第17話 失われた魔法
上級資料庫への閲覧を許可されてから、三日が経った。
その三日間、私は授業が終わるたびに図書館へ通っていた。
通常の図書館にも読みたい本はいくらでもあるが、上級資料庫へ入ってしまうと状況が変わる。
一般向けの魔法書とは明らかに違う。
廃止された魔法理論、過去の研究記録、実用化されなかった魔法陣、古い時代の魔道具に関する資料など、現在の教科書ではほとんど触れられていない文献が大量に残されていた。
しかも、古い本になるほど面白い。
現代の魔法書では、六属性の存在はほとんど疑われていない。
火は火属性、水は水属性であり、人間は生まれ持った属性適性に従って魔法を習得する。それが当然の前提として書かれている。
ところが数百年前の文献まで遡ると、少しずつ表現が変わってくる。
『魔素は世界を巡る力である』
『人の意思は魔素を介し、世界へ現象を生じさせる』
さらに古い研究記録では、火や水を「属性」ではなく、単に「術の結果」と表現しているものまであった。
まだ断定はできない。
六属性という考え方が単純に後世で整理された可能性もあるし、古い時代の理論が未熟だっただけかもしれない。
それでも、私の仮説と似ている。
それだけで読む価値は十分だった。
「また古い本?」
隣から声がした。
顔を上げると、リーナがこちらを覗き込んでいる。
最近では彼女もよく図書館へ来るようになった。
上級資料庫へ入る許可までは持っていないため、普段は一般図書区画で魔素制御や魔法陣に関する本を読んでいる。
今日は私が借り出した閲覧可能な資料を、上級資料庫の外にある机で一緒に見ていた。
「うん。新しい本より古い本の方が、六属性を絶対のものとして扱ってないことが多いんだ」
「古い方が正しいの?」
「それは分からない」
私は首を振った。
「古いから正しいわけじゃないよ。昔の人が間違えていて、研究が進んだ結果として六属性理論が完成した可能性だってある。ただ、いつ、どういう根拠で今の理論に変わったのかは知りたい」
「なるほど……」
リーナは少し考えたあと、本を覗き込む。
「アルって、六属性が嫌いなのかと思ってた」
「嫌いじゃないよ」
「そうなの?」
「分類としては便利だからね。炎を使う魔法を火属性ってまとめれば、話もしやすいし教えやすい」
問題は、その分類がそのまま世界の仕組みだと考えていいのかということだ。
私は机に置いていたノートへ一行書き加えた。
『分類と原理を混同しないこと』
これは魔法に限った話ではない。
前世の科学でも、観察した現象を分類することと、その現象がなぜ起きるのかを説明することは別だった。
「でも、アルは全部使えるんだよね?」
「一応」
「火も水も風も?」
「使える」
「土も?」
「使える」
「光と闇は?」
「学院で分類されている範囲なら」
リーナがじっと私を見る。
「やっぱりアルがおかしいだけなんじゃない?」
「それで終わらせたら研究にならないよ」
「冗談だよ」
笑われた。
その日の放課後も、私は一人で上級資料庫へ入った。
数日通ったことで、どの棚に何があるのかも少しずつ分かってきた。
手前には比較的新しい研究記録が多く、奥へ進むほど古い。
私は魔法史に関する棚を調べながら、さらに古い資料を探していた。
そして気付けば、あの扉の前に立っていた。
上級資料庫のさらに奥。
禁書区画。
扉の中央には複雑な認証術式が刻まれ、その横には小さな文字で注意書きがある。
『特別管理区画――許可なき者の入室を禁ず』
三日前、司書から聞いた。
この奥には、現代では使用を禁じられた術式や、再現不能となった古代魔法、出所不明の文献、そして現在の魔法理論と大きく矛盾する資料まで保管されている。
私はもちろん、まだ一度も触っていない。
グレアムとの約束もある。
ただ、入りたい。
ものすごく入りたい。
「……見るだけなら危なくないと思うんだけどな」
「何がです?」
突然後ろから声をかけられた。
「うわっ!」
振り返ると、そこにはあの年配の司書が立っていた。
「アル・レイヴァン君。またそこにいたんですか」
「見てただけです」
「三日前も同じことを言っていましたね」
「触ってませんよ」
念のため両手を見せる。
司書は少し笑った。
「そこまで入りたいのですか?」
「はい」
即答した。
「どうすれば許可をもらえますか?」
「通常、生徒には認められません」
「通常じゃなければ?」
「そういう返事をすると思いました」
どうやら読まれている。
司書によれば、禁書区画へ入れるのは学院の教師、正式な研究員、それから特別に許可された一部の上級生だけらしい。
単に危険な魔法が書かれているからではない。
術式の中には発動条件そのものが完全には解明されておらず、記述を真似しただけで事故につながる可能性があるものも存在するという。
その説明には納得できた。
前世でも、危険物や放射線源を知識のない人間へ自由に触らせることなどなかった。
研究には自由が必要だが、安全管理まで不要になるわけではない。
「許可は誰が出すんですか?」
「学院長です」
「なるほど」
「……今から行く気ですね?」
「聞くだけです」
司書がため息をつく。
「おそらく駄目ですよ」
「それはグレアム学院長が決めることなので」
私は資料を元の場所へ戻し、図書館を出た。
十分後。
「駄目だ」
学院長室へ入ってすぐ、グレアムに即答された。
「まだ全部説明してません」
「禁書区画へ入りたいのだろう?」
「どうして分かったんですか?」
「司書から連絡が来た」
早い。
あの司書、最初から連絡するつもりだったのでは。
「理由くらい聞いてください」
「聞こう」
私は机の前に座り、この数日で調べた内容を説明した。
古い文献ほど六属性を絶対視していないこと。
現代では捨てられた理論の中に、私の実験結果と似た記述が存在すること。
そして、さらに古い資料を確認すれば、六属性という考え方がいつ、どのように成立したのかを追える可能性があること。
グレアムは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「なるほど」
「なので――」
「それでも駄目だ」
駄目なのか。
「どうしてです?」
「上級資料庫とは危険性が違う。禁書区画には読むだけなら問題のない文献も多いが、実際に使用を禁じられた術式もある。中には、我々自身が完全には理解していないものまで存在する」
「実験はしません」
グレアムが黙って私を見る。
「……信用されてない?」
「君は入学してから何をした?」
「色々です」
「学院の外壁へ穴を開け、標準魔法陣を三分の一近い消費量まで改良し、学院でも最低水準の魔素量しか持たない生徒に上級火炎魔法を使わせた」
「全部ちゃんと許可された研究です」
「最初の外壁は許可していない」
「事故です」
グレアムが額を押さえた。
「君の場合、知った瞬間に試したくなるだろう」
否定しづらい。
「だから今回は、先に許可を取りに来ました」
「……そこは評価しよう」
少し間が空いた。
私は諦めずに聞く。
「では、どうすれば許可をもらえますか?」
グレアムの眉が僅かに動いた。
「絶対に入れないわけではないんですよね?」
「……誰に聞いた?」
「司書です」
「余計なところまで教えたな」
やはり方法はある。
グレアムは椅子へ深く腰掛け、しばらく考えてから口を開いた。
「本来なら、禁書区画の閲覧許可を得るには少なくとも四年生以上であり、魔法理論、魔法史、魔法陣学の上級課程を修了している必要がある」
「上級課程を修了すればいいんですね?」
「前半を聞いていたか?」
「四年生以上」
「そうだ」
「それは年齢制限ですか?」
グレアムが嫌そうな顔をした。
「……学年だ」
「一年生が四年生の修了試験を受けてはいけない規則は?」
「普通は受けようと思わん」
「規則は?」
しばらく見つめ合う。
やがてグレアムが大きく息を吐いた。
「……ない」
「なら受けます」
「即答するな」
「いつ受けられます?」
「話を最後まで聞け!」
仕方なく黙った。
グレアムは頭痛でもするように額を揉んでいる。
「アル。上級課程は四年かけて学ぶ内容だ。魔法理論だけではない。魔法史も、魔法陣学も含まれる」
「分かっています」
「三科目全てだぞ?」
「はい」
「……本気か?」
「禁書区画に入りたいので」
グレアムはしばらく黙ったあと、諦めたように背もたれへ身体を預けた。
「一週間後だ」
「え?」
「一週間後に試験を用意する。三科目全てで上級課程修了相当と認められれば、禁書区画の閲覧を許可する」
思わず身体を乗り出した。
「本当ですか?」
「ただし閲覧のみだ。資料の持ち出しは禁止、書庫内での魔法使用も認めない。危険指定された術式を詳しく調べたい場合は、必ず私か担当教師の許可を取れ」
「分かりました」
「それから試験問題は、通常の四年生向けより難しくする」
「大丈夫です」
「少しくらい嫌がれ」
なぜだろう。
むしろ難しい方が面白そうだ。
その日の夜。
私の寮の机には、二十冊を超える本が積まれていた。
魔法理論、魔法史、高等魔法陣学。
特に問題なのは魔法史だった。
理論は理解すれば応用できるし、魔法陣も構造を理解していれば、初めて見る術式でもある程度は考えられる。
だが歴史は違う。
人物、年代、戦争、条約、王朝。
覚えるしかない。
「王国歴二百三十七年、第二次北方魔獣侵攻……」
「その四年後に王立魔法研究院設立」
声がした。
振り返ると、椅子に座ったリーナが本を読んでいる。
「なんで知ってるの?」
「授業でやったよ」
「そうだっけ?」
「アル、あの授業で昔の魔法陣ずっと見てたでしょ」
思い出した。
「……多分」
「多分じゃないよ」
リーナが呆れた顔をする。
彼女には禁書区画のことを話していた。
すると、試験のために魔法史を教えてくれると言い出したのだ。
「魔法史、私が見るから」
「助かる」
「その代わり」
リーナが魔法陣学の本をこちらへ押す。
「こっち教えて」
「いいよ」
「難しい言葉いっぱい使わないでね」
「努力する」
「不安……」
こうして一週間、私は授業を受けながら、空いている時間のほとんどを試験勉強に使った。
試験当日。
学院長室の隣にある小さな部屋には、三種類の試験用紙が用意されていた。
魔法理論。
魔法史。
魔法陣学。
正面にはグレアムと、それぞれの科目を担当する教師が三人座っている。
「アル・レイヴァン」
「はい」
「これより禁書区画閲覧資格試験を行う。念のため言っておくが、これは一年生向けではない。通常の上級課程修了試験より難易度も上げてある」
「はい」
「制限時間は三科目合わせて六時間だ」
「分かりました」
「では始めなさい」
私は試験用紙を開いた。
三時間後。
「終わりました」
「……何?」
グレアムが顔を上げる。
「見直しも終わりました」
「まだ半分だぞ」
「はい」
三人の教師が私を見る。
なぜか全員、嫌そうな予感でもしたような顔をしていた。
結果が出たのは、その日の夕方だった。
魔法理論――満点。
魔法陣学――満点。
そして魔法史――九十六点。
「……四点」
悔しい。
「そこじゃない!」
グレアムに怒られた。
間違えたのは、百年以上前に締結された北部三領魔法協定の締結月だった。
四月だと思った。
五月だった。
「五月……覚えておこう」
「二度と受ける必要はない!」
グレアムは机へ答案を置くと、引き出しから一枚の黒い金属板を取り出した。
上級資料庫のものとは違う魔法陣が刻まれている。
「約束だ」
私はその金属板を見る。
「アル・レイヴァン。禁書区画の閲覧を許可する」
「ありがとうございます!」
翌日。
私は図書館の最奥に立っていた。
目の前には、何度も眺めた扉がある。
黒い許可証を認証部へ近づけると淡い光が走り、ガチャリと鍵の外れる音がした。
ゆっくり扉を開く。
古い紙と埃の匂いが漂ってくる。
室内は思ったほど広くないが、並んでいる本は明らかに違った。
古代術式、失伝魔法、危険指定研究、出所不明文献、王国禁制術式。
現代の文字ですら書かれていない本も多い。
「……すごいな」
私は慎重に棚を見ていった。
当然、片っ端から開くようなことはしない。
まず目録を確認し、危険指定されていない古代文献から探していく。
その中で、一冊だけ妙な本を見つけた。
表紙がない。
題名もない。
著者名もない。
他の本より明らかに古く、使われている紙の材質すら違っている。
管理票を確認すると危険指定はされておらず、分類は『古代魔法理論・著者不明』となっていた。
私は慎重に棚から取り出し、机へ運んだ。
最初のページを開く。
古い文字だ。
上級資料庫で似た時代の資料を読んでいたおかげで、完全ではないものの意味は取れる。
そして一行目を読んだ瞬間、私は動きを止めた。
『魔素を六つに分ける者たちへ。火、水、風、土、光、闇。それらは魔素の性質ではない。人が観測した結果に、名を与えたものにすぎない』
「……」
もう一度読む。
読み間違いではない。
次の行も、その次も同じだ。
この本の著者は六属性を知らないのではなく、明確に知ったうえで否定している。
「……いた」
思わず声が漏れた。
私より遥か昔に、同じことを考えた人間がいる。
いや。
まだ同じと決めるのは早い。
興奮を抑え、続きを読んだ。
そこには魔素を中心に置き、そこから複数の現象へ線を伸ばした図が描かれている。
熱、運動、光、物質。
魔素に六種類の性質があるのではなく、一つの魔素によって複数の現象へ干渉できると考えているように見える。
私が八年間かけて作ってきた仮説と、驚くほど似ていた。
ページをめくる。
すると今度は、人間の身体らしき図と、その周囲を巡る魔素の流れが描かれていた。
横には文章。
『人は己の内に力を持つ。しかし、己の内のみを見てはならない。世界は力に満ちている』
私は目を細め、さらに続きを追う。
『己の器に蓄えた力のみを用いる術には限りがある。優れた術者は世界より力を借り、それを己へ巡らせ、再び世界へ返す』
「……外部魔素」
今度こそ声が出た。
四歳の頃、私は周囲にも魔素が存在することに気付き、それを意識的に身体へ取り込み、自分の魔法へ使えるようになった。
普通の魔法使いは、自分の内部に蓄えた魔素を主に使う。
少なくとも、現代ではそれが一般的だ。
だが、この本を書いた人間は外部魔素を利用していた。
しかも続きを読むと、単に「周囲から取り込める」と書いてあるだけではなかった。
環境による魔素濃度の違い、吸収速度、自分の内部魔素との混合、複数人が同一領域の外部魔素へ干渉した際に起きる乱れ。
そこまで記録されている。
私は急いで研究ノートを開き、自分の実験結果と照合した。
一つ、二つ、三つ。
一致する。
それも、かなり正確に。
「……私より先まで行ってる」
悔しい。
だが、それ以上に嬉しかった。
前世で研究者だった頃にも、似た経験は何度もした。
自分が新しいと思った発見を調べると、何十年も前に近い研究をしていた人間が見つかることがある。
先を越されていたこと自体は悔しい。
だが、その研究があるなら私はそこから先へ進める。
ページをめくる速度が自然に上がった。
この人間は、どこまで魔法を理解していた?
私の知らない何を知っている?
しかし、途中で文章が突然途切れた。
「……あれ?」
次のページがない。
劣化して落ちたようには見えず、綴じ目を確認すると十枚以上がまとめて意図的に取り除かれている。
「なんで、よりによってここなんだ……」
外部魔素について、ここまで細かく書かれていたのに。
誰が、いつ、なぜ取り除いた?
疑問は増えるばかりだ。
仕方なく、その先に残されているページを開いた。
内容が大きく変わっている。
巨大な魔法陣らしき図。
現代の術式とは明らかに構造が違い、大小いくつもの円が複雑に重なり、それらを大量の線が接続している。術式記号にも見たことのない古代文字が使われ、中央だけは何かを置くためのように空白になっていた。
私は図の横にある文章を読む。
『第十二式。局所――固定術』
一文字だけ分からない。
それでも、その下は読める。
『対象領域における落下を停止し、固定点を基準として――』
そこで私は完全に手を止めた。
もう一度、ゆっくり読む。
落下を停止する。
物体を上へ持ち上げる、ではない。
浮かせる、でもない。
落下そのものを停止する。
私は前のページへ戻った。
魔素から複数の現象へ伸びた図。
熱、運動、光、物質。
その中に一つ、意味の取りづらかった古代文字がある。
辞書を使い、何度か確認する。
最も近い意味は――『重さ』。
「……重さ?」
私は椅子へ座ったまま、その文字を見つめた。
単純に重量について書いているだけかもしれない。
まだ何も断定できない。
だが、この本では『重さ』が熱や運動、光と同じように、魔素によって干渉できる現象の一つとして扱われているように見える。
しかも、その先には落下を止める術式。
もし、この二つが繋がっているなら。
頭の中に一つの言葉が浮かんだ。
「……重力?」
前世で、私は物理学者だった。
重力は当然知っている。
物体を落とし、星を巡らせ、宇宙そのものの構造にも関わる基本的な相互作用。
それを、魔素で操る?
背筋が震えた。
怖いからではない。
嬉しいのだ。
私はこの世界へ来てから八年以上、魔法を調べてきた。
六属性を疑い、外部魔素を取り込み、魔法陣を改良し、現象そのものへ干渉する魔法を作ってきた。
いつの間にか、自分はかなり先まで進んでいると思っていたのかもしれない。
だが違った。
私より遥か昔に、もっと先へ進んでいた人間がいる。
私はまだ入口に立っただけなのかもしれない。
「……最高だな」
思わず笑ってしまった。
次は何だ?
この人間は重力をどこまで扱った?
強くしたのか。
弱くしたのか。
方向まで変えたのか。
それとも、その先まで?
ページへ手を伸ばした、そのとき。
「アル・レイヴァン」
背後から名前を呼ばれた。
「うわっ!」
思わず肩が跳ねる。
振り返ると、グレアムが立っていた。
「……後ろから声かけておどかすの、流行ってるんですか?」
「午後の授業を三つ欠席した生徒を探しに来た学院長へ、最初に言うことがそれか?」
「授業?」
グレアムは何も言わず、小さな窓を指差した。
外は夕焼けに染まっている。
「……何時ですか?」
「もうすぐ五時じゃ」
おかしい。
ここへ入ったときは昼過ぎだったはずだ。
「そんなに経ってたんですか?」
「その顔を見る限り、本当に気付いていなかったようだの」
やってしまった。
グレアムは大きくため息をつきながら近づいてきたが、机に置かれている本を見ると表情が変わった。
「……その本をどこから?」
「奥の古代魔法理論の棚です」
「読めるのか?」
「全部じゃないですけど、かなり」
「なぜ読めるんじゃ?」
「上級資料庫にあった古代文字の入門書と辞書を読みました」
「それはいつかね?」
「ここ数日です」
グレアムが黙る。
「何ですか?」
「いや……もういい」
何かを諦めたらしい。
私は本をグレアムの方へ向けた。
「それより、これ見てください」
六属性についての記述。
外部魔素の利用。
そして『重さ』と『落下を停止する』という文章。
一つずつ説明していくにつれて、グレアムの表情から呆れが消えていった。
「……待て。本当にここは『落下を停止する』と読めるのか?」
「少なくとも今の私の解釈では。ただ、専門家にも確認してもらった方がいいと思います」
「この図は……」
「知ってるんですか?」
グレアムはしばらく魔法陣を見つめていた。
「似たものならな。古代遺跡から発見された術式の中に、浮遊魔法の原型だと考えられているものがいくつかある」
「浮遊魔法?」
現代にも物体を浮かせる魔法はある。
魔素によって対象へ上向きの力を加え、地面へ落ちる力を打ち消す方法だ。
だが、この文章は違う。
「逆かもしれません」
「何がだ?」
「古代の術式が未完成だったんじゃなくて、現代の浮遊魔法の方が簡略化されたものなのかもしれません」
グレアムがこちらを見る。
私は魔法陣を指差した。
「古代では『落下そのもの』へ干渉していた。でも、その理論が失われたあと、結果だけを再現しようとして物体を上へ押す今の浮遊魔法が作られたとしたら?」
「……」
「六属性も同じかもしれません。古代では魔素を一つの力として理解していた。それが失われたあと、残っていた魔法を火、水、風、土、光、闇に分け、その分類がいつの間にか魔素そのものの性質だと考えられるようになった」
グレアムは答えなかった。
私は付け加える。
「もちろん、まだ仮説です。この本一冊だけでは証明できません」
「そういうところでは妙に慎重なのだな」
「研究なので」
グレアムが僅かに笑った。
「この本がどこから来たのか、分かりますか?」
「管理記録を調べれば分かるじゃろう」
彼は本の裏に刻まれた小さな番号を確認した。
その数字を見た瞬間、表情が僅かに変わる。
「……なるほどの」
「何です?」
「この資料は、エルグラッドから回収されたものだな」
初めて聞く名前だった。
「エルグラッド?」
「古代遺跡だ」
その言葉だけで、私は食いついた。
グレアムがこちらを見る。
「その顔をすると思った」
「どこにあるんですか?」
「今日は帰れ」
「その前に――」
「夕食を食べろ。明日の授業にも出ろ。エルグラッドについて知りたいなら、明日『大陸古代遺跡調査記録』を読みなさい」
本の名前を覚える。
「どこにあります?」
「この書庫の第三列だ」
「ありがとうございます!」
私は立ち上がった。
「ただし今日は読むな」
「……十分だけ」
「駄目だ」
「五分」
「帰れ」
仕方ない。
私は本を元の場所へ慎重に戻し、その日は大人しく禁書区画を出た。
ただ、頭の中はもう明日のことでいっぱいだった。
古代文明。
六属性以前の魔法理論。
外部魔素。
落下を止める術式。
そして、エルグラッド。
この世界の魔法は、私が思っていたよりも遥かに深い。
そしてその奥には、現代では失われてしまった何かが、まだ眠っている。




