第53話 母が残したもの(ユリーカ視点)
朝の工房は、学院とはまるで違う。
鐘が鳴って授業が始まるわけでもなければ、決められた席に座って誰かの説明を聞くわけでもない。
扉を開けた瞬間から、金属を叩く音、削る音、魔道具へ魔素を流したときの低い駆動音が混ざり合い、誰かが大声で工具の場所を聞けば、別の誰かがもっと大きな声で返事をする。
最初は騒がしいと思ったが、今は少し落ち着く。
「ユリーカ!」
奥から親方の声が飛んできた。
「はーい!」
「昨日預かった加熱器、見たか!」
「今から!」
「昨日のうちに見とけ!」
「昨日は別の直してたでしょ!」
「おめー、口だけ一人前になってきたなぁ!」
褒められた。
……多分。
私は作業台の上へ、小型の加熱器を置いた。
料理屋で使われている魔道具らしい。
魔素を流すと内部の術式板が発熱し、その熱を金属板へ伝える単純な構造だが、数日前から温度が安定しなくなったという。
私は分解を始める。
まず、外装を外す。
そして固定金具、導魔線、術式板、熱交換板の順番で外していく。
「…また分解してる」
横から声がした。
先輩職人の一人だ。
「壊れてるんだから開けないと分からないでしょ」
「お前の場合、壊れてなくても開けるだろ」
……否定できない。
中がどうなっているのか気になる。
動いているものを見ると、どうして動くのか知りたくなるし、壊れているものを見ると、どこがおかしいのか確かめたくなる。
そういうところは多分父さんより、母さんに似た。
術式板を外す。
一見すると問題はない、焦げもないし、割れてもいない。でも、魔素を少し流してみると反応が遅い。
「ここかな」
導魔線との接続部。
ほんの僅かに摩耗している。
完全に切れてはいないが、流れる魔素量が一定になっていない。
「交換するか?」
先輩職人が覗き込む。
「線だけなら交換で直ると思う。でも術式板も少し癖がついてるみたい」
「癖?」
「流れが偏ってる」
「分かるのか?」
「何となくね」
これは昔から得意だった。
私は魔素そのものを大量に扱えるわけではない。
アルみたいに周囲の魔素を取り込んだり、外の魔素を直接動かしたりなんて、もちろんできない。
でも、流したあとの動き、どこで引っ掛かっているのか、どこに余計な力が掛かっているのか。
そういうのは何となく分かる。
「じゃあそのまま直してみるか」
「任せて」
導魔線を交換して、接続部を少し調整する。
術式板そのものは交換しない。
新しいものへ替えるのは簡単だけど、それでは原因が分からないまま終わる。
少しずつ魔素を流し、止める、また流す、偏った流れを確認して、一か所だけ接続位置を変える。
「これでどうかな」
加熱器を組み直す。
魔素を流す。
金属板がゆっくり温まり始めた。
温度の上がり方も安定している。
「直った?」
「多分ね」
「多分って言うな」
「じゃあ直った!」
「…急に雑になったな」
笑われた。
でもこういうのが好きだ。
学院で魔法を研究するアルとは、やっていることが違う。
私は論文を書きたいわけでもないし、魔法そのものの正体を知りたいわけでもない。
ただ目の前にあるものを、もう少し使いやすくしたい。
壊れたなら直したい、不安定なら安定させたい。
……それだけ。
昼休み、工房の裏でパンを食べていると親方が隣へ座った。
「最近、どうだ?」
「ん? 何が?」
「王都」
「楽しいよ!」
「即答か…」
「うん」
「村には帰りたくならんか?」
少しだけ考える。
「帰りたいよ。でも戻りたいとは思わないかな」
親方が笑った。
「ややこしいな」
「家には帰りたい。でも今は、ここで覚えたいことがあるってこと」
「なるほどな」
父さんは村へ戻った。
アルは学院。
私は工房。
家族三人が同じ場所にいない生活にも、少しずつ慣れてきた。
寂しくないと言えば嘘になる、でも嫌ではない。
それぞれが自分で選んだ場所にいる、そんな感じがする。
「お前、魔道具好きだったのか?」
親方が聞いた。
「昔から」
「誰かに教わった?」
「んー、少しだけね」
答えながら、思い出した。
家の棚の古い本。
薄茶色の表紙、何度も開かれた跡、端の擦れた頁。
『魔法基礎理論』
母さんが残した本。
小さい頃の私は、内容なんてほとんど分からなかった。
文字を覚え始めた頃に開いて、難しい言葉ばかりですぐ閉じた、でも何度も見た。
父さん、それだけは捨てなかった。
母さんの服も、道具も、ほとんど残っていなかったのに、あの本だけはずっと家にあった。
「母さんがね」
私は言った。
親方がこちらを見る。
「魔法のこと、好きだったみたい」
「みたい?」
「私がちゃんと覚える前に、いなくなったから」
それ以上は言わなかった。
親方も聞かなかった。
母さんの記憶は多くない、顔は覚えているし声も、少し。
髪を結んでもらったこと。
熱を出したときに、隣で寝てくれたこと。
それから、何かをよく書いていた。
机の上で紙を広げて、本を開いて、魔法陣みたいなものを。何度も描いていた。
子供の頃は、それが何なのか分からなかった。
ただ母さんが、楽しそうだったことだけは覚えている。
昼休みが終わり工房へ戻る。
午後は大型の送風器。
また中身を見る。
「ユリーカ」
親方が呼ぶ。
「何?」
「倉庫の奥に古い術式板がある。使えそうなのを選んどけ」
「全部見ていい?」
「ああ!でも壊すなよ!」
「見るだけだよ!」
「信用ならん!」
……失礼な。
倉庫、埃っぽい。
古い魔道具、壊れた術式板、導魔線、部品、山ほどある。
私は楽しくなった。
こういう場所、好きだ。
一枚ずつ術式板を見る。
古いな。
今とは少し構造が違い、無駄が多い、でも面白い。
その中に、見覚えのある線があった。
三重の補助線、中心から外側へ魔素を逃がす構造。
「……あれ?」
どこかで見たっけ?
ここじゃない。
家。
本。
『魔法基礎理論』
同じではない、でも似ている。
母さんの本の余白にこんな線があった、印刷されたものじゃない。
手書き。
母さんが自分で書いた。
「ユリーカ?」
先輩職人が倉庫の入口から顔を出す。
「どうしたのー?」
「誰がいるのかと思ってなー 何でもないー!」
私は術式板をもう一度見る。
…相当古い。
でも普通の昔の魔道具だ。
母さんの本に、これと似たものがあった。
……何で?
少し気になった、でも今日はそれ以上分からない。
仕事が終わり、借りている部屋へ帰る。
工房から歩いて十分くらい。
小さい部屋にベッド、机、棚、それだけ。
今は、ここが私の部屋。
扉を閉めて作業着を脱ぐ。
手を洗い夕食を食べる。
静かになると、昼間考えなかったことを考える。
……母さん。
私は、棚の奥へ置いている小さな布袋を取った。
中に一枚の紙が入っている。
村を出るとき、父さんから渡されたもの。
母さんの字。
本の間に挟まっていたらしい、文章ではない、簡単な魔法陣、その横に短い言葉。
『安定しないなら、力を足す前に流れを見る』
私はその言葉が好きだった。
子供の頃は意味なんて分からなかったが今なら少し分かる。
今日直した加熱器も同じだった、魔素をたくさん流せば、一時的には動いたかもしれない、でも問題は量じゃなかった。
流れ、偏り、接続。
……母さんも同じように考えていたのかな。
「直接聞きたかったな」
声に出た。
母さんはどんな魔法が好きだったんだろう。
どんなものを作りたかったんだろう。
どうして、あの本にあんなに書き込みを残したんだろう?
父さんに聞けば、もう少し分かるかもしれない。
でも、今まであまり聞かなかった。
父さんは、母さんの話をするときだけ少し顔が変わる。
悲しそうというより懐かしそうで、でもその後必ず寂しそうになる。
だから聞かなくなった。
でも、私も知りたくないわけじゃない。
聞けば、何かが変わる気がしていた。
母さんが思い出じゃなく本当にいなくなった人になる、そんな変な怖さがあった。
でも私はもう王都にいる、工房で働いて、自分で部屋を借りて、父さんとも離れて暮らしている。
アルだって、学院で好き勝手に研究している。
ならそろそろいいのかもしれない、母さんがどんな人だったのか、ちゃんと知っても。
私は紙を机へ置く。
その隣に、今日倉庫で見つけた術式板を思い出しながら、簡単に図を描いた。
やっぱり少しだけ似ている。
偶然かもしれない。
母さんがどこかで見た普通の術式かもしれない、でも気になる。
こういうところ、私もアルに似てきたのかな。
「それは嫌だな…笑」
一人で笑った。
その夜。
父さんへ手紙を書くことにした。
王都のこと、工房のこと、親方に毎日怒られていること、アルがまた変な研究をしているらしいこと。
そして、最後に少し迷ってから一行追加した。
『今度帰ったら、母さんのことを教えて』
書いて止まる。
消そうかと少し思った。
でも消さなかった。
手紙を折る。
明日、出そう。
母さんが残した本。
昔はアルが読んでいるのを横から見ているだけだった。
今度村へ帰ったら、私がもう一度読んでみよう。
昔は分からなかったあの本、今なら少し違って見えるかもしれない。
母さんが何を見ていたのか、何を考えていたのか。
今の私は昔より、少しだけ近づける気がした。




