第31話 返事をしてはいけない
三つの輪を持つ塔と、その前に立っていた人影を確認した翌日。
私は学院の研究室で、昨日の観測記録を机いっぱいに広げていた。
向こう側の像が現れた時間。
透明な石の反応周期。
リーナが流した魔素量。
像の安定時間。
人影が動き始めた瞬間。
最後に測定器の針が跳ねた時刻。
それぞれを並べていくと、昨日は興奮して気付かなかった細かな違いがいくつも見えてくる。
その中で、一番気になったのは人影の動きだった。
「やっぱり、ただ手を振ってたわけじゃない」
向かいに座っていたリーナが顔を上げる。
「昨日の人?」
「うん」
私は記録紙へ簡単な図を描いた。
人影は最初に腕を上げ、そのあと一度下ろし、再び何度か同じような動きをしている。
像が乱れていたため正確な回数までは分からなかったが、少なくとも適当に腕を振っていたようには見えない。
「何か伝えようとしてた?」
「可能性はある」
「じゃあ、もう一回見れば分かるかも」
リーナはそう言ったが、私はすぐには頷かなかった。
昨日の最後。
人影がこちらを向いたように見えた直後、透明な石の反応が急激に強くなった。
こちらが見ているだけなら安定していたのに、人影が動いた瞬間に測定値が変化した。
偶然かもしれない。
ただ、もし向こう側からこちらを認識できているのなら、話が変わってくる。
「今日は勝手にやらないでね」
研究室の扉から声がした。
ソフィアだった。
その後ろにはラウエルとグレアムもいる。
「勝手にはやりません」
私が答えると、グレアムが少し疑わしそうな顔をした。
「その言葉をどこまで信用すべきか迷うところだな」
「昨日だって止めましたよ」
「止めろと言われたからだろう」
……それの何が悪いんだ。
ラウエルは私たちの横へ来ると、昨日の記録へ目を通した。
「人影の動作を調べたいのか?」
「はい。ただ、今日は出力を上げません。昨日と同じ条件で再現して、動きを記録するだけです」
「それなら許可できる。ただし、こちらから何らかの反応を返す行為は禁止する」
私は顔を上げた。
「反応?」
「手を振る、魔素を送り返す、像へ直接干渉する。全部だ」
「向こうから合図してきたとしても?」
「なおさらだ」
ラウエルの声はいつもより少し強かった。
「我々は、あの像が本当に別の空間を映しているのかすら完全には証明できていない。まして、向こう側の存在がこちらを認識しているのか、何を目的としているのかも分からん。その状態で返答するのは研究ではなく接触だ」
反論しようとして、やめた。
観測と接触は別だ。
今の私たちは、まだ見ることしかできていない。
そこへ勝手に一歩踏み込むのは危険すぎる。
「分かりました」
素直に答えると、リーナが少し驚いた顔をした。
「今日は素直だね」
「今日はって何?」
「いつもは一回くらい言い返すから」
……確かに。
午後。
昨日と同じ大型実験室へ、透明な石が運び込まれた。
配置もほぼ同じ。
中央に透明な石。
周囲に測定器。
リーナが周期へ合わせて微量の魔素を流し、私は周辺の魔素を整えて像を安定させる。
条件を変えないことを最優先にした。
三・一分。
最初の反応。
歪みが生まれる。
二回目。
灰色の景色が僅かに見える。
三回目。
塔の輪郭が出る。
そこから数回繰り返すと、昨日とほぼ同じ三輪の塔が像の奥へ現れた。
今日は最初から準備していたため、昨日より安定が早い。
「塔を確認」
ソフィアが記録する。
「人影は?」
グレアムが聞く。
「まだいません」
私は像の下部を見る。
塔、平らな地面、その奥の低い建造物らしき影。
昨日と同じ場所だ。
だが、人影は見えない。
次の周期、変化なし。
さらに次。
「……来た」
塔の左側に、小さな人影が現れた。
昨日と同じ人物かどうかは分からない。
遠すぎて顔も服装も見えない。
ただ、体格は近いように見える。
その人影は塔の前まで歩いてくると、こちら側へ身体を向けた。
部屋の空気が変わった。
「全員、何もしないように」
ラウエルが念を押す。
誰も返事をしない。
人影が腕を上げる。
一度、下ろす。
もう一度。
私は数える。
二。
少し間が空く。
今度は三回。
「……数字?」
ソフィアが小さく呟いた。
人影はさらに動く。
一回。
一回。
最後に、二回。
私は紙へ書く。
二、三、一、一、二。
「2、3、1、1、2……」
リーナが隣で読む。
意味は分からない。
ただ、昨日のような適当な動きではない。
明らかに区切りがある。
「記録だけしろ」
ラウエルが言う。
「解釈はあとだ」
その通りだ。
私は人影から視線を外さず、動きだけを書き続ける。
すると今度は、人影が地面へ何かを描き始めた。
指なのか棒なのかは分からない。
像が粗いため線そのものまでは見えないが、何度も同じ場所へ腕を動かしている。
「図形を描いてる?」
リーナが言う。
私は像の安定を少しだけ強めた。
出力は変えない。
周囲の魔素の乱れだけを減らす。
像が僅かに鮮明になる。
地面には円、その内側へもう一つの円。
さらに、そこを横切るような線。
見覚えがあるような、ないような。
「アル、触るなよ」
グレアムが言う。
「触ってません」
分かっている。
これは見るだけだ。
人影は描き終えると、一歩後ろへ下がった。
そして、もう一度こちらを見る。
そのとき、塔の奥から別の影が現れた。
「……もう一人」
ソフィアが息を呑む。
最初の人影より小さい。
子供?
それとも単に遠くにいる?
二人目の人影は、最初の人物の横まで来ると、しばらく地面の図を見ていた。
やがて、その小さな影もこちら側を向く。
昨日は一人だけ、今日は二人。
ただの残像や偶然の物体ではない可能性が、さらに高くなった。
「向こうに、人が住んでる……?」
リーナが小さく言う。
誰も答えなかった。
まだ人間だと断定はできない。
だが、少なくとも何らかの知性を持つ存在がいる可能性は高い。
最初の人影が再び腕を上げる。
今度は、一回、二回、三回。
それから地面の図を指す。
私は反射的に手を動かしかけた。
同じ回数を返せば。
こちらから見えていることを伝えられる。
……もしかすると意思疎通できる?
その瞬間。
「アル」
ラウエルの声が飛んだ。
手を止める。
「返事をするな」
「……分かってます」
本当はかなり返したい。
四十一年前から、向こう側には誰かがいる。
ノエルも見た可能性がある。
そして今、そいつらは明らかにこちらへ何かを伝えようとしている。
だったら、応えればもっと分かる。
でも、何が起こるか分からない。
ノエルは接続を強め続け、最終的に消えた。
同じ間違いをする必要はない。
私は手を下ろした。
観測だけを続ける。
向こう側の人物はしばらく待っていたが、こちらから何も反応がないと分かったのか、再び地面の図へ視線を落とした。
その後、小さい方の人影がこちらへ一歩近づいた。
像の端、こちら側との境界に近い場所まで。
そして、手を伸ばした。
透明な石が反応した。
測定器の針が、一斉に動く。
「変動上昇!」
ソフィアが声を上げる。
「出力は変えてない!」
リーナも叫ぶ。
こちらからの魔素量は同じなのに、反応だけが強くなっている。
……向こう側から?
私は像を見る。
小さな人影の手が、こちらへ向けられている。
「切れ!」
ラウエルの声。
リーナが即座に魔素を止めた。
私も周囲の安定化を解除する。
像が一気に乱れ、三つの輪の塔も二人の人影も霞んでいく。
最後に、小さな人影が何かをした。
口が動いた?
声?
……分からない。
次の瞬間、像は完全に消えた。
実験室には、透明な石とゆっくり戻っていく測定器の針だけが残った。
「今の反応は?」
グレアムが聞く。
ソフィアが記録を見る。
「こちらの出力は一定。像が崩れる直前だけ、透明な石側の変動が急激に増えています」
「向こう側から干渉された可能性は?」
私が聞く。
ラウエルがすぐに答える。
「可能性としては残る」
明らかに、昨日までとは違う。
今日は向こう側の存在が合図らしき動きをし、数字のような並びを示し、図まで描いた。
さらに二人目の人影が現れ、その人物がこちらへ手を伸ばした瞬間、こちら側の透明な石が反応した。
見るだけの関係ではない可能性が出てきた。
「2、3、1、1、2」
私は記録を見た。
「これ、何だと思います?」
「分からん」
ラウエルは即答した。
「数字ですらない可能性もある。言葉かもしれんし、単なる動作の順序かもしれない」
「地面の図は?」
「それも同じだ」
何一つ分からない。
でも、情報はある。
それだけで十分だった。
私はノートへ今日の結果を書き込む。
人影一、人影二。
2・3・1・1・2。
同心円状の図形。
向こう側からの干渉らしき変動。
書き終えたところで、グレアムが私のノートを上から見る。
「アル」
「はい?」
「明日もやるつもりか?」
私は少し考えた。
本音を言えば、今すぐでも続きをやりたい。
だがらここから先は観測ではない。
相手がこちらを認識している可能性が高い以上、同じ実験を続けるだけでも接触になり得る。
「一回止めます」
私が答えると、グレアムが目を細めた。
「本当に?」
「そんなに信用ないですか?」
「ある程度はな」
……あるのかないのかどっちなんだよ。
私は透明な石を見る。
ノエル失踪から三か月後に、何の前触れもなくこちら側へ現れた物体。
四十一年前には十七・四分だった反応周期が、今では約三・一分にまで短くなっている。
その石を使えば。
向こう側が見える。
そこには三つの輪を持つ塔があり、その周囲には少なくとも二人の知性ある存在がいる。
そして、向こう側からもこちらへ何かを伝えられるかもしれない。
だからこそ、今は返事をしてはいけない。
何が扉を開くのか、何が接続を深めるのか。
まだ、誰にも分からないのだから。




