第3話 魔法は科学ではない?
アル・レイヴァンという名前を与えられてから、数ヶ月が過ぎた。
この世界へ来た直後と比べれば、生活にはかなり慣れてきている。
何より大きいのは、言葉だった。
最初の頃はダンネルとユリーカが何を話しているのか一切理解できなかったが、毎日同じ家で生活していれば、嫌でも耳に入ってくる。
特にユリーカはよく喋った。
「アル、これはパン!」
「パン」
「こっちは水!」
「水」
「これは椅子!」
「椅子」
「これは私!」
「ユリーカ」
「正解!」
毎日のようにそんなことを繰り返した結果、簡単な会話なら困らない程度にはこの世界の言語を理解できるようになった。
前世で七十四年間培った記憶力や学習方法が役立っているのか、それとも幼い身体の脳が言語習得に適しているのかは分からない。
おそらく両方だろう。
もっとも、三歳児があまりにも早く言葉を覚えると不自然なので、分かっていても分からないふりをすることはある。
七十四歳まで生きた老人が五歳の少女相手に知能を隠しているというのも、なかなか妙な状況だった。
そんな生活の中で、私はあることを調べ続けていた。
魔法。
この世界へ来た直後、男の指先から生まれた光。
あの光景を忘れた日は一度もない。
ただ、それ以降は似た現象をほとんど目にしていなかった。
ダンネルは家では普通に火打ち道具を使うし、夜も基本的にはランプを灯す。魔法があるのなら、なぜ日常生活すべてを魔法で済ませないのかという疑問もあった。
つまり、何らかの制約がある。
使える回数なのか。
エネルギー量なのか。
技術的難度なのか。
あるいは、魔法を使うこと自体に何らかの費用や危険が伴うのか。
それを確かめたかった。
転機が訪れたのは、ある晴れた日の午後だった。
家の裏から、ユリーカの声が聞こえる。
「もう一回!」
何をしているのだろう。
私は窓から外を覗いた。
庭にはユリーカとダンネルがいる。
ダンネルは少し離れたところに立ち、腕を組んでいた。
その前で、ユリーカが水の入った桶へ両手を向けている。
「集中しろ。急いで動かそうとするな」
「分かってる!」
「分かってる奴はさっきみたいに全部ひっくり返さない」
「今度はできるもん!」
どうやら何かの練習らしい。
私は静かに家を出ると、二人から少し離れた場所に座った。
ユリーカは私に気づいたようだったが、今はそれどころではないらしい。
両手を水桶へ向け、目を閉じる。
その瞬間。
空気が変わった。
ほんのわずかだった。
風が吹いたわけではない。
温度が変化したわけでもない。
それでも、皮膚の表面を何かが撫でたような奇妙な感覚がある。
初めてこの世界で目覚めたとき。
光が生まれる直前にも、同じ感覚があった。
私は思わず身を乗り出した。
「水よ――」
ユリーカが小さく息を吸う。
そして。
「浮いて!」
桶の中の水面が揺れた。
最初は波紋程度だったものが、ゆっくり中央へ集まっていく。
水が盛り上がり、細い柱のようになったかと思うと、その先端から拳ほどの大きさの水塊が切り離された。
水は落ちなかった。
何の支えもない空中で、静かに浮かんでいる。
「……」
私は瞬きも忘れて見つめていた。
糸はない。
装置もない。
磁力で説明できる物質でもない。
風圧を使っている様子もなく、水塊の下に何らかの噴流が存在する気配もない。
それにもかかわらず、水は重力に逆らって浮いている。
「できた!」
ユリーカが叫んだ。
集中が途切れたのだろう。
直後、水が桶へ落ちて大きな音を立てた。
「最後まで維持しろ」
「できたじゃん!」
「浮かせただけだ」
「でも浮いた!」
「そこから動かして、元の場所に戻すまでが練習だ」
「むぅ……」
ユリーカが頬を膨らませる。
その横で。
私は震えていた。
怖いからではない。
興奮していた。
目の前で。
また起きた。
あの日の光だけなら、未知の技術という可能性を残せた。
だが今度は違う。
五歳の少女が、何の道具も使わずに水を空中へ浮かせた。
私は立ち上がり、ユリーカのところへ歩いていった。
「ユリーカー!」
「ん?」
「今の、もう一回やって」
「え?」
「もう一回!」
ユリーカがきょとんとする。
「見たいの?」
「うん!見たい!」
「ふっふーん!いいよぉ〜!」
単純な姉で助かった。
ユリーカはすぐに桶へ向き直った。
私は今度こそ見逃さないよう、彼女の手、顔、身体、そして水面を順番に観察する。
「水よ、浮いて!」
再び、あの感覚。
次の瞬間には水が持ち上がっていた。
「……どうやってるの?」
「どうやって?」
ユリーカが振り返る。
「今の」
「魔法だよ?」
知っている。
いや、正確には、それを確かめたい。
「魔法って、どうやって使うの?」
「んーとね、魔素を使うの!」
初めて。
意味を理解した状態で、その言葉を聞いた。
魔素。
以前、私が発見された場所についてダンネルが話したときにも聞いた言葉だ。
どうやら、あの災害にも関係している。
「魔素って何?」
「魔素は魔素だよ?」
予想通りの答えだった。
「どこにあるの?」
「ここ!」
ユリーカは自分の胸の辺りを指差した。
私は眉を寄せる。
「胸?」
「身体の中!」
「身体のどこ?」
「えっと……身体!」
「……」
五歳児に解剖学的な説明を求めた私が悪い。
質問を変える。
「さっき水を浮かせたとき、その魔素を使ったの?」
「うん」
「どれくらい?」
「ちょっと!」
「ちょっとって?」
「ちょっとはちょっと!」
駄目だ。
定量的な情報が全く得られない。
しかし、それでも重要なことは分かった。
魔法を発動するとき、ユリーカは自身の中にある魔素と呼ばれる何かを使っている。
少なくとも本人はそう認識している。
「なくなったら?」
「疲れるよ」
「全部なくなったら?」
「すっごく疲れる!」
なるほど。
有限。
その可能性が高い。
つまり魔法には、少なくとも何らかのエネルギー源に相当するものがある。
無条件に現象が生まれるわけではない。
それだけで私は嬉しくなった。
原因がある。
入力がある。
そして出力として現象が発生する。
ならば。
調べられる。
「火もできる?」
「できるよ!」
「風は?」
「できる!」
「石を浮かせるのは?」
「ん〜、土の魔法かな」
「光は?」
「光魔法!」
ユリーカは得意げに答えていく。
どうやらこの世界では、魔法をいくつかの種類へ分類しているらしい。
「どうして水の魔素が水になるの?」
「え?」
質問した瞬間、ユリーカが固まった。
「だから、身体の中にある魔素を使うと、どうして水が動くの?」
「……魔法だから?」
やはり。
私は少しだけ笑ってしまった。
「もーアル!何がおかしいの!」
「ごめん」
馬鹿にしたわけではない。
むしろ逆だ。
面白い。
非常に面白い。
この世界の人々は、魔法を「使えるもの」として理解している。
だが、その現象がなぜ起こるのかについては、少なくともユリーカは知らない。
もちろん、彼女が五歳だからという可能性はある。
大人や学者なら詳細な理論を持っているかもしれない。
だが仮に、この世界の魔法体系そのものが経験則を中心に成立しているのだとしたら。
そこには。
私が入り込める余地がある。
「アルもやってみる?」
ユリーカが言った。
「……私も?」
「うん!」
心臓が跳ねた。
待て。
落ち着け。
私は七十四年間、この瞬間を夢見ていた。
幼い頃に読んだ絵本から始まり、世界中の不可思議な現象を調べ、最終的には自分自身の研究によって魔法を否定する結論へ辿り着いた。
その私に。
魔法を使ってみるかと聞いている。
「やる!」
即答だった。
ユリーカが笑う。
「じゃあ手を出して!」
言われた通り、右手を前へ出す。
「身体の中の魔素を感じるの」
「どうやって?」
「んー……」
ユリーカはしばらく考えたあと。
「ぎゅーって!」
出た。
感覚論。
「それを手まで持ってきて」
「どうやって?」
「すーって!」
「……」
ひどい。
前世の大学でこんな説明をしたら、学生から苦情が来るだろう。
だが、やってみるしかない。
私は目を閉じた。
心臓の鼓動。
血流。
呼吸。
筋肉の緊張。
自分の身体で起こっている感覚を、一つずつ分離していく。
その中に。
今まで経験したことのないものはあるか。
「……」
最初は何も分からなかった。
もう一度。
今度は呼吸をゆっくりにする。
すると、胸の奥。
正確な場所は分からない。
臓器とも違う、熱でもない。
だが、確かに何かがある。
「……これか?」
私は思わず目を開けた。
「分かった?」
「たぶん」
ユリーカが嬉しそうに頷く。
「じゃあ手まで持ってきて!」
再び目を閉じる。
先ほどの感覚を探し、その一部を腕の方へ動かそうとする。
動かない。
もう一度。
やはり駄目。
力を入れるのか?
いや違う、筋肉とは別だ。
「難しい……」
口から自然に言葉が漏れた。
ユリーカが笑う。
「最初は難しいよ!」
その言葉に、私は少し驚いた。
当たり前の話なのだろう。
この世界で生まれ育ったユリーカですら、魔法を最初から自由自在に扱えたわけではない。
つまり、魔法には習熟が存在する。
そして習熟するなら。
技術がある。
技術があるなら。
比較できる。
測定できる。
改善できる。
そこまで考えたところで、私は手を下ろした。
「もうやめるの?」
「今日はね」
「なんで?」
「分からないことが多すぎるから」
「?」
ユリーカには意味が分からないだろう。
だが私の頭の中では、すでに何十もの疑問が浮かんでいた。
魔素とは何か。
物質なのか、エネルギーなのか、それとも場のようなものなのか。
身体のどこに存在するのか。
なぜ意思によって移動するのか。
魔素から水の運動へ、どのようにエネルギーが伝達されるのか。
水そのものを生成しているのではなく、既存の水を動かしたのであれば、働いた力は何なのか。
そして何より。
この世界で「魔法」と呼ばれているものは、本当に一つの不可解な現象なのか。
私は浮かんだ疑問を忘れないよう、頭の中で整理していく。
ユリーカが横から顔を覗き込んだ。
「アル?」
「ん?なに?」
「なんか楽しそう!」
自分では気づいていなかった。
どうやら笑っていたらしい。
「……うん」
否定する理由はなかった。
楽しい。
前世で新しい理論へ辿り着いたときよりも。
ノーベル賞の受賞を知らされたときよりも。
今の方が、遥かに胸が高鳴っている。
だって。
私はついに。
七十四年間追い続けたものへ触れようとしている。
「ねぇ、ユリーカ」
「ん?」
「また魔法、見せてよ!」
「いいよ!」
「いっぱい!」
「いっぱい?」
「火も、水も、風も、できるの全部!」
ユリーカは一瞬驚いたあと、嬉しそうに胸を張った。
「んもぉーしょうがないなぁ!」
まるで自分が先生になったかのような顔だった。
実際。
今の私にとっては、彼女が最初の先生なのかもしれない。
五歳の少女に魔法を教わる七十四歳の元物理学者。
我ながら、奇妙な人生だと思う。
だが。
それでいい。
知らないことを知っている相手から学ぶのに、年齢など関係ない。
私はユリーカが再び水へ手を向けるのを、今度は一つの現象も見逃さないように観察した。
魔法だから。
それだけでは終わらせない。
水が浮くのなら、そこには理由がある。
炎が生まれるのなら、エネルギーの流れがある。
魔素によって現実が変化するのなら、必ずその間を繋ぐ仕組みが存在するはずだ。
前世の私は、魔法が存在しないことを証明する側へ辿り着いた。
なら今度は。
その逆をやろう。
魔法がなぜ存在できるのか。
それを一から解き明かす。
ユリーカの掌の上で、水の球が揺れていた。
私はそれを見つめながら、心の中で静かに笑った。
――魔法は科学ではない?
今はまだ。
誰にも答えられない。
だからこそ。
私が調べればいい。




