第34話 北東山地
北東山地へ行く機会は、思っていたより早くやってきた。
工房を訪れた翌日の午後、講義を終えて研究室へ戻ると、グレアムが私の机の上に一枚の地図を広げていた。
見覚えのある場所だ。
王都から北東街道を進み、先日の魔獣群が現れた地点を越え、さらに山側へ入った一帯。
「騎士団から正式な調査協力依頼が来た」
私は椅子へ座る前に地図を覗き込んだ。
「魔獣の移動ですか?」
「ああ。ここ数週間、山奥に生息していた個体が街道側へ降りてくる例が増えているらしい。数そのものは異常と言えるほどではないが先日の件もあるからな。一度広い範囲を確認することになった」
地図には騎士団が予定している調査経路が赤線で記されていた。
北東街道から山麓へ入り、谷沿いに北上して、途中から東へ折れる。
私は赤線を目で追いながら、別の地図を頭の中に重ねた。
魔脈。
……かなり近い。
「学院にも来てほしいと?」
「魔法的な要因があるか確認してほしいそうだ。先日の現場で地下の魔素流を見つけたのが君だから、当然名前も出た」
グレアムが私を見る。
「行きたいか?」
「行きたいです」
即答した。
「……だろうな」
最初から分かっていたような顔をされた。
「ただし今回は研究旅行ではない。騎士団の調査に同行する形になるから、勝手に予定経路を外れるな。魔獣を見つけても追うな。それと――」
「一人で動かない」
「分かっているならよろしい」
昨日ダンネルにも同じことを言われたばかりだ。
むしろ正式な調査隊に入れるなら、これ以上ない条件だと思う。
「リーナも?」
私が聞くと、グレアムは頷いた。
「測定補助として同行させる。本人もすでに了承している」
……私より先に聞いていたらしい。
「出発はいつになりますか?」
「明朝だ」
「明日?」
「…嫌なら残ってもいいぞ」
「行きます」
「なら準備しておけ」
その日の授業内容より、今の話の方がずっと頭に残った。
宿へ戻り、ダンネルに明日のことを話すと、予想通り少し嫌そうな顔をされた。
「昨日、山へ勝手に行くなと言ったよな」
「勝手じゃないよ。騎士団からの正式な調査依頼」
「……そう来たか」
「学院長も許可してる」
「そこまで揃えられると止めれんだろうが……」
横で聞いていたユリーカが笑う。
「父さん、完全に負けてる」
「勝ち負けじゃない!」
ダンネルは腕を組んだまましばらく考え、それから私へ視線を戻した。
「調査隊の指揮官は誰だ?」
名前を伝えると、表情が少し緩んだ。
「なら大丈夫か。無茶をする人間じゃない」
「知ってるの?」
「騎士団にいるんだから当然だ」
少し間を置いてから、ダンネルは続けた。
「……俺も行く」
今度は私が驚いた。
「父さんも?」
「ちょうど今日、地方騎士から何人か同行者を出すことになった。俺も北東側の警戒状況を報告する立場だからな」
ユリーカが私とダンネルを交互に見る。
「それなら安心じゃん!」
私は少し考えた。
「監視されそう…」
「お前の身を案じてのことだろうが」
……怒られた。
翌朝。
王都北門には三十人ほどの調査隊が集まっていた。
騎士団の斥候と護衛が中心で、魔導師団からも数人、学院からはグレアム、私、リーナ、それに測定機器を運ぶ研究員が二人。
そこへ地方騎士としてダンネルも加わっている。
「何か変なことを見つけても、まず報告だよ」
出発前、リーナが言った。
「誰に?」
「私か学院長」
「…何でリーナにも?」
「アルが一人で突っ走らないため」
……いつのまにか監督者が増えていた。
調査隊は北東街道を進み、昼前には先日の戦闘地点へ着いた。
巨大な魔獣と戦った痕跡はほとんど片付けられていたが、地面にはまだ抉れた跡が残り、街道脇では騎士団が補修作業を続けている。
私は少し足を止め、地下へ意識を向けた。
以前と同じ場所に、街道の下を横切るような帯状の魔素が流れている。
ただ、前より少し分かりやすくなっており、濃くなったというよりは脈動そのものが大きく感じられた。
「…どう?」
リーナが横から聞いた。
「流れは残ってる。位置もほぼ同じだけど、揺れ幅はやっぱり大きい」
持ってきた測定器でも確認すると、数値は以前より僅かに高い程度なのに、一定時間ごとの上下は明らかに大きくなっていた。
ノエルの四十一年前の記録、現在の測定、そして最近の魔獣の移動。
何か関係があるのかもしれないが、今のところはまだそれだけだ。
「先へ進むぞ!」
騎士団から声が掛かり、私は測定値だけ記録して隊へ戻った。
街道を離れて山へ入ると、景色はすぐに変わった。
人の手が入った道は細くなり、両側を木々に囲まれる。標高が上がるにつれて岩肌が増え、昼を過ぎた頃には王都の姿も小さくなっていた。
調査隊は途中で何度か止まり、魔獣の足跡や糞、爪痕などを確認していく。
「これ、山から下りてるんじゃないか?」
斥候の一人が地面を指した。
大型ではない四足の魔獣らしい足跡が、山側から街道方向へ続いている。
「普通は?」
私が聞くと、近くにいたダンネルが答えた。
「この時期なら、もう少し奥にいることが多い。餌が減って山を下りる時期でもないしな」
「何かから逃げてる?」
「……可能性はある」
「魔脈はどう?」
リーナが聞く。
私はその場で周囲を確認し、数メートルほど左右へ位置を変えながら流れを追った。
「ここ、流れが曲がってる」
「曲がる?」
「街道では北東へほぼ真っすぐだったけど、この辺りから山の谷に沿ってる」
測定器を置いて確かめると、魔素流は確かに谷の方向へ向きを変えていた。
私は地図を開く。
現在地と、ノエルが残した過去の測定地点はかなり近い。
「…ノエルもこの辺りを調べてる」
私が言うと、グレアムが地図を見る。
「確かか?」
「記録に測定地点があります。ただ、昔の地図なので多少ずれてるかもしれません」
四十一年前、ノエルも魔脈を追ってこの山へ入っている。
そして今、同じ地域で魔獣の移動が変わり始めている。
……偶然とは言い切れない。
ただし、結び付けるにはまだ材料が足りない。
「今日は予定経路を優先するからな」
グレアムが言った。
「…分かってます」
……先回りされた。
そこから一時間ほど進んだ頃だった。
先頭を歩いていた斥候が突然手を上げ、隊列が止まる。
前方の茂みから低い唸り声が聞こえ、騎士たちが剣へ手を掛けた。
現れたのは、熊に似た魔獣だった。
一頭だけではない。
二頭、三頭と続き、その奥にもまだいる。
以前の群れとは比べものにならない小規模だが、本来なら人の多い調査隊へ自分から近づいてくるような魔獣ではないらしい。
「こいつら、追い立てられてるな…」
ダンネルが低い声で言った。
魔獣たちはこちらを威嚇しているが、視線が何度も後方へ向いている。
人間を獲物として狙っているというより、逃げ道を塞がれて苛立っているように見えた。
騎士団の指揮官が前へ出る。
「無理に倒す必要はない。西側を空けろ、山を下りさせる」
部隊がゆっくり開く。
だが、一頭だけ混乱したのかこちらへ飛び込んできた。
私は反射的に重力場を置き、跳び込んできた魔獣の前半身だけを斜め下へ引いた。前脚が地面へ沈んで跳躍が潰れ、その隙にダンネルが横へ入り、剣の腹で頭を叩いて進行方向を変える。
「殺さないの?」
私が聞く。
「襲いに来たんじゃないならな。目的は調査だ」
……なるほど。
魔獣は体勢を立て直すと、仲間と一緒に西側の斜面へ走り去った。
「…相変わらず変な魔法だな」
ダンネルが私を見る。
「重力魔法だよ」
「名前を聞いても変なのは変わらん」
……少し失礼だと思う。
問題はその直後だった。
魔獣が出てきた茂みの奥へ意識を向けると、そこだけ魔素の流れが妙に強い。
追うなと言われているので、その場から動かず測定器を向けると、リーナもすぐに異常へ気付いた。
「……上がってる」
「うん」
谷へ沿って流れていた魔素が、少し先で狭い範囲へ集中している。
まるで広い川が、急に細い岩の隙間へ押し込まれているような状態だ。
「学院長」
呼ぶと、グレアムが来た。
「今度は何だ?」
「この先で魔脈が絞られてます」
「絞られる?」
地図と測定器を見せる。
流量そのものを正確に測ることはまだできないが、同じ範囲内で濃度と流向が急激に変わっていることは分かる。
「地形の影響か?」
グレアムが聞く。
「可能性はあります。でも地表じゃなく、もっと下です」
私は周囲の岩を見る。
この一帯だけ、露出している岩の色が少し違っており、灰色の岩の中へ黒っぽい層が何本も走っている。
リーナも屈んで岩肌を見た。
「これ、ずっと続いてない?」
確かに、黒い層は谷の両側へ伸びている。
私は触れずに魔素の動きだけを追った。
黒い部分の近くでは、周囲より僅かに魔素が流れやすい。
吸収しているわけでも、魔石のように強い反応を返しているわけでもないが、魔素の流れが岩の層に沿って揃っているように見える。
「…岩が流れを作ってる?」
思わず口に出した。
グレアムが振り返る。
「何?」
「まだ分かりません。この岩が魔素を引いてるのか、もともと魔素が流れる場所にこういう岩層があるだけなのか、それすら判断できません」
重要なのはそこだ。
地下を流れる魔素が、ただ地形に沿っているだけだと思っていた。
だが、もし岩石や地層そのものに魔素を通しやすい性質があるなら、地下の流れ方に何らかの影響を与えている可能性はある。
私は工房の加工機を思い出した。
摩耗した術式、周囲の魔素、流れやすい場所。
術式に引かれた魔素は、抵抗の少ない経路へ入り込もうとしていた。
ここでも似たことが起きているのかもしれない。
ただし規模が違いすぎる。
「採取していいですか?」
私が聞く。
グレアムは少し考えてから騎士団の指揮官を見る。
「予定経路内なら問題ない」
許可が出た。
ユリーカが見たら興味を持ちそうな岩だと思いながら、私は小さな欠片だけ採取した。
そこから先は、さらに奇妙だった。
黒い層が目立つ場所ほど魔獣の足跡が少なく、逆に、その周囲から外側へ離れていく足跡が増えている。
一か所だけなら偶然で済むが、同じ傾向が二か所続いた。
「魔獣はこの辺を避けてる?」
リーナが言う。
「避けてるというより、離れてる感じがする」
「地下の魔素が強いから?」
「…分からない」
以前、森でグラウスと遭遇したときは、魔素濃度が高い場所に大型化した魔獣がいた。
だから単純に「魔素が多いと魔獣が逃げる」という話では説明できない。
濃度ではなく、変動幅や流れの速さ、脈動そのものに原因がある可能性もある。
私はノエルの記録を開いた。
この地点に近い測定場所には、短い書き込みが残されていた。
『流向急変』
その少し下に、別の筆跡で追記したような小さな文字がある。
『露出岩層との一致、要確認』
私はその文章を何度か読み返した。
「ノエルも、この辺りで岩と魔脈の位置が重なることには気付いてたみたいだね」
「じゃあ、この岩を調べてたの?」
リーナが聞く。
「そこまでは分からない。相関を疑って確認しようとしてた、くらいだと思う」
記録の中心にあるのは、あくまで魔脈の流向と測定地点だった。
ノエルが岩石そのものを研究対象に変えたわけではないし、この先も何を基準に進んだのかは記録だけでは判断できない。
ただ、四十一年前のノエルもこの場所で魔素の流れが変わることを確認していた。
それだけでも十分だった。
私は地図を見る。
ノエルの測定地点は、この先も北東へ続いている。
やがて山地を抜け、さらに遠くへ伸びていく。
今のところ、それが古代エルグラッドと直接関係しているとは言えない。
方角が近い。
それだけだ。
今日分かったのは、魔脈の流れが地表の地形だけでは説明できず、地下の岩層と位置的な関係を持っている可能性があること。
そして、最近の魔獣移動の変化も、魔脈の変動が大きい場所と重なり始めていることだ。
それ以上は、まだ仮説でしかない。
夕方、調査隊は山麓に設けられた野営地へ戻った。
今日一日の測定地点を地図へ落とし込むと、魔脈は街道から谷へ入り、黒い岩層が露出する地点付近で流れを細くしながら北東へ続いていた。
私は採取した岩片を机代わりの木箱へ置いた。
黒っぽい線が一本走っているだけで、見た目は何の変哲もない石だ。
それでも測定器を近づけると、周囲の魔素流にごく僅かな偏りが出る。
「はぁ、また始まった」
背後からダンネルの声がした。
「何が?」
「その顔だ」
……また言われた。
「今日はもう終わりだぞ」
「見てるだけだよ…」
「昨日も似たようなことを言ってなかったか?」
私は岩片を布へ包んだ。
「ちゃんと寝るよ」
「…ならいい」
ダンネルは少し離れたところまで歩いてから、振り返った。
「アル」
「何?」
「山の奥に何があるか知らんが、調べるなら順番を守れ」
私は一瞬だけ黙った。
「…分かってる」
今度は本当にそう思っている。
四十一年前のノエルも、この地域で魔脈を測っていた。
同じように流向の変化へ気付き、岩層との位置関係にも疑問を持った形跡がある。
その後も調査地点は北東へ伸び、やがて彼はS-071の研究へ関わることになる。
その途中で何を見つけ、何を考えたのかはまだ分からない。
なら私は、残された結論を先に信じるのではなく、自分で一つずつ確かめればいい。
私は地図に今日の最後の印を書き込んだ。
北東山地。
第一観測地点。
そのすぐ横には、『岩層との相関、要検証』と書く。
まだ仮説だ。
魔脈はただ地下を流れているだけなのか、それとも大地の性質がその経路へ何らかの影響を与えているのか。
今はまだ、答えは出せなかった。




