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哭き裂く天使  作者: Norn
第六章:天使の残骸
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第52話:再び空の下へ

 布団の傍に、誰かが座っている。


 誰だろう。

 自分よりも小さな背中。

 どうして、ここにいるのだろう。


 澄羽はゆっくりと身を起こした。

 そこにいたのは、紘一だった。


 窓の外から差し込む光は眩しいほど白く、澄羽はほっと息をつく。


 「おはよう、澄羽ちゃん。 ちょっと、お話しよう?」

 紘一はそう言うと立ち上がり、そのまま部屋を出ていく。


 「……待って!」

 慌てて澄羽は後を追った。


 部屋を出れば、廊下があるはずだった。

 だが、目の前に広がっていたのは――青空だった。


 眼下には雲海が広がり、風だけが静かに吹き抜けていく。

 ここがどれほど高い場所なのか、考えるだけで足がすくむ。


 「澄羽ちゃん! こっち!」

 左から紘一の声が聞こえた。


 外廊下の先には細い階段が続いている。

 紘一はその上から、いつものように笑って手を振っていた。


 澄羽も後を追う。

 一段、一段と階段を上り切ると、屋上のような開けた場所へ辿り着いた。


 そこには、果てしなく広がる青空しかなかった。

 澄羽は思わず息を呑む。


 「どう? あのヒーローと同じで、澄羽ちゃんも青空が好きなんだよね?」

 「……うん。 好きだよ」


 そう答えながらも、その声には力がなかった。

 どこまでも続く青空。


 まるで、この世界のすべてを包み込んでしまうかのような景色。


 小さな悩みなど、忘れさせてくれる。

 本当なら、そうであるはずなのに。


 美空から逃げたこと。

 A.E.O.I.に正体を知られ始めていること。


 心に刻まれた現実だけは、どこまでも澄羽を追いかけてくる。

 紘一は青空を見上げたまま、小さく笑った。


 「澄羽ちゃん」

 「……なに?」

 「空ってさ、どんなに曇っても、なくならないんだよ」

 澄羽は黙って耳を傾ける。


 「見えなくなるだけ。 その向こうには、ちゃんと青空がある」

 紘一は振り返り、優しく微笑んだ。


 「だから、今は見えなくても大丈夫。 きっと、また見えるから」


 その言葉を聞いた瞬間だった。

 風が止む。

 青空に、一筋の黒い亀裂が走る。


 世界が硝子のように音を立てて砕け始めた。


 「紘一……!」


 伸ばした手は届かない。

 紘一は最後まで笑ったまま、静かに口を動かした。


 「行ってらっしゃい」

 その瞬間、澄羽は勢いよく目を覚ました。




 そこには、先ほどと同じ部屋が広がっていた。

 だが、窓から差し込む光は白ではない。

 カーテンの隙間から、朝日が静かに差し込んでいる。


 夢ではなく、現実だった。


 この部屋から必要以上に出なくなって、どれほどの月日が流れただろう。


 宇宙外生命体の警報も、ここしばらく耳にしていない。


 澄羽は枕元のスマートフォンを手に取る。

 画面には、美空から届いたメッセージの通知がいくつも並んでいた。


 『大丈夫?』

 『学校で待ってる』

 『返事だけでもして』


 どれも開くことができないまま、通知欄だけをぼんやりと見つめる。

 その時だった。


 『目覚めたか』

 頭の中へ、聞き慣れた声が響く。


 「……おはよう」

 素っ気なく返事をしながらも、澄羽の視線はスマートフォンから離れなかった。


 『その娘は、お前を案じている』

 「……返せないよ」

 澄羽はスマートフォンの画面を伏せる。


 「私なんかと関わっても、迷惑をかけるだけだから」

 『人とは、不思議なものだ』

 しばらく沈黙が続いた。


 「……ネヴ=ソスってさ」

 澄羽は天井を見上げる。


 「前から気になってたんだけど、ネヴって何なの?」

 ネヴ=ソスは少しだけ間を置く。


 『名ではない』

 「え?」

 『称号に近い』

 澄羽はゆっくりと体を起こした。


 『ネヴとは、皇帝候補に与えられる証だ』

 「じゃあ……他にもいるってこと?」

 『……』

 ネヴ=ソスは、何かを言いかけた。


 『いる、ということだけは話しておこう』

 「そしたら、そのうち会うかもしれない、ね」

 『……』


 ネヴ=ソスは何も返さなかった。

 沈黙だけが部屋を満たす。


 澄羽は小さく息を吐き、布団をめくった。

 その時、部屋の扉が控えめに叩かれる。


 「澄羽? 起きてる?」

 聞き慣れた声だった。

 「……うん」


 扉がゆっくりと開く。

 夜美は柔らかな笑みを浮かべ、部屋へ入ってきた。


 「おはよう。 ちゃんと眠れた?」

 「それなりに」


 短く答える。

 夜美はそれ以上深く聞こうとはせず、部屋を見回した。


 机の上に積まれた教科書。

 閉じられたカーテン。


 ほとんど動いた形跡のない部屋。

 その光景に、夜美は少しだけ目を伏せる。


 「最近、ずっと部屋にいるよね」

 澄羽は黙ったままだった。


 「……無理にとは言わないけど」

 夜美は窓際へ歩き、カーテンをゆっくりと開ける。

 朝の光が部屋いっぱいに差し込んだ。

 「今日は天気もいいし、少しだけ外に出てみない?」


 澄羽は思わず目を細める。

 眩しい。

 その光は、夢の中で見た青空を思い出させた。


 「買い物でも、お散歩でもいいから。 ずっと家にいると、息が詰まっちゃうよ」

 澄羽は窓の外を見る。

 空は高く、雲ひとつない。


 夢の中で紘一が見せてくれた景色ほどではない。

 それでも、その青さだけはよく似ていた。


 「……少しだけ」

 小さく呟く。

 「外、行ってみようかな」

 その言葉に、夜美は安心したように微笑んだ。


 「うん。 その方がきっといいよ」

 澄羽は静かに立ち上がる。

 夢の最後に聞いた言葉が、不意に胸の奥で蘇る。


 ――行ってらっしゃい。


 「……着替えてくる」

 そう言って、澄羽はクローゼットへ向かった。




 家を出ると、青空の光が澄羽を包み込んだ。

 夏の熱気はいつしか遠のき、街には秋の澄んだ空気が流れている。


 自宅の敷地を出て、角を曲がる。

 ゆるやかな坂を下り始めた、その時だった。


 数人の人影が目に入る。

 A.E.O.I.の戦闘員だった。

 三、四人ほどの小隊を組み、周囲を警戒している。


 だが、その姿は以前とは明らかに違っていた。

 隙のない立ち姿。

 研ぎ澄まされた視線。


 纏う空気だけで、戦闘能力が飛躍的に向上していることが伝わってくる。


 (三か月で、ここまで……)

 澄羽は視線を逸らし、そのまま横を通り過ぎようとする。

 その瞬間、背筋を冷たいものが走った。


 (待って……)

 輸送車から逃げ出した自分は、A.E.O.I.に認知されているはずだ。

 ここで見つかれば、すぐに拘束されてもおかしくない。


 だが――

 誰も、澄羽を見ようとしなかった。

 まるで、そこにいることさえ知らないかのように。


 「……」

 澄羽は思わず足を止めかける。


 (どういうこと……?)

 あれだけの騒ぎになったのだ。

 自分の情報が共有されていないとは考えにくい。


 ならば。

 誰かが、意図的に止めている。

 澄羽の脳裏に、二人の顔が浮かぶ。


 (燈莉と……)

 一拍遅れて、もう一人。

 (……玲司も?)




 その後も、澄羽は街を歩き続けた。

 歩くたびに、三か月という月日が残した変化を目の当たりにしていく。


 最も目を引いたのは、この三か月の間に建設されたA.E.O.I.の基地だった。


 かつては何もない野原だった場所。

 今では無機質な外壁に囲まれた要塞が、街を見下ろすように佇んでいる。


 (……ここまで)

 思わず息を呑む。


 この様子を見る限り、各地にも同様の基地が建設されているのだろう。

 つまり、今までのように街中で戦えば、すぐに増援が駆けつける。


 それだけではない。

 三か月に及ぶ特殊訓練を経た今のA.E.O.I.が、どれほどの力を手にしているのか。

 澄羽には、まだ想像もつかなかった。


 基地へ視線を向けることなく、その場を静かに通り過ぎた。




 人気が無い公園。

 澄羽はベンチへ腰を下ろした。

 空はすでに夕焼けへ染まり始めている。


 商店街、駅前、住宅街。

 思いつく限りの場所を歩いてきた。

 だが、変わっていない景色の方が少なかった。


 宇宙外生命体との戦いは、人々の暮らしを、街の姿を、少しずつ確実に変えてしまったのだ。


 澄羽はゆっくりと空を見上げる。

 変わらずそこにあるのは、どこまでも続く大空だけだった。


 風が止み、夕暮れの公園を静寂が包む。

 その時だった。


 「……白鷺?」


 誰かが、静かに名を呼ぶ。

 澄羽はゆっくりと顔を上げた。

 そこに立っていたのは、槍を肩へ担いだ玲司だった。


 外見に大きな変化はない。

 だが、立ち姿が違う。


 隙のない重心。

 無意識のうちに周囲へ向けられた視線。

 纏う空気そのものが、以前とは別人のようだった。


 澄羽は直感する。

 強くなっていると。

 少なくとも、三か月前の玲司ではない。


 今の彼は、自分と肩を並べるほどの実力へ到達している。

 玲司もまた、澄羽の姿をじっと見つめていた。


 「……元気そうだな」

 その一言には、安堵とも警戒とも取れる響きがあった。


 「玲司こそ」

 澄羽は静かに立ち上がる。

 互いの距離は十数メートル。

 それ以上近づこうとはしない。


 「三か月ぶり、だね」

 「ああ」

 短い返事だけが返ってくる。


 夕風が、公園の木々を静かに揺らした。

 玲司はゆっくりと槍を肩から下ろす。


 「……一つだけ聞かせてくれ」

 「何?」

 「お前は、本当に人類の敵じゃないのか」


 澄羽は答えに詰まる。

 敵ではない。

 そう言い切りたい。


 だが、自分の手で人を殺めた事実もまた、消えることはない。


 「私は……」

 言葉が続かない。

 玲司は目を伏せ、小さく息を吐いた。


 「やっぱり、まだ分からない」

 槍の切っ先が、ゆっくりと地面へ向けられる。


 「俺も、お前を信じ切ることはできない」

 澄羽もまた、小さく頷いた。


 「……それでいいよ」

 そう答えながら、右手へ意識を向ける。

 いつでも双剣を生成できるように。

 玲司も槍を握り直す。


 互いに戦う意思はない。

 だが、互いに武器を下ろすこともできない。


 その緊張が極限へ達しかけた、その時だった。

 澄羽の耳に、何かが弾けるような音が届いた。


 「……?」


 次の瞬間、公園の木々を縫うように、一本の糸が飛来する。

 玲司が咄嗟に槍を振るった。

 甲高い音が響き、糸が弾かれる。


 「っ!」

 澄羽もまた、後方へ跳ぶ。

 直後、二人が立っていた場所を、別の糸が横薙ぎに通過した。

 地面が浅く裂ける。


 「……攻撃?」

 玲司が周囲を見回す。

 澄羽は答えない。


 その視線は、糸が伸びてきた方向へ向いていた。

 そこには、誰もいない。


 ――いや。


 街灯の上。

 夕焼けを背に、ひとつの影が立っていた。


 「……やっぱり」

 少年の声。

 聞き覚えのある声だった。


 「この気配だ」

 影が屋上から飛び降りる。

 軽い着地音とともに、その姿を二人の前へ晒した。


 リクス=ヴァイア。


 その顔には、以前の戦いで見せたような怒りも焦燥もない。

 ただ、楽しそうに笑っている。


 「久しぶり、天使」

 澄羽の表情が強張る。


 「リクス……」

 「三か月も探したわけじゃないよ」

 リクスは首を傾げる。

 「君が出てきたから、分かっただけ」


 玲司が槍を構える。

 「……お前、単独で来たのか」

 「うん」

 あっさりと答える。


 「他の奴らに知らせる必要なんてないでしょ?」

 糸が、リクスの周囲でゆっくりと揺れた。


 「僕が先に見つけたんだから」

 その瞳が、澄羽を捉える。


 「それに――」

 一瞬だけ、リクスの笑みが消える。

 「前より、ずっと強くなってる」


 澄羽は双剣を生成する。

 玲司も槍を構え直した。


 先ほどまで互いに向けていた警戒が、今は別の存在へと向けられている。

 リクスはそれを見て、嬉しそうに笑った。


 「二人で来る?」

 糸が、静かに張られる。


 「だったら――」

 夕暮れの公園に、鋭い音が響いた。


 「まとめて相手してあげるよ」

 その瞬間だった。


 ――楽しい。

 玲司の脳裏に、唐突にそんな感情が浮かんだ。


 「……?」

 自分でも、なぜそう思ったのか分からない。

 目の前にいるのは、人類を脅かす宇宙外生命体。


 警戒すべき相手だ。

 なのに、槍を握る手に力が入る。


 心臓が、僅かに速くなる。

 もっと強い相手と戦いたい。


 そんな考えが、一瞬だけ頭を過った。

 燈莉と訓練室で手合わせをした、あの時のように。


 「……何だ、今の」

 小さく呟く。

 その声に、澄羽が振り向いた。


 「玲司?」

 「……いや、何でもない」

 玲司は首を横に振る。


 気のせいだ。

 ただ、久しぶりに強敵を前にしているから、身体が戦いに備えているだけ。

 そう思った。


 だが――

 彼の中にいる存在は、確かに笑っていた。


 『戦えるぞ』

 玲司の瞳が、僅かに揺れる。

 『もっとだ』

 「……黙れ」

 思わず口に出す。


 「玲司?」

 「……何でもない」

 もう一度、槍を握り直す。


 目の前にはリクス。

 その奥には、澄羽。

 そして自分の中には――サーベラス。


 まだ誰も知らない。

 この戦いが終わった後。

 自分自身が、自分では止められなくなることを。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

そして、三週間以上もの間更新が止まってしまい、本当に申し訳ありませんでした。

大学の試験対策と執筆の時期が重なってしまい、思うように執筆時間を確保することができませんでした。

また、更新が止まっていたにもかかわらず、事前の告知もできていませんでした。

楽しみにしてくださっていた方には、ご心配をおかけしてしまったと思います。

今回、無事に更新を再開することができましたので、ここからまた少しずつ物語を進めていきたいと思います。


長らくお待たせしてしまいましたが、これからも『哭き裂く天使』をよろしくお願いいたします。

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