5本目
「どうして戻るの?」
亜音は手を引かれながら、そう聞く。
お母さんは何も言わない。
手を引かれてガラスの自動ドアを外へ出た。
「ねえ、どうして戻るの? 行かなくていいの?」
もう一度、聞いてみる。
手を引いているお母さんはやっぱり何も言わない。
あたりは霧が出ていて、町並みや家並みははっきり見えない。
お母さんの顔もはっきり見えない。
お母さん……だよね?
亜音は畳の上にお座布団を並べた。
お葬式に集まる親戚の人の数だけ。あまり多くはないけれど……。
お座布団が霧で濡れてしまわないかしら……。
でも、畳は濡れていないから……。これでいいのかな?
微かな鈴を鳴らすような音が聞こえるけど……。これはたぶん、霧の音。
変な夢を見た……。
ベッドの中で瞼を開いた亜音は、まずそう思った。
鈴の音は目覚ましのアラームが夢の中に入ってきた音だったのかな……?
小さい頃の記憶がごちゃ混ぜになって夢に出てきたような感じだった。
ただ、いつのどういう記憶だったのかははっきりしない。
実際にあったことなのか、イメージだけが残っていたのか……も判然とはしない。
まあ、夢なのだからそうなんだろう。
あれは、どこへ行こうとしていたのだろうか?
自動ドアの入り口で、小さな亜音はなぜ戻ることになったのだろう?
いつかの記憶のようでもあり、そうでもないようにも思える。
畳のある家にはむかし住んでいたという記憶があるから、いろんな記憶の断片が混ぜこぜになって夢になったのだろう。
霧は、何の心象だろうか?
しばらくそんな取り止めもないことをベッドの中で考えていてから、亜音は一度目をぎゅっと閉じてから起き上がった。
もう、明るい。
窓のカーテンを開けると、窓の外には霧が出ていた。
予知夢?
夢の中ほど濃い霧ではないけれど、お向かいの家や電柱が霞んでいる。
朝日は見えない。
見下ろすと霧の中を誰かが歩いていくのがぼんやり見えた。
人影……というだけで、男の人か女の人かもわからない。
霧を見ていたら、夢の中の言葉がよみがえってきた。
——行かなくていいの?——
「行かなくてもいっかな? がっこ」
たまにはこんな気分で学校を休むのもいいかもしれない。
外は、霧だし……。
「お母さんの顔、見られるかも」
お昼にはお母さんが一度帰ってくるはず。
なんて言い訳しよう?
熱があったって言ってみようかな。
心配かけちゃうかな。
正直に、サボっちゃった——って言おうかな……。
そんなことを考えていたら、ひどく心が軽くなった。
窓の外で車の音が聞こえた。
通勤の人だろうか。今日も世間は忙しく回るのだろう。
ちょっとした背徳感。
「今日はちょっと早いけど……」
亜音はマッチ箱とお皿を用意する。
お皿には4本の燃えかすが乗っている。
マッチ箱から1本取り出して、箱の側面で擦った。
静かな霧の朝に「チッ」という擦れ音と「シュワ」という先端の火薬の燃え上がる音がして、マッチの頭が炎に包まれる。
その炎を窓の外の霧にかざしてみる。
明るいミルクティーみたいな炎が、少しグレーがかった白い霧の前で静かにマッチの軸をたどってゆく。
次第に小さくなってゆく炎を見つめて、亜音の口元は微かにほほえんだ。
やがてふっと炎が消えて、青白い煙がひとすじふわりと立ち昇った。
5本目。




