第4話 初めての魔法
ユリーカに魔法を見せてもらった日から、アルの日課が一つ増えた。
朝食を終えればユリーカの魔法を見る、昼間にダンネルが火を起こすことがあれば、その手元を観察し、村人が荷物を運ぶために風を使えば、できる限り近くでその様子を眺めた。
最初のうちは、魔法が好きなんだなと笑われる程度だったが、それが数週間も続くとさすがにダンネルも不思議に思い始めたらしい。
「アル、お前は本当に飽きないな」
薪を庭へ運びながら、ダンネルが呆れたように言う。
アルはその横を歩きながら答えた。
「どうして火が出るのか知りたいんだ」
「そりゃ、魔法だからだろ」
「ユリーカと同じこと言ってる」
「ん?それ以外に何がある」
ダンネルは笑ったが、アルにとっては笑い事ではなかった。
分からない。
それがたまらなく面白い。
ユリーカが水を浮かせたとき、身体の中にある魔素を使ったことは分かった。魔法を使えば魔素は減り、休めば徐々に戻るという話も聞いた。
しかし肝心な部分が分からない。
魔素がなぜ水を動かせるのか、なぜ炎を生み出せるのか。
そもそも、魔素とは何なのか。
魔法を使う人間に尋ねても返ってくる答えは似たようなものだった。
火を出したければ火を思い浮かべる。
水を動かしたければ水を思い浮かべる。
そのイメージへ魔素を流し込む。
すると魔法になる。
それ以上を聞けば、大抵の人間は困った顔をした。
前世のアルにとって、それは自動車の運転手がアクセルを踏めば車が走る、と説明しているようなものだった。
間違ってはいない。
しかし、それではエンジンの仕組みは分からない。
魔法にも、必ず途中の過程がある。
アルはそう考えていた。
問題は、自分自身で魔法を発動できなければ詳しく調べることもできないということだった。
ユリーカに教わった通り、アルは毎日のように体内の魔素を感じ取る練習を続けていた。
初めは胸の奥にぼんやりと存在する程度だったものが、今では以前よりずっと明確に分かる。
場所が決まっているわけではない。
血液のように血管の中を巡っている感覚とも違う。
身体の全体に薄く存在し、意識を向けると一部を集められる。
それが今のアルの理解だった。
ただし、手まで移動させようとすると途端に難しくなる。
「くそ……また散った」
庭の隅。
誰もいない場所で、アルは右手を見つめていた。
胸のあたりから腕へ魔素を流そうとする。
途中まではいい。
しかし肘を越えたあたりで、意識が乱れる。
すると魔素は元の場所へ戻るように散ってしまう。
何度やっても同じだった。
「腕を動かすのとは違う。でも、完全に別でもない…か」
筋肉を動かすとき、人間はいちいちどの筋繊維を収縮させるかなど考えない。
歩こうと思えば脚が動く。
手を伸ばそうと思えば腕が伸びる。
魔素操作も、おそらくはそれに近い。
必要なのは理論というより、感覚を身体へ覚え込ませることなのだろう。
そう考えたアルは、一度魔法を使うことを諦めた。
代わりに、魔素を腕へ流すことだけを繰り返した。
朝。
昼。
夜。
少し集めては戻す。
また集める。
決して無理はしない。
未知の現象を扱っている以上、最初から無茶をするつもりはなかった。
それから十日ほど経った頃。
ようやく変化が起きた。
「……来た」
右手の掌。
そこへ魔素が集まっている。
まだごく僅かだ。
それでも、途中で散らずに運べたのは初めてだった。
嬉しさに集中を切らしそうになり、アルは慌てて呼吸を整える。
ここからだ。
魔素を集めるだけでは魔法にならない。
ユリーカは、水を浮かせるときに水が浮くところを考える、と言っていた。
ダンネルも似たようなことを言っていた。
つまり、この世界の魔法使いは完成した現象を強くイメージし、そこへ魔素を流し込む。
なら、自分もまず同じ方法を試すべきだ。
アルは掌の上に小さな炎が浮かぶ姿を思い描いた。
「火」
何も起きない。
もう一度。
「火」
変化はなかった。
三回目。
四回目。
五回目。
魔素だけが僅かに減っていく。
アルは一度手を下ろした。
「やっぱり、イメージだけじゃ駄目かぁ」
少なくとも自分には合っていない。
炎を思い浮かべろと言われても、アルの頭に浮かぶのは炎そのものではなかった。
燃焼反応。
酸化。
温度。
分子運動。
可燃物。
発火点。
七十四年間、世界を理屈で理解することを続けた脳には、現象だけを切り取って思い描く方が難しい。
そこで、ふと考える。
だったら。
自分のやり方でやってみよう。
アルは再び右手へ魔素を集めた。
炎を出そうとは考えない。
まずは熱。
物質を構成する粒子が激しく運動すれば、温度は上がる。
この世界の物理法則が前世と完全に同じとは限らないが、触れた物が熱いと感じる以上、少なくとも似た概念は存在している。
ならば、魔素によって熱を与える。
そう考えた。
掌の少し上。
狭い範囲へ意識を集中する。
「……温度を上げる」
変化はない。
だが、先ほどとは違った。
魔素が完全に無駄になった感覚がない。
何かに触れた。
そんな気がした。
もう一度。
今度はほんの少しだけ魔素を増やす。
空気。
その一部。
熱。
分子運動。
アルは前世の知識を頭の中で組み立てながら、そこへ魔素を重ねた。
ふわり。
掌の上で空気が揺れた。
「……!」
熱い。
本当に僅かだが、温度が上がった。
アルの胸が一気に高鳴る。
できる。
少なくとも、魔素は何らかの形で物理現象へ干渉できる。
なら、次は。
もう少し温度を上げる。
少しずつ。
慎重に。
一気に魔素を流し込まない。
狭い範囲だけを加熱する。
そして、燃焼をイメージする。
やがて、掌の上に小さな橙色の光が生まれた。
次の瞬間。
ボッ。
小さな炎が灯った。
「…………」
アルは動けなかった。
指先ほどの、本当に小さな炎だった。
風が吹けば簡単に消えそうなほど弱く、ユリーカが使う火魔法と比べれば玩具にもならない。
それでも。
アルにとっては。
七十四年間探し続けたものだった。
「……魔法だ」
声が震えた。
炎も、それに合わせるように揺れる。
前世で何度も夢見た。
何千回も想像した。
もし本当に魔法があったら。
一度でいいから自分の手で使ってみたい。
その願いが。
今。
叶っている。
「はは……」
自然に笑いが漏れた。
同時に視界が滲む。
七十四歳で死ぬ直前まで。
叶わなかった夢。
それを、三歳の身体になってようやく掴んだ。
集中が途切れ、炎が消える。
アルは小さな右手を見つめた。
嬉しい。
ただ、それ以上に。
研究者としての興奮が止まらなかった。
今の炎は。
ユリーカたちとは発動方法が違う。
彼女たちは炎そのものをイメージする。
自分は、現象が成立する過程を考えた。
そして実際に、魔法は発動した。
「……これ、本当に調べられるぞ」
アルは笑った。
魔法は奇跡ではない。
少なくとも。
何も考えず願えば叶うだけのものではない。
魔素という入力があり。
現象へ至る過程があり。
結果がある。
だったら。
法則がある。
調べればいい、比べればいい。
失敗すれば条件を変えればいい。
それは、前世で何十年もやってきたことと何も変わらない。
その夜。
アル・レイヴァンは生まれて初めて魔法を使った。
だが、彼が本当に喜んでいたのは。
魔法使いになれたことだけではなかった。
七十四年間追い求めた未知が。
ようやく。
研究できる対象になったのだ。




