第48話 第一結界
地下百メートルの結界が、誰かを通すための門ではないことは分かった。
古代文字には『再び』『起動』『防ぐ』に近い言葉が残り、私たちが刺激を与えるほど結界は周囲の魔素流まで変化させて自らを補強した。
つまり、あれは開かれることを前提としていない。
誰にも入らせず、その先にある何かを再び動かさせないための封印。
そこまで分かったところで、普通なら調査を止めるべきなのだろう。
少なくとも、普通なら。
「駄目だ」
翌朝、研究院へ着いて最初に聞いた言葉がそれだった。
「まだ何も言ってません」
「顔で分かる」
ラウエルは机の上へ書類を置きながら、私を見ることすらしない。
「結界の構造をもう一度調べたいだけです」
「昨日も調べた」
「昨日は結界の目的が分かっただけです。どう維持されているかは、まだ全部分かってない」
「お前のことだ。それを調べた結果、突破方法を思いつくんだろう?」
「可能性はあります」
「だから駄目だ」
……話が早すぎる。
会議室にはリーナ、ソフィア、グレアムもいる。
リーナは私とラウエルを交互に見たあと、小さくため息をついた。
「アル、昨日『入る気はある』って言ってたから」
「調べる気があるって意味」
「言い換えただけだよね?」
……その通りです。
私は前回の測定記録を机へ広げる。
「でも、これだけは確認した方がいいです」
結界そのものの魔素密度。
外部から与えた負荷。
周囲の流向。
そして、干渉後に起きた補強。
これらは、何度見ても特徴的だった。
普通の防御術式なら、攻撃を受ければその分だけ内部の魔素を消費する。
だがエルグラッドの結界は違う。
外から力を受けた瞬間、周囲の魔素流をさらに遠くから曲げ始め、結界へ直接ぶつかる魔素量そのものを減らした。
つまり、強度だけで耐えているわけではない。
「この結界、正面から受けないようにしてます」
ラウエルが記録を見る。
「昨日も言っていたな」
「はい。でも逆に考えると、結界の強さを維持しているのは壁そのものだけじゃない」
私は流向図を指した。
「この周囲にある流れまで含めて、一つの防御機構なんです」
グレアムが少し身を乗り出した。
「外側の流れを崩せば、結界そのものへ負荷が集中する?」
「多分。でも、それをやると単純に補強されると思います」
「では意味がないな」
「でもそれは普通に崩せば、です」
ラウエルが嫌そうな顔をした。
「……その続きは聞きたくない」
「聞いてください」
バルディオスとの戦いで私は、魔脈そのものを動かしたわけではない。
すでに存在している流れに対し、どちらへ流れやすいかという条件を少しだけ変えた。
大量の魔素を力ずくで押し返すのではなく、抵抗の小さい方向を作って、そこへ流れを誘導する。
同じ考え方が、この結界にも使えるかもしれない。
「結界に流れ込む魔素を止めるつもりはありません」
私は説明する。
「むしろ逆です。今、結界は自分の周りに魔素が集まりにくい流れを作ってる。それを壊さずに、ほんの一部だけ別方向へ誘導する」
ソフィアが尋ねる。
「それでどうなるの?」
「結界が自分で作っている流れと、私が作る流れを少しだけずらします」
「競合させる?」
「そうです。ただし力比べはしない。私の方が弱くていい」
リーナが分かったような顔をする。
「結界がそれを直そうとする?」
「多分」
「そのときに、どこへ魔素を送って補正してるのかが見える」
グレアムが笑った。
「壊す方法ではなく、餌を与えて内部構造を探るわけか」
「そんな感じです」
ラウエルはしばらく黙っていた。
そして。
「出力制限を守れるか」
「守ります」
「異常が出たら即座に止めるぞ」
「はい」
「あと、結界を無理に破ろうとするな」
「……今日はね」
「アル!」
「分かりました」
……口に出てた。
その日の午後、私たちは再びエルグラッド地下へ入った。
短い期間で何度も同じ通路を歩いたせいか、地下八十メートル辺りまでは見慣れた景色に感じ始めている。
……これは少し怖い。
慣れというものは危険に対する感覚を鈍らせる。
前世でも何度も経験してきた。
八十七メートル地点の三つの円形窪み。
私は横目で見るだけにした。
今日はそこではない。
地下百メートル、透明な結界の前へ到着する。
私たちは測定器を並べる。
流向計を上下左右へ配置し、結界面から一メートル、三メートル、五メートルの位置にも追加した。
「準備完了」
リーナが言う。
私は頷いた。
今日は三重円を使わない。
前回の結果から、結界はあの形に対してすでに何らかの補強を行っている可能性がある。
同じ刺激を繰り返す必要はない。
私は結界から四メートルほど離れた位置に立ち、周囲の魔素へ意識を広げる。
外部魔素制御。
以前より感覚はかなり精密になっている。
魔素そのものを見るというより、流れやすさの差を感じる。
右から来る流れ、床近くを這う流れ、天井付近で左右へ分かれる流れ。
そして結界へ近づくほど、その全てが避けるように曲がっていく。
「始めます」
ラウエルへ声を掛ける。
「最小出力でな」
「はい」
私は右側から流れてくる細い魔素だけを選んだ。
止めない、押さない、ほんの少し下へ流れやすくする。
測定器の針が動く。
「右側、流向変化」
リーナが記録する。
結界は反応しない。
さらに少し曲げる。
そこで結界上部の魔素密度が上がった。
「来た」
ソフィアが言う。
私は出力を固定する。
右側の流れが減った分を補うように、結界は上側から魔素を引き寄せ始めている。
「補正方向、上」
リーナが言う。
「次」
私は今度は上から来る流れを僅かに左へ誘導した。
結界は下から補う。
その次は右から。
規則性がある。
どこか一か所から直接供給されているわけではない。
周囲全体から足りない場所へ、自動的に回している。
「分散供給」
私は呟いた。
「何?」
リーナが聞く。
「結界の中に中心がない。少なくとも表面には。どこか一か所を止めても他から補われるようになってる」
ソフィアが壁面術式を見る。
「だから二千年保てる?」
「多分、それも理由の一つ」
でも完全ではない。
補正するたび、僅かな遅れがある。
ほんの一瞬、人間なら気付かない程度。
測定器でもぎりぎりだ。
それでも確かにある。
「リーナ、今の補正まで何秒?」
「待って……〇・八秒くらい」
「次も測って」
もう一度別方向で測る。
平均すれば約〇・八秒。
速いが、ゼロではない。
私は少し笑った。
「アル」
グレアムが言う。
「その顔は良くないぞ」
「何もしてません」
「思いついただろ」
「……少し」
ラウエルが即座に口を挟む。
「今日は観測だけだ」
「分かってます」
私はそこで止めた。
ただ頭の中では、もう組み始めていた。
一か所を崩すから補われる。
なら、補おうとした先も同時に少しずつずらす。
全部を止める必要はない。
補正が間に合わない状態を、ほんの一瞬だけ作ればいい。
結界を破壊するのではなく、維持条件を外す。
バルディオス戦で魔素の合流をずらしたように。
「……できるかもしれない」
口から出た。
ラウエルが聞き逃さなかった。
「何がだ」
「……」
「今日はやらん」
「まだ何も言ってないです…」
「顔で分かる」
……この迂闊な口と顔をなんとかしたい。
その日はそこで終了した。
王都へ戻ったあと、私は学院の研究室に籠もった。
机の上には結界周辺の流向図、補正方向、遅延時間、そして空中魔法陣の練習記録。
一つ、二つ、三つ。
セレナから教わった空中魔法陣は単に空中へ術式を描く技術ではない。
位置を変えられる、角度を変えられる、途中で構造も変えられる。
なら、外部魔素制御を複数の場所から同時に補助できる。
「四つ……いや、五つ」
私は紙へ点を打つ。
結界の上、下、左右、中心、五点。
バルディオス戦では、複数の魔法を頭の中で分割した。
今度は同じ一つの目的を五つに分ける。
考え始めると止まらなかった。
気付けば、窓の外は暗くなっていた。
「やっぱりここにいた〜」
声がして振り返る。
リーナだった。
「何で?」
「アルが夕食に来ないから」
「もうそんな時間?」
「そんな時間だよ!」
リーナが机の上を見る。すぐ顔が変わる。
「これ、結界?」
「うん」
「明日やる気?」
「許可が出たらね」
「出ると思うの?」
「説得するさ」
「ラウエルさんを?」
「学院長もね」
リーナはしばらく私を見たあと椅子へ座った。
「アル、説明して」
私は紙を向ける。
「結界は外から魔素流をずらされると、不足した場所へ別方向から魔素を回す。でも補正には〇・八秒くらい遅れがある」
「それを狙う?」
「うん。ただ一方向だけだとすぐ補われる。だから五方向を順番にずらして、補正しようとした先を次々変える」
リーナが図を見る。
「追いかけさせるんだ」
「そう。結界にね」
一か所を弱くする、それを結界が補う、その補給先をずらす、そしてまた補う、またさらにずらす。
それを補正速度より少しだけ速く繰り返す。
「最後には?」
リーナが聞く。
「結界の一部だけ、維持に必要な魔素が足りなくなるはず」
「壊れる?」
「壊さない。薄くするだけ」
「どれくらい?」
私は少し考える。
「人一人分かな」
リーナが嫌な顔をした。
「誰が通るの?」
「いや、まだ人は通らないよ」
「まだ?」
「今回は結界が本当に薄くなるかを確認するだけ」
リーナは長く息を吐いた。
「それなら……まだいいか」
まだという言葉に私も笑った。
翌朝。
説得には二時間かかった。
最終的にラウエル、グレアム、ソフィア、研究院の安全担当、全員から同じ条件を付けられた。
結界に局所的な低下が起きても、人間は通さない。
測定器だけ。
異常が出た瞬間に停止しそこで終了。
……十分だ。今はそれでいい。
再び地下百メートル。
私は結界の前へ立っていた。
今回は、五つの空中魔法陣を使う。
完璧な円ではない。
セレナなら、多分見ただけで怒る。
それでも役割は果たせる。
一つ目、上。
二つ目、右。
三つ目、下。
四つ目、左。
五つ目、中心。
「アル」
グレアムが声を掛ける。
「無理だと思ったら切れ」
「分かってます」
私は息を吐く。
五つの空中魔法陣へ最低限の魔素を流す。
そして、外部魔素制御を重ねる。
上。
結界が下から補う。
その瞬間、下をずらす。
右から補う。
右をずらす。
左。
左をずらす。
上。
一周、二周、三周。
測定器の針が忙しく動く。
「結界密度低下!」
ソフィアの声。
「局所?」
「中央だけ! 三パーセント……五……八!」
私は止めない。
補正を追い越す。
結界が追ってくる。
……速いな。
でも、こちらの方が僅かに速い。
十パーセント、十五、二十。
そこで、結界の中央に薄い影ができた。
透明だった境界の一部分だけ揺らぎが消える。
「測定棒!」
ラウエルが指示する。
調査員が慎重に棒を入れる。
十センチ、二十、三十。
前回と違う。
側面への圧力がない。
「抜けてる……」
リーナが呟いた。
四十、五十、六十。
棒は止まらない、そのまま一メートル近く進んだ。
そして、そこで完全に止まった。
音も、衝撃もない。
ただこれ以上一ミリも動かない。
私は魔素感知を伸ばす。
結界の一部は確かに薄くなっている。
検査棒はそこを通過している。
では、目の前にあるこれは……
「……第二の結界」
私は言った。
結界の奥、およそ一メートル。
そこに、別の結界がある。
今度こそ厚みでも、変形でもない独立したもう一枚。
結界を抜けた検査棒は、第二結界に完全に止められている。
ソフィアが測定値を見る。
「反応が違う」
「どう違う?」
「最初の、第一結界より……安定してる。ほとんど揺れない」
私は第二結界を見るが、透明で見えない。
でも分かる。
第一結界は、周囲の魔素を動かし、負荷を逃がし、侵入へ適応する。
それに対して、第二結界は何もしていない。
ただそこにある。
……静かに動かず拒絶する。
私は少しだけ背筋が冷えた。
「第一が外側の防御で……第二が本命?」
リーナが言う。
多分そうだ。
一枚目だけでも、二千年間誰も越えられなかった。
その奥にさらにこれがある。
私は五つの空中魔法陣を消した。
第一結界がゆっくり元へ戻っていく。
検査棒はすぐに引き抜かれた。
数秒後、第一結界も完全に復元した。
何事もなかったように。
二枚の封印が、また通路を閉ざす。
ラウエルが長く息を吐いた。
「今日は終わりだ」
私は反論しなかった。
今は、これで十分だった。
第一結界は突破できる、完全に破壊せず、一時的に通路を作れる。
そしてその先には第二結界がある。
少なくとも今確認できた結界は二つ。
では、八十七メートル地点の三つの窪みは何を意味するのか。
それはまた別の謎になった。
私は二重の結界の向こうを見る。
そのさらに先、曲がった通路の奥。
何があるのかはまだ分からない。
でも、次にやることは決まった。
第一結界をもう一度越えて、今度は第二結界を調べる。
そしてもしあれまで突破できたなら、二千年以上誰も入れなかった場所へ私たちは初めて足を踏み入れる。
完全突破はまだしていない。
でも封印の一枚目には確かに穴を開けた。




