第52話 いつもの学院
エルグラッド地下深域への追加探索が保留になってから数日が経った。
研究院では回収された記録板の翻訳が続き、S-071-01と透明な物体も監視対象のまま残っている。
ただし、少なくとも私が直接関われる作業は急激に減った。
地下都市へは行けない、結界にも触れない、消失区域の測定も禁止。
研究院へ顔を出しても、渡されるのは翻訳済み資料の写しや過去の測定記録ばかりで、新しい発見があれば向こうから連絡するとまで言われた。
要するに。
しばらくはちゃんと学院生をやっていろ、ということらしい。
「不満そうだね」
昼休み。
向かいに座るリーナがパンをちぎりながら言った。
「そんなことないよ」
「エルグラッドの話を始めてから、今日でもう四回ため息ついてる」
「数えてたの?」
「分かりやすいから」
……そんなに出ていたらしい。
私はスープを飲みながら周囲を見渡す。
学院の食堂はいつも通りだった。
魔法実技の話をする生徒、試験結果で騒いでいる生徒、隣の席では誰かが術式理論の課題について言い争っている。
平和だった。
二千年以上封じられていた地下遺跡の都市で、世界規模の災害記録が発見されたことなど知らないのだから当然だが。
「でも、ちょうどいいんじゃない?」
リーナが言う。
「何が?」
「最近ずっと学院にいなかったじゃん。授業が終わったら研究院、休みの日も調査、戻ってきたら資料整理。たまには普通に学院にいた方がいいよ」
「授業は出てた」
「身体だけね」
……否定できない。
講義中には別のことを考えていた。
「それに、やること残ってるでしょ」
「いっぱいある」
「じゃあ暇じゃないじゃん」
正しい。
エルグラッドへ入れなくなったからといって、研究対象が消えたわけではない。
空中魔法陣、治癒魔法、外部魔素制御、魔脈、術式分割、透明な物体。それにリーナと以前から続けている術式効率の研究も途中のままだ。
並べてみると、むしろ減らした方がいい気がしてきた。
「今日は放課後どうするの?」
リーナが聞く。
「セレナさんのところ」
「ああ、空中魔法陣」
「最近ほとんど結界を動かすために使ってたから、一回ちゃんと基礎に戻れって言われた」
リーナが笑う。
「怒られたんだ」
「怒られてない。指導された」
「同じじゃない?」
放課後。
学院の訓練場へ行くと、セレナはすでに待っていた。
その前には小さな標的が五つ、距離を変えて並べられている。
「来たわね」
「時間通りです」
「あら、珍しい」
最近、周囲からの評価がおかしい。
セレナは私の前へ来ると、いきなり言った。
「一枚」
「はい?」
「空中魔法陣。一枚だけ出しなさい」
私は言われた通り、胸の高さに一枚の円を固定する。
以前よりはかなり滑らかになり、形状も安定している。
「動かして」
右、左、上、下。
問題ない。
「回転」
魔法陣をゆっくり傾け、縦へ近づける。
その途中で僅かに外周が歪んだ。
セレナの眉が動く。
「今、外周が崩れた」
「ほんの少しです」
「ほんの少し崩れた術式が、高出力魔法ならどうなると思う?」
「……事故になります」
「分かってるじゃない」
言い返せない。
そこからさらに、移動しながら回転、回転しながら術式変更、固定位置を変えながら魔素供給量を一定に維持と、次々に課題が増えていく。
一枚だけなのに、やることが多い。
しばらくして、セレナが言った。
「あなたは枚数を増やすのが早すぎるのよ」
「五枚は使えます」
「使えることと、使いこなせることは違うの」
前にも似た言葉を聞いた気がする。
治癒魔法でも、治せることと正しく治せることは違うと言われた。
どうやら私は最近、同じことを別々の分野から教わっているらしい。
「結界の解析では五枚必要だったので」
「必要だったから使った。それはいい。でも、そこで『五枚使えたから次は六枚』と考えるでしょう?」
「……考えてました」
「だから言ってるの」
完全に読まれている。
セレナが手を上げた。
その瞬間、一枚、二枚、三枚と空中に魔法陣が現れ、五枚、十枚、十五枚と増え続け、最後には二十一枚が彼女の周囲へ浮かんだ。
以前バルディオス戦で見たものと同じ。
ただし、今回は攻撃術式ではない。
全てがただ浮かんでいるだけだった。
「何枚あるかが重要なんじゃない」
セレナが言うと、二十一枚の魔法陣が一斉に動き出した。
あるものは回転し、あるものは上下へ移動する、大きさを変えるものもあれば、途中で形そのものを組み替えるものまである。
それでも、一枚も他と干渉しないし、崩れない。
「それぞれを別の術式として維持しながら、全部を一つの魔法として扱う。そのためには、一枚一枚が意識しなくても崩れないくらい安定していないと話にならない」
私はすっかり見入っていた。
やはりすごい。
「今の私なら、何枚で練習するべきですか?」
「三枚ね」
「……」
「不満?」
「……いいえ」
セレナが笑った。
「三枚を自由に動かしながら、三つとも別の役割を持たせなさい。数を増やすのはその後」
なるほど。
単に三枚を浮かべるのではない。
それぞれへ違う処理を与える。
「例えば?」
「自分で考えなさい」
そこは教えてくれないらしい。
訓練場の端へ移動し、三枚の空中魔法陣を展開する。
一枚目は空気圧、二枚目は冷却、三枚目は方向制御。
三つを一つの現象へまとめる。
以前なら全てを頭の中だけで術式分割していたが、今はそれぞれの処理を外部へ出せる。
一枚目で空気を圧縮し、二枚目で圧縮による温度上昇を抑え、三枚目で射出方向だけを制御する。
出力は小さく。
発動すると、正面に置かれた布がふわりと揺れた。
術式は崩れなかった。
「今のは悪くないわ」
セレナが言った。
少し嬉しい。
「もう一回」
次は三枚の位置を変える。
一枚目を右、二枚目を上、三枚目を前へ移しただけで、一気に制御が難しくなった。
空中魔法陣は並べて使うだけではなく、処理そのものを離れた場所へ置ける。
それが一番面白い。
もう一度試すと失敗して三枚目が消え、さらにやり直すと今度は二枚目が歪んだ。
「急がないの」
セレナが言う。
「はい」
珍しく素直に返した。
今日は新しい大発見もなければ、世界の秘密に近づくわけでもない。
ただ、空中魔法陣を一枚ずつ上手くする。
それだけだった。
でも、こういう時間もきっと必要なのだと思う。
訓練が終わる頃には、体より頭の方が疲れていた。
訓練場を出ると、入口の壁にもたれてリーナが待っている。
「終わった?」
「ああ、終わったよ」
「どうだった?」
「五枚から三枚に減らされた」
「怒られたんだ」
「いや違う」
「はいはい」
見栄を張ってると思われてるな、これ。
二人で学院寮の方へ歩いていると、途中で医療棟の前を通った。
窓の中に見覚えのある淡い金髪が見える。
ミレイユだ。
机へ向かって何かを書いていたが、こちらに気付くと窓を開けた。
「アル!」
大きい声で呼ばれる。
「何?」
「明日!」
「明日?」
「約束の続き!」
……そういえば明日だった。
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
「本当に?」
信用されていない。
「今度は忘れてないさ」
「じゃあ放課後ね!」
そう言うと窓が閉まった。
隣を見るとリーナが笑っている。
「アル、忙しいね」
「誰のせいだろう…」
「全部アルのせいじゃない?」
うん、多分そうだ。
翌日。
私はちゃんと時間前に医療実習室へ行った。
ミレイユはまだ来ていない。
……勝ったな。
五分後、扉が開いてミレイユが入ってくる。
私を見るなり驚いた。
「……早い」
「当然だよ」
「絶対遅れると思ってた」
「前回はたまたま研究の件で忙しかっただけだからね」
「成長してる……」
妙な褒められ方。
……嬉しくない。
今日は私が先に教える。
内容は脈について。
前回、症状から原因を考えると言ったのなら、そのために使える最も簡単な情報の一つから始めればいい。
「手首貸して」
ミレイユが少し警戒した。
「何するの?」
「脈を見る」
「脈?」
私は手首へ指を当てる。
一定の間隔で感じる拍動。
「これ」
「……何となく分かる」
「心臓が血を送り出すたびに、ここでも動きを感じられる」
ミレイユが自分でも触ってみる。
しばらく探したあと、表情が変わった。
「本当だ」
「速さだけじゃない。強いか弱いか、一定か不規則か、それだけでも身体の状態を考える材料になる」
「治癒魔法を使わなくても?」
「使わなくても」
ミレイユが面白そうな顔をする。
この表情は最近よく見る。
私が魔法の研究をするときと少し似ている。
「じゃあリーナもやろう」
「私も?」
いつの間にか今日もリーナがいる。
「比較できるから」
三人で脈を測る。
私、リーナ、ミレイユでは速さも強さも少しずつ違い、走ったあと、座って休んだあと、少し緊張したときでも変わる。
単純なことだが、ミレイユには新鮮らしい。
「これ、医療師団でも使えるかな」
「使えると思うよ。でも、脈だけで決めたら駄目」
「分かってる。複数を合わせる」
前回の内容もちゃんと覚えているようだ。
「次は?」
「呼吸」
そこから、胸の動き、呼吸回数、深さ、左右差、それに意識、顔色、体温と、身体を見るための基本的な情報を順番に説明した。
今日教えるのはそれだけ。
病名はほとんど出さないし、難しい理論もまだ要らない。
まずは見る、触る、聞く、そして考える。
そこから始めればいい。
逆に、ミレイユからは治癒魔法による感知方法を教わった。
身体へいきなり魔素を流し込むのではなく、表面からごく薄く触れるように広げていく。
損傷がある場所では、魔素の返り方が僅かに違うらしい。
私は訓練素材で何度も試す。
最初は全く分からなかったが、二回、三回、五回と繰り返すうちに、ごく僅かな違和感を感じる場所が出てきた。
「……ここ?」
指を止める。
ミレイユが素材を確認した。
「正解」
「おぉ、分かった」
少し嬉しい。
「このまま治す?」
「今日は探すだけ」
「何で?」
「一気にやると、アルは全部同時に覚えようとするから」
……見抜かれていた。
「まず見つける。それが安定したら治す」
空中魔法陣と同じことを言われた。
最近は基礎、基礎、基礎、そればかりだ。
でも以前ほど嫌ではない。
バルディオス戦も、エルグラッドの結界も、結局は昔から積み上げてきた小さな技術が最後に繋がった。
なら、今やっているこの地味な練習も、いつか何かへ繋がるのだろう。
放課後。
医療実習室を出ると、夕日が学院の廊下へ長く伸びていた。
今日は何も起こらなかった。
ただ授業を受け、空中魔法陣を練習して、ミレイユと人体について話しただけの普通の一日。
「アル」
隣を歩くリーナが呼ぶ。
「何?」
「こういう日、嫌い?」
私は少し考えた。
「前なら、退屈って思ったかも」
「今は?」
三枚の空中魔法陣、治癒魔法の感知、ミレイユに教えた脈と呼吸。
全部を頭の中へ並べる。
「……悪くない」
リーナが笑った。
「それなら良かった」
世界の謎はまだ消えていない。
エルグラッドも、S-071も、透明な石も、いつかまた動き始める。
でも、そのときまで急ぐ必要はない。
私はまだ十三歳だ。
学院生活も研究も、まだ始まったばかりだった。




