第6話 最初の先生
周囲の魔素を自分の意思で取り込めるようになってから、アルの実験は一気に広がった。
最初の頃は、目を閉じて意識を集中しなければ外部の魔素を捉えることすら難しかったが、毎日繰り返しているうちに少しずつ感覚が変わってきた。
今では庭を歩きながらでも周囲に漂う魔素の存在が分かり、体内へ流れ込ませる量も、ある程度なら調整できるようになっている。
もっとも、まだ呼吸と同じように無意識で行えるほどではない。
火を出しながら吸収する、歩きながら吸収する、ユリーカと話しながら吸収する。
あえて別の作業を重ね、それでも外部魔素の流れを維持できるか試し、失敗すれば原因を考えて条件を変える。
そんなことを繰り返しているうちに、アルにとって魔素の吸収は少しずつ「特別な技術」ではなく、練習次第で自由に扱えるものへと変わり始めていた。
「……もう少し速くできそうだな」
庭の隅で小さな炎を浮かべながら、アルは左手側から周囲の魔素を取り込んでいた。
炎を維持するために体内魔素が減り、それとほぼ同じ速度で外から新しい魔素が入ってくる。
以前なら数秒でどちらかが途切れていたが、今では一分近く維持できる。
アルは炎の大きさを変えないまま、吸収量だけを少し増やしてみた。
すると、減っていた体内魔素が僅かに戻り始める。
「……やっぱり」
魔法を使っているのに、魔素が回復している。
その事実が面白くて仕方がなかった。
なら、どこまで吸収速度を上げられるのか、両手だけではなく全身から取り込めるのか、周囲の魔素濃度が違えば吸収速度も変わるのか。
一つ分かるたび、次の実験が浮かんでくる。
「アルー!」
突然、背後から声が飛んできた。
アルは反射的に炎を消し、振り向く。
ユリーカが腰に手を当てて立っていた。
「また一人で何してるの?」
「…ちょっと練習」
「また?」
「うん」
「最近ずっとそれじゃん!」
ユリーカは頬を膨らませながら近づいてくる。
今年で六歳になった彼女は、以前より言葉も達者になり、何かにつけてアルの世話を焼きたがるようになっていた。
アル自身も四歳になっている。
二人で並べば、どう見てもユリーカの方が姉であり、実際その認識は本人にもかなり強いらしい。
「父さんが、薪持ってきてって」
「今行く」
「今じゃなくて、すぐ!」
「同じじゃない?」
「違うの!」
どう違うのかは分からないが、逆らうと長くなる。
アルは立ち上がり、ユリーカの後ろをついていった。
その途中で、ふと足を止める。
ユリーカの周囲から、微かな魔素の動きを感じた。
「……?」
彼女は魔法を使っていない。
それなのに、身体の周囲には僅かな魔素の揺らぎがある。
以前なら気づかなかった。
外部魔素を感じ取る訓練を続けたことで、今まで認識できなかった細かな流れまで分かるようになってきたらしい。
「ユリーカ」
「なに?」
「ちょっと魔法使ってみて」
「今?」
「うん」
「薪は?」
「一回だけ」
ユリーカは呆れたような顔をしたが、それでも近くにあった小石へ手を向けた。
「これでいい?」
「いいよ」
ユリーカが集中する。
その瞬間、アルの意識は彼女の周囲へ向いた。
体内の魔素が動き、腕から掌へ流れ、そこから石へと伸びていく。
やがて石がふわりと浮き上がった。
ここまでは、何度も見ている。
だが今日は、それとは別のものを感じた。
正確には、今まで気づけなかった流れが見えた。
石を浮かせるために使われた魔素が、完全にユリーカの体内だけで完結していない。
魔法が成立した瞬間、周囲に漂っていた魔素がほんの僅かに石の周辺へ引き寄せられ、そこで流れが歪んでいた。
「……待って」
アルは一歩近づく。
「そのまま」
「え?」
「動かさないで」
ユリーカが小石を浮かせたまま首を傾げる。
アルは周囲の魔素だけに意識を集中した。
ユリーカ自身が外部魔素を吸収しているわけではない。
体内へ取り込んでもいない。
しかし、魔法によって作られた現象そのものが、周囲の魔素へ僅かな影響を与えている。
石の周辺。
魔法が働いている範囲だけ、外部魔素の流れが僅かに変化している。
「……そういうことか」
「何が?」
「もう一回。今度は水」
「なんで?」
「比べたい」
「比べる?」
「お願い」
ユリーカはますます不思議そうな顔をしたが、井戸の近くに置いてあった水桶へ向かった。
両手をかざす、水が持ち上がる。
今回も同じだった。
ユリーカ自身の魔素が中心になっているが、発動した水魔法の周囲では外部魔素がほんの僅かに巻き込まれ、流れが変化している。
量としては小さい。
少なくとも、アルが行っている吸収とは全く違う。
自分の場合は、外部魔素を直接身体へ取り込み、自分の魔法へ利用する。
ユリーカの場合は、自分の体内魔素で魔法を成立させた結果、その術式や現象が周囲の魔素へ少し影響を与えているだけだ。
似ているようで、根本的には違う。
「アル?」
「もう一回」
「えー!」
「最後」
「絶対?」
「たぶん」
「絶対じゃない!」
文句を言いながらも、ユリーカはもう一度水を浮かせた。
アルはその流れを観察しながら、頭の中で仮説を組み上げていく。
外部魔素は、ただ空間に漂っているだけではない。
魔法が発動すると、その周囲の魔素分布まで僅かに変化する。
ならば、自分が外部魔素を取り込める理由にも何か関係があるのかもしれない。
魔素同士が引き合うのか、流れが存在するのか、術式そのものが周囲へ作用しているのか。
確かめたいことが一気に増えた。
「アル」
「ん?」
「薪」
「……忘れてた」
「もう!」
ユリーカに腕を引かれながら、アルはまだ水魔法のことを考えていた。
その日の午後、薪運びを終えたアルは庭へ戻った。
今度の研究対象は、水だった。
外部魔素のことも気になるが、その前に確認したいことがある。
以前から、どうしても上手くいかないこと。
命中精度だ。
アルは水桶から少量の水を浮かせた。
水を球状に整える。
ここまでは問題ない。
以前なら大量の魔素を使っていたが、今ではかなり少ない量で安定させられるようになっている。
前方、十歩ほど先の木には小さな印をつけてある。
アルはそこへ狙いを定めた。
空気抵抗、水球の質量、初速、重力、横風。
簡単な軌道計算を頭の中で組み上げる。
「……これなら」
水球を放つ。
シュッ、と音を立てて飛んだ水は――
バシャッ。
木の右側に当たった。
「……またか」
アルは首を傾げる。
明らかに計算と違う。
もう一度。
今度は初速を少し落とす。
バシャッ。
今度は左。
「何がずれてる?」
三回、四回、五回と試しても、結果は安定しない。
威力そのものは十分だ。
速度も悪くない。
それなのに、狙った場所へ当たらない。
「アル、またやってる!」
振り向くと、ユリーカが立っていた。
「ユリーカ! ちょうどいいところに来た!」
「え?」
「これ、やってみて」
「水?」
「うん。あの印に当てて」
ユリーカが木を見る。
「ふふんっ、しょうがないなー! いいよ!」
軽い返事だった。
水桶から水を浮かせる。
大きさはアルとほぼ同じ。
形は少し歪んでいて、水球というより水の塊に近い。
アルから見れば、空気抵抗も大きそうだった。
「いっけー!」
ユリーカが放つ。
バシャッ!
ほぼ中央。
「……」
アルは黙った。
「当たった!」
「もう一回」
「え?」
「お願い」
二回目も命中。
三回目は少しずれたが、それでも印のすぐ近くだった。
「なんで?」
アルが呟く。
「何が?」
「私の方が速いし、形も整えてるのに」
「でもアル下手じゃん」
「それは今関係ない」
「関係あるよ!」
悔しい。
七十四歳まで生き、世界最高峰とまで呼ばれた研究者が、六歳児に魔法の命中精度で完敗している。
しかも、その理由が分からない。
だからこそ非常に面白かった。
「もう一回」
アルが言った。
「まだやるの?」
「今度は魔素だけ見るから」
「魔素を見る?」
「気にしなくていい」
ユリーカが水を浮かせた。
アルは目を閉じ、視覚を切る。
体内魔素、外部魔素。
そして、ユリーカが水へ伸ばしている魔素。
「いくよ!」
水が放たれる。
その瞬間、アルは気づいた。
「……これだ」
水がユリーカの手を離れた後も、彼女の魔素が残っている。
完全に切れていない。
細く、非常に細いが、水とユリーカの間に繋がりが続いている。
水が僅かに横へ逸れそうになる。
すると、その魔素の流れが変化した。
水球の軌道も僅かに修正される。
本人はおそらく意識していない、身体が勝手にやっているのだろう。
「ユリーカ」
「なに?」
「飛ばした後も動かしてる?」
「うん?」
「水が右に行きすぎたら、左に戻したりしてる?」
「するよ?」
「どうやって?」
ユリーカは少し考えたあと、手を振った。
「こうやって、こっちーって」
「……なるほど」
説明としてはかなり感覚的だが、理解はできた。
アルは水桶へ手を向ける。
水を浮かせる。
今までは、形成し、加速し、発射したところで魔法を終わらせていた。
発射後は通常の物体と同じように扱い、後は物理法則へ任せていたのだ。
だがユリーカは違う。
発動した後も魔法を維持し、飛んでいる水へ干渉し続けている。
「だったら……」
アルは魔素を水へ繋いだままにした。
水を放つ、少し右へ逸れる。
その瞬間、左へ僅かに力を加える。
水が曲がった。
「……おお」
そのまま飛び――
バシャッ!
木の中央へ命中した。
「当たった!」
ユリーカが笑う。
だがアルはそれどころではなかった。
「もう一回」
水を浮かせる。
今度は最初から、わざと左へ外して撃つ。
発射。
途中で右へ修正。
水が曲がり、そのまま命中した。
「できる」
次は途中で上へ、さらに下へ。
水が不自然な軌道を描きながら飛んでいく。
「あはははは! アル、変なの!」
ユリーカが笑っている。
だがアルは完全に夢中だった。
「発動後も術式に干渉できるなら、途中で出力を変えることもできるか……?」
もう一度水を放つ。
途中で加速、水球が一気に速度を増した。
次は減速、これもできる。
なら途中で分割は?
アルは飛んでいる水へ魔素を細く伸ばし、二つに分けようとした。
ぐにゃりと形が崩れ、そのまま地面へ落ちる。
「あぁ、失敗か」
アルの口元が上がった。
ユリーカは不思議そうな顔をする。
「なんで嬉しそうなの?」
「できない条件が一個分かったから」
「?」
やはり理解されなかった。
アルは気にせず、もう一度試す。
今度は飛ばす前から、水の内部へ魔素を二系統に分けておく。
発射。
途中で分離。
パシャッ、と音を立てて、水が二つの小さな球に分かれた。
「できた!」
ユリーカが驚く。
「え、アル! 今どうやったの!?」
「最初から二つに分かれるように繋いでおいた」
「……?」
今度はユリーカが理解できない番だった。
アルは笑った。
そして、自分が今まで大きな勘違いをしていたことに気づく。
前世の知識は、確かに強力だ。
魔法によって起こしたい現象を細かく分解し、不要な過程を省き、必要な場所へ必要な量だけエネルギーを与えることで、普通とは違う魔法を作れる。
だが、それだけでは足りない。
魔法には、理論だけでは身につかない技術がある。
魔素を細く伸ばす、一定量で維持する、複数へ分割する、発動後の現象へ繋ぎ続ける、途中で方向や出力を変える。
そうした技術は数式を知っていれば勝手に使えるものではなく、何度も繰り返し、失敗しながら身体そのものへ覚え込ませるしかない。
そして、その点では今のアルよりユリーカの方が遥かに上だった。
「ユリーカ」
「なに?」
アルは少しだけ迷ったあと、素直に言った。
「魔素の使い方、教えて」
ユリーカが固まる。
「……私が?」
「うん」
「アルに?」
「そう」
「私が先生!?」
その瞬間、顔が輝いた。
しまった。
アルは少しだけ後悔した。
「じゃあ!」
ユリーカは両手を腰へ当てる。
「先生って呼んで!」
「……ユリーカ先生」
「もう一回!」
「先生」
「ちゃんと!」
「ユリーカ先生!!」
「えへへへ……」
ものすごく嬉しそうだった。
まあ、それくらいなら構わない。
教えてもらう側なのだから。
前世でも、自分より若い研究者から新しい技術を教わることは何度もあった。知識に年齢は関係ないし、まして魔法についてはユリーカの方がずっと先輩だ。
「じゃあ最初はこれ!」
ユリーカが小石を一つ拾い、地面へ置いた。
「浮かせて!」
「分かった」
アルは石へ魔素を伸ばし、持ち上げる。
「多い!」
ユリーカが即座に言った。
「え?」
「魔素使いすぎ!」
「これでもかなり減らしてるけど」
「もっと!」
アルは魔素を減らす。
石が落ちた。
「減らしすぎ!」
少し増やす。
「多い!」
減らす。
「もうちょっと!」
さらに量を絞る。
すると、小石がふわりと浮いた。
「そこ!」
「……これだけ?」
アルは驚いた。
普段使っていた魔素量の半分以下。
感覚的には三分の一程度しかない、それなのに石は浮いている。
「もう一個」
アルが言う。
「まだ?」
「もう一回」
「しょうがないなあ」
そこから、二人の訓練が始まった。
まずは小石を一つ、可能な限り少ない魔素で浮かせる。
次に上下へ動かし、左右へ移動させ、円を描かせる。途中で止め、速度を変え、それでも魔素量を増やさずにどこまで正確に制御できるかを試す。
次は二つ。
それぞれ違う方向へ動かす。
最初は驚くほど上手くいかなかった。
一つを動かせば、もう一つが落ちる。
片方を止めれば、もう片方まで止まる。
二つを同時に曲げようとすれば――
ゴンッ。
石同士がぶつかった。
「下手ー!」
「うるさい」
「先生にうるさいって言った!」
「すみません、先生」
「よろしい!」
悔しい。
だが、その悔しさが面白かった。
その日から、アルは外部魔素の吸収訓練と並行して、ユリーカから魔素操作を学ぶようになった。
一つの石から二つへ。
二つから三つへ。
石だけでなく水滴も使い、それぞれへ別々に魔素を伸ばし、異なる動きをさせる。
最初の一週間は失敗ばかりだった。
一ヶ月もすると少しずつ動かせるようになり、三ヶ月後には五つを同時に操れるようになった。
そして半年後。
アルは庭に立っていた。
その周囲を十個の小石が、それぞれ異なる軌道を描きながら飛んでいる。
円を描く石。
楕円を描く石。
上下へ往復するもの。
左右へ動き続けるもの。
速度もすべて違う。
それでも一つもぶつからない。
「……」
隣でユリーカがぽかんと口を開けていた。
「どうしたの?」
「ずるい」
「何が?」
「アル、最初すっごく下手だったのに」
「練習したから」
「もう私より上手いじゃん!」
悔しそうなユリーカを見て、アルは少し笑った。
十個の石をゆっくり地面へ戻す。
「でも、ユリーカに教えてもらわなかったら、たぶんずっと気づかなかった」
「ほんと?」
「ほんと」
アルは自分の手を見つめた。
前世で積み重ねてきた物理学の知識があれば、この世界の魔法を現象として分解し、普通とは違う形に組み直すことができる。だが、それだけでは足りないことを、ユリーカから魔素操作を学んだことでようやく理解できた。
魔素をどれだけ細く伸ばせるか。どれだけ正確に分けられるか。発動した後の魔法へ、どこまで干渉し続けられるか。
そうした技術は知識だけでは身につかず、何度も試し、失敗しながら身体へ覚え込ませなければならない。
そしてアルには、もう一つある。
誰にも教わらず、自分で見つけた外部魔素の吸収。
前世の知識、この世界で培われてきた魔法技術、そして外部魔素を自分の魔法へ利用する独自の方法。
それらを組み合わせていけば、今まで誰も考えなかった魔法へ辿り着けるかもしれない。
そう考えた瞬間、アルの頭にはもう次の実験が浮かんでいた。
「ユリーカ」
「ん?」
「次はもっと難しいのやろう」
「え?」
「動かしてる途中で水を二つに分けたり、途中で進む方向を何回も変えたり。それから二つの魔法を同時に別々に操作できるかも試したい」
ユリーカはしばらくアルの顔を見つめたあと、露骨に嫌そうな顔をした。
「そんなの私できないよ!」
「私もまだできない」
「じゃあ、なんでやるの?」
アルは不思議そうにユリーカを見る。
「できないから」
「……アルって変だよね」
「よく言われる」
ユリーカは呆れながらも笑い、アルもつられて笑った。
一人で考え、一人で実験する時間は好きだった。それでも、誰かと一緒に試し、失敗し、自分では思いつかなかったやり方を教えてもらうことも悪くない。
前世では七十四年かけて世界の法則を追い続けた。
今世では、その知識を持ったまま、前世には存在しなかった魔法という分野を一から学ぶことができる。
しかも、その最初の先生は六歳の少女だった。
「先生、次お願いします」
「えへへ、しょうがないなあ!」
得意げに胸を張るユリーカを見ながら、アルは小さく笑った。
魔法はまだ分からないことだらけだが、それでいい。
分からないからこそ調べる価値があり、できないからこそ試す意味がある。
アルにとって、それは前世から何一つ変わらない、研究者としての生き方だった。




