第40話 厄災級魔獣《バルディオス》
厄災級の可能性。
その言葉が北門に落ちてから、王国の動きは早かった。
北東方面へ向かう街道は即座に封鎖され、住民には王都南側への避難準備が通達された。
街道周辺に残っていた商人や農民も騎士団の誘導で次々と退避し、北門の前に残ったのは武装した兵士と魔導士、それに限られた学院関係者だけになっている。
私もそこにいた。
本来なら十二歳の学生が立っていい場所ではない。
それでもグレアムは私を学院へ戻さなかった。
理由を聞く必要はなかった。
北東から押し寄せてくる魔素の変動を、ここにいる誰より正確に感じ取れているのが私だからだ。
「近づいてます」
私は北東を見たまま言った。
「距離は分かるか?」
グレアムが尋ねる。
「正確にはわかりません。でも、さっきより明らかに強いです。移動してます」
地面の下では、北東から王都方向へ向かう魔素流が激しく乱れていた。
魔脈そのものが移動しているわけではない。
何かが通過するたび、周囲の流れが吸い寄せられ、その後ろで再び戻ろうとしている。
まるで巨大な物体が川の中を進んでいるようだった。
「団長到着!」
門の内側から声が上がる。
騎士たちが一斉に道を開けた。
現れたのは、五十歳前後に見える大柄な男だった。
銀灰色の鎧には王国騎士団の紋章が刻まれ、背には普通の騎士剣より明らかに長い大剣を背負っている。
歩いているだけなのに、周囲の騎士たちとは空気が違う。
「王国騎士団団長、ガルド・ヴァンデルだ」
近くの騎士が小声で教えてくれた。
なるほど。
……強いな。
魔法を使っているわけでもないのに、体内の魔素量と循環が周囲の騎士とは桁違いだった。
ガルドは防衛線まで来ると、現場指揮官から短く報告を受け、そのまま北東へ視線を向ける。
「学院長」
「久しいな、ガルド」
グレアムが答える。
知り合いらしい。
「まさか、お前まで前へ出てくるとはな」
「厄災級かもしれんと言われて、学院で茶を飲んでいられるほど老いてはいない」
「がははっ! 七十を越えた人間が言う台詞ではないな」
「ははは! 君よりは魔法で戦える」
「言ったな?」
……何だろう。
思っていたより仲がいい。
その直後、今度は魔導士たちが左右へ道を開いた。
紺色の外套を纏った女性が歩いてくる。
年齢は四十前後だろうか。
長い黒髪を後ろで束ね、右手には杖すら持っていない。
彼女が近づいた瞬間、周囲の魔素がわずかに揺れた。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
私が普段見ている一般的な魔導士とは違う。
体内の魔素量が多いだけではない。
制御が極端に滑らかだ。
無駄がない。
「王国魔導士団団長、セレナ・アルヴェインだ」
また騎士が教えてくれた。
王国騎士団団長。
王国魔導士団団長。
そしてグレアム学院長。
王都でも滅多に同じ場所へ集まらないであろう三人が、北門の前へ並んでいる。
厄災級。
その可能性だけで、王国はこれだけの戦力を動かした。
やがて、地面が揺れた。
最初は小さい。
だが一定の間隔で一度、二度、三度。
揺れが強くなる。
鳥の群れが北東の森から飛び立った。
続いて小型の魔獣まで木々の間から飛び出し、人間のいる防衛線など気にも留めず横を抜けていく。
誰も攻撃しなかった。
理由は分かっている。
あれらは、戦いに来たのではない。
逃げている。
「来るぞー!」
ガルドの声が響いた。
森の向こうで木が倒れた。
一本ではない。
何十本もの木が、進行方向に沿って次々と消えていく。
そして、それが姿を現した。
大きい。
第一印象は、それだけだった。
全長は二十メートルを超えている。
四足。
身体は低いが、肩まででも建物の二階近い高さがあり、背中には幾重にも重なった黒褐色の甲殻が並んでいた。
頭部から前方へ伸びる二本の巨大な角。
口は異様に大きく、牙の隙間から黒い霧のようなものが漏れている。
だが一番おかしいのは周囲の魔素だった。
吸っている。
呼吸するように、歩くたび周辺の魔素があの魔獣へ流れ込んでいる。
地下からも、魔脈から魔素が引き上げられている。
セレナの表情が変わった。
「……まさか」
ガルドが横を見る。
「知っているのか?」
「古い討伐記録で一度だけ読んだことがあります。特徴が一致するなら……あれは《バルディオス》」
ざわめきが広がる。
誰かが呟いた。
「バルディオス……?」
セレナは魔獣から目を離さなかった。
「魔素喰らい《バルディオス》。厄災級指定記録のある魔獣です」
厄災級。
今度は可能性ではなかった。
ガルドが大剣を抜いた。
「王国騎士団、前列展開! 魔導士団は第二線、学院関係者は第三線より前へ出るな!」
命令が一瞬で伝わる。
騎士団が盾と槍を並べる。
その後ろで魔導士団が術式を展開し、幾重もの魔法陣が空中へ浮かび上がった。
私がこれまで見た戦闘とは規模が違う。
「第一斉射、放て!」
炎。
氷。
風。
雷。
土槍。
数十の魔法が同時に飛ぶ。
轟音。
バルディオスの周囲が爆発に包まれた。
火柱が上がり、氷が甲殻へ突き刺さり、雷撃が巨体の表面を走る。
これだけ撃ち込めば、普通の大型魔獣なら形すら残らない。
だが、煙の中から前脚が出た。
続いて頭。
傷がない。
いや、完全に無傷ではない。
甲殻の一部が焼け。
氷槍の跡も残っている。
しかし浅い。
それ以上におかしい。
「周囲の魔素を吸ってる……」
私は呟いた。
攻撃を受ける直前、バルディオスの周囲へ魔素が集中した。
術式の一部が、着弾直前に乱されている。
魔法を消したわけではない。
だが炎は広がり、氷槍は僅かに軌道を逸らされ。
雷は甲殻の表面へ逃げた。
そして受けた傷が、ゆっくり戻っている。
「再生まで?」
グレアムの声が低くなる。
ガルドが走った。
速い。
重い鎧と大剣を装備しているとは思えない速度で、一気にバルディオスの側面へ回り込む。
巨体が前脚を振る。
ガルドは踏み込み、剣を振った。
轟音と共に、巨大な前脚が僅かに横へ逸れた。
「人間なのか?」
思わず声が出た。
腕力だけではない。
ガルドは自分の内部魔素を身体強化へ集中させ、異常な出力を作っている。
さらに大剣。
刃の周囲へ薄い魔素の層が形成されている。
魔法というより、魔素による武装強化。
ガルドが二撃目を叩き込む。
甲殻が割れた。
「入ったー!」
騎士たちが叫ぶ。
だが浅い。
バルディオスが身体を捻った。
太い尾が迫ってくる。
速い。
ガルドが大剣を盾にして受ける。
次の瞬間、その身体が数十メートル吹き飛んだ。
「団長!」
騎士が駆ける。
ガルドは転がりながらも立ち上がった。
鎧が凹んでいる。
それでも。
剣は離していない。
「化け物め……」
今度は、セレナが前へ出た。
「魔導士団散開! 私の術式へ重ねてください!」
彼女の周囲に一つ、二つ、三つ。
魔法陣が現れる。
そしてさらに増える。
十。
二十。
個別の術式ではない。
巨大な一つの術式を、複数の魔法陣へ分割している。
私は目を見開いた。
「術式分割……?」
私が普段やっている方法と考え方が近い。
もちろん構造はまったく違う。
だが一つの術式へすべてを詰め込まず、機能ごとに分けている。
セレナが右手を上げた。
空気が震える。
風が集まり、炎が生まれる。
それをさらに圧縮する。
炎が、白く見えるほどの高温。
「《灼穿》」
細い光線のような炎が、バルディオスの肩へ突き刺さった。
今度は入った。
厚い甲殻が赤熱し、一部が溶ける。
バルディオスが初めて大きく吠えた。
空気が震える。
「す、すごい……」
これが。
王国魔導士団団長。
だがバルディオスの周囲へ、さらに大量の魔素が集まった。
周囲から、地下の魔脈から、魔素が一気に傷口へ集まる。
赤熱した甲殻が少しずつ戻っていく。
「嘘でしょ!?」
セレナの表情が強張った。
さらにバルディオスが口を開く。
魔素が今度は口元へ集まる。
まずい。
私は直感した。
「防御!」
セレナも同時に叫んだ。
黒い塊。
魔素そのものが高密度で吐き出された。
魔導士団が多重障壁を展開する。
一枚、二枚目。
割れる。
三枚、四枚。
まだ止まらない。
そこでグレアムが前へ出た。
両手を前へ出す。
魔素が一気に集まる。
普段、学院で見ている老人とは別人だった。
「学院長……?」
巨大な魔法陣が一枚。
その後ろにもう一枚。
さらに三枚目。
三枚が重なる。
「《多層偏向壁》」
黒い魔素塊が、正面から障壁へぶつかる。
止めない。
一枚目で僅かに上へ。
二枚目でさらに上へ。
三枚目で、軌道が逸れた。
黒い塊が王都の上を通過し、遠くの空で破裂する。
すさまじい衝撃。
雲が円形に消えるほどに。
誰も声を出さなかった。
グレアムが息を吐く。
「……昔ほど楽ではないな」
ガルドが遠くから怒鳴る。
「それで老いたつもりかよ!」
「君よりは若々しいつもりだ」
「その減らず口なら平気だな!」
この状況でまだ言うか。
だが私は、笑えなかった。
今の攻撃。
防ぐだけで、グレアムの魔素がかなり減っている。
バルディオスはほとんど減っていない。
なぜなら、自分だけの魔素で戦っていない。
周囲から吸っている。
魔脈から、大気から、戦場全体から。
「これ……長期戦になったらまずい」
私の声に、グレアムが振り返る。
「何が分かった?」
「バルディオスは周囲の魔素を使っています。多分、再生も防御も全部そこから補ってる」
セレナも聞いていた。
「魔素を喰らう、という名の通りね」
「完全に吸い上げてるわけじゃないです。でも、周囲から流れ込む量が大きすぎる。このままならこっちが先に尽きます」
ガルドが戻ってくる。
左肩の鎧が壊れている。
「ならどうする?」
「供給を止めるしかないわね」
セレナが答えた。
「できるのか?」
「私には無理です。地下まで広がる魔素流そのものを切る術式なんて――」
そこで、全員の視線が私へ向いた。
「……何ですか」
グレアムが嫌そうな顔をした。
「まさか」
私は、北東山地で見た流れを思い出す。
分岐、合流、流向、術式へ引かれる魔素。
そして昨日、外にある魔素を数センチだけ、外にあるまま動かした。
「アル」
グレアムの声が低くなる。
「昨日のあれを使うつもりか?」
「使います」
「数センチ動かしただけだぞ」
「今はもう、流れがあります」
私はバルディオスを見る。
周囲から大量の魔素が、あいつへ向かっている。
自分でゼロから動かす必要はない。
流れているなら、少しだけ方向を変える。
「止めるんじゃありません」
私は答えた。
「流れをずらします」
グレアムが黙る。
「どの程度だ」
「…分かりません」
「またそれか」
「でも、やらないと全員先に尽きます」
セレナが私を見る。
「君が噂のアル・レイヴァンね」
「噂?」
「今はどうでもいいわ。何が必要?」
考える時間、集中する時間。
魔法を撃ち込まれると、周囲の魔素が乱れる。
「十秒ください。その間、大きい魔法は使わないでください」
ガルドが笑った。
「いいだろう! 十秒くらい、俺たちで稼いでやる!」
騎士団が前へ出る。
魔導士団は攻撃を止める。
拘束、防御。
補助へ切り替える。
グレアムが私の横へ立った。
「無理だと思ったらやめろ」
「はい」
「本当にやめろよ」
「はいはい」
「二回返事をする時のお前は信用できん」
……ひどい。
余計なことを考えている暇はない。
私は目を閉じ、魔素を感じる。
自分の中ではない。
外、右、左、地面、空気、地下。
巨大な流れがバルディオスへ集中している。
昨日は、静止している魔素に通り道を作った。
だが、今日は違う。
すでに流れている。
だから押さない、引かない。
ただ、流れやすい方向をほんの少し横へ作る。
最初は何も起きない。
範囲が広すぎる。
数十メートル。
……無理か?
そう思った、その瞬間。
北東山地、魔脈。
あの巨大な流れを思い出した。
私は全部を動かそうとしていた。
違う、一本ずつではない。
流れの場、全体へ同じ方向性を与える。
「……こっち」
小さく呟く。
周囲の魔素が揺れた。
セレナが振り返る。
「何……?」
バルディオスへ流れていた魔素の一部が、脇を通り過ぎた。
最初は僅か。
次はもっとだ。
私は、方向だけを変える。
吸い込みそのものは止めないし、止められない。
だが百あった流れを九十、八十、七十へ減らす。
バルディオスの傷口の再生が遅くなった。
「効いてる!」
セレナが叫ぶ。
だがバルディオスも気付いた。
頭がこちらを向く。
……まずい。
あいつ、私を見ている。
「アル、続けろ!」
ガルドが前へ出た。
バルディオスが私へ向かって走り出す。
地面が揺れる。
騎士団が横から斬り掛かる。
ガルドの大剣が前脚へ入る。
さっきより深い。
「通るぞ!」
防御に回っていた魔素も減っている。
セレナが気付く。
「攻撃できる!」
「まだ!」
私は叫んだ。
「もう少し待って!」
さらに流れを外へ。
バルディオスの周囲にあった濃い魔素の層が薄くなる。
だが完全に消えたわけではない。
まだ強い。
それでも最初とは明らかに違う。
「今です!」
私が叫ぶ。
セレナの術式が一瞬で展開された。
さっきの《灼穿》
ただし、今度は一発ではない。
三方向から同時。
白熱した三本の光が、バルディオスの肩、胸、前脚へ突き刺さる。
甲殻が砕けた。
初めて血が大量に飛んだ。
そして厄災級が吠えた、悲鳴に近い声で。
王国騎士団団長が笑った。
「おぉ! 効くじゃねえか!」
ガルドが飛び込む。
砕けた胸部へ、大剣一閃。
さらにグレアムが、風を圧縮。
私が普段使うものとは規模が違う。
巨大な風槍が、ガルドの斬撃で開いた傷へ真正面から突き刺さった。
バルディオスの巨体が、初めて後ろへと下がった。
一歩。
二歩。
三歩。
地面へ前脚をつく。
騎士団から歓声が上がる。
だが私は喜べなかった。
「……違う」
倒れていない、むしろ魔素の流れが変わっている。
バルディオスが地下へ意識を向けている。
私が逸らした周囲の魔素ではなく。
もっと下。
太い魔脈そのものへ。
「学院長!」
グレアムが振り返る。
「下です!」
地面が大きく脈打った。
バルディオスの足元から、今までとは比較にならない量の魔素が吹き上がる。
私が逸らした流れより遥かに多い。
セレナの顔色が変わる。
「これが……魔素喰らい」
バルディオスが、ゆっくり立ち上がる。
砕けた甲殻の隙間から、黒い魔素が溢れている。
傷はまだ塞がっていない。
さっきより確実に弱っている。
でも、戦いは終わっていない。
ガルドが大剣を構え直す。
セレナが再び術式を展開する。
グレアムが私の前へ出た。
「アル」
「なんです?」
「今ので分かっただろう」
何が、とは聞かなかった。
外部魔素操作。
これは数センチ動かすだけの研究ではない。
戦場の魔素の流れそのものへ触れられる。
そしてバルディオスも同じものを使っている。
私はもう一度周囲の魔素を感じる。
さっきよりずっと、広く。
今度は数センチではない、数十メートル、戦場全体。
さっき、厄災級が私を見た。
偶然ではない。
今度は、はっきり私だけを見ている。
どうやらあいつも分かったらしい。
自分の餌を奪っているのが、誰なのかを。




