っているのが分かる。
両親以外とこれだけ長い間、意思疎通したのは初めての経験だった。というか、今回に限り、両親より上手く会話というか文通ができた気がする。
それはそれで人間としてはどうなのだろう、と内なる自分から、よりいっそう絶望的な問題を提起されかねないので、考えない事にした。
「しかしまあ、余計な事もしゃべちゃったね」
自分が保健室登校の生徒と知って、彼女は僕の事をどう受け止めるのだろうか。しかも家族の話までしてしまった。
あの感じだと、あっけらかんと良好な人間関係を築いてくれそうな気もするが、それも僕に対する同情という可能性もある。
駄目だ。色々な情報が多すぎて頭がこんがらがる。
「考える僕は僕じゃない。正しく言い直すなら、考えられる僕は多分僕じゃない」
考えられない僕だから、今のような不遇に自ら飛び込んでいるのだから。僕が、物事を知悉し、さらにそれを有効利用できるのであれば、それはすでに僕ではなく僕の皮を被った何者かだ。
それにしても、彼女の言っていた『大切な人以外は野菜と思え』とは中々面白い考えだな。
僕にとって大切な人は誰だろう。
僕は指折り大切な人を数えていく。
「まずは母さんだろ、あと父さん……」
以上だ。
自分で考えていても悲しくなるが、どうやら僕の中では母親と父親以外は野菜らしい。
「なんか考えれば考える程、思考の泥沼にはまってい行くなあ。ああ。そうだな。とりあえず、野菜じゃない両親に生存メールは送っておこう。
僕はスマートフォンを取り出し画面を操作する。
『お母さんへ 学校に無事到着しました。シャンプーありがとう』
母にはこれでいいだろう。どうせ毎日メールするのだから。
次は父にメールを送る。
「お父さんへ 無事に屋上に到着しました。見送りありがとう」
こんなもんでいいだろう。
僕がメールを送信して数秒で、母と父から返信メールが届く。
『ツギ カエッテクルトキ ハ マエモッテ レンラク サレタシ チチニハカンシャ
スルヨウ」
メール文から察するに、父が僕を学校まで送り届けるのは、母にとって予定調和だったらしい。
「リョウカイ ハハカラノ プレゼント カンシャ サレタシ』
これは父親のメールだ。母も父も、本当に仲が良いのか悪いのか分からない。そしてこのメールのやりとりの形式も意味が分からない。
「ともかく、両親への連絡はした。後は、屋上に通ってくる彼女が残していったTAB譜を確認するだけだ。
僕なら秒で弾けるって言ってたけど。
僕は扉に差し込まれたTAB譜を拾い上げた。たしかに彼女の言うとおり、曲名がかすれて読めない。
でもTAB譜の方は無事なようで、読むのに苦労はしなさそうだ。
TAB譜を目でなぞりながら、どういう曲なのか想像する。確かに練習は必要だけど、そこまで難しい曲じゃない。それに、彼女に渡されたのは完璧にソロギターのTAB譜だった。
物は試しとギターを構えて、TAB譜通りに弾いてい見る。
「あれ……この曲って」
ギターを弾くのは途中で注視し、スマートフォンを取り出し、動画検索をかける。
僕の想像通りなら、僕はこの曲を知っている。
検索結果から出てくる曲名と、スマートフォンから流れてくるメロディを聴いて、僕は苦笑した。
「やっぱり、この曲か。随分と懐かしいな……そうか二曲目の曲がアレだったのは、この曲にも繋がってるからか。たぶん、彼女もこの曲が好きだったんだ」
僕は誰に対してでもなく独りごちた。
たしかにこの曲は、僕にぴったりだ。
追いかける彼女 9
最後に、屋上の幽霊さんとやりとりをした後、どえらい目に遭った。まず、どうやって閉鎖された学校から出れば良いのか分からなかった。
校舎から出るだけなら簡単だった。問題はその次だ。学校の校舎の外壁。それが問題だった。外壁の上には鉄線が張り巡らせており、侵入者の脱出をあくまでも許さない意気込みが見て取れた。
最終的には、一度校舎の中に戻り、雨樋を伝い二回から飛び降りるという力押しで学校から脱出した。
なんなのこの学校。刑務所か何か?
当然、日付をまたいでの帰宅に両親は激怒し、自己弁護をしては、さらに激怒されるという悪循環に陥った。
両親の長い説教が終わる頃には、空が白んでいた。
「それだけ心配されてるって事だろうけど、言い訳ぐらいは聞いて欲しかったわ」
まあ、無断での外泊のペナルティーとしては、傷は浅い方だとは思うけど。
そんな事を放課後の軽音部の部室で考える。
「やあやあ。無断外泊少女さん。首尾はどうだい?」
悪戯気な台詞と共に姿を現したのは凜だ。手をひらひらと振りながら、私の隣に座る。
「首尾はどうって言われてもねえ。教室で話した通り、とりあえず、三曲目の音合わせの約束は取り付けたわ」
「やるねえ。さすがは無断外泊少女お」
凜に続き、春美も現れる。
「なんかテンポ良くどんどん来るわね」私は二人に当てこすり「まあ、都合はいいんだけど」と続けた。
「それでどうだった?」
「どうだったって?」
「いや。三曲目の音の打ち合わせはいいとして、なんでそんな浮かない顔をしてるのかなって」
「元々、あなたの明るい顔ってみないけどねえ。常に窓際にいるサラリーマンみたいに」
「よおし。暴力ってこういう時に使うものよね」
私は椅子から腰を上げて、拳の骨を鳴らす。
「冗談だよお。助けて凜ちゃん」
「今のはお前が悪い」凜が至極真っ当な事を言う。「それで、なんでそんなに沈んでるのよ」
私は振り上げた拳を下ろし「いや。屋上の幽霊さんに余計な事言っちゃったなって」と自白した。
「余計な事ってえ」
「なんというか。これはプライベートな問題だから言えないけど、少し、屋上の幽霊さんの心に踏み込み過ぎちゃったなあって」
私は空笑う。
そうだ。私は屋上の幽霊さんのプライベートに踏み込みすぎた。
なんであんな事を訊いちゃったんだろう。幽霊が存在しないという事を大前提にすれば、屋上の幽霊さんはなにかしら事情があって、屋上に籠城している事ぐらい想像できたはずだ。そのなにかしらが、まさか家族関係とは……。
それをずけずけと、屋上の幽霊さんの中に土足で入り込むような真似をしてしまった。
人の置かれている環境は人それぞれだ。私なんかが踏みいっていい事じゃない。それを私は、馬鹿みたいな助言までして、あんなTAB譜まで渡してしまった。
客観的に見てもおせっかい、というか、かなりゲスい。
私は自分を罵倒しながら頭を抱えた。
もし、一昨日の一件で屋上の幽霊さんの機嫌を損ねていたなら。
私は、この部にとっても、屋上の幽霊さんにとっても、悪でしかない。
橘先生の『土下座の準備をしておけ』という言葉が再び頭を過る。
橘先生には恨みはないが、誰かに脇腹とか刺されてくれないだろうか。
「どうしたん? さっきから頭を上げたり下げたりして」凜が訝しげに訊いてくる。
「ヘビィメタルにでも目覚めたのお?」
「いや。なんでも。とりあえず。屋上に行く準備をしましょ。凜の準備が一番手間なんだから、なるはやで。私の悩みは途中で説明するわ。とりあえず、私達は運命共同体よ。私の自己憐憫の道連れになって貰うわ」
「何を慌ててるのか知らんが、分かったわ」凜は首肯する。
「凜に比べて私達は楽だよねえ。小さいアンプとギターとベースを持ってくだけだから」
「今度は私を置いていくなよ」
「「はいはい」」私と春美は意見を合わせる。
さすがに文化祭まで一週間も切ると、一昨日にも増して文化祭の準備に奔走する生徒が溢れていた。私達は、その生徒達が作る人垣を抜けるように屋上を目指す。
階段を上がり、先日苦渋をのまされたトイレを目の端に捉え、更に上に進む。
屋上の扉を開け、天文部の部室に近づく。
屋上での楽器の設置もこなれてきたものだ、と呆れながら私達は機材を組み立ていく。
「でもさ」
ドラムセットを用意している凜が、頭に疑問符を浮かべた。
「何?」
「この三曲目って、ボーカルスタートだろう? どうやって幽霊さんに合図するのさ」
「それは私もちょっと気になったかもお。また、私のベースから始める?」
「いや。大丈夫だと思う」
私はそう言うと、部室の扉をノックして「幽霊さん。私達の準備は整いました。いつでもOKです」と静かに屋上の幽霊さんに語りかける。
あとは屋上の幽霊さんを待つだけだ。
一昨日の一件で、屋上の幽霊さんの機嫌を損ねてなければ、しかる後に屋上の幽霊さんからのレスポンスがくるはずだ。
私達三人が固唾をのんで、その場に待機していると、一昨日と同じようにベース弦を叩くような音が鳴り、同時にメロディーも弾かれ始める。
「始まった」凜が零す。
「でも、どのタイミングで私達入ったらいいのお」春美はオロオロとする。
「落ち着いて。今回の導入は分かりやすいわ。それに、屋上の幽霊さんもその辺りを考えてくれてるみたいだから、入りやすいはずよ。合図は私が出すから」
偉そうな事を言っているが、正直、自信などなかった。私だってそこまで度胸のある性格ではない。
そして、屋上の幽霊さんはその更に上を行く度胸のなさがある。
そんな屋上の幽霊さんが頑張ってくれているんだから、屋上の幽霊さんをここまで巻き込んだ私が逃げ出すわけにはいかない。
前奏は順調に進んでいる。三曲目は私はボーカルだけなので自由に凜と春美に合図を出せる。
屋上の幽霊さんがギターを叩く音が聞こえてきた。もうすぐボーカルが始まる。私は、凜と春美に三本指を立てカウントダウンをした。
3、2、1
スタートだ。
最初は私のボーカルと屋上の幽霊さんだけで始まる。そして八拍子から凜のドラムと春美のベースが加わる。
あとは練習通り二人が楽器を弾き私が歌えばいい。
言葉にするのは簡単だが、とにかくやるしかない。
曲が進むにつれて額から汗がにじみ出てくる。この音域なら声は出る。凜と春美のドラムとベースの音は分かる。屋上の幽霊さんのギターの音を探し見つけるが、相変わらずどういう弾き方をしているのか分からないが、曲にはあってる。
その場にいる全員の楽器の音と同時に曲が終わる。
「終わったな」凜が肩で息をしながら満足気に言った。
「自分でも何の楽器弾いてるの分からなかったあ」
「それな」凜も同意する。「なんかドラムの音みたいなのも鳴ってたし、ベース音も鳴ってたし、よく分からない音も鳴ってた」
「まあ、これで文化祭で演奏する三曲は合わせられたわね」
私の体にどっと疲れが押し寄せてくる。それとともに奇妙な高揚感も覚えた。
この曲を文化祭の日に先生の前でやるんだ。
先生が来てくれたらだけど。
始まる前からつまづいていたが、ようやくここまでこぎ着けた。そう考えると、喜びというよりは神秘的な気分になる。
最後の問題は。
私は、屋上にくる途中で二人に話した問題を考えた。
「で、さっき言ってた最後の問題はどうするの?」
「最後の問題っていうか、あと二つほど問題は残っている気がするけどねえ」
「そうなのよね」私は自分の顔に陰りが差し込む自覚をした。「一応、私達の目的は屋上の幽霊さんに伝えてはいるんだけど、別の問題に協力してくれるかどうか……」
「ここまでやってもらって、その先がないとなあ」凜は腕を組む。
「その先がないとお?」
「爆笑するしかないな」
「笑えないけど、その可能性も十分にあるっていうのが笑えるわ」
とはいえ、それだけは阻止しなければならない。私達の前に屋上の幽霊さんが姿を表してくれないと、誰もが不幸になる未来が広がる事になる。
自分本位だが主に私が不幸になる。
橘先生に教わった部室の開け方を使い、強行突破をするという案もあるが、そんな事をしようものなら、屋上の幽霊さんの心は永遠に開かれる事がない。
私の取る行動は一つだけだ。
屋上の幽霊さんを警戒させることなく、圧倒的に下手に出る。
「あ。あのお」私は一度だけ聞いた屋上の幽霊さんの声と、同じ声量で扉に語りかける。「出来ればなんですけど……部室から出てきてくれませんかねえ」
「…………」
屋上の幽霊さんからの応答はない。
「ほ、ほら。私以外の二人は野菜みたいなもんですから。幽霊さんに被害は出ませんよ?」「「はあ!?」」凜と春美の言葉が重なる。
「誰が野菜なの」
「ひどいよお」
「黙ってろっ」私は声を荒げる。「今、この場には、幽霊さんと私しかいない。それでいいわよね?」
「いや。その」凜が臆する。
「どうしちゃったのかなあ」
「いいわよね?」
「「は、はい」」
「聞きましたか? 幽霊さん。ここには幽霊さんと私だけです。あとは野菜です」
「…………野菜……ですか」
「そうです。そうです。それも出荷できるかどうかも不明な規格外の野菜です」
「それはさすがに……ひっ」
私の目線だけの圧力に凜は屈する。凜の反応を見た春美は「ここは、この子の言う通りにしておこうよ」と凜を説得した。
「せっかくここまで曲を合わせたんですから、顔も合わせてみませんか」
「…………」
屋上の幽霊さんは、何かしら思う所があるようだ。深呼吸するような息づかいが扉越しに聞こえてくる。
「あのお。幽霊さん?」
「……一昨日のTAB譜」
「一昨日? ああ。良い曲だったでしょ。幽霊さんが好きそうで」
「はい…………」屋上の幽霊さんは校庭し、しばらくの間を空け「……です」と来た。
「はい?」
「や……め……です」
絞り出すような屋上の幽霊さんの声を聞き、私は頭の上に疑問符を浮かべる。私が首を傾げていると、天文部の部室の扉がゆっくりと音を立てた。
ドアノブが動いているというより、扉全体が振動しているようだ。あの橘とかいう先生が言っていた、天文部の扉の開け方の挙動だった。
ドアノブがゆっくりと回り、私達をじらすように開いていく。扉の奥から人影が出てきた。まるで、温泉の温度を足先で確認するかのような慎重さがあったが、影がゆっくりとしかし確実に姿を現した。
屋上を照らす夕日が、屋上の幽霊さんの足先を赤く染め上げる。次に足全体、そして、とうとう屋上の幽霊さんの全容が明らかになった。
長い黒髪は夕日を帯びて深紅に染まっている。長い前髪の隙間から覗かせる瞳は、涼しげで宝石のように美しく光っている。
学校指定のブレザーを着ており、かなりの痩身だった。
こんな華奢な体から、あのギターの音が出てくるとは驚きだ。
何より驚いたのは……
「お」と凜。
「お」と春美。
「お」と私。
「お?」と屋上の幽霊さん。
「「「女の子!?」」」
ここ最近では、久しぶりに私達三人の声が重なった。
追いかけられる僕 9
最後の曲を弾き終わった後、僕は奇妙な達成感を抱いていた。顔も性格も分からない人達とここまで音を合わせる事ができるなんて、消極的という言葉を具現化した僕からすれば奇跡に近い。
一昨日、扉の向こうの彼女はピンチヒッターを探している、と言っていたが、僕にそんなだいそれた事できる訳もない。
それに元々、三人で文化祭のライブをするつもりだったのなら、余計な四人目がいなくなった今、スリーピースバンドですればいいし、僕の役目も終わりでいいと思った。
少しばかり、残念な気持ちを抱く自分に違和感を覚えるけど、三つ子の魂百までというのだから、いまさら僕が誰かと行動するなんて不可能だ。
とりあえず、今までの協力は謝って、文化祭は外の三人で頑張って貰おう。
でも、どうやって謝ろう。ここまでバンドスコアをいじくり倒しておいて、今更どう謝罪すればいいのだろうか。
僕が悶々としていると、扉の向こうから、囁くような彼女の声が聞こえてきた。
「あ。あのお。出来ればなんですけど……部室から出てきてくれませんかねえ」
「…………」
どう返事をしていいのか見当が付かない。
「ほ、ほら。私以外の二人は野菜みたいなもんですから。幽霊さんに被害は出ませんよ?」
「「はあ!?」」
「誰が野菜なの」
「ひどいよお」
どうやら、外で彼女とその友達二人が揉めているらしい。
「黙ってろっ。今、この場には、幽霊さんと私しかいない。それでいいわよね?」
全部、筒抜けなんですけど、と僕は苦笑する。
「いや。その」
「どうしちゃったのかなあ」
「いいわよね?」
「「は、はい」」
「聞きましたか? 幽霊さん。ここには幽霊さんと私だけです。あとは野菜です」
「…………野菜……ですか」
僕は、一昨日、扉の向こう側の彼女と交わした筆談を思い出す。
大切な人以外は野菜だったっけ?
「せっかくここまで曲を合わせたんですから、顔も合わせてみませんか」
「…………」
どうやら、彼女は僕と寄り添おうとしてくれているらしい。どうする。なにが正解だろう。
僕に足りないものは何だろう。そんなもの枚挙に暇がない。内向的で、人に心を開かず、そんな自分が嫌いで、交友区域は猫の額ほどしかない。更にそんな自分も嫌いで、たぶん、こんな僕だから、母と父に迷惑をかけている。
いつまで経っても、後退はしても前進はしない。
はらりと部室の机においてあったTAB譜が落ちてきた。一昨日、扉の向こうにいる彼女から貰ったものだ。
「そういえば、この曲の名前って……」
僕は彼女からのTAB譜を眺める。それを額に当て「外の人達は野菜。外の人達は野菜」と念仏のように唱えた。
数回、大きく深呼吸をする。
たぶん、このままここに引きこもっているだけじゃ駄目なんだろう。だから、この彼女達の無茶な要請に応えてきたんだ。
私は自分を鼓舞するように「…………です」とだけ声をだした。
「あのお。幽霊さん?」
「……一昨日のTAB譜」
「一昨日? ああ。良い曲だったでしょ。幽霊さんが好きそうで」
「はい…………」僕は何とかそれだけ返事をし「……です」とつづけた。
「はい?」
「や……め……です」
僕は心の中でその曲名を言葉にしながら、部室の扉に手を伸ばす。ドアノブを上下に揺すりドア全体を振動させ、そのあと、ドアノブを回した。
震える手を前へ押しだし、扉を開けた。
ドアを開けて最初に見えたのは三つの影だった。夕日に照らされているが、逆光ではないので、姿をはっきりと見ることができる。
おそらくではあるが、ドラムスティックを持っている女の子が、凜という少女だろう。そして、その隣にいるのベースを肩からかけた、ふんわりとした雰囲気の女性は、たしか春美という女の子のはずだ。
二人とも、屋上にやってくる彼女との会話の雰囲気が一致している。
とにかくこの二人は野菜だ、と自分に暗示をかけた。
そして、部室の扉に一番近くにいるこの子が、屋上に初めて来た彼女だ。
「お」と凜と思しき少女が口を開ける。
「お」と春美と思しき少女もそれに続く。
「お」と屋上に初めて来た彼女も同じく、だ。
「お?」三人の反応に僕は疑問を覚える。
何がそんなに「お」なのだろう。最近の女子高生の間ではそういう挨拶がはやっているのだろうか。
どこかの部族か?
あまりにも下らない僕の疑問は、次の瞬間、氷解する事となる。
「「「女の子!?」」」三人の声が完璧にユニゾンした。
そこからかあ、と僕はその場に膝から崩れ落ちるか、踵を返して部室に再度引きこもるか、と思案する。どちらにしても僕の勇気が霧散する蒸気のように消え去る気分になる。
結果として、僕は三人に『土下座』という最強の拘束技を食らう形で、屋上で立ち尽くしていた。
え? 何? この状況。
三人の女子生徒が僕に見事な土下座をしている。家のテレビで何度か見たことがあるが、そのどの土下座よりも潔く、こちらの戸惑いを払拭させるには十分な威力があった。
「本当にごめんっ!?」
凜と思しきドラム担当の少女が先陣を切った。その謝罪は僕に対してなのか、屋上のコンクリートに対してなのか判断に悩むほどの切符のよさがある。
「ご、ごめんねえ」
ベースを背中に背負い、猫なで声で謝罪してくる。これはこれで上司におもねる部下の貫禄を感じさせる謝罪だ。
「ごめん」
素直に僕に謝って来たのは、初めて屋上で音を合わせた彼女、だ。
ここからどうすればいいだろう。謝られて困るのは僕だ。一分前まで存在していた『逃げる』という選択肢が完全に絶たれてしまった。
「えと。その、あの、えと」
僕はしどろもどろになる。こんな窮地、生まれて初めの事だった。生まれてから今まで逃げの一手を武器に生きてきたのに、どうすればいい?
母ならどうする。きっと母なら豪快に笑い飛ばすだろう。
父ならどうする。きっと無言で、謝って来た相手の行動を見守るだろう。そして家に帰ってきて、部下を導けなかった自分を責めて、酒に逃げるだろう。
お酒なんてどこにある。
あるわけがない。
じゃあ、母の豪快さも、父の寡黙な背中で男を語り、酒に逃げるという事もできない。
僕に何ができるんだろう。
もういっその事、母と父の合わせ技で、目の前の三人の女子生徒を酩酊の幻と処理して豪快に笑おうか。
頭の中で、意味不明な考えがぐるぐると回り、同時に目の前もぐるぐると回った。膝が笑い力が入らない。
僕はその場にへたり込み「…………うぅ」と震える声を出した。
目からなにかしらの水分が出てくる。これが涙だと気づくのに数瞬の間を要した。
そして、僕は、
「う、う、うあああああん!」
と号泣した。
号泣というより絶叫に近い。
もはや思考停止に他ならなかった。三人の女子生徒を前に、僕は泣きじゃくった。
もう部室に戻ろう。人様の子供に頭を垂らさせては、誰にも合わす顔がない。僕は、必死に両手両足を懸命に動かし、部室に戻ろうとする。
「ちょっと待ってっ」
その言葉を発したのは彼女だった。彼女は僕の足首を掴み、僕の動きを止める。
「放してくだ……えぐ……さい」僕は全力で訴える。
「お願いだから話を聞いてよ」と凜も私の足首を掴む。
「ちょっとでいいからあ! 話の先っぽだけでいいからあ」
「春美は変な表現を使わないっ」
「うぅ。野菜二人がああ」
「あんたらは、幽霊さんから離れてっ。ただでさえまとまらない話も、あんた達がいたら余計にまとまらない」彼女は罵声を二人に浴びせた後、穏やかな声で「大丈夫だから」と私の肩を掴み、自分の顔を見せた。穏やかな表情を浮かべた彼女の顔が僕の視界に入った。
「うぅ。野菜二人がぁ」
「ごめんなさいね。せっかく勇気出して出てきてくれたのに怖がらせちゃって。二人とも悪気はないの。少しだけお話しない。私と二人だけで」
「それはずるいだろ」
「そうだよう。私達も謝ったのに」
「とにかく二人は黙って。幽霊さん。ゆっくり呼吸できる?」
「は、はい」
僕は目を閉じ、ゆっくりと自分を落ち着かせるように深呼吸をした。何度も聞いた彼女の声のおかげか、なんとか冷静さが戻ってくる。
「この指の数は?」彼女は指を三つ立てた。
「三本です……」
「よかった」彼女が安堵の息を吐いた。「私となら少しだけおしゃべり出来るかな」
「……はい」
「そのね。私達があなたに謝ったのは他意はないの」
「はあ」私は間の抜けた声を出す。
「怒らないで聞いてね」
「はい。怒りません」僕は彼女に誓いを示すように片手平を挙げた。
「ある程度、というか、そういう可能性はあるとは思ってたんだけど、私達てっきり、あなたの事、男子じゃないかって思ってたの」
「そうだったんですか? でも僕、女の子ですよ」
「見れば分かるわ。そこまではある意味嬉しい誤算だったんだけどね」
「誤算?」僕は彼女の言葉をオウム返しする。
「そのあの。ねえ」
彼女は凜という野菜と春美という野菜を見やった。会話を目的の流れに誘導したいのかな、と僕は気づく。
「ああ」と凜。
「うん」と春美。
「まさか、幽霊さんがこんなに可愛い子だとは思わなくて。思わず気が動転しちゃって。ごめんね?」
「かわっ」僕は素っ頓狂な声を上げる。
やっぱり駄目だ、と僕は諦めて、部室に逃げ込もうとするが、凜と春美が僕の行く手を阻んだ。先ほどの土下座はなんだったんだ、と苦情をいいたくなるが、僕にそんな勇気はない。
「嘘じゃない。嘘じゃない」彼女は手を大げさに振ってみせる。「本当に可愛いと思ったからびっくりしたわけで」
「こんな、くたびれた案山子に布を巻き付けたような僕が?」
この段になり、ようやく自分の思考がクリアになっている事に気づいた。とにかく、みんな野菜なんだから、野菜が野菜を褒めても不思議じゃないと自分に言い聞かせた。
「それでね。話を続けたいんだけど」緩徐がおずおずと切り出す。
「な、何かな?」
僕はだいたいの予想をつけ訊ねた。
「一生のお願い」彼女は両手の平を合わせる。「私達と文化祭に出てくれない?」
やっぱりそう来るよね、と僕は彼女の予想通りの依頼に息をのんだ。予想は出来ていても心の準備は出来ていない。
「でも……。あなたのお話から言ったら、元々三人でする予定だったんじゃあ」
「そう。でも一昨日の文通通り、三人の予定が四人になって、また三人になったの」
「私からも頼むよ」凜も僕を正眼してくる。「ある意味、人数的には元の鞘に収まったんだ」
「予定は未定で決定ではないからねえ」春美も前のめりに言ってくる。
「あはは……ぐいぐい来るね」
おそらく三人の一生のお願いは、少なくとも学校を卒業するまで付きまとうお願いだろうな、と僕は警戒をするが、その警戒に意味はない事を僕は知っている。
「で、どうかな? お願いできないかしら」
「頼むよ」
「お願い」
お願いと言う言葉を辞書で引いてくれないかな、と僕は半ば真剣に思う。たぶん、命令という意味で出てくるから。
「でも、僕、人前でギターなんて弾いたことないし」
正確には、人前でほとんど喋ったことがない、だ。
「その為に、今から練習するのよ?」彼女が当たり前のように言った。
「まあ、今から練習すれば文化祭には間に合うでしょ」
「大丈夫、大丈夫」
駄目だ。話がどんどん前に進んでいく。すでに僕が文化祭でバンドを組んで彼女達と演奏するのは決定事項のようだ。
文化祭までって、明日から考えて、あと四日しかないよ。音合わせは可能だとして、そもそも、人前で演奏できるかどうかが問題だ。
三人とはスタート地点が違う。
「ああ。もうっ」僕はやけくそ気味に叫ぶ。どうせ逃げ道などない。「どうなっても知らないよ?」
「「「やったっ」」
喜々とした三人の声を聞き、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。
先が見えているのに先の見えない彼女達のバンドは、こうして爆誕した。
明日からは四日間、いやリハーサルを除けば三日間、全力でお互い顔を合わせた上での音合わせをしなくたはいけない。場所は当然、この倒壊寸前の部室ではなく、校舎の地下にある軽音部の部室でだ。
まさか、この僕が自分の城を捨てる日がくるとは。
天文部の部室の窓から見える月を見ながら、僕はある意味ではやるせない感情を抱いていた。
「こんな僕に、あれだけ強引に突っ込んでくるなんて、彼女は凄いなあ」
僕はそんな感想を漏らす。
僕から見た彼女の印象は、僕ほどでないにせよ、積極性とは距離のある人だった。そうでなければ、バンドスコアを通じた音による意思疎通や、一昨日行った文通染みた会話などしないはずだ。
そこまで必死になるという事は、彼女にとって、あの凜という野菜と春美という野菜、そして『先生との約束』がよほど大切な事なのだろう。
「大切ってなんだろうね」
そんな質問をして答えてくれる人はいないのだろう。
答えてくれるとすれば。
僕はスマートフォンを取り出し、いつも通り父と母へメールを送る。
まずは今日も今日とて地獄飯を食べてるであろう父からだ。
「お父さんへ。お父さんの大切なモノって何?」
次は母にメールを送る。
「お母さんへ。お母さんの大切なモノって何?」
二つのメールを送ると、即座に返信メールが来た。僕はそのメールの内容を見て「あはは」と笑い、ギターを手に取った。
月を見ながら弾くのは、一昨日、彼女から貰ったTAB譜だ。
「ひ……は……や……た」
僕はその曲名を口にしながら、ギターをつま弾く。
そして両親に文化祭のメール文を考える。




