第35話 山に残された痕跡
翌朝。
野営地を出る頃には山の上に薄い雲が掛かっていた。
今日の調査予定は、昨日見つけた黒い岩層が現れる区間を北東へ進みながら、魔獣の移動経路と魔脈の変化を確認することになっている。
ただし、山奥へ際限なく進むわけではない。
騎士団が安全を確認できる範囲まで進み、日没前には野営地へ戻る。
単独行動は禁止で、予定経路から外れる場合は必ず指揮官の許可を取るよう出発前にも念を押された。
「アル、ちゃんと分かってる?」
リーナまで確認してくる。
「分かってるよ」
「本当に?」
「…何でみんな同じこと聞くの?」
「昨日、黒い岩を見つけた瞬間に隊列から半歩出たから」
「……半歩だよ?」
「半歩でも出た」
……細かい。
少し離れた場所では、ダンネルが騎士団の装備を確認している。
あちらに聞こえると、さらに一人監視役が増える気がしたので、私は黙って測定器を持った。
昨日の第一観測地点へ戻るまで一時間ほど掛かった。
黒い岩層は朝の光でもやはり周囲とは色が違い、灰色の岩盤の中を細い帯になって北東へ伸びている。
私は昨日採取した岩片を取り出し、露出している層と見比べた。
見た目はほぼ同じだ。
「まず昨日の値と比較しよう」
グレアムの指示で測定器を配置し、リーナが濃度を記録、私は流向を確認する。
昨日と大きな差はない。
ただし、一定時間測り続けると、地下の流れはわずかに強くなったり弱くなったりを繰り返していた。
「…脈動してる」
私が言うと、リーナが記録用紙を見る。
「昨日より周期が分かりやすいかも」
三回、四回と測定を続ける。
魔脈そのものに周期的な変動があることは以前から分かっていたが、この地点ではその上下が周囲より少し大きい。
さらに興味深いことに、黒い岩層の近くでも魔素の流れ方が同じタイミングで僅かに変化していた。
「岩自身が魔素を出してるわけじゃない」
私はしゃがみ込んだ。
「地下の流れに合わせて反応してる?」
リーナが聞く。
「反応というより、通り道になってる可能性はある。ただ、まだそれも断定できない」
水路に水が流れるように、地下の魔素が特定の岩層に沿って移動しているのかもしれない。
もしそうなら、昨日見つけた相関にも説明がつく。
「魔石とは違うの?」
「多分ね。魔石みたいに魔素を蓄えてる感じはないし、吸収してるわけでもない。近くを通る魔素の向きが少し揃うだけ」
「じゃあ、管みたいなもの?」
「今のところは、その表現が近いかも」
私は地図へ新しい線を書き込んだ。
魔脈の流向と、地表へ露出している黒い岩層の位置。
やはりかなり近い。
ただし、だからといって魔脈そのものを岩層が作っているとは限らない。
私はその横に、小さく『相関のみ確認』と書いた。
調査隊は北東へ進んだ。
黒い岩層は地表へ現れたり、土の下へ消えたりしながら続いている。
見失った場所では魔素の流向を測り、再び露出した地点との位置関係を確認する。
何度か繰り返しているうちに、一つ分かったことがある。
地表の谷が曲がっても、魔脈は必ずしもその形には従わない。
地下で流向が変わる地点と、黒い岩層が再び地表へ現れる地点が近いことが何度かあった。
「昨日は谷に沿ってるように見えたけど」
リーナが地図を見る。
「たまたま同じ方向だった可能性はあるね」
「じゃあ、地形じゃなくて地下の何かに影響されてる?」
「可能性はある。でも、その“何か”が本当にこの岩層なのかまではまだ分からない」
ノエルの記録にあった『露出岩層との一致、要確認』という書き込みを思い出す。
四十一年前の彼も、同じような違和感を持ったのかもしれない。
ただし、残された記録の中心はあくまで魔脈の流向と測定地点だ。
ノエルが岩石そのものを研究対象に変えた証拠はない。
そこを混同しない方がいい。
昼前、隊列の先頭が止まった。
魔獣ではない。
道がなくなっている。
正確には、山肌の一部が崩れ、以前あった細い獣道を土砂が覆っていた。
「最近の崩落だな」
斥候が土を触る。
数日前の雨の影響かもしれない。
騎士団が迂回路を探し始める中、私は崩れた斜面の下で魔素の流れが強くなっていることに気付いた。
「学院長」
グレアムがこちらを見る。
「何だ?」
「あの崩れた場所の下、魔素がかなり強いです」
「近づくなよ」
最初に言われた。
「……まだ近づきません」
「その位置から測れるか?」
「やってみます」
測定器を向けると、濃度だけでなく変動幅も大きい。
さらに流向を見る。
一方向ではない。
「……二本ある」
「二本?」
リーナが横に来る。
私は位置を変えず、感覚だけを広げた。
北西側から一つ。
南側からもう一つ。
二つの弱い魔素流が崩落地点の地下で合流し、そこから北東へ一本の太い流れになっている。
「合流してる」
グレアムが地図を見る。
「だからここだけ強いのか?」
「…可能性はあります」
私はノエルの記録を開いた。
この付近。
通常の測定地点と同じ形式で、一つだけ丸印が打たれている。
番号も付いていた。
『観測点十二』
その横には、短い記録。
『二流合流』
私は思わず顔を上げた。
「ノエルもここで合流を確認してる」
「四十一年前に?」
リーナが覗き込む。
「うん」
さらに小さな字で、『周期差あり』とも記されていた。
地質のことではない。
あくまで、二方向から来る魔素流の周期差を記録したものだ。
「現地に目印を残してた可能性は?」
グレアムが言う。
私は地図を見る。
観測点番号があるなら、再測定のために杭や標識を置いていても不思議ではない。
ただし今は崩落している。
もし残っていたとしても、土の下だろう。
「騎士団が安全確認してからだぞ」
私が口を開く前に、ダンネルが後ろから言った。
「分かってるよ!」
「本当に成長したな」
「昨日から何回それ言うの?」
「昔のお前なら、もう斜面に向かってる」
……否定できないのが嫌だった。
安全確認には少し時間が掛かった。
騎士たちが上部の岩を確認し、簡単な固定を入れたあと、斜面の下側だけなら調べてもいいことになった。
私とリーナ、それにグレアムが近づく。
崩落によって黒い岩層の一部が露出していた。
昨日見たものより太く見えるが、それが元から太いのか、複数の層が近接しているだけなのかは分からない。
そして、その少し横。
土に半分埋まった金属片があった。
「これ……」
リーナが屈み込む。
石ではない。
細長い杭のような形をしている。
長さは三十センチほど。
上部には、王立魔法研究院の古い紋章。
さらに刻印。
『N.B』
ノエル・バーク。
「四十一年前の?」
リーナの声が少し高くなる。
私は頷いた。
おそらく、観測点十二の標識だ。
「触るな」
グレアムが言う。
手を伸ばす前だった。
「分かってます」
……今日は先回りされすぎている。
標識の周囲を慎重に確認する。
完全には抜かず、表面に刻まれている文字だけ読む。
『観測点十二』
その下には、
『二流合流』
『周期差あり』
それだけ。
地質についての記載はない。
ノエルがここで見ていたのは、あくまで魔脈だった。
二本の流れが合流し、周期の異なる変動が重なる場所。
私は二方向へ測定器を向ける。
北西側はやや長い周期。
南側はそれより僅かに短い。
合流したあとは二つの変動が重なり、波形が複雑になっている。
「魔脈って一本じゃないんだね」
リーナが言った。
「うん。少なくともこの辺では支流がある」
大きな一本の流れが地下を貫いているのではなく、複数の流れが合流したり分かれたりしている。
それなら地点ごとに脈動の見え方が変わるのも説明できる。
「川みたい」
「その表現、かなり近いかも」
ただし、地表の川とは違う。
どこから来て、どこへ向かっているのか。
まだ全体像は見えていない。
そのとき、地面が震えた。
最初は誰かが岩を落としたのかと思うほど小さかった。
だが次の瞬間、足元から低い音が響き、山の奥で巨大な岩同士が擦れるような振動が伝わってきた。
「離れろ!」
騎士団の指揮官が叫ぶ。
全員が斜面から距離を取る。
ダンネルが私の腕を掴み、一気に後ろへ引いた。
「父さん、測定器――」
「捨てろ!」
仕方なく手を離した直後、さっきまで立っていた辺りへ小さな石がいくつも落ちてきた。
大崩落ではない。
それでも十分危険だ。
「全員無事か!」
声が飛ぶ。
安否確認。
怪我人はいない。
震動も数秒で止まった。
普通なら、それで終わる。
だが私は、地下の魔素が急激に変化したことに気付いた。
「待って!」
「待つな!」
ダンネルに止められた。
「違う! 動かないから!」
その場から感覚だけを広げる。
さっきまで二本の流れが合流していた場所で、魔素の濃度が一瞬だけ大きく跳ね上がっている。
その変動は、合流点に留まらなかった。
一つの波のように。
北東へ、岩盤の奥を伝うように進んでいく。
「今の……」
リーナも感じたらしい。
グレアムが残った測定器を確認する。
「変動値が跳ねている」
研究員が記録する。
私は時間を書き留めた。
山の震動と魔素流の急変は、ほぼ同時。
「地震で流れが変わった?」
リーナが聞く。
「可能性はある」
「逆は?」
「それもまだ否定できない」
どちらが原因かは分からない。
地盤が動いたことで魔素の通り道が変わったのかもしれないし、魔脈側の大きな変動が周囲へ何らかの影響を与えた可能性もある。
今の観測だけで因果を決めるのは危険だ。
ただし、一つだけ確かなことがある。
魔脈は、地中で独立して存在しているわけではない。
少なくとも地盤の変化と同時に、流れ方が大きく変わった。
安全確認の結果、その日の調査はそこで終了になった。
山がもう一度動く可能性がある以上、さらに奥へ進む理由はない。
私も反対しなかった。
ダンネルに少し意外そうな顔をされた。
「何?」
「いや」
「……何?」
「成長したなと」
「またそれ?」
今日三回目なんだけど……
野営地へ戻り、夕方まで掛けて記録を整理した。
今日分かったことは多い。
魔脈には複数の支流があり、合流地点が存在する。
ノエルも四十一年前に同じ場所を観測し、観測点十二として標識を残していた。
二つの流れには周期差があり、合流後は脈動が複雑になる。
そして、山の震動とほぼ同時に魔脈を伝う大きな変動が発生した。
私は地図に線を引く。
今日の合流地点から、変動が進んだ方向。
北東。
ノエルの次の観測地点も北東側にある。
ただし、だからといってノエルが地質を追っていたわけではない。
記録に残っているのは、あくまで魔脈の測定地点がその方向へ続いているという事実だけだ。
「全部北東だね」
リーナが地図を覗く。
「うん。でも、それ以上はまだ言えない」
「珍しく慎重」
「いつも慎重だよ」
「そうだっけ?」
……失礼な。
私は今日拾った小さな岩片を取り出した。
昨日のものと並べる。
見た目はほとんど同じ。
ただ、測定器を近づけると僅かに反応が違う。
同じ黒い岩層に見えても、魔素の流れ方に差がある。
成分か、結晶構造か、別の物質が混ざっているのか。
理由は分からない。
ただ、昨日の工房で見たことを思い出す。
術式の形が変われば、魔素の流れも変わった。
なら地中でも、通りやすい経路と通りにくい経路が存在していても不思議ではない。
私はノートへ、『岩層によって魔素流に差が生じる可能性。要分析』とだけ書いた。
夜。
ノエルの古い記録をもう一度開く。
観測点十二の次には十三、十四、十五と測定地点が続いている。
どれも北東方向。
途中にあるのは、流向、濃度、脈動、周辺地形についての短い記録ばかりで、今の段階では特別な何かを発見したようには見えない。
ただ一か所、気になる記載があった。
『北東側、流向安定』
さらにその下。
『複数流、再合流の可能性』
私は地図を見る。
今日確認した合流地点だけではない。
もっと先でも、支流同士が合流している可能性があるらしい。
つまり魔脈は、一本の道ではなく。
もっと複雑な網になっている。
「……なるほど」
私は小さく呟いた。
今まで私は、一本の魔脈を北東へ追っているつもりだった。
でも違うのかもしれない。
複数の流れが合流し、分かれ、また合流しながら全体として北東へ向かっている。
もしそうなら、一地点だけ見ても魔脈全体は理解できない。
必要なのはもっと広い範囲の流向。
濃度、脈動。
どこで合流し、どこで分かれているか。
私はノートを閉じた。
答えはまだ遠い。
それでも少しずつ形は見えてきている。
ノエルは四十一年前、この山で同じ流れを追った。
私は今、その記録を答えとして読むのではなく、自分の観測と照らし合わせながら、同じ地面の下を流れる魔素を見ている。
次に何があるのかは、まだ分からない。
だからこそ、確かめる意味がある。




