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追いかけられる僕と追いかける彼女。そして僕の家族と彼女達の無慈悲なアレンジ要求。

追いかける彼女 6


 しかしまあ、これだけ連日、屋上の幽霊さんの元に通い詰めていると、もはや私は屋上の幽霊さんのストーカーといえるのではないのかしら。

 自分の身の振り方を真剣に考えている自分に辟易する。

 どう前向きに見ても、私達三人は、屋上の幽霊さんに歓喜でもって迎えられているとは言いがたい。

「とは言っても、今頃そんな事を言っても遅わよね。今日の作戦が成功すれば、後一曲、協力してもらうだけなのだし」

 部室にかけてある時計を確認する。もう夕方の五時だ。最近、なぜか授業中の記憶がない。文化祭の事で頭が一杯なのか、もしくは屋上の幽霊さんに必死なのか、あるいは先生との約束を気にしているのか。

 たぶん、どれも正解なんだろうな。

「というかこうなったのも、諸悪の根源たるユダよ」

 私は心の中で地団駄を踏んだ。ユダが妙な茶々入れをしてこなければ、こんな事にはならなかった。

「ユダねえ」隣でドラムスティックをクルクルと回している凜が、にやつきながら言ってくる。「稲妻のようなスピードで過去の人になったな。あの子」

「だねえ」春美も凜に同意する。「まあ、元々、先生との約束の中には入ってなかったから、疎外感ぐらいは覚えられる感性はあったんだろうねえ。実はわざと私達の邪魔をしようと『曲の変更』なんて我が儘言い出したんじゃない?」

「ユダだしな。ま、そのおかげというか、そのせいで、屋上の幽霊さんを発見できたんだけどな。ある意味、良い裏切りだったのかも」

 良い裏切りなる言葉が存在するのか、疑問を挟む余地はあるけれど、結果として屋上の幽霊さんに出会えたのは事実だ。

「今日もいるかな幽霊さん」私はぼつりと零す。机に肘をついて、はあ、と息を落とした。

「おや?」

 目ざとく私の所作を指摘したのは凜だ。

「何?」

「その憂いのある瞳。もしかして、あなた、屋上の幽霊さんに対して音楽以外に思うところがあるのかい?」

「そ、そんなんじゃないわ」私は狼狽気味に否定する。「いやでも。半分は正解かも。屋上の幽霊さんは、なんで屋上の幽霊さんなんてやっているのかしら」

「屋上の幽霊さんの正体気になる?」

「まあ」

 私は歯切れ悪く答える。他人の事を言えた義理ではないが、屋上の幽霊さんについて気になるのは事実だった。

「私も、気になるう」春美が目を爛々と輝かせて凜に訊ねる。

「私も気になったんだ。で、今日、橘に訊きに行った」

「それでどうだったの?」

 春美が身を乗り出した。その野次馬染みた態度はパパラッチのそれに近い。

 春美の質問に凜は首を横に振る。「分からなかった」

「「じゃあ、なんで聞いたの?」」私と春美の声が唱和した。

「いや。私達、運命共同体じゃん。少なくとも文化祭が終わるまでは。だから、このもやもやを共有しようと思って」

 この少女は死なば諸共という言葉を知っているのか、と私は落胆する。

「超がっかりい」

 春美も私と同意見のようだ。

「普通に考えれば、顧問ですら見たことのない幽霊部員の正体なんて解る訳がないわな。ああ」とこここで凜はポンと手を鳴らした。「訳の分からない事は言ってたわね」

「あの先生の言う事はいつも分からないけど、なんて言ってたの?」

「んんと。なんだったかなあ。ああ『シュレーディンガーの猫』っていうの? 橘が言うには量子力学の話らしい」

「で?」私はどうせ下らない話だと見切りをつけながら、凜の話を促す。

「えとな。ミクロの世界で見ると世界が重なっているって話らしい。簡単に言えば、電子っていう小さな粒があるとするだろ? それは、私達が見ている時には存在が確定されていて、見ていない時には存在が確定されてないみたいな。で嫌がる子猫を箱の中に閉じ込めて、ある一定の確率でその箱の中に毒が発生する装置を作るでしょ。それで嫌がる子猫を無視して箱を閉じる。それで次、蓋を開けて子猫が生きているか死んでいるかは、箱を開けてみないと分からない」

「なんか私も聞いた事あるような気がするう」

「私も聞いた事はあるけど、それと屋上の幽霊さんと何の関係があるの?」

「簡単に言えば、私達は屋上の幽霊さんを直接みていない。だから、私達があの屋上にある部室の扉を開けない限り、部室内に屋上の幽霊さんがいるかどうか分からないって事らしい」

「論理的に穴だらけね。つまり、凜は橘先生に上手いこと煙に巻かれたってことでしょ」

「おおむねそうだね。でも、私達は実際に屋上の幽霊さんと直接会ってないし、橘の事だから私達ごときならこの程度の説明で十分だと思ったんじゃないの?」

「女子高生なめんな」

 私は思わず毒づく。

 しかし、私が屋上の幽霊さんと直接あった事がないのも事実だった。

 蓋を開けてみるまで分からないか。

 橘先生の学者をこけにした話は脇に置いておくとして、本当に屋上の幽霊さんは何者なのだろう。

 知っているのはギターの音色だけで、それだけが、私と幽霊さんを繋ぐ物でもある。

 実際に会って話してみたいが、会うのも怖い気もする。それこそ、矛盾をはらんだ感情だ。

「あの橘先生のせいで、余計に頭がこんがらがってきたわ」

「わかるよお」春美がポンと私の肩を叩いた。「痩せたいけどケーキが食べられない感情なんだね」

 その例えばどうなのだろう。私はその場の空気を切り変えるように、パンと手を叩いて、この話を打ち切った。

「とにかく、下らない事考えてないで屋上に行きましょ」

「昨日の今日で、大丈夫かな?」

「あの曲結構難しいよお。それをアレンジなんて」

「たぶん大丈夫だと思う」

 多分と、大丈夫、が結婚して大丈夫じゃなくなるのだろう。

 そんな謎の法則が頭を過るが、自分の思慮深さを否定して楽観的に物事を考えた。


 屋上の扉を開き、私達三人は各々が担当する楽器の準備をする。

 準備とはいっても、春美はベースの調弦だけで、私はボーカルだけなので、大変なのはドラムの凜だけなのだが。

 ドラムは音が大きいので今回は音は拾わない。その代わり、ベースとだけは小型のアンプに繋ぐ。

 これは昨日と同じだ。ただ、アンプの出力は下げておく。屋上の幽霊さんと音が会わせやすくするためだ。

 一昨日は私と屋上の幽霊さんだけで、私はボーカルだけで楽器は弾かなかった。

 今回も私はボーカルだけだけど、果たして、上手く演奏が噛み合うかどうか。

 二人の準備が整ったのを確認して、私は目だけで二人に合図を送る。

 あとは、この薄い壁の向こう側に、屋上の幽霊さんがギターをもって待機してくれている事を祈るだけだ。

 凜がスティックを三回鳴らすと、春美のベースが始まる。三小節が終わると凜のドラムが静かに始まる。その次の一拍目で私の期待が正しかったら、屋上の幽霊さんのギターが始まるはずだ。

「来た」

 薄い壁越しからギターの音色が聞こえてきた。

 はねたリズムの伴奏で、時折ベースも入っている。ベースの音が入っていると言っても春美のベースのペースを崩さない絶妙な音だ。

 私達三人は顔を見合わせ、内心でガッツポーズを決める。

 もうすぐイントロが終わる。

 私は空気を吸い込み、その時を待つ。

 イントロ終了まで、あと一拍。

 私は勢いよく歌い始める。

 たかだが一分半の曲だった。ゆっくりとフェードアウトする曲だったが、屋上の幽霊さんは、高音の連打で歯切れ良く終わるようにアレンジされていた。

「おおっ。屋上の幽霊さんやるなあ」凜が関心するように口笛を吹いた。

「うん。うん。この終わり方だと、二曲目に繋げ易そうだしねえ」

「たしかに……」

「違う……」

 消え入るような声が、私達に届く。

「? 今、誰か何か言った?」

 私は、凜と春美に尋ねる。たしかに自己主張の強いこの二人が、こんな葉をすりあわせたような、声を出すとは思えない。

 という事は……。

「「「まさか」」」

「おい。今の声、幽霊さんのだろ?」

「うん。私達の声じゃなかったもん」

「おおいっ。もうちょっと私達とおしゃべりしよう」

 凜の問いかけに、屋上の幽霊さんからの返答はない。あるのは、屋上に広がる無音だけだ。

「ちょっとっ」私は小声で二人を責める。「あなた達が、変に騒ぐから、幽霊さんが怯えてるじゃない」

「暗に私達のせいだといいたいわけ?」

「明確に言ってるのよ」 

「私達だけのせいにするのはひどくなあい」

「あなた達のせいなのよ」

「こうやって女子の友情って壊れるんだなあ」

「そうだねえ」

 凜と春美がしみじみと頷く。

「とにかく」私は咳払いを一つして「あの」と薄壁一枚向こうにいる屋上の幽霊さんに優しく声をかける。「あなたの屋上の平穏を乱してごめんなさい。二人を代表して謝るわ」

「うっわ。私達だけのせいにした」

「最初に屋上に行ったのはあなたなのにい」

「……とにかく。あなたの言う『違う』ってどういう意味なのかしら?」

 屋上の幽霊さんからの返答はない。

「ううん。これは万事休すかもな」

 凜が諦めの言葉を発した時だった。

 突然、なんの脈絡もなく部室の扉が揺れ始めた。地震か、とも一瞬考えるが、よくよく考えれば、この数日間、私達が屋上の幽霊さんにしてきた事と同じだ。

 え? 私達って比較的最低の部類に属する人間なのでは。

 私達三人が、扉を注視していると、扉に空いたわずかな間から、紙が差し出されてきた。 昨日、私が屋上の幽霊さんに渡したコードスコアだ。

 私は、恐る恐る差し出されたバンドスコアを抜き出し、表示を見る。

 バンドスコアの表紙には『これだと無理です。僕、ギター一本しか持ってません』とだけ書かれていた。

 私の肩越しに、屋上の幽霊さんの手紙を見てくる。

「これってどういう意味なんだろう」

「まあ、次のページを見てみれば分かるんじゃない」

「そうだねえ」

 私はあなた達の操り人形か何かか、と思う所はあるが、屋上の幽霊さんのアレンジに興味があるのも事実だ。

 それにここまで事を大きくしておいて、私が確認しなければ、それはそれで私の軽薄さを見抜かれることになる。それは個人的に非情に困る。

 たぶんだけど、女子同士の友情に亀裂が入るのは、こういった自尊心のぶつかり合いの末に起きる現象なのだろう。

 私は、ゆっくりと表紙をめくり、中にあるバンドスコアを確認する。

 ドラムにベースをいじった形跡はない。あると言えば、エンディングの部分だけだが、それはそうしないと曲が完結しないという意図があっての事だろう。

 じゃあ、何が変わったんだろう。大きく変わるとすればギターぐらいだけど。

 ギターパートのTAB譜を見た私は、目を丸くした。

「これって……マジですか」

「どうしたんだ?」

「どうしたのお」

「いや。この曲のギターアレンジのチューニングがちょっと変則的で」

 私は二人に、ギターパートのTAB譜に書かれた修正案をみせた。

「わお」すぐにこちらの言葉の意味を察したのか、春美が言う。

「どういう事なの」

「簡単に言えば、すごい変則的なチューニングだって事」

「だから、どういう事なんだって」

 凜の疑問も理解できた。私だってドラムのドの字も知らないのだから、凜がギターのチューニングを知っているはずもない。

 なんたって私達は、バンドの振りをした女子高生で、基本的にバンドスコア通りに演奏するだけでいい初心者の集まりだ。

 なのにこのギターのチューニングは。

「えっとね」私は、一応、屋上に持ってきていたエレキギターを取り出した。「基本的にはギターのチューニングって六弦から順番にEAGBEって音で調節されてるの」

「私に分かるように言ってくれ」

「簡単に言ったらミラレソBだからシか、最後にミの順番で音を合わせてるの。ベースも基本は同じよ」

「それで?」

「これよお」春美がアレンジされたギターのTAB譜を指指した。「六弦からAADF♯AF♯に変更されてるの」

「だから?」凜はまだしっくりきていないようだ。

「だから、屋上の幽霊さんは、私達のチューニングに合わせるように、ギターのチューニングだけ大幅に変えたのよ。さすがに、ここまで言えば分かるわよね」

「やばい、か?」

「すごい、よ」私は額を押させるように言う。「本当にこんなの、一人で演奏が成り立つわよ。あと幽霊さんの『僕はギターを一本しか持っていない』の意味も分かったわ」

「なんで二本いるんだ」

「一曲目はこの変則的なチューニング。二曲目は普通のチューニング。それだと一曲目と二曲目を繋ぐ間にギターのチューニングをし直さなきゃいけないの。だから、もう一本ギターが必要なのよ。だから『違う』って言葉に繋がるの」

 本当にそうなのか、と混乱する頭の中で自問するが答えは出ない。最近、頭の中で色々な事が引っかかりすぎだ。

「私達って、そんなすごい人にカチ込もうとしてたってわけだねえ」

「なんでそんなすごい幽霊さんが、天文部に居座ってるんだ?」

 私は黙って、自分の生徒手帳を凜に手渡した。凜はちんぷんかんぷんだ、とでも言いたげに「これがどうしたの」

「私の名前の覧を見て」

「見たけど?」

「そこに『馬鹿』って書いてある?」

「漆黒の闇の中で見たら可能性はゼロじゃないわね」

「シュレーディンガーの猫だ 生徒手帳を開けるまでは答えは分からないって感じい?」

「そこ五月蠅い。あの駄目な橘先生の影響を受けないで。とにかく、屋上の幽霊さんに最後の曲を聴いて貰って撤退しましょう」

「うげぇ」凜が露骨に嫌そうな顔する。「これだけ実力差があるんだから、もう無駄じゃない?」

「ここまで来たら、恥も外聞もないわよ。とにかく演奏しましょう。三曲目の曲を」

「本当にするのお」

「するの」私は語気を強くする。「後悔するならせめて前向きに後悔しましょ。あと、土下座の準備も忘れないで」

「どうしてだよ」

「お願いだから訊かないで。残された私の自尊心が消えてしまうから」

 ここに来て、あの橘先生とかいう教師の言葉がぐさぐさと胸に突き刺さってくるのが不本意だった。

「どう転んでも、時間はないんだし。お前の案に乗るよ」凜は降参するように両手を挙げる。

「私も賛成。はやく終わらせないと、塾の時間だしい」

「動機はともあれ、意見は奇跡的に一致したわね」私は誰に対してもでもなく頷く。 

 自分のギターだけでも持ってきてよかった。私はギターをアンプに繋ぎ、凜に合図を送る。そして凜の合図と同時に、三曲目、すなわち文化祭で演奏する最後の曲を、屋上の幽霊さんに聞かせた。


       追いかけられる僕 6


 まあ、こんなもんかな。

 僕は母が作ってくれた最後の弁当を咀嚼しながら、先日、謎の女子高生三人組に渡されたバンドスコアに目を落とす。

 今回のアレンジは丸一日かかった。当たり前だ。素人がプロの作った曲にアレンジを加えるなど、幼稚園児が書いた絵に僕が文句を言うに等しい愚行だからだ。芸術家の冒涜に他ならない。

 僕なりに、なけなしの知識をフル動員してアレンジした。

 ギターだけでも、死ぬほどの労力をさいたのに、これをバンドを組んで一曲の曲につくりあげるというのは、やはりプロはすごいのだろう。

「ていうか。TAB譜におこして分かったけど、これって一人で演奏した方が早くないか? これを他人と合わせられる気がしない」

 僕は女子高生三人組について考える。三人で音を合わせられているということは、僕なんかよりも百倍社交的なのだろう。

 社交的で、適度に臨機応変で、楽しい学校生活を送っているに違いない。

 僕とは大違いだな、と僕は自虐的に笑う。

 根本的な疑問ではあるが、なぜあの女子高生三人組は、僕なんかにちょっかいを出すのか。そこが不思議だった。

 からかっている? その割には律儀に毎日屋上へ来ているし、昨日は三人で演奏もしていた。それにバンドスコアと軽い挨拶つきだ。

 伊達や酔狂か?

 それなら余所でやって頂きたい。彼女達が僕にしている事は、獅子が一匹のウサギを狩るのに全力を注いでいるのと同じだ。

 しかも数が逆転しているという点では余計に質が悪い。

「あ。お弁当がなくなった」僕は静かに呟く。「明日になったら一度、家に帰らなきゃなあ。でも、その前に、と」

 僕はギターケースからギターを取り出し、定位置につく。いつも通りなら、そろそろあの、かしまし娘達が来る頃だ。

 僕が痛む胃を押さえながら、来るべき破局に備えていると、予定調和のように屋上の扉が開く音が響き、ガチャガチャと機材を組み立て始める。

「もう少し静かにできないのかな。僕がここにいるって分かってるはずだから、少しは気をつかってよ」

 僕は独りごちながら、ギターのネックから、左手を所定の位置に動かし弦を押す。

 薄壁向こうからドラムスティックの鳴る音が聞こえてくる。僕はそれに合わせて右手でギターボディを叩きリズムをとる。

 昨日と同じようにベースの前奏が始まった。

 三小節までベース音が鳴ると同時にドラムがなるはずだから、そこに合わせる。目を閉じ耳に意識を集中させ、

「今」

 と僕はギターを弾き始めた。

 こまでくれば、あとはギターに集中すればいい。他人と合わせる協調性なんて持ち合わせてないんだから、想像していたように弾くしかない。

 僕がギターを弾き始めて四拍子目でイントロが終わり、顔の知らない女子高生の歌が屋上の空気を揺らす。


「だあ。なんとかなったぁ」

 曲が終わり、僕はずるりと壁に背中を滑らせた。

 わずか二分程度の曲だが、二人が加わるだけで、こうも神経をすり減らさなくてはいけないとは。

 だから、僕は一人が好きなんだ。

 だから、この豚小屋にも引けを取る部室に引きこもっているのに。

 事はどんどんと僕の期待を裏切った方向へ転がっている。

「神様がいないのはいいとして、良心的な悪魔ならいてもいいだろ」

 僕はやる方のない怒りを覚える。

 僕がぼんやりとトタンの天井を見ていると、かしまし娘達の会話が聞こえてくる。

「おおっ。屋上の幽霊さんやるなあ」

 溌剌とした女子高生が言った。

「うん。うん。この終わり方だと、二曲目に繋げ易そうだしねえ」

 おっとりとした女子高生の声が続く。

「たしかに……」

 ちょっと、ちょっと、ちょっと。僕は声が漏れないように口を押さえ「違う」と、くぐもった声を出した。

 一曲目と二曲目を繋ぐだって? そんな話聞いてない。いや、もちろん僕も訊いていない訳だから、当たり前だけど、それでもそれは困る。

 一曲目とは今の曲の事だろう。二曲目は昨日の曲だ。

 一曲目と二曲目とではギターのチューニングが違う。

 曲と曲の間にチューニングを変更する早業などできない。かといって僕は、一本しかギターを持っていない。

「どうしよう。どうしよう」

 どうにかして、あの三人にその事実を伝える術はないか。目線をあちこちに走らせ、何かこの事実を伝える方法を模索する。

 部屋のどこを見ても、もはや何の為に生まれて来たのか分からないゴミしか見受けられない。

 僕が持っているのは、あの女子生徒三人から渡されたバンドスコアぐらいだ。

「バンドスコア……」

 僕はそこで窮余の一策をひねり出す。このバンドスコアが僕と外にいる女子生徒三人を繋ぐ、唯一の道具だ。

 僕は慌てて、入学してからほとんど役に立った事のない学生鞄を開け、中から筆入れとキャンパスノートを取り出した。

 キャンパスノートのページをちぎり、そこに『これだと無理です。僕、ギター一本しか持ってません』と殴り書きし、扉の隙間から外へねじ込む。

 すぐさま、部室の端に避難して、様子を窺った。私の伝えたい事実は伝わるだろうか。とはいえ、コミュニケーション不全全開の僕にはこれしか、手段はない。

 映画の撮り方でPOV手法とかなかったっけ。誰か一人の視点だけで映画のストーリーが進行する撮り方だ。僕が初めて見たPOV映画はホラーで、夜中に一人でトイレに行けなくなるという置き土産をくれたありがた迷惑な撮影方法だった。

 あの映画の主人公は、最終的には残念ながら残念でしたという結果に終わったが、今の僕の心境はきっとその主人公に近いのだろう。

 僕が、まんじりともせず部室の扉を見ていると、扉がカタカタと揺れ、挟んだバンドスコアが吸い出されていく。

 耳を欹て、外の音を聞き取る。

 外にいる女子高生達と距離があるせいか、かすれかすれ女子高生達の会話が聞こえてきた。

 かろうじて聞こえてくる女子生徒達の声をつなぎ合わせ、自分なりに会話を組み立てていく。

 どうやら、僕が伝えたい事は伝わったらしい。

 僕が安堵の息を吐いていると、突然、ドラムの音が大音量で響いてきた。というか、ドラム、ベース、ギター、そしてボーカルの全ての音が同時に響いてくる。

「ふぇっ!」

 僕は情けない声を上げ、すぐに部室内を見渡す。誰かに今が吐いた慟哭にも似た悲鳴を聞かれたのではないかと危惧したが、そんな訳がない。

 なにせこの部室には僕しかいないし。僕の小鳥のさえずりのような声など、外に聞こえる訳がない。

「これって」

 僕は記憶の糸を辿るように鼻を上に向ける。部室のすえた臭いを無視して、部室の外から響く音に耳を傾ける。

 ここ数日、一度も聞いた事のない曲だ。

 コレが三曲目の曲か。

「日本語の歌詞って事はJPOPか」

 そういえば、と僕はある事に気づく。今聞いている曲を含めると、僕が聞いてきた女子高生達の曲は全て日本語の歌詞だった。

 ラグタイムにしろポップスにしろ、その選曲? は悪く言えば雑多でよく言えば自由だ。

 僕は目を瞑り、曲が終わるのを待つ。

 多分、いつも通り、一分半から二分ぐらいに短縮したものだろう。

 僕の案に相違せず。屋上で奏でられている曲は約二分で終了した。全ての楽器を同時に鳴らして終了する曲らしい。

 そして、僕の案に相違してほしいのに、再びドアがガタガタとまさに悲鳴を上げて、扉の隙間からバンドスコアと思わしき紙の束が差し込まれる。

 このかしまし娘達の粘り強さは何なのだ、と僕は半ば幻想的な気分になる。

 僕とは、永遠に交わる事のない平行線を進む生命体のようにも思われた。

 かしまし娘達が屋上から去って行った事を入念に確認し、扉に近づいた。

 僕は、ここ数日で恒例になってしまったバンドスコアを扉の隙間から引き抜き、それを見る。

「ようやく、ゴールが見えた」

 僕は苦笑しながら、バンドスコアに添付された女子高生のメッセージを読む。

 メッセージには


 ーー幽霊さんへ。ごめんなさい。これが最後の曲です。


 とあった。

「よしっ」

 僕は静かならが快哉を叫んだ。日本語的には崩壊しているが、これ以外の表現が見つからない。

 さっきの曲は、アレンジの必要がほとんどないだろう。たぶん、おそらく、きっと。

 僕はさきほどのバンドスコアに記載されたギターのTAB譜を見る。

 やっぱり。ちょっといじれば、さっきの演奏で十分だ。

 まあ、チューニングなどの問題は山積しているが、とりあえずは明日の昼は家に帰ろう。

 食料が尽きたし。両親の様子も見ておきたい。

その前に、あのかしまし娘達に一応書き置きしておこう。

 僕はもう一度、キャンパスノートと筆箱を手に取る。


追いかける彼女 7

    

 私は鼻歌を歌いながら、部室に向かっていた。地下の部室に繋がっている階段を反響させる足音は相変わらず辛気くさい。

 ともあれ、今日、屋上の幽霊さんとの音合わせに成功したら、あとは、なんとか幽霊さんにバンド演奏の協力を仰げばなんとか文化祭に間に合う。

 その協力を仰ぐのが最も難しい気もするが、ここまで来たら後には退けない。とはいえ、相手はこの期に及んでも姿の見せない幽霊さんだ。

 どう懐柔したらいいのだろう。皆目見当もつかない。

「でも、昨日は屋上の幽霊さんの声が聞けたんだから、半歩ぐらいは前進しているはず」

「半歩の前進って前進って言うのか」

 背後から凜の声が聞こえ、私は振り返る。凜は私を呆れとも嘲笑ともつかない、複雑な表情でこちらを見ていた。

「でも順調じゃない」

「順調か?」凜は怪訝そうに言う。「あんな遠回りな方法で進んだのは、たったの半歩だぞ?」

「言ったじゃない。私は幽霊さんの外堀から埋めていくって」私は強がる。「有言実行は瀬戸際レベルでやってる」

「瀬戸際すぎなあい」春美も凜の背中から姿を現す。「慎重すぎるというかあ」

「相手はあの幽霊さんよ。石橋は叩いて渡るべきだわ」

「外堀を埋めると言ったり、石橋を叩くと言ったり。なんか、態度に一貫性がないような」 凜が核心をついてくる。

「いや違うよお」春美がやんわりと笑った。「ぶれる事を一貫してぶれ続けてるんだよ」

「ちょっと二人とも黙ってくれるかなあ」私は技巧的な笑みをつくりながら、怒りの孕んだ声を出す。「とにかく、今日で最後の一曲なんだから、そのあと屋上の幽霊さんと直接会う手段を考えればいい」

「それが出来れば苦労はないんだけどねえ」

「うるさいなあ。ほらよく言うじゃない。『若い内の苦労は買ってでもしろ』って」

「良いこと教えてあげる」凜は含みのある言い方をする。

「なによ?」

「橘だったらたぶん、お前の言葉を聞いてこう返すわ」

「どう返すの?」

「橘なら『その言葉を考えた人間は、売る側の人間だ』って」

「あの腐れ先生めっ」私は奥歯を噛む。「絶対に言いそうなのがむかつくわね。ていうか橘先生って実在するの。私達にしか認識できないイマジナリーティーチャーとかじゃないの?」私は喚く。

「ティチャーじゃなくてクリーチャーって感じい」春美が自然に毒を吐く。

「汚い言葉は使わない」

「きっかけは私の前にいるけどねえ」

「ぐぅ」私は怯みながら話題を「とりあえず、準備が出来たら屋上へ行きましょう」と元の流れに戻した。

「ま、そうなるわな」

「でも、今日は土曜日だから授業は午前中だけだよ。幽霊さんは昼にいるものなの?」

「幽霊だから、昼間はいないかもね」

「さすがにそれはないでしょ。きっといるわよ」

 私は強がる。

「でも正直いなかったら困るよな。今日、三曲目を合わせられなかったら、日曜を挟んでからになるし。文化祭は来襲の土日でライブは土曜だから、四人で音を合わせられるのは五日間しかない。正しくはリハーサルも入れると一日削られるから四日しかない」

「なにより、幽霊さんが部室から出てきてくれる保証なんてないしねえ」

「と、とにかく屋上へ急ぎましょう」

 私は露骨に取り乱した。この二人は私を焦らせる天才かと邪推してしまう程だ。心なしか足取りも速くなる。

 今日、屋上の幽霊さんがいなかったら、もうアレだよ。

 号泣だよ。

 私達は部室から各々の楽器を回収すると、踵を返すように部室を出る。凜が背後から「ちょっと待て」という声が聞こえてくるが担当している楽器の都合上、私達に後れを取るのは致し方ない、と断腸の思いで凜を置いていく。

 地下の階段を上り一階に出る。さすがに文化祭一週間前ともなると、生徒達も文化祭の用意であたふたとしている。

 廊下には、文化祭の出店に使う材料で溢れかえっているので、中々前に進めないのがもどかしい。

「でもさあ」春美が突然声をかけてきた。

「何?」

「なんで、みんな廊下とか教室で文化祭の準備をしてるんだろう? 屋上とか便利だと思うんだけどお」

「知らないの。私達が校則違反してるだけで、屋上には天文部しか入っちゃいけないの」「そうなんだあ」

「とにかく。屋上へ急ぎましょ」

 これは気持ちの問題だった。急いだ所で意味はない。

 私は人と人の間を縫うように、屋上へ続く階段へ向かう。迷路のような廊下を抜け、屋上への階段を上る。

 扉を開け、屋上へ出る。階下の喧噪とは違い、屋上はやはり静かだ。

「幽霊さん部室にいるかなあ」

「それを確かめる為に急いだんでしょ」私は春美に自分たちの目的を言い天文部の部室に向かう。

 部室からはいつも通り、人の加配はない。

 いつも通りではないのは、部室の扉だった。

 いつもは『天文部』というプレートすら掲げられていない、色味も何もない扉だが、今日は扉の中央に何か張り紙がしてあった。

 まさか、と私の背中に冷たいものが流れる。

 まさか、ここに来て。

 私は恐る恐る、扉に貼り付けた手紙を確認し、口に出して読み上げる。

「ええと『ごめんんさい。今日、僕はここにはいません。多分、帰りは日をまたぎます』ですって」

「うわあ」春美が大きく口を開けそれを隠すように手をかざす。「神様っているんだねえ。不細工な神様があ」

「はあ、はあ。神様がなんだって」

 最低限のドラムセットを持って、遅ればせながら屋上に現れた凜が、息を上げながら訊ねてくる。

「あのねえ。今日、幽霊さん本当に幽霊さんみたいだよお」

「いないって事か?」凜は顔面を蒼白にして言った。

「そうみたいね。残念だけど」

 凜は「……あはは」と空笑うと、屋上の端まで移動し、両手を筒のような形にして口に当てた。

「凜ちゃん、何してるんだろ?」

「見てれば分かるわ」

 私が春美にそう言った直後、凜は大声で

「空のバカヤロー!」

 と大空に向かって叫んだ。

「うん。気持ちは分かるけど、それはもう私が最初にやった」

 私は、初めて屋上に来た時の事を思い出し、凜に突っ込みを入れる。


      追いかけられる僕 7

  

 三日ぶりの我が家かあ。

 僕は久しぶりに帰ってきたかのような、郷愁の念を抱く。築年数は知らないが、十四階建てのマンションだ。3LDKの間取りで、駅まで徒歩で五分の優良物件だ。

 緊張なんてしなくてもいいのに、緊張した面持ちで僕はマンションのエントランスに入る。鞄から鍵を取り出して、オートロックの扉を開けた。

 無機質な音をたてて自動ドアが開くが、この音はどうにも好きになれない。僕の被害妄想の賜物だとは思うが、この自動ドアの開閉音より、断固として他者を寄せ付けない強固な意志が伝わってくる部室の扉の悲鳴の方が共感がもてる。

 下らない事を考えながらエントランスを抜け、エレベーターのボタンを押す。

 エレベーターが到着し中に入り、十階のボタンを押した。

一瞬だけ重力から解放されるような浮遊感が覚えた後、エレベーターが上昇し始める。

 エレベーターの階数を示すパネルを見ながら、今日も、学校の屋上に来るであろう、かしまし娘達は僕のメモに気づいてくれただろうかと、心配になった。

 僕にとってはあまりに密度の濃い数日だったから、思わず書き残してしまった。でも、冷静に考えて見れば、わざわざ手紙を残す必要性はなかったようにも思う。

 何が正解なのか分からない。

「まあ。家族の事も分からないのに、赤が付くほどの、まっかな赤の他人の気持ちなんて分かるはずがないけどね」

 にしても。

 家出人じゃないのに、なんでこんなに家に帰るのが気まずいのだろう。

 僕はげんなりとする。自業自得とはいえ不合理だなあ。

 エレベーターが十階まで上がり、自動ドアが開いた。力のない足取りでエレベーターをおり、自宅の部屋番号の前まで進み足をとめた。

 十階の四号室。そこが僕の家だった。

 学校の部室と違って防音はしっかりしているせいか、中の様子が分からない。

「ここが学校の屋上だったら、中の様子も分かるのになあ」

 陰鬱な気分を抱え、扉の鍵を開け、気配を消しながらゆっくりと開いた。

 僕は泥棒か? という疑問が頭をもたげるが、首を振ってその考えを払拭する。

「た、ただいまあ……」

 霞むような声を出し、玄関に上がる。音を立てぬように靴を脱ぎ、抜き足差し足で廊下を進んだ。

 室内は薄暗い空間が広がっていた。かろうじて窓からの陽光部屋に差し込んでいる。そして、唯一の人工的な光があるとすれば、廊下に奥にあるリビングだ。

 リビングにあるテーブル。この時間帯であれば、温かい光に包まれており、和気藹々とした家族団欒の風景が広がっているはずだ。

 ところがどっこい。

 僕の目の前に広がっている風景はその対極に位置していたものだった。

 リビングにあるテーブルには二人の男女が向かい合って座っていた。さも、スポットライトを浴びるように、二人の男女が昼ご飯と思われる食事をしている。

 そこには、会話もなければ笑顔もない。おおよそ、家庭の光景とは思えない地獄が眼前に広がっている。

 このまま回れ右して、逃げだそうかと足に力を込める。

 どうやら、その判断の遅さが僕の駄目な所だったようだ。

 足に力を込めた瞬間、ギシ、という音が僕の足下から鳴った。なぜフローリングの廊下で足音がなるのか、ここは、忍者対策のうぐいす張りの仕掛けでもしてたるのか、疑問は尽きないが、僕にとって好転する材料にならないのは間違いない。

 先に動いたのは、リビングのテーブルに座ってっている女性の方だった。僕が足音をたてた瞬間に首だけでもって、こちらを見た。

 軽くウエーブのかかった茶色い髪を肩まで伸ばした痩身の美女だ。アーモンド形の目を僕に向けると、ニヤリを笑った。

「しまっ」

 僕が言葉を言い切る前に、女性は僕に向かって突進してきた。僕をあらん限りの力で抱きしめ「おっかえりー!」と弾んだ声を出した。

「ただいま。お母さん……」

 僕はむせながら、かろうじてそれだけの言葉を吐き出す。

「もうっ。心配したのよ。体は大丈夫? お母さんのお弁当は食べてくれた」

 食べきったから帰ってきたのだ、と抗弁したくなるが僕は「もちろん。おいしく全部食べたよ」と手に持った紙袋を母に手渡した。「いつも通り美味しかったよ」

「そう」母の顔が花が咲いたように明るくなった。「それならよかったわ」

「それにしても今回の喧嘩は短かったね」

「ええ。ごめんね。今回は三日分ぐらいしかお弁当を作ってあげられなくて」

 謝罪の方向性が著しく間違っている。謝罪をするなら、夫婦喧嘩なんてしないで頂きたい、と心の奥底で思うが、僕はあえてそれを口にしない。

 その代わりに、目をリビングの脇に向けた。そこには、高価そうな袋に入った荷物が山のように詰んである。

 どれもこれも、すべて僕に買ってきたものだ。

 母は夫婦喧嘩のあと、必ず僕に高価な衣服などを買って帰ってくる。どういう意図があるのか分からないが、母の散財の全ては、ほぼ全て、僕の為に当てられている事を知っている。そして、その散財を散財といえないほどの財力を仕事で稼いでいることも知っている。

 だいたい中身は、今流行の若者受けがいい服やアクセサリーがほとんどだ。

 僕としては、そんな豪華なお土産ではなく、夫婦が喧嘩をしないでおいてくれるのが一番のプレゼントなのだが、そのプレゼントは永久に訪れそうにない。

 そして、そのお土産の値段に反比例するように、父親の食卓が貧相になっていくという法則が発動する。

 よくこの二人、離婚せずにいられるな。

 僕は父親の食べている夕食を覗き見る。真水に限りなく近い味噌汁に、焼きししゃが三匹。あとは白いご飯。

 飢えた小鳥の餌か何かかな?

「ねえ。母さん?」

「なあに?」母が猫なで声で返事をしてくる。

「まだ父さんと喧嘩してるの?」

「してないわよ」

「じゃあ何で父さんのご飯があんな哀愁のある感じなの?」

「ああ。あの人とは今から喧嘩するからよ。あなたの分のお弁当を作ってあるから、またしばらくは仕事場で泊まり込みね」

 つまり僕の予想通り、僕は今夜中にでも学校へとんぼ帰りするということか。

「ねえ。父さん」

 僕は父に話しかける。目がするどく、厳格そうな顔つきだが、どこか追い詰められた野獣の凄みと弱々しさもある。

 これは空腹から来るものなのか、元来生まれ持ったものなのか、よくわからない。

 父さんだってかなりの敏腕の営業マンのはずだ。その男性に与えられているご飯がこれとは、目尻が熱くなる。

「なんだ?」父が温度のない声で応じる。

「なんでいっつも母さんと喧嘩してるの?」

「……見解の相違だ」

 便利な日本語でかわされた。なぜ、この両親は喧嘩の原因を僕に話さないのか。

 意味が分からない。

 意味が分からないが、せっかく帰ってきたのだから、子供として説得はしよう。

「父さん。僕には母さんと父さんが、なんでそんな高頻度で喧嘩してるのか分からないし、たぶん僕ごときではどうにかできるとも思わない」

「「それはない」」

「へ?」

「あなたが望むなら、私達はすぐに喧嘩をやめるわ」

「俺もだ」

「じゃあ」僕は自分の表情が緩むのを感じる。

「「こいつが譲歩すればね」」

 父と母がお互いを指指し、申し合わせたかのように宣言する。

「はあ。なんでこんな時だけ、足並み揃えるかなあ」

「それで私達はこれから、夫婦喧嘩をするんだけど、あなたはどうするの?」

「ううん。夫婦の修羅場は見たくないし、先にお風呂に入ってこようかな」

「あらそう。だったら私と入る?」

「僕の年齢を考えてよ。それに、僕は二人の修羅場を見たくないからお風呂を選択したんだよ? 目的と手段がこんがらがってる」

「もう、いじわるなんだから。あなた、私がいない間、ちゃんとお風呂に入ってる?」

「毎日入ってるよ」深夜に水泳部のシャワー室を借りてね、と心の中で付け加える。

「それにしては……」

 母は僕の頭に顔を近づけ、すんすんと匂いを嗅いだ。

「普通のシャンプーの香しかしないけど」

「普通のシャンプーを使ってるからねっ」

 母は何かを考えるように顎に人差し指を当てる。しばらく様子を見ていると、「そうだ」と手を鳴らして、僕へのお土産の山を探り始めた。

 高級そうな紙袋の中から何かを取りだし、封を開け、僕に手渡してくる。

「これは?」

「高級百貨店のシャンプーよ。髪の毛もさらさらになるし、匂いも柑橘系で爽やかに決まるわよ」

「僕には必要ない気がするけどなあ」

「良いから良いから。あ、お風呂はもう張ってあるから、ごゆっくり~」

 母は僕にシャンプーを手渡すと、背中を押して浴室に押し込んでくる。母に押し切られる形で、僕は洗面台に入った。

「何なんだ?」

 僕は、制服を脱ぎ、お風呂場に入る。シャワーチェアに座り、シャワーを流した。水からお湯になるまで数秒かかるが、すぐに浴室中に湯気が広がる。

 母から貰ったシャンプーを手に取り、手の平に伸ばして泡立たせその泡で髪の毛を洗う。たしかに柑橘系の香が鼻孔を刺激して、心なしか意識が明瞭になってくるような気がした。 シャワーで体を洗い流し、浴槽に体を沈める。

「足を伸ばしてお風呂に入るのは五日ぶりぐらいかなあ」

 普段使っている水泳部のシャワー室に不満はないが、やはり、お風呂は浸かるに限る。

 私が前進の筋肉をほぐすように腕を伸ばしていると、浴室の扉の向こうから「新しい制服とバスタオルはここに置いておくわね」という母の声が聞こえてきた。

「ありがとう」

「なんなら私もここに置いて……」

「間に合ってます」

 僕は即座に返答した。

 母は「いやんもう、意地悪」と猫なで声を残すと、脱衣所から出て行った。

「まったくもって……。その優しさの一ミリでも父さんに向けられないものかなあ」

 僕はぼやくように独りごちる。

 しかしまあ、あの夫婦の関係は。夫婦な訳だから結婚をしている筈だ。リビングには、若き日の二人が結婚式場で撮影したツーショットの写真が今も飾られている。

 結婚とはなんなのだろうか? 僕は自問した。

 僕は結婚できる相手もいないので、一概になんとも言えないが、アレが結婚した人間達の未来とは考えにくい。

 もしくは、父と母が行った結婚は神父の「何時、健やかなる時も病める時もお互いを愛することを誓いますか?」という言葉に軽々しく同意したのだろうか。おそらく神父のその後の言葉は「本当に大丈夫ですか? 私達の世界では吐いた言葉は永久に戻ってきませんよ?」といった内容に違いない。

 もし僕の仮説があっているなら、その神父は神側の存在ではなく良心的なヤクザだ。

 極めてどうでも良い事を考えていると、せっかく明瞭になった頭がぼんやりとしてくる事に気づく。

 心地の良い眠気に襲われ、僕はそのまま顎を浴槽の縁に置き、わずかな時間、眠りに落ちた。

 はたと目覚めた時は、僕はまだ浴槽にいた。

 どうやら、湯あたりしたらしい。

「とっとと上がって、二人の様子を見に行きますか」

 私は浴室から出て、母が用意してくれたバスタオルで体を拭く。ご丁寧にもドライアーも用意されていた。

 髪の毛を乾かし、制服に着替える。

 廊下に出てリビングに向かい「お湯頂いたよ」とリビングにいるであろう二人に声を投げかけた。

 返事は帰ってこない。

 父ならともかく、母なら即座に姿を現しそうなものだが。

 僕はリビングの様子を窺った。

 リビングには暗がりの中、父だけがリビングの椅子に座り、煙草を吸いながらグラスに入れたお酒を飲んでいる。

「お母さんは?」

「お前の寝顔を堪能したらほくほく顔で出て行ったよ。会社に」

 僕はそんなに長く寝ていたのか。リビングの壁にかけられた時計を見ると、もう夜の十時を回っていた。

「夫婦喧嘩は続行?」

「ああ。そうだな」

「だあぁ」僕はその場でしゃがみ込んだ。「それもアレ? 『見解の相違』ってやつ?」

「まあ、ありていに言えば」

「うん。ありていに言わなくてもそうだね。で、どうなってんのこの家庭。家族が集結したのってものの十五分ぐらいだったわよ。まあ、責任はお風呂で寝ちゃった僕が悪いんだけど」

 僕はテーブルの上に置かれた紙袋を掴んだ。ふと、中を見てみると、お弁当とその上にギターの弦が数セット置いてある事に気づく。

 あの母親はどこまで僕を把握しているのだろう。

 思わぬ救援物資だったが、それで現状が解決するわけではない。

 私は弁当入りの紙袋と学生鞄を手に取り、父に背中を向けた。

「行くのか?」父か静かに訊ねてくる。

「うん。またお弁当がなくなったら帰って来る。止めても無駄だよ。それじゃあ、また」

 父に背中を向け大股で歩き始めた。そして数歩歩いた所で振り返り、また、大股で父のところまで戻る。

「なんで追いかけてけ来ない!? 普通、止めるでしょ」

 私の問いかけに、父はふっと椅子から腰を浮かした。煙草を消し僕を見る。

「送っていくよ。学校まで。夜道は危険だ」

 じゃあ、最初からそう進言してくれと苦情を言いたくなる。

 私は父を先導するように、玄関に向かい靴を履いた。父もそれに続く。玄関の扉を開け、廊下を進みエレベーターを呼び出す。

 行きと違うのは、一人きりか寡黙な父が一緒かぐらいだが、父そのものが幽霊のような存在なので、大差はない。 

 エレベーターを降りてエントランスを抜けると、空気が一気に広がるような感覚を覚える。

 秋とはいえ、深夜ともなるとかなり肌寒い。私が両腕で体を抱いていると、ふっと温かい物が肩にかけられた。

 それが父が着ていたジャケットだと気づくのに、数秒の間を要した。

「あ、ありがとう」僕はぎこちなくお礼を言う。

「夜は冷えるからな」父は温度のない声で答えた。「学校は楽しいか?」

「学校?」

 私はきょとんと首を傾いだ。父の方から質問がくるとは予想外だ。

「ああ。学校だ」

「ううん」僕は夜空を見上げながら唸る。「楽しいかどうかは、分からないけど、なんとかやってるよ」

「そうか」

 ここで僕達の会話は完全に途絶えた。共通の話題を探してみるが、いまいち家族との思い出らしい思い出が見当たらない。

 遊園地に行った記憶もあるし、海にも行った記憶もあるが、どれもが曖昧模糊としてつかみ所のないものばかりだ。

 何か話題を振らなければと悶々としていると、あっという間に学校についてしまった。

 正確には学校の正門ではなく裏門だ。

「……ここでいいのか?」

「うん」

「どうやって学校に入るんだ?」

「あそこ」

 僕は裏門の兵の向こう側にあるらせん階段を指指した。この学校の塀には有刺鉄線が張られているが、あのらせん階段の近くには張られていない。らせん階段がギリギリ塀の上部から出ているためか、あのらせん階段の手すりを使えば、簡単に学校に侵入する事ができた。

「この学校のセキュリティはどうなってるんだ?」

「僕もそう思う」

 僕は学生鞄をらせん階段の中に放り投げ、階段の手すりを握った。

「送ってくれてありがとう。それじゃあ。また」

「ああ。またな」

 僕は父にお礼を言って、らせん階段を使い塀を乗り越える。背後を見やると、父が煙草に火をつけ、僕に軽く片手を挙げていた。

 父の背中を見送った私は、ふう、と息を吐く。

「父さんも母さんも、僕の事を嫌っているわけじゃないんだよなあ」

 そんな事を考えながら、私はらせん階段を上がり、屋上を目指す。



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