第39話 山の奥で何かが動き出す
王立魔法研究院から届いたという古代エルグラッドの地下観測記録は、期待していたほど親切なものではなかった。
翌朝、研究院の資料室へ向かった私とリーナを待っていたのは、ラウエルとソフィア、それに数枚の古い写本だった。
「これだけ?」
私が思わず聞くと、ラウエルが眉を寄せる。
「発見されたばかりの資料に文句を言うな」
「もっとこう、地下構造の詳細とか」
「ない」
「魔脈の流向図とか」
「ない」
「じゃあ何があるんです?」
「それを今から説明する」
……怒られた。
資料そのものは古代エルグラッド末期のものと推定されているが、原本ではなく、後世に内容の一部だけを書き写したものらしい。
記録されていたのは地下施設の構造ではなく、周辺地域で観測された魔素変動だった。
ソフィアが写本を机へ広げる。
「重要なのはここよ。北東山地からエルグラッド方面にかけて、広域の魔素流が一時的に増大したという記録が残っている」
私は文章を追った。
細かな数値はない。
ただ、通常時より魔素流が強まり、複数の地点で同時に変化が確認されたとある。
「今と似てる?」
リーナが聞いた。
「似ているだけだ」
ラウエルが先に答えた。
「同じ現象と判断するには情報が足りん。年代も観測方法も違うし、そもそも当時の単位系すら完全には分かっていない」
その慎重さには同意する。
別の部分を見る。
魔素流の増大、動物の移動、魔獣の生息域変化。
ここ数日の北東山地で見たものと、少なくとも現象の並び方はよく似ていた。
そして最後に、短い記載がある。
『深域個体の活動増加を確認』
「深域個体?」
私が聞く。
ソフィアが首を振る。
「古代の分類名らしいけれど、正確な意味は不明よ。ただ、通常の魔獣とは区別されていたみたい」
「強い魔獣?」
「その可能性はある。ただし――」
そこで資料室の扉が勢いよく開いた。
研究員の一人が息を切らしている。
「ラウエル先生、至急です!」
「どうした」
「北東監視所から騎士団へ緊急連絡が入りました。第二監視所との通信が途絶えています」
部屋の空気が変わった。
「魔獣か?」
「分かりません。ただ、最後の伝令に……大型魔獣の移動を確認したと」
私は反射的に立ち上がった。
ラウエルがこちらを見る。
「お前は座っていろ」
「でも!」
「まず情報だ」
……正しい。
その数分後、追加の報告が届いた。
第二監視所は壊れていた。
建物の一部が潰れ、外壁が大きく崩れ、周囲には魔獣の死骸がいくつも散乱していたという。
問題は、それをやったものが確認されていないことだった。
「魔獣同士の争い?」
リーナが聞く。
騎士団から届いた報告書を読んでいたグレアムが首を振る。
「可能性はある。ただ、死骸の状態がおかしい」
大型魔獣が五体。
そのうち二体は胴体が大きく抉られ、一体はほぼ押し潰され、残る二体も逃げる途中で倒れたような位置にあったらしい。
「人間が倒した可能性は?」
「現地の騎士は否定している。少なくとも、監視所の戦力でこの数を短時間に倒すのは難しいそうだ」
私は地図を見る。
第二監視所、北東山地。
私たちが調査した場所よりさらに奥。
魔脈の流れが広がっていた方向とは重なる。
「現地へ行くの?」
リーナが聞いた。
グレアムはすぐには答えなかった。
「騎士団が先に確認する。学院が出るとしても、その後だ」
今回は私も反論しない。
通信が途絶えた場所へ、研究目的で突っ込むのは違う。
だが、その日の午後。
事態は別の形でこちらへ来た。
王都北門の警鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
学院の窓が震えるほど大きな鐘の音だった。
「…何!?」
リーナが立ち上がる。
廊下から声が聞こえる。
北街道、魔獣、避難誘導。
私は窓を開けた。
王都の北側、遠くの街道で土煙が上がっている。
グレアムが研究室へ入ってきた。
「北東方面から大型魔獣が二体、街道沿いに王都方向へ移動している。騎士団が迎撃へ出た」
「二体だけ?」
「確認されているのはな」
その言葉が気になった。
「学院にも待機命令が出た。上級生と教員は北門へ、下級生は学院内で避難誘導――」
「私は?」
グレアムが止まる。
「……お前は私と来い」
リーナがこちらを見る。
「…ずるい」
「遊びじゃないよ」
「分かってる」
リーナは悔しそうだったが、素直に残った。
北門へ着く頃には、騎士団が街道上へ防衛線を作っていた。
魔導師団もいる。
学院の上級生、教員、王都の城壁からも弓兵が出ている。
……随分大掛かりだ。
「そこまで強いの?」
私が聞く。
近くにいた騎士が答えた。
「一体は牙角犀だ。大型で突進力がある。もう一体はまだ分からん」
……牙角犀。
名前の通り、巨大な角を持つ四足魔獣らしい。
しばらくすると、街道の向こうから大きな影が走ってくる。
「……大きい」
全長六メートルほど。
肩の高さだけで人間の倍以上あり、頭部には一本の太い角が伸びている。
地面を踏むたびに土が跳ね、街道脇の柵が振動する。
その後ろに、さらに一体。
似た形だが少し小さい。
……二体とも逃げている?
私たちへ向かっているわけではない。
時々後ろを振り返りながら、全力で山から逃げている。
「止めろ!」
騎士団の指揮官が叫ぶ。
魔道士団が一斉に術式を展開する。
土壁。
氷槍。
火球。
複数の魔法が牙角犀へ飛ぶ。
一体目の身体へ命中するが、速度はほとんど落ちない。
「…硬いな」
私は呟いた。
重力で止める?
岩甲獣ほど地面へ食い付いてはいない。
できる。
ただし。
この速度と質量。
真正面から急停止させれば周囲を巻き込みかねない。
……なら。
止めずに曲げる。
私は魔獣の進行方向を見る。
右側、広い草地。
人はいない。
「学院長」
「何だ」
「あっちへ曲げます」
グレアムが私を見る。
「できるのか?」
「多分」
「その『多分』は嫌いだ」
「でもやります」
もう距離がない。
私は牙角犀の前方へ重力場を作った。
下ではない。
斜め、右前方。
魔獣そのものを引っ張るのではなく、踏み込むたびに前脚へ働く力の向きを少しずつ変える。
一歩、僅かに右。
次の一歩、さらに右。
牙角犀が首を振り、抵抗する。
私は出力を上げる。
それでも完全には曲がらない。
速度がありすぎる。
「…なら」
地面だ。
牙角犀の左前方。
圧縮空気を地面へ叩き込む。
土と石が跳ね上がった。
魔獣が反射的に右へ避ける、そこへ重力。
進行方向が一気に変わった。
「曲がった!?」
騎士の声が聞こえた。
牙角犀は防衛線を外れ、草地へ走り込む。
一体目成功。
だが、二体目が近い。
一体目より小さいが、その分速い。
今度は騎士団が先に槍を並べた。
「待って!」
私は叫んだ。
この速度で槍列へ突っ込ませれば、騎士側にも被害が出る。
二体目はすでに興奮している。
さっきと同じ誘導では間に合わない。
……なら、止める。
私は両手を向けた。
重力だけではない。
前方の空気を、一気に圧縮する。
見えない壁。
牙角犀がそこへ突っ込む。
空気が爆ぜ、速度が落ちた。
そこへ重力場を重ねる。
前脚だけ一瞬、踏み込みを潰す。
巨体が前へ傾いた。
……まずい、このままだと転倒する。
私はすぐ重力を解除し、今度は横方向へ圧縮空気を放った。
牙角犀の身体が半回転しながら滑る。
地面を削りながら、騎士団の防衛線から十メートルほど手前で止まった。
魔獣は生きている。
荒い呼吸、脚も動いている。
ただ、混乱して立てない。
「……止めた」
誰かが言った。
魔道士団が拘束術式を展開する。
私は息を吐いた。
……思ったより魔素を使った。
それでも、まだ余裕はある。
「アル」
グレアムが隣を見る。
「はい」
「今の、何をした?」
「重力と圧縮空気の魔法を使用しました」
「それは見れば分かるわ!」
「じゃあ何を聞いてるんです?」
グレアムが額を押さえた。
「六メートル級の魔獣を二体まとめて城門から逸らしたことについて聞いている」
「一体ずつです」
「そういう問題ではない」
周囲を見る。
騎士、魔道士団、学院の上級生。
かなりの人数が、私を見ている。
……しまった。
少しやりすぎたかもしれない。
だが、そこで一体目の牙角犀が草地の奥で突然鳴いた。
攻撃する声ではない。
……恐怖?
拘束されながら二体目も反応する。
北東を見る。
全員の視線が同じ方向へ向いた。
何も見えない。
山があるだけだ。
ただ、私には分かった。
魔素が動いている。
北東山地。
あの方向から、これまで観測したものより遥かに大きな変動がこちらへ向かって広がってくる。
「学院長」
私の声が変わったのが分かったのだろう。
グレアムの表情も引き締まる。
「何だ」
「来ます」
「何が?」
「分かりません。でも……大きい」
次の瞬間、王都北門に置かれていた魔素測定器の針が一気に振り切れた。
魔道士団が騒ぎ始める。
「な、何だこの値は!」
「故障じゃないのか!?」
「予備も同じだ!」
私は北東を見る。
山から逃げてきた大型魔獣。
生息域を離れた魔獣群。
広がる魔脈変動。
壊された第二監視所。
全部、一つの方向から来ている。
そこへ騎士が馬を飛ばしてきた。
王都北門へ着く前から叫んでいる。
「緊急報告!」
馬が止まりきる前に、騎士が飛び降りた。
「第三監視隊より伝令! 北東深部にて巨大生物の痕跡を確認!」
指揮官が駆け寄る。
「種類は!?」
「不明です! 姿は確認できていません!」
「大きさは?」
騎士が、一瞬言葉に詰まった。
「足跡だけで……騎士三人が横に並べる幅があります」
誰もすぐには何も言わなかった。
大型魔獣、という言葉では小さい。
騎士団の指揮官が低い声で聞く。
「厄災級の可能性は?」
伝令の騎士は答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
厄災級。
その言葉だけが妙に重く残った。
私は北東の山を見る。
まだ姿はない、名前も分からない。
それでも、山にいた魔獣たちはもう知っている。
だから逃げてきたのだろう。
そして今。
地下を流れる魔脈まで、何か巨大なものが動き始めたことを知らせるように震えていた。




