第2話 アル・レイヴァン
目を覚ましてから、どれほど時間が経ったのか分からなかった。
窓の外が明るくなり、やがて暗くなる。
それが何度か繰り返されたことで、この世界にも少なくとも昼と夜に相当するものがあるらしいと分かったが、それ以上のことはほとんど何も理解できていない。
何より困ったのは、言葉だった。
「――――、――――?」
目の前の男が何かを話している。
年齢は三十代後半ほどだろうか。短く切った髪に、日に焼けた肌、太い腕。初めて目を覚ましたときには鎧を身につけていたが、今は簡素な布の服を着ている。
私は彼の口元をじっと見つめたものの、聞こえてくる言葉に心当たりはなかった。
「……分からない」
そう答えてみても、当然こちらの言葉も通じない。
男は少し困ったように眉を寄せたあと、自分の胸に手を当てた。
「ダンネル」
ゆっくりと、はっきり発音する。
私はその言葉を頭の中で反復した。
「……ダンネル?」
「そうだ」
意味は分からなくとも、その表情を見れば正解だったことくらいは分かる。
どうやら名前らしい。
ダンネル。
初めて、この世界で意味を理解できた言葉だった。
私は彼を観察しながら、同時にここ数日の出来事を整理する。
研究室で心筋梗塞を起こし、意識を失った。それ以前の記憶は鮮明に残っているので、少なくとも記憶障害とは考えにくい。
その後、気がつけば幼い子供の身体になっていた。
さらに、目の前で人間が何もない場所に光を生み出した。
あの現象については、いまだ説明できていない。
小型の発光装置、未知の化学反応、あるいは私が知らない技術――そういった可能性を完全に捨てたわけではないが、少なくとも二十一世紀の私が知る科学技術とは大きく異なっていた。
そして、この身体。
窓に映った自分の姿を見る限り、年齢は三歳前後だろうか。
七十四歳だった自分が、なぜ三歳程度の子供になっているのか?
その問いに対する合理的な答えは、まだ見つかっていなかった。
「……転生、か」
口にしてみると、馬鹿馬鹿しさしかない。
科学者が最も避けるべきなのは、観測結果に対して都合のいい説明を先に決めてしまうことだ。
転生。
異世界。
魔法。
どれも今の状況を綺麗に説明してしまうからこそ、簡単に飛びつくべきではない。
証拠が足りない。
私はまだ何も知らないのだから。
そう考えていると、部屋の外から小さな足音が聞こえてきた。
扉が勢いよく開き、栗色の髪をした少女が顔を覗かせる。
「父さん!」
少女は真っ先にダンネルへ駆け寄ると、その腕にしがみついた。
父さん。
その言葉の意味が理解できたわけではない。ただ、何度か同じ場面を見ているうちに、少女とダンネルが親子であることは察していた。
年齢は五歳くらいだろう。
私より二つほど上に見える。
少女はダンネルの横から、興味深そうにこちらを覗き込んだ。
「――――?」
何かを尋ねている。
ダンネルが答えると、少女は今度はこちらへ近づき、私の目の前まで来てしゃがみ込んだ。
近い。
非常に近い。
「……」
「……」
しばらく見つめ合ったあと、少女がにこっと笑う。
「ユリーカ!」
自分の胸を指差しながらそう言った。
なるほど。
「……ユリーカ」
私が繰り返すと、少女――ユリーカは嬉しそうに何度も頷いた。
どうやら正しいらしい。
ダンネル。
ユリーカ。
少なくとも二人の名前は分かった。
では、自分は?
そう思ったところで、ふと気づいた。
この身体の名前を、私は知らない。
前世の名前なら当然覚えている。しかし、この身体が元々何者だったのかという記憶は一切なかった。
生まれた場所も。
両親の顔も。
名前すらも。
自分がこの身体へ生まれ変わったのか、それとも元々存在していた子供の身体に何らかの理由で前世の記憶が宿ったのか、それさえ判断できない。
私は自分を指差した。
「……?」
ダンネルが私を見る。
もう一度、自分の胸を指差してから、彼を指す。
「ダンネル」
次にユリーカを指す。
「ユリーカ」
そして自分を指した。
意図は伝わったらしい。
だが、ダンネルはすぐには答えなかった。
ユリーカも笑顔を消し、少しだけ困った顔になる。
二人は何かを話し始めた。
まだ言葉は分からないものの、今までより声が低い。ダンネルが何かを説明すると、ユリーカの表情が曇った。
私は黙って二人を見るしかなかった。
その日の夕方。
ダンネルは私を家の外へ連れ出した。
初めてまともに見る、この世界の風景だった。
石と木で造られた家々が並び、道は舗装されていない。遠くには森が広がり、家の横には薪が積み上げられている。
電柱はない。
車もない。
アスファルトもない。
やはり、私が生きていた時代とは文明そのものが違う。
その一方で、村の一角には妙な光景が残っていた。
地面が大きく抉れ、何本もの木が不自然な方向へ倒れている。土の一部は焼けたように黒く変色し、周囲には簡素な柵が設けられていた。
ダンネルはそこを指差し、ゆっくりと何かを話した。
理解できた言葉は、ほとんどない。
だが、繰り返された単語が一つだけあった。
「魔素」
まそ。
音だけを記憶する。
そして、ダンネルは私を指したあと、荒れた土地を指した。
何度か説明を聞くうちに、おぼろげながら意味が見えてきた。
私はあそこにいたらしい。
何らかの事故、あるいは災害が起こった場所で、意識を失っていた私をダンネルたちが発見した。
近くには男女二人の遺体もあったという。
おそらく、私の両親。
しかし身元を示す物はほとんど残っておらず、村の人間でもなかったため、名前すら分からない。
ダンネルは何度も言葉を選びながら説明してくれた。
すべて理解できたわけではない。
それでも十分だった。
この身体には、確かにこの世界での人生があった。
そして、その人生はあの日、両親を失った。
不思議な感覚だった。
悲しいのかと聞かれれば、分からない。
私は二人の顔を知らない。
記憶もない。
愛された記憶も、声を聞いた記憶も残っていない。
だからといって、何も感じないわけでもなかった。
自分が今ここに立っているということは、少なくとも二人がこの身体をこの世へ生み出したということだ。
私は荒れた土地へ小さく頭を下げた。
それ以上、何をすればいいのか分からなかった。
帰り道、ダンネルはほとんど何も話さなかった。
家へ戻ると、ユリーカが玄関で待っていた。
そして夕食のあと。
ダンネルは私をテーブルの前へ座らせ、自分も向かい側へ腰を下ろした。
何かを決めたような顔をしている。
「――――」
長い言葉。
ほとんど理解できない。
だが途中で「ユリーカ」という名前が聞こえ、そのあとにダンネル自身を指し、最後に私を指した。
そして。
「アル」
聞いたことのない単語だった。
私は首を傾げる。
ダンネルがもう一度、私を指差した。
「アル」
「……私?」
意味が通じたわけではない。
それでも分かった。
名前だ。
私の。
「アル……」
口に出してみる。
短い。
呼びやすい。
悪くない。
ユリーカが嬉しそうに笑った。
「アル!!」
もう一度呼ばれる。
今度は、先ほどより少しだけその名前が自分のものになった気がした。
ダンネルはさらに、自分を指した。
「ダンネル・レイヴァン」
次にユリーカ。
「ユリーカ・レイヴァン」
そして最後に私の肩へ、大きな手を置いた。
「アル・レイヴァン」
「……レイヴァン?」
私は彼を見る。
言葉はまだ分からない。
だが、ダンネルの表情を見れば十分だった。
おそらくこれは、家族の名だ。
つまり。
今日から私は。
「……アル・レイヴァン」
そう呟くと、ダンネルが笑った。
ユリーカも嬉しそうに私の腕へ抱きついてくる。
前世では七十四年生きた。
世界中を飛び回り、研究を続け、最後にはノーベル物理学賞まで受賞した。
そんな私が死んで、次に得たものが三歳児の身体と、全く知らない世界。
そして。
新しい名前と、新しい家族だった。
まだ、この世界が何なのかは分からない。
なぜ私がここにいるのかも分からない。
あの日目にした光が、本当に魔法だったのかさえ、科学者としてはまだ断定したくない。
だが調べる時間はある。
何しろ私は今、三歳なのだから。
「アル!」
ユリーカに呼ばれ、私は振り返る。
「……うん」
返事をすると、彼女は満足そうに笑った。
アル・レイヴァン。
二度目の人生で得た、その名前。
どうやら私はこれから、この名で生きていくらしい。
そして、このときの私はまだ知らなかった。
レイヴァン家の一員として始まったこの新しい人生が、前世で七十四年間追い求めても届かなかった夢へと続いていることを。




