第28話 黒い石
S-071という名前を知ってから、三日が経った。
その間も魔脈の調査は続けていたが、以前のように毎日測定器を抱えて歩き回ることはやめていた。
ノエル・バークが残した記録と私たちの測定結果を比較すれば、北東方向へ続く大まかな流れは確認できる。
細かな濃度差を何十か所も測り直すより、今は四十一年前と現在で何が変わったのかを調べる方が早い。
その結果、一つだけ妙なことが分かった。
魔脈の位置そのものは、ほとんど変わっていない。
学院の北東から先日の戦闘地点を通り、さらにその先へ伸びている流れは、ノエルが調査していた四十一年前にもほぼ同じ場所を通っていた。
ところが、濃度変動の幅だけは現在の方が明らかに大きい。
特に北東街道周辺、先日の魔獣群が現れた場所では、ノエルの記録と比較して変動が激しくなっていた。
私はその結果を持って、再び王立魔法研究院を訪れていた。
「つまり、魔脈が新しくできたわけではないと」
ラウエルが私の資料を見る。
「はい。少なくとも四十一年前には、ほぼ同じ位置にありました」
「ならば、魔獣発生の原因を魔脈の存在そのものへ求めるのは難しいな…」
「私もそう思います。何かが変わったとすれば、流量か濃度、それか脈動の方です」
「あるいは、魔獣側が何らかの変化を起こした可能性も残る」
「それもあります」
横ではソフィアが、現在と過去の測定値を見比べていた。
「でも面白いね。北東街道だけ変動幅がかなり大きい」
「ですよね」
「ところで、測定器の違いは補正できてる?」
「ええ、ノエルが使っていた測定器そのものは残ってませんけど、同時期の同型機の校正記録があったので、ある程度は合わせました」
ラウエルがこちらを見る。
「いつ調べた?」
「昨日です」
「授業は?」
「出ました」
「……ならいい」
最近、研究の話をする時に、授業へ出たか確認されるようになった。
……もっと信用して欲しいものだ。
私たちはそのまま資料を並べ、四十一年前と現在の地点、濃度、変動幅、流向を順番に比較していった。
その中で、どうしても意味が分からないものが一つある。
ノエルの記録に何度も出てくる『17.4』という数値だ。
『脈動周期 17.4』と明記されている資料もあれば、単に17.4とだけ書かれているものもあり、別の記録では17.2や17.6と僅かにずれているものもある。
単純に十七・四秒という意味ではなさそうだった。
「これ、本当に周期なんですか?」
私が紙を指すと、ラウエルも記録を確認する。
「ノエル自身がそう記している以上、何らかの周期性を表しているのだろう。ただし、我々が普段使っている時間だけとは限らん」
「何かの基準値とか?」
「可能性はある」
そこでソフィアが別の紙を持ち上げた。
「こっちには『同調値』って書いてあるよ」
「同調?」
「何と同調するのかまでは書いてないけどね」
また分からないものが増えた。
とはいえ、ノエルが適当に数字を書いていたとは考えにくい。場所も日付も違う記録へ似た値を何度も残している以上、何らかの現象を継続して測定していたはずだ。
「S-071と関係あると思います?」
私が尋ねると、二人は僅かに黙った。
ラウエルが資料を閉じる。
「可能性はある」
「じゃあ、そろそろ見せてもらえませんか?」
「……昨日も聞いたな」
「今日は資料も揃えてきました」
「そういう問題ではない。必要なのは資料ではなく権限だ」
……やっぱりそこか。
ソフィアが苦笑しながら口を挟む。
「でも、昨日よりは状況が変わったかもしれないよ。アル君が持ってきたデータなら、S-071の保管記録と照合する価値はあると思う」
「保管記録?」
思わず聞き返すと、ソフィアが口を閉じた。
口を閉じてももう遅い。
しっかり聞こえた。
「S-071って、研究院にあるんですよね?」
存在していること自体はすでに聞いているが、どこで管理されているのかまでは教えられていない。
ラウエルは小さく息を吐いた。
「一部はな」
その言葉で、今度は別のことが分かった。
「一部ってことは、一つじゃないんですね」
「……余計なことを言ったな」
「何個あるんです?」
「そこから先は、今の君には答えられない」
ソフィアが横で笑っている。
私はさらに質問しようとしたが、ラウエルに止められた。
「待て。君の目的はS-071の秘密を暴くことではないだろう」
「魔脈です」
「なら、まずそこから外れるな」
……悔しいけれど、正しい。
私は一度椅子へ座り直した。
その日の午後、予想していなかった連絡が入った。
私が持ち込んだ測定結果について、S-071を管理している部門が直接確認したいという。
ただし、あくまで資料を渡して説明するだけであり、S-071そのものを見せてもらえるとは聞いていない。
案内されたのは研究院の地下だった。
普段の研究区画とは雰囲気がまるで違い、窓のない廊下が奥まで続き、いくつかの扉には見たことのない封印魔法陣が刻まれている。
私の前を歩くラウエルが振り返った。
「勝手に触るなよ」
「……触りませんよ」
「勝手に魔素を伸ばすのも駄目だ」
私は少し黙った。
「返事は?」
「…はい」
そこまで禁止されると、余計に気になる。
地下二階のさらに奥へ進み、一つの部屋へ入ると、五十代くらいの男性が待っていた。研究者というより、何かを管理する役人に近い服装をしている。
「アル・レイヴァンだな」
「はい」
「提出された魔脈測定記録は確認した。現在の北東流路で変動幅が増大しているという判断に間違いはないか?」
机の上には、私たちが作った地図が広げられている。
「測定した範囲では間違いありません。ただ、原因まではまだ分かっていません」
「四十一年前のバークの記録との比較は?」
「位置と流向はかなり近いです。濃度そのものは測定方法が違うので完全には比べられませんが、少なくとも変動幅は現在の方が大きいと思います」
管理官は頷いた。
「17.4については?」
「分かりません。ノエル・バークが何度も記録している数値ですが、時間なのか、それとも別の値なのかも判断できていません」
「……そうか」
表情はほとんど変わらない。
だが、何か知っているように感じる。
「S-071とは関係あります?」
私が尋ねると、管理官の目がほんの僅かに動いた。
「その判断をするには、君の権限では情報が足りない」
否定はしなかった。
「じゃあ、関係がある可能性は――」
「アル」
ラウエルに止められた。
管理官はしばらく私を見たあと、机の上へ一枚の書類を置く。
「今回のデータについては、こちらで保管物との比較を行う」
「結果は教えてもらえます?」
「開示可能な範囲なら伝える」
どうやら、今のところ本当に資料を渡すだけらしい。
…少し残念だった。
部屋を出て廊下を戻っている途中、私は曲がり角の手前で足を止めた。
何かが変だった。
普段なら空気にも壁にも、人がいなくても周囲には必ず微量の魔素が存在する。
ところが右側にある厚い扉の向こうだけ、周囲と比べて妙に薄い。
正確には、そこだけ魔素が少ないのではなく、周囲の魔素が僅かにそちらへ引かれているように感じた。
私は扉を見る。
何の表示もない。
「アル」
ラウエルが振り返った。
「どうした?」
「……あの部屋、何です?」
一瞬だけ表情が変わる。
分かりやすい。
「行くぞ」
「……S-071ですか?」
答えない。
「やっぱり?」
「勝手に魔素を伸ばすなと言っただろう」
「伸ばしてません。何もしなくても感じただけです」
ラウエルが足を止めた。
「何を感じた?」
今度は向こうから聞いてきた。
「周囲の魔素が、ほんの少しだけあの扉の方へ流れてます。かなり弱いですけど、方向ははっきりしています」
ラウエルの表情から冗談っぽさが消えた。
「どの程度だ?」
「意識しなければ気付かないくらいです。でも確実に流れてる」
数秒の沈黙のあと、ラウエルは扉を一度だけ見た。
「ここから離れるぞ」
今度の声は少し強い。
私は素直に従った。
研究院の一階へ戻るまで、ラウエルはほとんど何も話さなかった。
夕方、私たちはソフィアの研究室へ戻っていた。
さっきの出来事を聞いたソフィアも、珍しく笑っていない。
「アル君、本当に何もしてない?」
「何もしてません。外部魔素の取り込みも止めてました」
あの場所では、言われた通りにしていた。
それでも、周囲の魔素が何かに吸われるように流れているのを感じた。
「S-071って、魔素を吸収するんですか?」
私が聞くと、ソフィアがラウエルを見る。
ラウエルは少し考えたあと、ようやく口を開いた。
「そこまでは教えても問題ないだろう。S-071には、周囲の魔素を取り込む性質が確認されている」
胸の奥が少し熱くなった。
私の外部魔素取り込みと少し似ているのか?
もちろん同じものだと決めつけるつもりはない。
私は取り込んだ魔素を自分の魔法へ使うが、S-071が吸収した魔素を何に使っているのかは分からない。
「吸収した魔素はどこへ行くんです?」
今度は二人ともすぐには答えなかった。
やがてラウエルが言う。
「少なくとも、外部へ再放出している形跡は確認されていない」
魔素が入っているのに、外へは出てこない。
それなら内部へ蓄えているのか。
だが、もし四十一年以上、あるいはそれより遥かに長い期間吸収を続けているなら、容量の問題が出てくる。
「いつ見つかったんです?」
「……それは今は答えられない」
「どこで?」
「同じだ」
「じゃあ、作られたものなんですか?」
その質問に、ソフィアが一瞬だけ黙った。
私はその反応を見逃さなかった。
「人工物なんですね」
「アル君」
「質問しただけですよ」
「…質問の形をした確認だよ、それは」
少し笑われたが、否定はされなかった。
私はノートを開き、現時点で確実に分かっていることだけを書き込む。
S-071は石に近い外見をしており、一つではない可能性が高い。現在も研究院側で管理されていて、周囲の魔素を吸収する性質が確認されているが、取り込んだ魔素を外部へ放出する形跡はない。
そして、ノエル・バークがその研究に関わっていた。
17.4という数値との関係は不明。
人工物である可能性も高いが、まだ断定はできない。
「これ以上は、今日のところ分からなさそうですね」
「十分知ったと思うが」
ラウエルに言われた。
確かに、数日前まで名前すら知らなかったことを考えれば十分すぎる。
私はノートを閉じかけて、もう一つ気になっていたことを思い出した。
「ラウエル先生。ノエルは、どうして魔脈を調べ始めたんですか?」
「どういう意味だ?」
「S-071を研究するために魔脈を追ったのか、それとも、魔脈を追っていたらS-071に辿り着いたのかです。この二つだと、かなり意味が違います」
ラウエルはすぐには答えず、しばらく考えてから口を開いた。
「残っている記録だけを見るなら、後者だ。バークは最初からS-071を研究していたわけではない」
つまり、最初にあったのは魔脈研究だった。
ノエルは魔脈を北東へ追い、その途中でS-071と関わり始め、そこから研究内容が少しずつ変わっていった。
さらに記録には17.4という謎の数値が現れ、最終的には本人が失踪している。
今まで別々に見えていた情報が、少しずつ近づき始めている。
ただし、まだ一本に繋げるには早い。
研究院を出ると、王都の空はすでに赤く染まり始めていた。
魔脈、S-071、ノエル・バーク。
三つとも北東へ進むほど情報が増えているように見える。
でも、偶然かもしれないし、私がそういう情報ばかり拾っているだけかもしれない。
それでも一つだけ、確かになったことがある。
S-071は古い文書の中だけに残された名前ではなく、今も実在し、周囲の魔素を吸収し続けている。
そして、その魔素がどこへ消えているのかについては、誰も答えてくれなかった。
私は歩きながら、ノエルの記録に何度も残されていた17.4という数字を思い出す。
もしあれがS-071そのものの値ではなく、何か別の現象との関係を表しているのだとしたら、次に必要なのは推測ではなく観測だ。
四十一年前のノエルも、きっと同じように一つずつ測ったのだろう。
なら今度は、私が確かめればいい。




