最終話
大きな桜の木に一匹の蝉がとまって鳴きはじめた。しものけんぱの歌は、蝉の声にかき消されて聴こえなくなる。僕は蝉の声に負けないように声を張り上げた。
「大神はさ、きっとしものことが好きなんやと思うよ」
しもはけんぱをやめずに「うん」と短く返事をした。蝉がうるさくて本当にそう返事をしたのかわからなかったので、もう一度言ってみた。
「大神とかさ、取り巻きのヤツとかさ、もしかしたら先生も。本当はみんなしものことが好きなんちゃうかなって思うねん」
「うん」
「しもはさ、本当はきっとすごいモテるんちゃうかなって思ったりするねん」
「うん」
太陽を背にして立っているしもの顔は影になっていて、どんな表情をしているのかよくわからなかった。暗い影の中で白目だけが光っている。僕のほうをじっと見つめているんだろうと思った。
「だって、そうでなかったらあんなにしつこくからかったりせえへんやろ」
本気で思っていたわけじゃない。大神は斉藤未玖のことが好きなんだし。ただ僕はあの事件の真相を知りたいだけだった。おばさんがなぜ学校に乗り込んで来たのか。
しもが夏休みの間に転校するのは、それが原因なのか。だけど、しもはあまりにも平然としていたので、「しもって、モテるよね」と更に念を押してみた。
けんぱをするのをやめたしもは「うん」とはっきりとした声で言った。
僕はびっくりして「モテる?」と、つい何度も繰り返して聞いてしまった。そんなことを言うしもは、なんだか別人のようで不思議な感じがした。しもはふふふと口の中で笑ってから「モ、モモ、モテ、へん」と言った。
それを聞いてほっとしたけど、なんだかちょっと怖いと思った。
突然立ち止まったしもは、桜の木の下の草むらに寝転んだ。そして両手をだらりと広げて、オフィーリアみたいに目と口を半開きにした。
僕も並んで座って、しもの顔を横目で見る。ほっぺただけ微かにピンク色をしている。手が触れた。しもは死体みたいに動かない。急に何も聴こえなくなって、時間がとまったような気がした。しもの指は、細くてしっとりと冷たい。
もっとちゃんと顔を見たくて、少しずつ近づいてみた。
半開きの瞳は何も見ていなくて空っぽな感じがする。もう少しで僕の唇が、しもの唇に触れそうになったとき、長いまつ毛がふわりと揺れた。
急に怖くなって身体を離すと、しもはまっすぐに僕を見つめていた。
銀色の深い色の瞳は、光る青空を映してじわじわと溶けて混ざり合う。見たこともないきれいな色だと思った。
おもむろに立ち上がったしもは「か、かか、か、帰ろうか。か、かかかか、かか一樹くん」少し笑って「やや、やっぱり言いにくい、な、名前やね」と言った。
白いワンピースに、草の欠片がたくさんくっついていたので二人でそれをはらった。僕はあーあと大きな声を出してあくびをしてから涙をふいて、返事の代わりに唾をごくんと飲み込んだ。
しもはまたけんぱをして、前に進みはじめる。
もっとゆっくり時間が流れればいいのにと思った。
傾きかけたオレンジ色の夏の太陽は、僕たちの後ろにくっきりと濃い影をつくった。
僕は、柵の向こう側に広がる池の底に沈んでしまった寺のことを考えていた。
もう誰も、護る人はいなくなってしまうんだな。




