第十話「Hollow」
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視点は戻り、
暗い部屋で椅子に座る私(緑)。
県大会まであと三日になった。
深夜二時を過ぎても部屋の明かりは消えていない。
重苦しい部屋の中でパソコンのモニターの青白い光だけが私の顔を照らしている。
カチ、カチ、とマウス音が響く。
──ネット麻雀。
「⋯⋯ロン」
小さく呟きながらマウスを動かす。
画面の向こうの相手は格上だ。
でも以前なら正確に読み切れなかった相手の危険牌も今では分かるようになってきた。
押し引き。
待ちの選択。
残るアガり牌の数。
数日前とは明らかに違う。
その変化は九頭龍も感じていた。
間違いなく強くなっている。
既に同世代を相手にするなら通用するレベルまで届いている。
でも──。
今の私には出来るようになった喜びよりも、
出来ない焦りの方が強く感じていた。
しかしそれは経験値でしか得られないもので、
この短期間ではどうしても埋まらなかった。
あるレートを越えた途端、勝てなくなる。
読み合いで押し切られる。
勝負所で一歩遅れる。
そして最後に放銃をしてしまう。
「⋯⋯また」
小さく表示される順位。
無言で次の対局ボタンを押した。
勝てない。
届かない。
まだ──。
まだ海里には届いていない。
その現実だけが胸を締め付けていた。
◇
気が付けば外はすっかり明るくなっていた。
カーテンの隙間から差し込む光がぼんやりと部屋を照らしている。
「はぁ⋯⋯」
重い体を起こした。
寝た気がしない。
頭も痛い。
それでも制服に着替え学校へ向かう。
◇
授業。
友達との会話。
先生の声。
全ての音が遠かった。
帰宅すると少しだけ横になって、
またすぐに塾へ行く。
問題を解いてすぐに家へ帰る。
そして深夜にはパソコンの前へ座る。
アカウント名を入力する。
───《アカウント名:Hollow》
アカウント名に意味はない。
別になんでも良かった。
咄嗟に頭を過ぎった単語だった。
でも今の私にはどこかぴったりな名前で、
皮肉にも気に入っている。
ログイン。
対局開始。
──
──
────結果。
二戦とも負けが続いた。
「⋯⋯っ」
爪を噛む。
画面に映る順位を受け入れられなかった。
これじゃまだ海里には届かない。
もちろん大会の頂点にも。
その焦燥感だけが私の心を埋め尽くした。
そして震える指でマウスを握ったまま小さく口を開いた。
「ねぇ⋯⋯九頭龍」
「⋯⋯本番、あなたが打ってよ⋯⋯⋯」
──。
───。
重い言葉だった。
部屋の空気が止まる。
パソコンのファンの音だけが小さく響いた。
九頭龍も言葉を失っていた。
モニターに顔を向けたまま九頭龍の方は振り返らなかった。
「⋯⋯ねぇってば。
なんか返してよ⋯⋯」
モニターに映るその顔はもう弱音というより、
"壊れかけた人間" の顔だった。
九頭龍は口を開きかける。
だが何を言えばいいのか分からない。
否定するべきか。
怒るべきか。
励ますべきか。
沈黙が続く。
数秒なのに妙に長く感じた。
「どうせ今の私じゃ大会では勝てないし⋯⋯」
感情を押し殺しすぎて、
何も入っていない空っぽな声だった。
この数日で私は理解していた。
九頭龍は本当に麻雀が上手い。
最初は半信半疑だった。
幽霊みたいに突然現れて好き勝手に助言してくる変な存在。
その程度に思っていた。
でもネット麻雀を打てば打つほど分かる。
読みが深い。
危険牌の察知の角度が異常に高い。
相手の手牌進行がまるで見えているかのように読みが当たっていた。
今まで九頭龍に何度も助けられてた。
何度も放銃を避けられてた。
だけどあることにも気付いていた。
九頭龍は“アガるための助言”はほとんどしてくれていなかった。
最初は気付けなかった。
けれどネット麻雀を繰り返す度に理解した。
九頭龍は“負けさせない”ようにする事で、
麻雀を好きになってもらおうとしていたのだと。
「九頭龍が本気で打てば大会でも優勝できるでしょ?」
モニターから視線はまだ逸らさない。
九頭龍は静かに緑を見下ろす。
普段ならこんな問いに対して、
「当たり前だ」
と即答していただろう。
でも今はそんな軽い言葉は出せなかった。
──。
────。
沈黙に耐えきれず、
最後の力を振り絞って口を開いた。
「これからも麻雀を楽しんでほしいと思うなら⋯⋯麻雀を愛してほしいって言うなら⋯⋯」
そこまで言って初めて画面から視線を外し顔を伏せた。
──「今だけは私の代わりに打ってよ⋯⋯」
心を押し殺したまま、
最後の力を振り絞って口から出した願い。
ここ数日どれだけ自分を追い込んできたのか。
見ていれば誰だって分かる。
それでも本来なら断るべきだ。
これは自分自身で乗り越えなければいけない壁だ。
ましてや大会で代わりに麻雀打つなんて許されることじゃない。
そんなことは九頭龍が誰よりも理解している。
───でも。
今の緑にその言葉を突きつけることができる人間なんていなかった。
「本当に馬鹿だな⋯⋯」
九頭龍は小さく呟く。
怒っているわけじゃない。
呆れているわけでもない。
ただただ痛々しかった。
こんなになるまで一人で抱え込んで、
そこまでして麻雀をするために九頭龍に縋っている。
「分かった」
小さくひとことだけ答えた。
「⋯⋯今回だけだ」
静かな声。
私はすぐには返事をしなかった。
ただ張り詰めていた糸が切れたみたいに小さく息を吐く。
「⋯⋯うん」
掠れた声。
プレッシャーで潰されそうになっていた焦燥感が体から消えていった。
安心したのか。
それとも体力の限界だったのか。
立ち上がる足取りは酷く不安定だった。
ベッドへ向かう。
途中で一度だけふらついて壁へ手をつく。
その姿を九頭龍は静かに見守っていた。
パーカーのままベッドへ倒れ込む。
毛布を引き寄せる力すらもうない。
パソコンのモニターだけが、
まだ部屋を青白く照らしている。
「海里⋯⋯」
小さく名前を漏らす。
その声には憧れも、悔しさも、
全部混ざっていた。
やがて呼吸が少しずつ深くなっていく。
限界まで張り詰めていた体もゆっくりと暗闇へ沈んでいく。
九頭龍は眠りについた緑へ小さく視線を落とした。
「本当に面倒な子だ⋯⋯」
その声だけが、
静かな深夜の部屋へ溶けていった。
◇
翌朝。
大会の前日だ。
珍しく目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
頭は重い。
でも昨日までの焦燥感は薄れていた。
ベッドの上で体を起こす。
机を見ると昨夜つけっぱなしだったパソコンのモニターは既にスリープとなり黒く沈んでいた。
ゆっくり立ち上がり制服へ着替える。
洗面台の鏡に写っている自分を見る。
目の下のクマはまだ消えていない。
顔色も悪い。
それでも、
「⋯⋯明日だ」
誰に言うでもなく呟いた。
麻雀の大会があろうと今日も学校はあるし、
塾もある。
私だけが特別な今日ではない。
「行ってきます⋯⋯」
そう言って家を出た。
◇
授業を受ける。
先生の声。
ノートをめくる音。
クラスメイトの笑い声。
全ての音がやっぱりまだ遠い。
窓の外をぼんやり眺めながら、
何度も頭の中では牌を切っていた。
この形なら何を残す?
親ならどう押す?
海里なら。
九頭龍なら。
気付けばそんなことばかり考えている。
明日の大会は代わりに九頭龍が牌を握る。
それでも大会で勝たなければいけないという不安が私を追い詰めていた。
◇
放課後。
本来なら塾に向かわなければならない時間。
スマホの画面には今日の授業予定が表示されている。
けれど、
「今日は⋯⋯無理」
さすがに行く気になれなかった。
大会前日。
頭の中には麻雀牌がぐるぐると回っている。
今さら英単語を覚えたって、
数式を解いたって、
何も入ってこない。
塾へ行ってもきっと上の空だ。
だからといって帰る場所があるわけでもなかった。
このまま家へ帰ればお母さんに怒られる。
何か言われるのは分かっていた。
今は背中を押してくれる言葉以外は聞きたくない。
「⋯⋯」
スマホを制服のポケットへしまう。
行き先は決まっていない。
それでも立ち止まることができなくてただ足を動かした。
──。
──。
あれからどれくらい歩いただろうか。
ふと顔を上げた視線の先には、
遠くに見える《まーじゃん 緑一色》の看板。
「⋯⋯」
無意識だった。
気付けばここへ足が向いていた。
これが帰巣本能というものなのか。
疲れた時、
苦しい時、
結局ここに戻ろうとしてしまう。
この場所へ。
《まーじゃん 緑一色》が少しずつ近づいてくる。
見慣れた看板。
入口の光。
ジャラジャラと今にも牌の音が聞こえてきそうだ。
その全てが私には眩しかった。
──海里ももしかしたらこの中にいるのかもしれない。
──海里に会えたら私の心が少しは人間らしさを取り戻すかもしれない。
そんな考えが浮かんだ瞬間、足が止まる。
「⋯⋯っ」
会って今さら何を言えばいい。
どんな顔をすればいい。
あの日から一度も連絡を取っていない。
自分は海里から逃げた。
なのに自分が縋りたい時だけ求めるなんてそんなの都合が良すぎる。
しばらく入口を見つめたまま立ち尽くす。
そして小さく俯いて来た道を引き返した。
まるで何かから逃げるみたいに近くのコンビニへ入った。
冷房の音。
明るすぎる照明。
見たくもない雑誌売場やお菓子コーナーを意味もなく歩き回った。
何かを探しているわけじゃない。
ただ時間を潰していた。
家に帰りたくなかった。
でも行く場所も無い。
結局十分ほど店内を彷徨った後、
静かにコンビニを出た。
小さく息を吐いて遠回りをしながらそのまま家へ帰った。
◇
家に帰ると制服のままベッドへ倒れ込み、
天井をぼんやり見つめる。
「明日か⋯⋯」
中学校麻雀競技選手権 県大会。
明日は九頭龍が代わりに打ってくれる。
それだけで重くのしかかった緊張や不安、
焦りは一気に軽くなった。
なぜなら私が打つよりも何倍も、何百倍も勝ちに近づくからだ。
だから今、無理に麻雀と向き合う必要はない。
それなのにどうして──。
今日は明日に備えて早く寝るつもりだった。
「最後に一局だけ⋯⋯」
小さく体を起こす。
胸の奥にはずっと明日の罪悪感が残っていた。
最後くらいは、
この一局くらいは、
ちゃんと麻雀に向き合いたいと思った。
パソコンへ向かう。
そして電源を入れる。
ブゥン、とファン音が響く。
青白いモニター光が静かに顔を照らした。
ログイン画面。
キーボードへ手を置く。
ようこそ。
──《Hollow》
ログイン画面が映る。
そして対局開始のボタンを押す。
無機質な電子音と共に、
画面には対局者の名前が並ぶ。
「⋯⋯」
静かにマウスを握り直した。
今から打つ麻雀が私にとっての中学生麻雀競技選手権 県大会としての一局だ。
この一局は出場者の誰にも見られることはない。
この勝敗が誰かに知られることもない。
私が打つ麻雀の内容も──。
それでもこの局に今まで積み上げてきた全てをぶつけてみたいと思った。
そうしなければ今日までの努力が全て無駄だと自ら証明してしまう気がした。
大会で勝たなければならないという焦りも、
麻雀が出来なくなるという不安も、
勝ちたいと思う今の気持ちも、
楽しいと思ったあの時の感情も、
全部。
《この一局へ》
二巻
~完~
次回、今までの努力でどれくらい成長出来たのか、
それを確認するべくネット麻雀を開く。
緑の全てを出す覚悟で挑むこの対局の果てに待っている結末とは?
第十一話「緑の麻雀」




