第1話 叶わなかった夢
盛大な拍手が会場を包んでいた。
世界各国から集まった研究者たちが立ち上がり、一人の老人へ惜しみない拍手を送っている。
その中心に立っていたのが、私だった。
七十四歳。
長い研究人生の末に、私はついにノーベル物理学賞を受賞した。
「おめでとうございます!」
「教授、こちらを向いてください!」
壇上を降りれば、無数のカメラと記者たちに囲まれた。
私は慣れた笑顔を浮かべながら、それに応える。
長い人生だった。
幼い頃から人より物覚えが良く、周囲からは神童などと呼ばれていた。
学校の成績は常に一位。
一流大学の医学部へ進み、医師免許も取得した。
本来なら、そのまま医師として生きていく道もあっただろう。
それでも私は、研究者になることを選んだ。
理由は一つ。
私には、どうしても諦められない夢があったからだ。
その夢とは――
魔法使いになること。
「……ふっ」
我ながら、馬鹿げていると思う。
七十四歳にもなった老人が、何を言っているのか。
ましてや私は物理学者だ。
世界の仕組みを理論と実験によって解き明かすことを生業としてきた人間が、「魔法使いになりたい」などと口にすれば笑われるに決まっている。
だから、この夢だけは誰にも話さなかった。
だが私は本気だった。
幼い頃、母に買ってもらった一冊の絵本。
そこに描かれていた魔法使いに、私は心を奪われた。
杖の先から炎を生み出し、空を自由に飛び、傷ついた人々を一瞬で癒やす。
子供だった私は、それを見て心の底から思った。
――私も魔法使いになりたい。
普通なら、成長とともに忘れてしまう程度の夢だったのだろう。
だが、私は違った。
「魔法が存在しないのなら、なぜ存在しないのか」
「もし奇跡と呼ばれる現象に法則があるのなら、それを解明することはできないのか」
そんな疑問を持ったことが、すべての始まりだった。
数学を学んだ。
物理学を学んだ。
化学、医学、生物学、量子力学、宇宙論。
知識を得るほど、私の興味は深まっていった。
もし魔法という現象が本当に存在するなら、必ず何らかの法則に従っているはずだ。
炎を生み出すなら、そのエネルギーはどこから来る?
何もない場所から水を生み出すなら、その質量はどこから現れる?
瞬間移動が可能なら、空間とは一体何なのか?
私は夢中になった。
そしていつしか、魔法を研究するために物理学を学んでいたはずの私は、世界有数の物理学者と呼ばれるようになっていた。
論文を書けば世界中から注目され、新たな理論を発表すれば教科書に載った。
そして今日。
研究者として最高峰とも言える賞まで手にした。
ノーベル物理学賞。
若い頃の私なら、飛び跳ねて喜んでいただろう。
だが――
「結局、見つからなかったな……」
ホテルへ戻った私は、誰もいない部屋で呟いた。
窓の外には、美しい夜景が広がっている。
今日という日は、私の人生で最も輝かしい一日になるはずだった。
それなのに、胸の奥には小さな穴が空いたままだった。
七十四年。
これほど長く生きても、私は魔法を見つけられなかった。
幽霊。
超能力。
奇跡。
呪術。
世界中に存在する、魔法と呼ばれそうな現象を調査した。
だが、どれも再現性がない。
錯覚。
偶然。
作り話。
科学的に調査すれば、そのほとんどに説明がついた。
研究すればするほど、私は自分自身で一つの結論へ近づいていった。
この世界に、魔法は存在しない。
なんとも皮肉な話だ。
魔法の存在を証明するために科学を学び、その結果、誰よりも魔法を否定する側へ回ってしまったのだから。
「まあ……仕方ないか」
私は椅子へ深く腰を下ろした。
夢が叶わなかったからといって、悪い人生ではなかった。
多くの仲間に恵まれた。
世界中を旅した。
研究によって救えた命もある。
私の理論が、未来の科学者たちの役に立つこともあるだろう。
十分だ。
そう思うことにした。
――それから一ヶ月後。
私はいつものように研究室にいた。
時刻は深夜二時を過ぎている。
「教授、今日はもう帰ってください」
そんな助手の言葉を無視して、私は一人で資料を読み続けていた。
七十四歳にもなって徹夜をするな、と何度言われたことだろう。
自分でも分かっている。
分かってはいるのだが、興味を持ってしまったものは仕方がない。
新しい論文を読み進め、机の上のコーヒーへ手を伸ばした。
その瞬間だった。
ズキン――。
「……ん?」
胸の奥に鋭い痛みが走った。
私は手を止める。
少し休めば治るだろう。
そう思った。
だが。
「ぐっ……!」
二度目の痛みは、先ほどとは比べものにならなかった。
心臓を直接握り潰されたような激痛。
息ができない。
視界が歪む。
「これは……まずいな……」
医師としての知識が、一瞬で答えを出した。
心筋梗塞。
それも、おそらくかなり重い。
机の上に置いてある携帯電話へ手を伸ばす。
救急車を呼ばなければ。
たった数十センチ。
それだけの距離なのに。
指が届かない。
身体から力が抜け、そのまま私は床へ崩れ落ちた。
「……まったく……」
妙なものだ。
死が目の前に迫っているというのに、不思議と恐怖はなかった。
七十四年も生きたからだろうか。
医師としても、研究者としても、それなりのことはやった。
最後にはノーベル賞まで受賞した。
十分すぎる人生だ。
それなのに。
薄れていく意識の中で、私の頭に浮かんだのは家族でも研究でもなかった。
幼い頃に読んだ、あの絵本。
杖を振り。
炎を生み出し。
自由に空を飛ぶ魔法使い。
「……一度くらい……」
声が震える。
「魔法を……使ってみたかったな……」
七十四年生きた。
多くの夢を叶えた。
だが、一番最初に抱いた夢だけは叶わなかった。
それが少しだけ――
いや。
ものすごく悔しかった。
「もし……次があるなら……」
そんな非科学的なことを考えてしまった自分に、少し笑ってしまう。
次の人生など存在しない。
死ねば終わりだ。
私は誰より、それを理解している。
それでも最後くらいは。
夢を見てもいいだろう。
「次は……魔法使いに……」
そこで私の意識は途切れた。
――――――。
――――。
――。
声が聞こえる。
誰かが話している。
だが、何を言っているのか分からない。
英語ではない。
フランス語でもドイツ語でもない。
少なくとも、私が知っている言語ではなかった。
「……ん……」
ゆっくりと目を開ける。
最初に見えたのは、古びた木製の天井だった。
「……ここは?」
病院ではない。
それだけはすぐに分かった。
身体を起こそうとして、違和感に気付く。
重い。
いや、重いというより――
身体の感覚がおかしい。
視線を下へ向ける。
「…………」
小さな手があった。
妙にふっくらとした、子供の手。
私は指を動かしてみる。
小さな手も同じように動いた。
「……は?」
思わず声が出た。
その声にも違和感があった。
高い。
明らかに老人の声ではない。
慌てて自分の顔を触る。
皺がない。
髭もない。
腕も細い。
脚も短い。
「どういう……ことだ?」
混乱する頭で、必死に状況を整理する。
私は研究室で倒れた。
症状から考えれば、ほぼ間違いなく心筋梗塞。
あの状態から助かった?
いや。
助かったとして、なぜ身体が子供になっている?
若返り?
幻覚?
夢?
どれも説明になっていない。
そのとき、部屋の扉が開いた。
三人の男が入ってくる。
全員が金属製の鎧を身にまとい、腰には剣を下げていた。
「――――?」
男の一人が私へ話しかけてきた。
やはり言葉が分からない。
私は男たちの装備を見る。
現代の軍人ではない。
中世ヨーロッパを思わせるような姿。
だが映画の撮影にしては、鎧の傷や汚れが妙に本物らしい。
「まさか……」
そんなはずはない。
あり得ない。
科学的に考えろ。
私は死に、別の場所で子供として目覚めた。
ならば。
転生?
異世界?
馬鹿馬鹿しい。
そんなものはフィクションの中だけの話だ。
私は物理学者だ。
証拠もなく、そんな結論を出してはいけない。
まずは観察。
情報を集める。
仮説を立て、検証する。
それが科学というものだ。
そう自分へ言い聞かせた。
その直後だった。
鎧の男の一人が、部屋の暗さを気にしたのか右手を持ち上げた。
人差し指の先を軽く振る。
「――――」
何かを呟いた。
次の瞬間。
男の指先に――
光の球が生まれた。
「…………」
私は言葉を失った。
電球ではない。
火でもない。
手品でもない。
空中に浮かんだ小さな光球が、ゆっくりと男の手を離れ、部屋の中央へ移動する。
部屋全体が明るく照らされた。
私は瞬きもせず、それを見つめた。
光源はどこだ?
エネルギー供給は?
発熱は?
電磁波は?
そもそも、なぜ空中に静止している?
頭の中へ次々と疑問が浮かぶ。
だが、それ以上に。
胸の奥から、何かが込み上げてきた。
七十四年間。
探した。
追い続けた。
存在しないと結論づけた。
世界最高峰の物理学者になっても、決して辿り着けなかったもの。
それが今――
私の目の前にある。
小さな手が震えていた。
「……魔法?」
誰にも通じない言葉で、私は呟いた。
身体の震えが止まらない。
恐怖ではない。
嬉しかった。
ただただ、嬉しかった。
七十四歳の老人として死んだはずの私が。
見知らぬ世界で。
子供の身体になって。
そして――
魔法を見つけた。
この瞬間。
私の二度目の人生でやるべきことは、決まった。
今度こそ必ず。
魔法使いになる。
いや、それだけでは足りない。
この魔法という未知の現象を、一から研究する。
その原理も。
法則も。
限界も。
すべてを解き明かしてやる。
前世で叶わなかった夢を。
今度こそ、この手で――証明する。




