第38話:静かな異物
旅行学習当日の朝。
ボストンバッグに荷物を詰め込み、部屋を出る。
少しの間だけ、戦いから離れることができれば、どれだけ幸せだろうか。
階段を降りると、一階の廊下には既に夜美が待っていた。
「……早いね」
澄羽がそう言うと、夜美は小さく笑った。
「今日は見送りぐらい、したいなって思って」
壁にもたれながら立つ夜美。
その表情は穏やかだったが、どこか無理をしているようにも見える。
澄羽は視線を逸らした。
「別に、すぐ帰ってくるし」
「それでもだよ」
夜美はゆっくりと近づく。
「澄羽、昔から遠出とかあんまりしなかったから」
「……」
確かにそうだった。
金は無かった。
余裕も無かった。
普通の家庭みたいな思い出なんて、ほとんど存在しない。
だからこそ。
旅行学習というもの自体が、どこか現実感の薄い行事だった。
夜美は少しだけ目を細める。
「楽しんできてね」
その言葉は優しかった。
優しすぎるほどに。
だからこそ、澄羽の胸に鈍い痛みが走る。
――本当に、この人は何なんだろう。
そんな考えが、脳裏をよぎる。
だが、それを口にすることはできなかった。
「……うん」
短く返す。
夜美は、それだけで満足したように頷いた。
「お土産、期待してるから」
「期待しないでよ。 そういうの詳しくないし」
「じゃあ、澄羽が選んだなら何でも嬉しい」
困ったように笑う夜美。
その笑顔を見た瞬間、澄羽は一瞬だけ昔を思い出した。
泣きながら、蹲っていた小さな夜美。
傷だらけだった背中。
助けたいと、本気で思っていた頃。
しかし、その記憶はすぐに霧散する。
今、目の前にいる夜美は――
あの頃とは、どこか違っていた。
「……行ってくる」
ボストンバッグを持ち直す。
夜美は静かに手を振った。
ボストンバッグを持ち直す。
夜美は静かに手を振った。
「いってらっしゃい、澄羽」
玄関の扉を開く。
朝の光が、街を白く照らしていた。
澄羽は一度だけ振り返り――
何も言わず、家を後にした。
――――――――――――――――――――――
空はいつだって晴れ渡り、青く澄んでいる。
地上の地獄を気に留めず、光を降らせ続けている。
目の前には母が横たわっている。
もう息をしていなかった。
そのすぐ近く。
膝をつき、俯く少女。
力無き自分の代わりに、母を助けようとしてくれたのだろう。
だが、それは叶わなかったらしい。
俺は、己の非力さを嘆いた。
――――――――――――――――――――――
目が覚めた時、そこには物理的な白が広がっていた。
体を起こすと、そこは病院だった。
「っ……」
頭に鈍い痛みが走る。
玲司は額を押さえながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
点滴。
心電図。
消毒液の匂い。
どうやら、本当に病室らしい。
「確か、俺は……」
河原へ急いで向かっていた。
天使と燈莉の反応を見つけて。
その途中で――
記憶が途切れている。
コンコンと、扉が叩かれた。
「玲司、起きてる?」
聞き覚えのある声だ。
「燈莉?」
扉が開き、燈莉が病室へ入ってくる。
隊服姿ではなく、私服だった。
その表情を見た瞬間、玲司は少し安心する。
「……無事だったんだね」
燈莉はベッドの近くまで歩いてきた。
「そっちこそ、大丈夫なのか?」
「うん。 少し休んだら戻れたよ」
燈莉はそう答えたが、どこか疲れて見えた。
玲司はその違和感を覚えつつも、先に口を開く。
「なあ、燈莉」
「ん?」
「四日前、俺は燈莉と天使の位置を端末で見て、河原に向かってたんだ。
だが、その途中で……誰かに会ったんだ」
燈莉の表情がわずかに変わる。
「誰か……?」
玲司は記憶を辿るように目を伏せた。
「女性だった。 年上……だと思う」
そこまで言ってから、頭痛が強くなる。
「っ……」
「無理に思い出さなくても……」
「いや、大丈夫だ」
玲司は息を整える。
「でも、変なんだ。 その後どうなったのかが……思い出せない」
黒。
ただ、それだけが脳裏に焼き付いている。
何かを見た気がする。
何かを言われた気がする。
だが、そこから先が存在しない。
「気づいたら、ここにいた」
病室に沈黙が落ちる。
燈莉は、静かに玲司を見つめていた。
やがて、小さく口を開く。
「……その人、どんな感じだった?」
「どんな……」
玲司は少し考え込む。
「上手く言えないが……怖い」
その一言に、燈莉の指先がわずかに強張った。
「あの人を見た瞬間、近づいてはいけないって思ったんだ」
そして。
玲司は、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうだ」
「……?」
「妹に、手を出さないでくださいって、言っていた」
燈莉の目がわずかに見開かれる。
「妹……?」
「俺も意味が分からない。 その場には誰もいなかったはずなんだ」
玲司は眉を寄せた。
「でも、あの言い方……まるで、本当に誰かを守ろうとしてるみたいだった」
燈莉の脳裏に、一人の少女の姿が浮かぶ。
花森美空。
そして同時に、姉という単語が引っかかった。
だが、すぐに首を振る。
そもそも、美空なら玲司と友達のはずだし――
「燈莉?」
玲司の声で、意識が引き戻される。
「……あ、いや」
燈莉は小さく笑みを作った。
「少し、気になっただけ……」
しかし、その胸の奥には。
説明できない不安が、静かに沈み始めていた。
この国の首都、その中心駅には、多くの生徒たちが集まっていた。
点呼を取り、列を作る。
その中には澄羽の姿もあった。
『楽しみか?』
「……ん? ああ、楽しみ……かな」
周囲の騒がしさに飲まれ、ネヴ=ソスの声に少し遅れて反応する。
ネヴ=ソスが、体内でわずかに蠢いた。
『私も楽しみだ』
「ふーん……珍しいね」
一瞬、内側の蠢きが止まる。
『……私は、既知の世界から動けなかった。 外宇宙へ出るまでは』
未知へ触れることができない。
それは、外宇宙の存在ですら苦痛に感じるものなのかもしれない。
「その気持ち、何となく分かるかも……」
澄羽はそう呟きながら、列の流れに合わせて歩き出した。
『……そうか』
小さな間。
『……嬉しいものだな』
その声は、人混みのざわめきに溶けるように霧散し――
澄羽の耳には届かなかった。
超特急とでも呼ぶべきか。
洗練されたフォルムの電車へ、生徒たちが順番に乗り込んでいく。
指定された席へ座り、友人同士で話し始める者も多い。
旅行学習特有の浮ついた空気が、車内に満ちていた。
澄羽は最後の方に乗り込み、自分の席へ向かう。
一番前。
二席並びの窓側だった。
だが、隣の席にはまだ誰も座っていない。
その時だった。
『……澄羽。 何が起ころうとも、隣に座る者が離れるまで私に話しかけるな』
ネヴ=ソスの声。
珍しく、明確な焦燥が混じっていた。
「えっ……どういうこと……?」
心の中で問いかける。
だが、返答はない。
まるで最初から存在していなかったかのように、沈黙していた。
直後。
デッキ側から、担任と聞き慣れない少女の声が聞こえる。
「では、今回の学習での引率、よろしくお願いします」
「ええ。 何があっても、生徒さん方はお守りいたします」
澄羽はそちらへ目を向けた。
担任と共に現れたのは、一人の少女だった。
年齢は、自分より二つほど下に見える。
白い髪。
整いすぎた顔立ち。
そして何より――
空気が異様だった。
周囲から浮いている。
なのに、誰も違和感を抱いていない。
担任は廊下を挟んだ三席側へ座る。
そして少女は、迷いなく澄羽の隣へ腰を下ろした。
静かだった。
後方では生徒たちの笑い声が響いている。
だが、この席の周囲だけ空気が切り離されたように静まり返っている。
「……あの、席間違えてたりしません……?」
恐る恐る声をかける。
少女はゆっくりと澄羽の方を向き――
柔らかく微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
透き通るような声だった。
「私は、貴女の隣で合っていますから」
その瞬間。
内側が僅かに震えた。
澄羽の背筋に冷たいものが走る。
少女はそんな様子など気にすることなく、小さく会釈した。
「申し遅れました」
外から差し込む朝の光が、少女の白髪を照らす。
「私はA.E.O.I.所属のローゼ。 今回、皆さんの引率補助として同行させていただきます」
にこやかな笑顔。
だが、その瞳だけは。
まるで深淵のように、底が見えなかった。
「……白鷺澄羽です」
澄羽も軽く頭を下げる。
ローゼは静かに微笑んだ。
「白鷺澄羽さん、ですか。 綺麗なお名前ですね」
「……ありがとうございます」
そこで会話は途切れる。
気まずいわけではない。
むしろ逆だった。
静かすぎる。
周囲では生徒達が騒いでいる。
笑い声も聞こえる。
なのに、この席だけ空気が違っていた。
ネヴ=ソスも、未だに沈黙を続けている。
その時だった。
「隣になれなくて残念」
後ろの席から、聞き覚えのある声がした。
軽く立ち上がり、後ろの席を覗き込む。
すると声の主も席から立ち上がった。
そこには天城理がいた。
いつものように、どこか掴みどころのない笑みを浮かべている。
「澄羽、お菓子持ってきたけど食べる?」
そう言いながら、小袋を差し出す。
「……あ、うん」
澄羽が受け取ろうとした瞬間。
「お隣のあなたも、もし良ければ」
理は自然な動作で、ローゼにも視線を向けた。
一瞬だけ。
空気が止まった。
澄羽には、そう感じられた。
ローゼは微笑みを崩さない。
理も、笑っている。
だが。
何かが噛み合っていない。
言葉にできない違和感だけが、その場に沈んでいた。
数秒後。
「……では、一つだけいただきます」
ローゼはそう言って、小袋の中から飴を一つ摘まんだ。
「ありがとうございます、天城さん」
「どういたしまして」
理は軽く笑う。
それだけ。
ただ、それだけのやり取り。
なのに。
ネヴ=ソスは、未だ一言も喋らなかった。




