第14話 魔力量の少ない少女
王立魔法学院への入学が決まってから、三日が経った。
その間に寮への入居や授業の手続きを済ませ、私の生活は大きく変わった。
王立魔法学院では王都に家を持たない生徒のほとんどが学院敷地内の寮で生活するらしく、私に与えられた部屋も、ベッドに机、本棚、衣装棚まで一通り揃っていて、思っていたよりずっと快適だった。
ただ、私が最初に興味を持ったのは家具ではない。
「……ここにも魔素導線がある」
壁に埋め込まれた照明用の魔道具だった。
宿で見たものより明らかに新しく、操作板へ触れると天井に埋め込まれた魔石がすぐに発光する。そこへ流れる魔素も安定していて、途中の損失がかなり少ないように感じられた。
「学院仕様なのかな」
入寮初日、荷物を片付けるより先に三十分ほど壁を観察していたら、父さんに呆れられた。
「お前、本当にここでやっていけそうだな」
「うん」
「寂しくないのか?」
「寂しいよ」
そう答えると、父さんが少し意外そうな顔をした。
「そうなのか?」
「そりゃね」
父さんとユリーカは、翌日の朝には村へ戻る。
これから毎朝同じ食卓を囲むこともなければ、研究中にユリーカが勝手に部屋へ入ってきて、何をしているのか覗き込んでくることもない。
そう考えれば、やはり寂しい。
ただ、それとは別に、目の前には王立魔法学院がある。
二万冊以上の魔法書に、大量の研究資料。見たことのない魔道具や術式があり、学院長のグレアムは研究室や実験場まで使わせてくれると言った。
楽しみではないと言えば、嘘になる。
「心配しなくていいよ。多分、かなり楽しめるから」
「それは見れば分かる」
父さんは苦笑しながら、さっきから私が壁や照明、窓の縁に刻まれた術式ばかり見ている様子を眺めていた。
「ただな、アル。たまには帰ってこい」
その言葉に、私は少しだけ笑った。
「もちろん」
八年前、父さんと交わした「生きて帰ってこい」という約束は、今でもちゃんと覚えている。
翌朝、学院の正門前で父さんとユリーカを見送ることになった。
「ちゃんとご飯食べるんだよ!」
「食べるよ」
「研究して徹夜ばっかりしちゃ駄目!」
「たまには寝る」
「毎日寝て!」
「努力する」
「そこ努力するとこじゃないから!」
いつものユリーカだった。
父さんが笑いながら馬車へ荷物を積み込んでいる。
「あと手紙書いてね!」
「分かった」
「絶対だよ!」
「うん」
ユリーカはまだ何か言いたそうだったが、やがて小さく息を吐き、それまでより少しだけ静かな声で言った。
「頑張ってね。いっぱい勉強して……ちゃんと私にも教えてよ」
王都へ来た日に交わした約束を思い出し、私は頷いた。
「もちろん」
「約束だからね」
「覚えてるよ」
やがて馬車が動き始め、私は二人の姿が見えなくなるまで正門の前に立っていた。
寂しくないわけではない。
それでも、いつまでもここにいるわけにはいかない。
今日から、私の学院生活が始まる。
王立魔法学院には、魔法理論、魔素操作、属性魔法、魔法陣学、魔道具学、魔法史、戦闘実技といった様々な課程があり、さらに専門課程へ進めば結界術や治癒魔法、魔獣学なども学べるらしい。
時間割を渡された瞬間、私はかなり本気で悩んだ。
「全部受けたい」
担当教師が眉間を押さえた。
「無理だ」
「どうしてです?」
「時間が重なっている」
これは困った。
前世なら講義を録画するという方法もあったのだが、この世界ではそうもいかない。
「資料だけもらうことは?」
「担当教師に頼め」
「分かりました」
「あと、授業中に勝手に実験を始めるな」
教師が念を押すようにこちらを見る。
「まだ何もしてませんけど」
「学院長から言われている」
グレアム。
余計なことを。
私は渡された時間割を眺めながら廊下を歩いた。
最初の授業は、魔素操作基礎。
正直に言えば「基礎」という部分には、それほど期待していなかった。
私はすでに百本以上の魔素を同時に制御できるし、入学試験でも十個の金属球を個別に動かしている。基礎的な操作なら、新しく学ぶことはそれほど多くないだろう。
ただ、他人がどうやって魔素を扱っているのかを見る機会は、これまでほとんどなかった。
村ではユリーカくらいしか比較対象がいなかったが、ここには魔法を専門的に学ぶ生徒が何百人もいる。
それだけでも十分に意味はある。
教室へ入ると、すでに二十人ほどの生徒が集まっていた。
私が入った瞬間、何人かの視線がこちらへ向く。
「アル・レイヴァンだ」
「例の?」
「外壁壊した……」
聞こえている。
まだ三日前の話なのに、噂が広がるのが早い。
私は気にせず空いている席へ座ったが、隣にいた少年が少しだけ椅子を離した。
なぜだ。
噛みついたりしないのに。
やがて、四十代ほどの男性教師が細長い杖を持って教室へ入ってきた。
「全員揃ったな」
教室を見回した教師の視線が、一瞬だけ私のところで止まる。
「……今日は壁を壊す授業ではないから安心しろ」
教室に笑いが起きた。
私まで見る必要はあっただろうか。
「魔素操作基礎では、魔法を発動する前段階となる魔素の制御能力を学ぶ。魔素量がどれほど多くても扱えなければ意味がないし、逆に魔素量が少なくとも制御が優れていれば、同じ魔法をより少ない消費で発動できる」
その言葉に、私は少し興味を引かれた。
考え方そのものは当然だが、学院でも魔素量と制御能力を別のものとして教えているらしい。
「今日は各自の制御精度を確認する」
教師が机の上へ置いたのは、透明な筒の中に十枚の薄い金属板が並んだ、小さな測定器だった。
「内部へ魔素を流すと、一枚目の板が動く。そこから魔素量を増やさず、流れだけを細く分割して二枚目、三枚目と順番に動かしていく。五枚で合格、七枚なら優秀、この学年で八枚以上動かせる者はほとんどいない」
なるほど。
入学試験の金属球は同時制御できる本数を見るものだったが、こちらは一本の魔素をどこまで細かく分けられるか、さらにそれぞれへ必要最小限の量だけを送れるかを見る試験らしい。
「ただし、単純に流す魔素量を増やせば板はまとめて動いてしまう。その場合は失敗だ。あくまで一定量の魔素を細かく分割しろ」
面白そうだ。
順番に生徒たちが挑戦していく。
最初の少年は三枚、次は五枚、その次は六枚。
四枚で止まる者もいれば、七枚まで動かして小さな歓声を浴びる生徒もいた。
私は結果よりも、彼らがどう魔素を動かしているのかを観察していた。
やはり、人によってかなり違う。
魔素量の多い生徒は太く安定した流れを作りやすい反面、細かく分割しようとすると境界が乱れやすい。逆に魔素量がそれほど多くない者の中には、流れそのものは弱くても、かなり綺麗に操作している者がいる。
やはり、魔素量と操作精度は別の能力として考えた方がいい。
そんなことを考えていると、
「次。リーナ・フェルミア」
教室の後ろから、一人の少女が立ち上がった。
私と同じくらいの年齢だろう。
淡い茶色の髪を肩のあたりで切り揃えた、学院指定の制服を着た少女だった。
外見だけなら、それほど目立つところはない。
だが、周囲の反応が少し違った。
「リーナか」
「どうせまた……」
小さな声が聞こえる。
あまり良い意味ではなさそうだ。
リーナは気にした様子もなく測定器の前へ立ち、教師に促されて静かに手を伸ばした。
その瞬間。
私は思わず姿勢を変えた。
「……え?」
魔素が、驚くほど少ない。
学院へ来てから見た生徒の中でも間違いなく最低水準で、村の一般人と比較しても決して多いとは言えない。
これで、どうやって学院へ入った?
そんな疑問を持った直後、リーナの魔素が測定器へ流れ込んだ。
一枚目が動き、続いて二枚目、三枚目、四枚目と進んでいく。五枚までは特別珍しくないが、六枚目が動いたあたりから教室の空気が変わり、七枚、八枚と続いたところで教師の表情まで変わった。
そして、九枚目。
私は金属板ではなく、彼女の魔素そのものを追っていた。
異常なほど細い。
一本の魔素を複数へ分割しているのは間違いないのに、その境界がほとんど乱れていない。九本すべてが糸よりも細い状態で完全に独立し、互いに干渉することなく測定器へ届いている。
私なら同じことはできる。
十枚どころか、百でも制御できるだろう。
だが、違う。
私の場合は必要な精度を確保した上で、それを維持するだけの十分な魔素量を使っている。
リーナは違った。
そもそも使える魔素が少ないからこそ、一滴も無駄にしない。
普通、人間が魔素を操作すれば、どれだけ丁寧に制御しても多少は目的外の方向へ散る。私だって完全なゼロではない。
だが、彼女の散逸は限りなくゼロに近かった。
そして。
カチッ。
十枚目が動いた。
教室が完全に静まり返る。
教師ですら、すぐには言葉が出なかった。
「……十枚」
誰かが呟く。
リーナは嬉しそうな顔をするでもなく、小さく息を吐いて手を下ろした。
教師が確認する。
「リーナ。今の魔素量は?」
「最初から最後まで同じです」
「途中で増やしていない?」
「はい」
教師はしばらく測定器を見たあと、ゆっくり頷いた。
「……十枚。満点だ」
教室にざわめきが広がる。
だが、聞こえてくるのは驚きだけではなかった。
「でも魔素量が少なすぎるし」
「実戦じゃ使えないだろ」
「十枚動かせても攻撃魔法は弱いんじゃ……」
リーナは何も言わなかった。
まるで、そう言われることに慣れているようだった。
私は周囲の声をほとんど聞いていなかった。
頭の中では、さっき見た魔素操作を何度も思い返している。
「……すごい」
気付けば、声が漏れていた。
隣の生徒がこちらを見て、リーナも一瞬だけ私へ視線を向ける。
その直後。
「次。アル・レイヴァン」
教師に呼ばれ、私はようやく自分の番だったことを思い出した。
測定器の前へ立つ。
さっきまでなら、十枚を動かして終わるつもりだった。
だが今は違う。
リーナの操作を見た。
なら、自分でも試してみたい。
「始めていい」
「はい」
私はいつもより意図的に魔素量を落とし、必要最低限の量だけを測定器へ流した。
そこから細かく分割していく。
一枚、二枚、三枚。
四枚、五枚、六枚と順調に進み、さらに流れを細く整えながら七枚、八枚、九枚へ繋げる。
最後に十枚目。
カチッ。
すべて動いた。
「……また十枚か」
教師がため息をついた。
「君たちは基準という言葉を知っているのか?」
教室から笑いが起きる。
だが私は測定器を見たまま、手を下ろさなかった。
「アル?」
「もう一回やってもいいですか?」
教師が怪訝な顔をする。
「すでに十枚動いている。これ以上、何を測る?」
「効率です。同じ結果を出せるなら、もっと少ない魔素でできるかもしれないので」
しばらく黙っていた教師は、やがて諦めたように息を吐いた。
「……一度だけだぞ」
「ありがとうございます」
もう一度、今度は先ほどよりさらに魔素量を減らす。
一枚目を動かすだけでも、さっきより僅かに反応が鈍い。
そこから分けていく。
今まで私は、五十本、百本、その先へと、操作できる本数を増やす方向ばかりを強く意識してきた。
もちろん効率についても研究はしていた。
だが無意識のうちに、自分には十分な魔素があることを前提にしていたのだと思う。
足りなければ周囲から取り込める。
だから私は、「魔素そのものが足りない」という条件を真剣に考えたことがほとんどなかった。
もし最初から使える魔素量が極端に少なければ、どうやって最大の結果を出す?
その場合に重要になるのは、単純な出力ではない。
どれだけ無駄なく、必要な場所だけへ魔素を送れるか。
精度だ。
私は魔素の流れをさらに細くし、余計な揺らぎを抑えながら一枚ずつ動かしていった。
八枚。
九枚。
そして十枚目まで動く。
先ほどより、明らかに少ない魔素量で同じ結果が出た。
「……なるほど」
面白い。
まだ下げられる気がする。
「もういい」
教師が言った。
「え?」
「顔を見れば分かる。三回目をやるつもりだろう」
「駄目ですか?」
「授業が終わる」
残念。
私は席へ戻ったが、頭の中ではすでに新しい研究が始まっていた。
魔素量、操作精度、変換効率。
これらを一つの能力としてまとめて考えるのではなく、個別に測る必要がある。
今まで私は出力と消費量を中心に見ていたが、そこへ操作誤差や散逸率、一単位の魔素がどれだけ目的の現象へ変換されているかという要素を加えれば、もっと正確に魔法を評価できるかもしれない。
「……面白い」
「何が?」
不意に声をかけられた。
横を見ると、いつの間にかリーナが近くに立っていた。
周囲を見る限り、授業はもう終わったらしい。
「さっきの操作」
私が答える。
「すごかった」
リーナが少し驚いた顔をした。
「私の?」
「うん」
「……十枚動かしたこと?」
「それもだけど、魔素がほとんど散ってなかった」
その瞬間、リーナの目が僅かに大きくなった。
「分かったの?」
「分かるよ」
「……今まで、そんなこと言われたことない」
「そうなの?」
「みんな、魔素が少ないって言うから」
リーナは少しだけ視線を落とした。
「大きな魔法が使えないし、実技でもいつも一番弱いから」
なるほど。
周囲の反応の理由が分かった。
この学院では、魔素量や出力、使える魔法の規模といった分かりやすいものが才能として評価されやすい。
リーナの能力は派手ではない。
十本の魔素を完全に独立制御できても、そこから出せる魔法そのものが小さければ、その価値は目立ちにくいのだろう。
だが。
「それ、多分とんでもない才能だよ」
「……え?」
「少なくとも私は、あそこまで無駄のない魔素操作を見たことがない」
父さん、ユリーカ、神官、試験官、グレアム、学院の教師たち。
これまで多くの人間の魔素を見てきた。
その中でも、リーナの精度は明らかに異常だった。
「本当に?」
「うん」
私は少し考えてから付け加える。
「私より上手い部分もある」
その瞬間、近くにいた生徒たちが一斉にこちらを見た。
リーナ本人まで固まっている。
「……私が?」
「うん」
「アルより?」
「精度だけなら」
なぜそこまで驚くのか分からない。
私は百本以上の魔素を扱えるし、出力も魔素量も多い。
だが、それは全ての能力で私が上だという意味ではない。
自分より優れた結果があるなら認めればいいし、そこから学べることがあるなら調べればいい。
研究とはそういうものだ。
「どうやってるの?」
「え?」
「さっきの操作。魔素を分けるとき、何を意識してる?」
リーナは少し戸惑いながら答えた。
「何って……細くするだけ」
「細く?」
「うん」
「二本へ分ける瞬間の境界は?」
「きょうかい?」
「普通、分ける瞬間に少し乱れるでしょ?」
「……乱れる?」
話が噛み合わない。
そこで私は、別の可能性に気付いた。
「リーナ。魔素って、どう見えてる?」
「見えるって?」
今度は私が黙る番だった。
リーナは不思議そうに首を傾げる。
「感じるんじゃないの? こう……触るみたいな感じで」
触る。
視覚ではない。
ユリーカとも違う。
「目を閉じても変わらない?」
「うん」
「距離は?」
「近くだったら分かるよ」
「どれくらい?」
リーナは少し考えてから教室を見回した。
「……この教室くらい?」
幅は十数メートルある。
その範囲にある魔素を、触覚に近い感覚で把握できる?
しかも、あの精度で。
「……すごいな」
また声が出た。
リーナは困ったような顔をする。
「アルの方がすごいよ。学院の壁壊したって、みんな言ってる」
「壁はどうでもいい」
「学院の壁だよ?」
「直せるでしょ」
「そういう問題なのかな……」
多分、違うらしい。
だが今は、壁よりリーナの方が遥かに気になる。
「もう一回見せて」
「え?」
「魔素操作」
「今?」
「うん。少しだけ」
リーナは私の顔をじっと見たあと、小さく笑った。
「アルって変な人だね」
最近、よく言われる。
「リーナも十分変だと思う」
「私?」
「うん」
「どこが?」
「その魔素操作」
「それは変じゃないよ」
「私から見れば変」
「じゃあアルも変」
「それは否定しない」
リーナが笑った。
初めて、ちゃんと笑った顔を見た。
その日の夜。
私は寮の机に向かい、新しいノートを開いた。
表紙に書いた題名は、
『魔素操作精度と変換効率について』
今日見たリーナの魔素操作を思い返しながら、私は一つずつ考えを整理していく。
リーナの魔素量は少ない。
だが、操作精度は異常に高い。
もし魔法の強さが単純に魔素量だけで決まるなら、彼女が強力な魔法使いになるのは難しいだろう。
しかし、出力を決めるものが魔素量だけではなく、操作精度や散逸率、現象への変換効率まで含んだ結果だとすれば、話は変わってくる。
例えば、保有する魔素量が他人の十分の一しかなくても、同じ現象を起こす際の損失を大幅に減らすことができれば、その差は縮まる。
もちろん、単純に効率を十倍にすれば同じ出力になるなどという話ではない。
現象を起こすために最低限必要なエネルギーもあるだろうし、魔素そのものの変換には別の限界が存在する可能性もある。
それでも。
私は今まで、一つの前提を無意識に置いていた。
魔素量は多い方が有利だ。
それ自体は間違っていない。
使える資源が多いのだから、当然有利だろう。
特に私の場合は、自分の内部にある魔素だけでなく、周囲に存在する外部魔素まで取り込んで利用できる。
魔素量という一点だけなら、私はかなり特殊な条件にいる。
だが。
魔素量が少ないことと、魔法使いとして弱いことは同じではない。
今日のリーナを見て、それをはっきり理解した。
魔法を決める要素はもっと多い。
保有魔素量。
一度に扱える制御本数。
操作精度。
発動速度。
散逸率。
現象への変換効率。
術式構造。
周囲の環境条件。
そして、私の場合は外部魔素への干渉と取り込み。
それらを分けて考えた上で、最終的にどのような現象が起きるのかを調べる必要がある。
私はノートへ次々に仮説と式を書き込んでいった。
まだ何も証明できていない。
式だって仮のものに過ぎない。
それでも、進む方向は見えてきた。
そして書きながら、思わず少し笑ってしまう。
学院へ来てまだ数日。
それなのに、もう新しい疑問が増えた。
やはり、ここへ来て正解だった。
翌日。
私はリーナに、こう聞くことになる。
「実験、手伝ってくれない?」
その一言から。
私とリーナの、少し変わった研究が始まることになる。




