第7話 森の魔獣
それは、何の前触れもない朝だった。
いつものように目を覚まし、いつものように朝食を食べる。
ダンネルはパンをかじりながら今日の仕事について話し、ユリーカは昨日見つけた花がどうとか、一生懸命説明していた。
私はそれを聞きながら、別のことを考えていた。
昨夜の実験結果だ。
魔素を複数に分割し、それぞれを独立して制御する。
十本までは安定した。
二十本もできる。
五十本を超えると、少し精度が落ちる。
なら、百本ではどうなる?
単純に分割数を増やした場合、どこで限界が来るのか。それとも問題になるのは本数ではなく、同時に処理する魔素量や制御情報なのか。
試してみたい。
今夜にでも――
「アル」
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ私、何の話してた?」
「……花がどうとかって」
「聞いてないじゃん!」
バレた。
ユリーカが頬を膨らませる。
「ごめん」
「アル、いっつもそう!」
「…考えごとしてた」
「また魔法?」
「まあ……」
「今日は魔法禁止!」
「それは困る」
「きーんーしー!!」
そんなやり取りを見て、ダンネルが笑った。
「お前ら、本当に仲いいな」
「よくない!」
ユリーカが即答する。
「アルが全然話聞いてくれない!」
「ごめんって」
私は苦笑した。
こんな朝が、いつの間にか当たり前になっていた。
前世の私は、一人で過ごす時間が多かった。
研究室に籠もり、論文を読み、実験を繰り返し、ときどき学会へ出る。
それが嫌だったわけではない。
むしろ好きだった。
知りたいことを追い続ける人生は、私にとって何より楽しかった。
けれど今は、こうして誰かと同じ食卓を囲み、どうでもいい話をしながら朝食を食べる時間も悪くないと思っている。
いや。
きっと私は、この時間が好きなのだ。
その日の昼過ぎ。
村の鐘が鳴った。
カン、カン、カン――。
短く、激しく、何度も。
「……?」
私は顔を上げる。
ユリーカの表情が変わった。
「父さん……?」
外から怒鳴り声が聞こえる。
人々が走っている。
何かがおかしい。
直後、家の扉が勢いよく開いた。
「ユリーカ! アル!」
ダンネルだった。
いつもの服ではない。
鎧。
腰には剣。
最初に出会ったときと同じ姿だった。
「二人とも家から出るなよ!」
声が違う。
普段の父親の声ではない。
騎士の声だった。
「何があったの?」
私が尋ねる。
ダンネルは一瞬だけ迷った。
「魔獣だ」
「魔獣?」
「森から出てきた」
初めて聞く言葉ではない。
ユリーカから何度か聞いたことがある。
魔素の影響を強く受けた獣。
普通の動物より遥かに強く、中には魔法に近い現象を起こすものもいるらしい。
ただ、この村の周辺には危険な魔獣はほとんどいないと聞いていた。
「どんな魔獣?」
「アル」
「種類は?」
「お前が知る必要はない」
ダンネルが私の頭へ手を置く。
「家にいろ! 絶対に外へ出るな!」
それだけ言って、外へ出ていった。
扉が閉まる。
私は窓へ向かった。
外を見る。
村の男たちが武器を持って集まっている。
その中心にダンネル。
「アル…」
ユリーカの声。
振り返る。
震えていた。
「父さん……大丈夫だよね?」
私はすぐに大丈夫と言おうとした。
だが、言えなかった。
情報がない。
相手の強さも分からない。
根拠のないことは言えない。
それでも。
「ダンネルは強いんでしょ?」
「うん……」
「なら、信じよう」
「……うん」
ユリーカが頷く。
そのとき森の方角から。
ドンッ!!
鈍い音が響いた。
鳥が一斉に飛び立つ。
私は窓を見る。
そして、同時に感じた。
魔素が揺れた。
「……なんだ?」
今まで感じたことのない規模だった。
森の方角から、巨大な魔素の気配が押し寄せてくる。
普段この辺りに漂っている魔素とは、明らかに密度が違う。
嫌な予感がした。
村の男たちが走り出す。
ダンネルも一緒だ。
森へ向かっていく。
私は考える。
行くべきではない。
私は四歳だ。
魔法の研究をしているとはいえ、実戦経験など一度もない。
相手は正体すら分からない未知の生物。
家にいるのが正しい。
ダンネルもそう言った。
「アル……?」
ユリーカを見る。
不安そうに窓の外を見ている。
「……大丈夫」
今度はそう言った。
根拠はない。
ただ、そうであってほしかった。
それからしばらくして。
再び。
ドォン!!
今度は先ほどより近い。
「……近づいてる」
嫌な予感が確信へ変わる。
何かが村へ向かっている。
その直後。
外から声が聞こえた。
「逃げろーー!!」
「魔獣が抜けたぞー!!」
「女子供を避難させろー!!」
私は立ち上がった。
「ユリーカ」
「え?」
「奥の部屋に行って」
「アルは?」
「外を見る」
「ダメ!」
ユリーカが腕を掴む。
「父さんが外に出るなって言った!」
「分かってる」
その瞬間。
地面が揺れた。
ドン。
ドン。
ドン。
重い。
何か巨大なものが歩いている。
そして、家の外から獣の咆哮が響いた。
「グオオオオオオオッ!!」
窓が震える。
ユリーカが耳を塞ぐ。
私は、動けなかった。
怖い。
純粋に、そう思った。
研究室での実験とは違う。
計算を間違えればやり直せる、仮説が外れれば修正すればいい。
だがこれは違う。
失敗すれば…死ぬ。
私だけではない。
ユリーカも。
ダンネルも。
この村の人間も。
私は震える指を握り込み、窓から外を見る。
そして。
初めて魔獣を見た。
巨大な狼。
そう表現するのが一番近い。
だが、狼と呼ぶには大きすぎる。
体長は四メートルを優に超えている。
黒い毛。
異常に発達した前脚。
口から覗く牙は、私の腕ほどはある。
そして何より。
身体の周囲を覆う凄まじい魔素。
「……生物なのか?」
思わず呟いた。
あの巨体。
筋肉量。
骨格。
通常の生物として成立しているのか?
自重を支えるだけでも相当な負担になるはずだ。
魔素が身体能力そのものを補助している?
あるいは細胞構造から違う?
一瞬、調べてみたいと思ってしまった自分を頭の中で止める。
今は研究している場合ではない。
魔獣の前に、ダンネルが立っていた。
「父さん!」
ユリーカが叫ぶ。
「静かに!」
私は咄嗟にユリーカを窓から離した。
外ではダンネルが剣を構える。
他にも数人。
だが、怪我をしている者が多い。
魔獣が地面を蹴った。
速い。
巨体から想像できない速度。
ダンネルが横へ跳ぶ。
直後、爪が地面を抉った。
土が飛ぶ。
「くっ!」
ダンネルが剣を振る。
刃が魔獣の肩へ当たる。
だが浅い。
毛と皮膚が異常に硬い。
「炎よ!」
別の男が魔法を放つ。
炎が魔獣を包む。
しかし。
「嘘だろ……」
ほとんど効いていない。
魔獣が炎の中から飛び出す。
前脚が振るわれた。
ダンネルが剣で受ける。
ガンッ!!
剣が飛んだ。
そして。
「ぐあっ!」
ダンネルの身体が吹き飛んだ。
数メートル先まで飛ばされ、建物の壁へ叩きつけられる。
「父さん!!」
ユリーカが叫んだ。
ダンネルは倒れたまま動かない。
「……」
頭の中が真っ白になった。
「父さん! 父さん!!」
ユリーカが扉へ走る。
私は腕を掴んだ。
「離して!」
「ダメ!」
「父さんが!」
「分かってる!」
ユリーカが泣いている。
私も怖い。
だが、今は。
考えろ。
私は自分に命令した。
怖がっている場合ではない。
窓の外を見る。
ダンネルは僅かに動いた。
まだ生きている。
魔獣がゆっくりとダンネルの方へ向かっていく。
一歩。
また一歩。
相手の質量。
推定五百キロ以上。
いや、もっとあるかもしれない。
表皮は硬く、物理攻撃への耐性が高い。
炎もほとんど効いていない。
ならどう止める。
熱?
高温?
いや駄目だ。
十分な威力を出せば、ダンネルまで巻き込む。
電気?
まだ制御精度に不安がある。
確実に動きを止めるほどの電位差を作れば、周囲への放電経路が読めない。
風?
あの質量を吹き飛ばすには相当な出力が必要になる。
周囲への被害も大きい。
水?
圧力を上げる?
違う。
もっと限定的で、確実で、周囲への被害が少ない方法。
魔獣がさらにダンネルへ近づいていく。
「考えろ……」
動きを止めればいい。
それだけで、ダンネルを引き離せる。
生物。
筋肉。
血液。
神経。
体温。
そこで私は気付いた。
「……温度」
熱を加える必要はない。
逆だ。
奪えばいい。
私は今まで、魔素によって分子運動を加速させ、発熱現象を再現してきた。
なら逆方向へ作用させたら?
分子運動を抑える。
つまり。
「冷却……」
できるはずだ。
理屈は同じ。
熱運動を減少させる。
対象は魔獣全体ではない。
そんな必要はない。
脚。
四本だけ。
そこだけ止めればいい。
私は扉を開けた。
「アル!?」
ユリーカが叫ぶ。
私は外へ出る。
怖い。
足が震えている。
当たり前だ。
私は戦士ではない。
兵士でもない。
前世では、ただの研究者だった。
巨大な獣と戦ったこともない。
だが、目の前に家族がいる。
ダンネルがいる。
私を拾い、育ててくれた人。
この世界で私に居場所をくれた人。
「……やるしかないだろ!」
魔獣が前脚を上げる。
ダンネルへ振り下ろそうとする。
間に合え。
私は手を向けた。
距離。
約三十メートル。
対象。
四肢。
まず、自分の内部魔素を四つへ分割する。
それだけでは足りない。
私はさらに意識を外へ広げた。
空気中。
地面。
草木。
周囲に存在する魔素へ意識を伸ばす。
取り込む。
自分の内部魔素と混ぜる。
制御可能な形へ整える。
量は十分。
四方向へ分割。
それぞれを魔獣の脚へ。
「止まれ!」
魔素を接続。
そして一気に熱運動を奪う。
魔獣の脚周辺から白い霧が立ち上がった。
「グッ!?」
動きが止まる。
地面が白く染まる。
霜。
そして。
氷。
魔獣の脚が凍り始めた。
「グオオオオオッ!!」
暴れる。
だが、私は止めない。
周囲からさらに魔素を取り込む。
冷却。
さらに冷却。
魔獣の脚を覆う水分。
地面。
空気中の水蒸気。
それらを凍結させる。
ひたすらに温度を下げる。
下げる。
下げる。
バキバキバキッ!!
氷が一気に広がった。
四本の脚が地面へ固定される。
「……止まった」
村人たちがこちらを見る。
「なんだ……?」
「誰が魔法を……」
魔獣が暴れる。
氷に亀裂が入る。
「まだか」
これでは長く持たない。
どうする。
さらに全体を冷やす?
いや、効率が悪い。
もっと弱い場所。
生物である以上。
必ずある。
呼吸。
肺。
血液。
神経。
内部へ直接干渉できればもっと早いかもしれない。
だが、今の私にはそこまで精密に生体内部へ作用させる確信がない。
未知の操作を試すより、今確実にできる方法を使う。
なら。
「……関節!」
私は魔獣の前脚を見る。
全身を止める必要はない。
動きを奪えば、それで十分だ。
魔素を細く。
ユリーカから学んだように。
無駄をなくす。
一点へ集中させる。
「……凍れ」
パキンッ。
魔獣の右前脚が完全に動かなくなった。
続けて左前脚。
後脚。
一本。
二本。
三本。
四本。
「グオオオッ!!」
巨体が崩れ落ちた。
地面が揺れる。
私はすぐにダンネルへ走った。
「ダンネル!」
返事がない。
「ダンネル!」
首へ指を当てる。
脈、ある。
呼吸、ある。
頭部に大きな外傷は見えない。
胸部、呼吸時に顔を歪める。
肋骨を損傷している可能性。
右腕の変形、骨折。
前世の知識が勝手に身体を動かす。
「生きてる……」
一瞬、全身から力が抜けそうになった。
だが、まだだ。
「動かさないで!」
近づいてきた村人へ叫ぶ。
「え?」
「首を動かさないで! 頭を打ってるかもしれない!」
男たちが固まる。
「アル……?」
しまった。
四歳児の言葉ではない。
だが、今はどうでもいい。
「毛布! それと板! なるべく平らなもの! 早く!」
「お、おう!」
村人が走る。
そのとき。
バキッ。
背後で音がした。
振り返る。
魔獣を覆う氷に亀裂。
「……嘘だろ」
まだ動けるのか。
魔獣が唸る。
バキ。
バキバキ。
氷がどんどん割れる。
「アル!」
ユリーカの声。
逃げるべきだ。
頭では分かっている。
だが、ダンネルを置いていけない。
魔獣が立ち上がろうとする。
私は再び手を向けた。
今度は迷わなかった。
「悪いけど」
周囲の魔素を取り込む。
さっきより多く。
自分の魔素と混ぜ、制御する。
「もう少し寝ててくれ」
冷却。
今度は魔獣の周囲全体。
地面に含まれる水分。
空気中の水蒸気。
それらを利用する。
氷を作る。
大量に。
魔獣そのものを内側から凍らせる必要はない。
外側から固定する。
水分を集め。
冷却。
凍結。
魔獣の身体を包む。
「な……」
誰かが声を漏らした。
氷が成長していく。
脚。
胴体。
首。
巨大な魔獣が、透明な氷に閉じ込められていく。
最後に頭部まで拘束する。
鼻先だけは氷の外へ残した。
呼吸を妨げれば、暴れ方が変わる可能性がある。
水の中で溺れた時、必死に全身でもがくのと同じだ。
今必要なのは、完全に動きを封じることだ。
さらに氷を厚くする。
バキッ。
魔獣が内側から力を加える。
だが、今度は崩れない。
もう一層。
さらに一層。
氷を重ねる。
やがて、巨大な身体は完全に動きを止めた。
「……よし」
魔法を止める。
静かになった。
誰も喋らない。
村人たちが私を見ている。
ダンネルを見る。
氷漬けの魔獣を見る。
そして、また私を見る。
「……」
まずい。
これは非常にまずい。
どう説明する?
どうも、四歳児です。
趣味で魔法を研究していたら、巨大魔獣を凍結拘束できるようになりました。
…無理がある。
「アルーー!!!」
ユリーカが近づいてくる。
怒られるだろうか。
隠していたから。
怖がられるだろうか。
普通ではないと。
私は少しだけ不安になった。
だがユリーカは、何も言わず私に抱きついた。
「……っ」
泣いている。
「う、うっ…怖かったぁ……」
「……うん」
「父さん死んじゃうかと思ったよぉ……」
「大丈夫」
私は小さな手で、ユリーカの背中を叩いた。
「生きてるよ」
「ほんと……?」
「うん」
私が確認した。
少なくとも。
今すぐ命が途切れるような状態には見えない。
「絶対?」
「絶対とは言えない」
「アル!!」
怒られた。
「でも」
私はダンネルを見る。
「今度こそ、助ける」
迷わずそう言った。
その後。
ダンネルは村の治療師のもとへ運ばれた。
私はできる限り同行した。
幸い、命に別状はなかった。
右腕の骨折。
肋骨二本。
全身の打撲。
しばらく安静は必要だが。
生きている。
その日の夜。
私はダンネルの寝ている部屋の前に座っていた。
ユリーカは泣き疲れて、ダンネルの隣で眠っている。
私は一人。
自分の手を見ていた。
魔法。
ずっと夢だった。
使えるようになったとき。
嬉しかった。
楽しかった。
研究することしか考えていなかった。
もっと知りたい。
もっと試したい。
どこまでできるのか確かめたい。
その気持ちは、今も変わらない。
だが、今日初めて。
怖いと思った。
自分の魔法が、ではない。
魔法を使えなかったら。
ダンネルが死んでいたかもしれない。
そのことが。
怖かった。
「……」
前世では。
私は多くのものを手に入れた。
名誉。
金。
知識。
ノーベル賞。
世界中の人間から祝福され、研究者としてはこれ以上ないほど恵まれた人生だった。
だが、今思えば。
失うことを心の底から怖いと思えるものは。
それほど多くはなかった。
でも、この世界では違うらしい。
「アル」
声がした。
顔を上げる。
ダンネルが目を開けていた。
「……起きたの?」
「ああ」
弱々しい声。
それでも。
笑っている。
「聞いたぞ」
「何を?」
「お前が助けてくれたって」
「……」
私は黙った。
「すまなかったな」
「なんでダンネルが謝るの?」
「守るつもりだったんだがなぁ」
ダンネルが苦笑する。
「四歳の息子に守られちまった」
「……息子?」
思わず聞き返した。
ダンネルが目を細める。
「ああ」
当然のように。
そう言った。
「息子だろ?」
「……」
胸の奥が、妙に熱くなった。
魔素ではない。
熱魔法でもない。
知っている。
前世でも。
何度か感じたことがある。
けれど、こんなに強く感じたことはなかったかもしれない。
「……そうだね」
私は小さく答えた。
それから。
少しだけ迷って。
「父さん」
そう呼んだ。
ダンネルが驚いた顔をする。
そして。
笑った。
「おう」
たったそれだけ。
本当に。
それだけだった。
なのになぜか。
魔法を初めて使えた夜と同じくらい嬉しかった。
私は、この世界で魔法を手に入れた。
七十四年間追い求めても届かなかった夢を。
どうやら、それ以上に大切なものも手に入れていたらしい。
ただ一つだけ、大きな問題が残っていた。
村の外れ。
巨大な氷の塊に閉じ込められた魔獣。
その前には、村人たちが集まっていた。
そして、誰もが同じ疑問を口にしていた。
「あの子は……何者なんだ?」
翌朝。
その答えを求めるように。
ダンネル――いや。
父さんは私を呼び出した。
「アル」
ベッドの上で。
父さんは真剣な顔をしていた。
「話してくれ」
「……何を?」
「全部だ」
逃げられない。
私は少し考えた。
この世界へ来てから。
ずっと隠してきたこと。
私が本当は何者なのか。
前世で何をしていたのか。
なぜこれほどまで魔法に執着しているのか。
そして決めた。
初めて、誰かに話すことを。




